ローマ8章12〜30節「神の平和 (シャローム) をこの地で憧れ」

2016年1月1日

新年は希望を新たにするときです。しかし、主にある希望は、世界の痛みや悲しみに目を塞ぐことではなく、ともに「うめく」ことから生まれるものです。

この世界では、ひとつの問題の解決の裏に、しばしば、別の悲劇の始まりがあります。この世界に必要なのは、人間的な解決ではなく、神の解決です。人の励ましではなく、神が私たちの心の奥底に与えてくださる「生きた希望」です。それをともに考えましょう。

1.私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対しては負ってはいません」(12節)とは、人間的な努力の限界を示すことばで、一見、人間的に真面目な生き方が、「あなたがたは死ぬのです」(13節)と宣告されます。ときに「お祈りの課題」として分ち合ったはずが、様々なアドバイスを受け過ぎて落ち込むという体験がないでしょうか。その多くは、既にやろうとして挫折したことだったりするからです。それが最初からできるぐらいなら、神が人となり、十字架にかかる必要もありませんでした。

そのような中で、「御霊によって、からだの行ないを殺す」(13節)とは、具体的には、「主よ。こんな私をあわれんでください」と祈りつつ、問題を神にお委ねし、神の解決を待つということです。それは何よりも神の語りかけに心を開くことです。

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の息子たち(sons of God)です」(8:14私訳)とありますが、ここはテクナ(子供)ではなく、ヒュイオス(息子)が使われています。この手紙の受け手のローマの教会には多くの女性たちがいましたが、イエスと同じ立場が与えられたという面を強調するために敢えてそう記しています。

しかも、それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく」(15節)とあるように、神のさばきを「恐れ」ながら、善行に励むことではありません。

そうではなく私たちはみな、「子としてくださる御霊を受けた」the Spirit of Sonship (15節)と記されます。それによって、イエスが父なる神を呼びかけておられたと同じように、「アバ(お父様、パパ)」と呼ばせてもらえるという意味です。

そのことが、「もし、子どもであるなら、相続人でもあります」(8:17)と記されています。もし私たちの親が莫大な財産の所有者である場合、時が来たら、相続権は決定的な意味を持ちます。

ただし、まともな親であれば、お金の苦労を若いときに敢えてさせるとともに、最終的にも、財産の管理能力があることを確信できるまでは相続を許しはしません。今、私たちも、神の子どもとされている恵みは、すぐにはわからないこともありましょうが、それは、良い親が愛する子どもに敢えて苦労をさせるのと同じようなものです。

そのことが、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります」(8:17)と述べられます。それは、私たちがキリストと同じ神の子どもの立場が与えられ、キリストの弟、妹とされたことを意味します。そこには特権とともに、重い責任があります。それは、「キリストとともに」この世界を治めることです。

黙示録22章5節には、「彼らは永遠に王である」と記されますが、これは「統べ治める」と訳すべきでしょう。その5章9,10節ではキリストのみわざが「あらゆる……民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国(王)とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです」と記されます。

今年の5月、ある超教派の聖会で「天国について」のお話をするようにとお招きいただきました。「舟の右側」というキリスト教月刊誌に、「天国観を聖書から見直しましょう」と書き続けていたからです。

当教会では、worship(礼拝)、 fellowship(交わり)と並んで、sonship(神の子として世に遣わされること)が強調されます。イエスは全地に平和を実現する救い主です。主は、そのために私たちを用いてくださいます。アダムはこの地を治める者として創造されながら、責任を放棄し、この地に「のろい」をもたらしました。しかし、私たちは今、神の子どもの立場が回復され、キリストとともにこの地に神の平和を実現するのです。

ただし、それには意外なプロセスがあります。私たちにはアダムの生き方が身についています。それは、「自分を神とする」生き方です。

心のどこかで、「私は正しい!問題の原因は、周りにある……」と自分を中心に世界を見ます。しかし、それこそが権力闘争を生み出します。そこでは理想を実現するために、反対者を力でねじふせることが正当化されます。それは家庭に始まり、あらゆる組織に及びます。

ただし、政治でも企業経営でもリーダの決断が大切です。しかし何よりも大切なのは世論を形成する一人ひとりの心の重なり合いです。そこに、私たちは「神のかたち」としての生き方を示すことができます。

たとえば1985年のイランのテヘランで、日本人200名余りをトルコ政府が特別機を派遣して救出してくれたという感動的な物語があります。テヘランがイラクから空爆を受け、期限付きでテヘランからの外国人の脱出が認められましたが、日本政府は何もできませんでした。テヘラン空港で救援機を持っていたトルコ人たちもトルコの世論も、不思議にも、自分たちの危険や利害を後回しにして、日本人を助けることに理解を示しました。

それはその百年前に、日本の和歌山沖の小さな村の人々が、トルコの軍艦が座礁して爆発し、500名余りの乗組員を失った際に、69名の船員を必死に助け、故国に送り返したという日本人の優しさが、トルコの教科書に記され続けていたからです。

政治家は世論に真っ向から反する決断はできません。数百名にも満たない日本の小さな村人たちの愛の行動が、トルコ全体で語り継がれてきたのです。それを思う時、私たち小さな日本の教会にだってできることがあるのではないでしょうか。

それ以前に、主イエス・キリストの生きられた姿は、宗教の枠を超えて伝えられています。キリスト教会の独善性を批判する人でも、イエスは真の愛をご自分の生き方で証しされたということを認めています。キリストは、敢えてご自身の力を捨て、仕える者の姿を取り、弟子の足を洗い、ついには私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。

それは自分を神としたアダムの生き方を逆転させた生き方でした。そして、それは苦難を力で退ける代わりに、人の苦難までも引き受けようとする生き方です。そのことが、「キリストと苦難をともにする」(17節)という生き方です。その心が、人の心を動かすのです。

2.「私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになる」

17節後半の文章は、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。それは実に、私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになるからです」と訳すことができます。

私たちがキリストの弟、妹とされていることは、「ともに苦しむ」ということを通して表されます。それこそ、家族とされたということの現れです。

しかもそれは、「ともに相続する」ことと、「ともに栄光を受ける」こととセットです。それは、キリストとともに「地を治める」ことであり、そのとき、目に見える平和が実現されます。

ところで、パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(18節)と告白しますが、彼は何度も投獄され、五回も最高限度の39回の鞭打ちの刑を受け、船が難破して一昼夜、海上を漂い、飢え乾き、寒さに凍え、裸でいたこともありました(Ⅱコリント11:23-28)。

そればかりか、自分が開拓した様々な教会からの知らせを受けて心を痛め、特に、コリントの教会などからは、偽使徒で献金泥棒?かのような非難を受けていました。まさに四面楚歌です。

パウロがそのような苦しみに耐えることができたのはキリストとともに栄光を受ける」ことのすばらしさを、いつも目の当たりに見ながら生きていたからです。生きた希望こそが力の源でした。

それにしても、「被造物も、切実な思いで神の子どもたち(sons)の現われを待ち望んでいる」(19節)という表現は不思議です。大地震や火山噴火、日照りや台風、子羊が狼に食い殺され、子牛がライオンに食べられる悲惨を見ながら、パウロはそれをイメージしました。「神の子どもたちの現われ」とは、私たちの復活、救いの完成のときです。

それが全被造物の救いにつながるのは、「被造物が虚無に服した」のが、人間が神に服従することをやめ、責任を放棄したことに始まっていたからです。そして、被造物を人間に「服従させた方」は万物の創造主であるという意味で、全被造物に「望みがある」というのです(20節)。

そして、今、神はご自身の御子を遣わして私たちの罪を赦し、御霊を遣わして私たちを心の底から造り変えようとしてくださいました。

その希望が、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたち(children)の栄光の自由の中に入れられます」(21節)と記されます。それは私たちが名実ともに新しい復活の身体を与えられとき、全被造物の世界から自然災害や弱肉強食の不条理がなくなるときです。

私たちはこの世界で様々な苦しみを担うように召されていますが、それはキリストと苦難を共にすることによって、キリストとともに栄光を受けるというプロセスの中で起きることです。

多くの人は、この世の様々な矛盾を見ながら、心を痛め、また怒ったりしますが、この世界が完成に向かっているということを確信できるなら、この世界の矛盾に耐えることができるのではないでしょうか。

一方、身近でありすぎる理想は危険です。ヒトラーだってスターリンだって人々の心にアピールできる理想を掲げて権力を握り、短期間のうちに経済を活性化させました。しかし、性急な問題の解決には、恐ろしい破壊力が伴うのが現実です。

3.「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら……」

「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(22節)とあるように、この世界には、不条理と悲しみがあり「うめき」が満ちています。キリストはそのただ中に住むために二千年前にベツレヘムに生まれました。

そのとき、「うめき」は、希望のない「嘆き」から、期待に満ちた「産みの苦しみ」に変えられたのです。私たちがキリストとの共同相続人にされたのは、このキリストの「うめき」を自分のものとするため、キリストに習い、混乱に満ちた地に派遣されるためなのです。

「そればかりでなく、御霊の初穂(初穂としての御霊)をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」(23節)とあるように、「御霊」は「初穂」として描かれています。「初穂」は喜びの始まりを意味します。

パウロは、世界が新しくされる希望を、「神の子どもたち(sons)の現われ」(19節)、「神の子どもたちの(children)栄光の自由」(21節)、「子にしていただくこと(sonship)、すなわち、私たちのからだの贖われること」(23節)と表現しています。

私たちは既に「神の子ども」とされましたが、それは目に見える形になっていません。しかし、私たちは確実に、キリストと同じ朽ちることのない新しい身体を受け、「栄光の自由」を味わいます。そのことを確信させ、その喜びの「初穂を味わうことを可能にするのが御霊の働きです。

ところが、御霊を受けると反対に、「心の中でうめく(嘆きのため息)」というのです。しばしば、人は、悲しみに蓋をして自分を保ちます。しかし、心が自由にされると涙が出ます。人によっては、幼い時の悲しみを、中年期を過ぎて初めて心の底から泣けるということもありますが、不思議にそこには、表現できないほどの感謝と喜びが伴います。

また、御霊の導きによって、自分が知らずにどれだけ人を傷つけていたかが示され、深く「うめく」こともあります。しかし、同時に、そこには十字架の愛への圧倒的な感謝の喜びが伴います。つまり、「産みの苦しみ」と同じように、「うめき」と「喜び」とは、表裏一体のものとしてあるのです。

この世界の悲惨は、多くの人が、他の人の痛みや、世界の痛みに自分の心の耳を塞いで、それをいっしょに悲しむことができないところから始まります。愛の対極にあるのは、憎しみではなくて、無関心です。

「私たちは、この望みによって救われているのです」(24節)とあるように、御霊は、何よりも、救いの完成の「望み」を私たちの心に芽生えさせます。

そして、目に見える現実がどんなに厳しくても、自分のいのちは神の御手に守られているという心の余裕が、人や世界の痛みとともに「うめく」という祈りを可能にします。そして、世界の痛みに合わせてあなたの心が揺れるところから、真実の愛が生まれ、行動が変えられ、世界に愛が満たされます。

そして、「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないことを望んでいるなら、私たちは忍耐を持って待ちます」(24,25節)とは、現在の私たちの苦しみを「産みの苦しみ」と見ることです。それをともに味わうという交わりの中から愛が生まれます。

私たちはみな基本的に、母親の出産の「うめき」によって生まれてきました。ところが、多くの男性は、ともに「うめく」よりも、「分析」をしがちだと言われます。しかし、そこに痛みに共感するという心が感じられなければ、そこから「うらみ」が芽生えるということがしばしばあります。

「ともにうめく」交わりから、真の家族愛が成長します。私たちはともに苦しみ、ともに希望に生きることを大切にしたいものです。その望みは、人間の努力を超えた神のみわざの完成のときだからです。ともに苦しみに耐え、ともに待ち望むとき、来たるべき栄光の喜びをともに味わうことができます。

4.「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを……知っています」

パウロは「どのように祈ったらよいか分からない」(26節)と言いながら、同時に、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを……知っています」(28節)と断言します。

多くの人の問題は、自分の願望に囚われすぎながら、最終的な「望み」が見えずに、待つことができないことから生まれます。たとえば、「仕事がうまくさえ行けば、すべて満足できる」と思う人は、仕事に駆りたてられ休むことができなくなることでしょう。理想的な愛に囚われすぎる人は、現実の人と人との生きた交わりに不満を持つかもしれません。

しかし、御霊による祈りは「うめき」から始まります。それは、まず、寂しさや不安、人への恨みや後悔を、そのまま神の御前で沈黙しつつ、深く味わいながら「うめく」ことです。その時、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによってwith groanings too deep for words」(26節)とあるように、御霊がその悲しみを味わい「ことばにできないうめき」によって「私たちのためにとりなし」、父なる神の御手に問題を差し出してくださいます。

しかも、「神は、私の悩みを軽蔑されず、ともに味わって下さる」という感動は、私たちのうちに「神を愛する」思いを生み出します。そして、「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という約束の成就を確信させてくれるのです。

実際、この「望み」によって目の前の責任を黙々と果たすなら、神が、しばしば私たちの思いもつかなかった解決を備えてくださいます。

私たちは、「何か解決を示してあげなければ……」と思うからこそ、人の悩みを聞けないという面もありますから、第一の務めが「ともにうめく」ことであると納得することは、人の悩みに耳を傾ける勇気を起こさせます。

問題の解決は、そこにある御霊ご自身の「うめき」から生まれるのです。それこそ、現実に、神の愛を分かち合う行為です。このような「うめきのミニストリー」に、私たちはもっと目を開くべきでしょう。

なお、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とは、自分個人にとっての「益」ではありません。たとえばその原点の創世記のヨセフ物語では、ヨセフが奴隷として売られ、無実の罪で牢屋に入れられながら、エジプトの総理大臣の地位にまで引き上げられたというサクセスストーリーではありません

そこでは、ヤコブ一族がエジプトにおいて星の数のような民族にまで増やされることが、「益」だったのです。

続けて、ここでは、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」(29節)と記されます。

これは、先の、「キリストとともに苦しみ、ともに栄光を受ける」というプロセスの中に招き入れられることを指します。それはこの地において、キリストの生き方に倣うということです。

また、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(30節)と記されますが、「あらかじめ定められている」とは、小さなキリストとして生きるべくこの世に誕生したこと、「召された」とは、神のみことばを自分への語りかけとして聴いたこと、「義と認め」とは、私たちの心に復活の希望が芽生えることです。

私たちは自分の変化の遅さや惨めさに「うめき」ますが、そこで、御霊ご自身がともに「うめき」、復活の希望を確信させてくださいます

「栄光をお与えになりました」とは、私たちが文字通り、栄光の身体とされるときを指します。それはまだ先のことでしょうが、「あらかじめ定め」「召し」「義と認め」「栄光を与えられる」とは、神の救いの一連のプロセスを指します。

今、私たちは目の前の問題が全く解決していないと思える中で、「ともにうめき」ながら、それを「産みの苦しみ」のうめきと受け止め、「すべてが益とされる」という確信に満たされることができます。

私たちは今ここで、うめきながら、同時に、喜んでいるのです。それこそ、キリスト者の不思議です。

あなたの周りの具体的な人を思い浮かべ、経済的不安、仕事の重圧、夫婦の争い、離婚、不治の病、心の病、引きこもり、子育ての悩み、失恋、挫折感、老いの痛み、身体の衰え、愛する人の喪失、将来への不安、敗北感などの「悲しみ」を、まずともに味わってみましょう。

また世界中の様々な悲惨を思い浮かべながら、それを自分の「うめき」としましょう。そして、最後に、あなた自身の心の奥底にある不安や孤独感の叫びにも、蓋をすることなく、耳を傾けましょう。そして、御霊のとりなしを待ち望みましょう。

世界が平和に向かう変化は、その「御霊のうめき」から始まるのです。そのとき一時的に、心が沈むかもしれませんが、それは自分の問題ばかりで心がいっぱいになる状況と根本的に異なります。

世界の痛みから目を背けるとき、孤独と倦怠感が生まれますが、世界のうめきに心の目と耳を開いてゆくとき、そこには神と世界に対する連帯が生まれ、同時に、神の示す希望に心を躍らせることができることでしょう。