Ⅰペテロ2章22〜25節、エペソ2章19〜22節「キリストの愛にやすらぎ、いやされ、成長する」

2016年1月3日

昨年の紅白歌合戦を見ていて、不思議に心に残った歌がありました。西野カナさんの「トリセツ」です。

「この度はこんな私を選んでくれてどうもありがとう・・・この取扱説明書をよく読んでずっと正しく優しく扱ってね・・・急に不機嫌になることがあります。理由(わけ)を聞いても答えないくせに放っとくと怒ります。いつもごめんね。でもそんな時は懲りずにとことん付き合ってあげましょう。定期的に褒めると長持ちします・・・小さな変化にも気づいてあげましょう。ちゃんと見ていて。でも・・余計なことは気づかなくていいからね・・・こんな私だけど笑って許してね。ずっと大切にしてね。永久保証の私だから」

「永久保証」とは、「私はずっとあなたから離れない」という結婚の誓約を指すのでしょうが、「立ち入らずに、でも寄り添って欲しい。見ていてもらいたいけど、指摘はされたくない」という多くの人の心の内の揺れ動く気持が美しく描かれています。

人にはみな、そんな繊細で傷つきやすい心が与えられています。それを尊重できるのが愛の交わりでしょう。

私たちの教会は、1989年10月の日本経済のバブル最盛期に礼拝が始まりました。それまでは多くの日本の福音的な教会は人数的にも右肩上がりの成長を続けて来ました。しかし、バブル崩壊と共に多くのクリスチャンにも疲れが出たのか、教勢も低迷し始めます。

私たちは1997年3月に経済的自立運営に入りますが、その時期に、「キリストの愛にやすらぎ、いやされ、成長する」という標語を採択しました。それは、具体的な目標に駆り立てられがちだった教会運営を改め、ひとり一人がキリストとの交わりを深めることを最優先し、その組み合わせとしての優しい神の家族としての教会の成長を目指すという路線でした。

それぞれの教会にはある種の個性が生まれます。先日もある方が、「この教会に入ると、何かほっとする、優しい雰囲気が流れているのを感じる、何か、純粋な暖かさを感じる」と言ってくださいました。それは、この標語から生まれた教会の特徴かと思います。

もちろん、私自身も様々な欠けばかりに目が向かって、特に自分自身を責めることの方が多いですが、ときに反省し過ぎると、せっかくの良いものまでも失ってしまうことになりかねません。教会ビジョンを見直すに当たって、まず原点を思い起こしてみましょう。

1.キリストの愛に  「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ43章1-4節)

主はイスラエルの民に向かって、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」(イザヤ43:1)と言われます。彼らは自業自得で神の「のろい」の下に置かれました。そこでは働いた労苦の実を享受できないばかりか、ありとあらゆるわざわいに襲われ、怯えながら生きていました。

そのような彼らを「のろい」の束縛から「贖い出し」、「祝福」へと移してくださる約束を、主は優しく、断固として、「あなたは、わたしのもの」と語りかけ、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:2)と描かれます。海も山も川も火山も創造された全能の神が「わたしは」と強調しつつ、「あなたとともにいる」と保障してくださっています。

私たちキリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの奴隷状態から贖い出されました。ですから、この詩の初めの「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて朗読しながら、神の絶対的な守りを私たちは味わうことができます。

確かに、私たちはこの地で様々なわざわいに出会います。しかし、それらは決して、私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力にはなりません。

そして、主はイスラエルに対する保障を、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主だから」(43:3)と言われます。それは主が、想像を絶する圧倒的な神であることを示します。彼らは地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。

そのことを主は、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これは、ペルシャ帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという政治状況を示唆します。バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国が、エルサレム神殿の建設を全面的に応援したのは、イスラエルの心を味方につけてエジプト支配を容易にするためでした。

人の目にはちっぽけな民が、神の目には大国エジプトよりも重い存在とされたのです。

主は、それを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(43:4)と言われます。「高価」とは、「かけがえのない」希少価値を意味します。また、「尊い」とは、「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばが用いられています。

これは、神が私たちひとりひとりを救うためにご自身の御子を犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。

その上で、主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と言っておられます。全宇宙の創造主である方が、そのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。

そして、その具体的な意味を、主は、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。当時のイスラエルは、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的にとってきました。それに対して、主は、エジプトやナイル川上流の国々を犠牲にしてまでイスラエルを守ると言われたのです。

大国のご機嫌を取って自分の身を守ろうとする姑息で卑怯な生き方を捨てるように命じたのです。神の目には、その権力者よりもあなたの方が重く、「尊い」と見られています。ですから、人の奴隷にならずに、ただ自分たちの神、ヤハウェのみを恐れ、すがればよいのです。

ところで、多くの人は、自分が人と異なった感性を持っていることを恥じてしまいがちですが、私たちが他の人とまったく同じなら、代わりはいくらでもいることになります。他の人と違った感性を持っているからこそ、神にとって「高価」でかけがえのない、「尊い」、重い存在となるということを忘れてはなりません。

2.やすらぎ  「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ11章28-30節)

この世の組織は、有能な人材を集めようとしますが、イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(28節)と不思議な招きをしました。「疲れる」とは、「くたびれる」という強い疲労感を表し、「重荷を負っている」も、誰かに「重荷を負わされている」という意味です。

律法は本来、罪人に対する神ご自身の愛の語りかけですが、イエスの時代の宗教指導者は、それを脅しの手段にしました。あなたもこの社会で、あなたの個性を無視した画一的な枠や重荷を負わされて苦しんでいないでしょうか。

しかし、イエスは、落ちこぼれ意識を味わっている人々の味方となってくださったのです。

イエスは、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節)と力強く断言されました。この「休み」とは、「そうすればたましいに安らぎが来ます」(29節)とある「安らぎ」と同じことばで、その前に、主は、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言っておられます。つまり、イエスが与える「休み」とは、肉体的な疲れや重荷がまったくなくなるということではありません。

「くびき」とは、苦難や服従を強いる比喩です。初代教会で、異邦人から信仰に導かれた人に「割礼を受けさせ・・律法を守ることを命じるべきである」と主張する人々がいたときに、ペテロは、「なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです」と反論しました(使徒15:5-11)。

つまり、イエスの招きの基本は、人間的に解釈された律法のくびきで苦しんでいる人に、イエスご自身のくびきを負わせることにあったのです。ですからイエスは、「わたしから学びなさい」と付け加えています。つまり、イエスのくびきを負うとは、イエスの生き方、働き方に習うということを意味したのです。

人は「休み」を求めながらも、仕事がなくなったとたん、「自分は生きていても何の役にも立たない・・」と自己嫌悪に陥ります。アダムが禁断の実を食べて、「神のようになり、善悪を知るようになった」結果、人は神の基準ではなく、人間的な基準で互いや自分を評価し続けています。その評価には際限がなく、永遠の安らぎはありません。

くびき」をなくすことより、自分に合った「くびき」こそが「救いとなるのです。

その際、イエスは「わたしは心優しく、へりくだっているから」(29節)と付け加えられました。「心優しく」とは「柔和」とも訳され、人や状況に合わせて揺れることができる柔軟さを意味します。「へりくだっている」とは、イエスが奴隷の姿になって弟子の足を洗う心の自由を持っておられたことを示しています。

イエスは、あらゆる駆り立てから自由に生きておられました。そのような「疲れない生き方」に私たちは倣うのです。

人が頑固で傲慢になるのは、心の余裕がないからです。イエスに見られる柔和と謙遜は、「すべてのものが・・わたしに渡されている」(27節)という、御父による信頼から生まれています。

そして私たちは御子イエスによる「贖い」と「選び」によって、御父を知り、「神の子」とされました。ですから、イエスの「くびき」とは、何よりも「神に愛されている子」としての生き方Sonship」を習うためのものではないでしょうか。

3.いやされ 「キリストの打ち傷のゆえにいやされ・・・」(Ⅰペテロ2章19-25節)

人は、基本的に苦しみを避けたいものです。それなのに、「もし、不当な苦しみを受けながらも・・悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです・・善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです」(19-21節)と記されます。

あなたは何と、不当な苦しみに耐えるために信仰に導かれたというのです!しかし、「人生の問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、あらゆる精神疾患の一時的な基盤である。われわれの多くは、程度の差こそあれ、このような傾向を持つ」(スコット・ペック「愛と心理療法」p9)と言われるように、人生に苦しみが不可欠であることを認め、受け入れるなら、かえって心が軽くなるという面もあるのではないでしょうか。

2章21-23節では、不当な苦しみを受ける中でのキリストの「模範」が、「罪を犯さず」、「偽りを語らず」「ののしり返さず」「おどすことをせず」、「正しくさばかれる方にお任せになりました」と記されます。

これは、ローマ12:19にもあるように「神の怒り(さばき)に任せる」ことで正義が全うされることを信じ、自分では復讐せず、自分に関する限りただ善だけを行なうという意味です。それこそが真の「王」としての生き方でした。

そして、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」(24節)とあります。十字架は、当時は極悪人へのさばきのシンボルでした。しかも、ここでは厳密には、「十字架」ではなく「木の上で」と記され、「木につるされた者は、神にのろわれた者」(申命記21:23、ガラテヤ3:13)を思い起こさせます。

つまりイエスは、人々の「ののしり」に耐えたばかりか、「神にのろわれた者」となる道をご自身から選び取られたというのです。それは、私たちすべての罪をその身に負い、神のさばきを身代わりに受けるためでした。

その目的は、「私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるため」(24節)だと記されますが、これは、「私たちが自我から自由になり(自分に死に)、神のために生きるため」とも解釈できます。

アダムは、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と神から問われたとき、「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」(創3:11,12)と自己弁護をして、神と女に責任転嫁をしました。

しかし、キリストが「私たちの罪をその身に負われた」(24節)からには、神の前で自分の正義を主張する必要はありません。世界の悲惨と争いの原因は、アダムが自己防衛にとらわれてしまったことに始まりますから、私たちがこの構えから自由になるなら、へりくだって神と人とを愛する生き方に戻ることができるのです。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(24節)とは不思議な表現です。「打ち傷」と「いやし」という相容れないものがセットになっているのは、本来、私たちが自分の罪に対する刑罰として負うべき「打ち傷」を、キリストが代わって負われたからです。

ここでの「いやし」とは、「自分のたましいの牧者であり、監督者のもとに帰った」(25節)という立場の変化を意味します。羊は、極めて臆病、近眼で、恐れに駆りたてられると、とんでもない方向に走り出し、自分の身を滅ぼしてしまいます。

人はときに愚かで弱い自分を受け入れられず、変身願望に囚われますが、「いやし」とは、羊のような弱さがなくなることではなく、「さまよっていた羊」が、信頼できる牧者のもとに帰ったという立場の変化を意味します。

この表現は、イザヤ書53章5,6節から生まれていることを忘れてはなりません。そこでは、「彼は、私たちのそむきのために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちの平和(シャロ-ム)、その打ち傷が私たちのいやしとなった。私たちみなが、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。そして、主(ヤハウェ)は、彼に負わせた、私たちみなの咎(とが)を」(私訳)と記されています。

そこには、自分を神としたアダムに対する、キリストの謙遜な生き方が預言的に描かれています。

教会ではしばしば、「いやし」が語られますが、それは、問題や生き難さを抱えたままの自分が、神の愛の御手に抱擁されていることに「やすらぎ」を見出し、そのままの姿で、アダムの生き方から離れて、イエスの御跡に従って歩き出すことです。

羊は、牧者に導かれる時、ひ弱なままで、有害な雑草をも消化して、美しい牧草地を残すことができます。私たちもイエスに倣うことでこの地に祝福を残すことができます。

4.成長する 「神の家族として組み合わされ・・」(エペソ2章19ー22節)

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(2:19)とは、エペソの教会に集っているギリシャ人がエルサレムの使徒たちと同じ神の民とされたという意味があります。

私たちは教会員になる申請をするとき、これからはあらゆる背景の違いを超えて、互いを家族の一員として見るという約束をします。私たちはどのような国籍、どのような出生の経緯があるにしても、イエスをキリスト(救い主)と信じることによって、「アブラハムの子孫」(ガラテヤ3:7)とされているのです。

そこでは、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3:28)と言われます。

そのことが、また、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と告白されています(2:20)。「救い」とは、一人ひとりが互いとまったく無関係に天国に入れられるというような概念ではありません。

私たち異邦人はそれぞれ、肉の上でのアブラハムの子孫であるイスラエルの群れに接木された存在なのです(ローマ11:17)。イエスはあくまでも旧約聖書に預言された救い主であり、旧約を飛び越えて救い主がどのようなお方かを理解することはできません。

「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(2:21、22)とはキリストのみからだである教会の成長のことです。

多くの人々は信仰の成長をあまりにも個人的な次元で考えがちかもしれません。しかし、ここでの「成長」とは、人と人とが「ともに組み合わされ・・・ともに建てられる」ことを指しています。それは時間のかかる面倒なプロセスです。

人によっては、家族関係の中で深い心の傷を負ってきたというケースもありますから、すぐに相手の心の中に土足で入り込むようなことをしてはなりません。しかし、いつまでたっても他人行儀というのは、真の家族としては未成熟です。

私たちは、互いの感性や互いの距離感を尊重しながらも、家族としての親密さをともに求めるべきでしょう。

イエスがマリヤからお生まれになった頃、ヘロデ大王は、大理石を組み合わせた壮麗な神殿を築き上げていました。その神殿は、「神の家」と呼ばれていましたが、パウロは全世界のキリスト者の交わりこそが「神の御住まい」であると言いました。それは独立した教会組織の集合体ではなく、全世界の信仰者によって構成される唯一の目に見えない公堂の教会です。

私たちは、地上の教会組織を超えたキリスト者のつながりを決して忘れてはなりません。使徒信条では、「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白されますが、「公同」とはラテン語でカトリックと呼ばれます。それは本来、固有名詞ではなく、普遍性を表現することばです。自分たちの教会の都合ばかりを優先するような発想は、このみことばに反することです。

私たちの群れでは、一人ひとりが心の奥底でキリストとの出会いを体験し、主との交わりを深めることが、何よりも優先されます。そこにおいて、私たちは様々な欠けを持ったままで、「神の子」とされている恵みを味わうことができます。

ただ、私たちが味わう「やすらぎ」とは、この世のくびきの代わりに、「キリストのくびき」を負うことです。「いやし」とは、不安に駆られることから、キリストに倣って不安を引き受けることです。

そして「成長」とは、個人的霊性というより、神の家族という組み合わせ、「愛の交わり」で現されます。