ハバクク「神の真実に応答する者は生きる」

2015年12月27日

ハバクク書は多くの人に縁遠い箇所かもしれません。世界的なピアニストのイングリッド・フジ子ヘミングは無名だったとき聖路加病院でボランティアとして患者さんたちの前でピアノを演奏していました。その頃、ある教会で、預言者ハバククのみことばの小冊子をもらいます。その2章3節に、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と記されていました。

それから間もなく、NHKでフジ子さんに関するドキュメンタリー番組が放送されて、1999年2月にたった一晩で有名になりました。そのときすでに60代後半でした。彼女は次のように記していますが、これは現代人のためのハバクク書の要約とも言えましょう。

「私のこれまでの人生には、お金がなくて食べるものが買えなかったり、耳が聞こえなくなったり、みんなにいじめられたり、辛い出来事が本当にいっぱいありました。でもどんな時も決して諦めずに、ピアノだけを弾き続けて来ました……でも途中、何度も思いました。『なんで神様は私をこんな目に遭わせて平気でいるのだろう……』と、だけど、そうではなかった。まるで、私の人生は神様にプログラミングされていたかのように感じます……他の人の生き方についてとやかく言うつもりはないけれど、『神様が自分に与えた役割ってなんだろう』ともう一度立ち止まって、よく考えてみることは大切なのではないかしら。私たち一人一人、それぞれに果たすべき義務や役割が必ずあるはずです」(光文社文庫「天使への扉」p119)

新約聖書の核心に、「義人は信仰によって生きる」がありますが。それはハバクク書2章4節からの引用で、それこそパウロ神学の核心とも言われます (ローマ1:17、ガラテヤ3:11、他の著者ではヘブル10:38)。これは「信仰義認」という宗教改革の教理の根幹とも呼ばれますが、多くの誤解も生んできました。

たとえば、それはときに、「神を信じればどんなに悪いことをしても、その行いが問われることがない」という、不道徳を許容する教えと思われました。また反対に、神の救いは、人間の側の信仰への応答として与えられると思うあまり、「こんな弱い信仰で、救われるのだろうか」という疑念を生み出すことがありました。改めて、その原点の意味に立ち返る必要がありましょう。

1.「いつまで、聞いてくださらないのですか……なぜ……ながめておられるのですか」

この書の冒頭は「宣告」(重荷)から始まります。それがエルサレムやバビロン帝国の上に重くののしかかり、そのさばきが実現するという意味があります。続けて、「それは、預言者ハバククが見たもの」と記されます。

この書は、ダビデの築いた王国が、約400年後にバビロン帝国によって滅ぼされる少し前に記されたと思われます。当時のエルサレムの政治は混乱を極めていました。2節の原文は「いつまでなのですか。主 (ヤハウェ) よ」というハバククの叫びから始まり、「私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたは聞いてくださらない……『暴虐』と……叫んでいますのに、あなたは救ってくださらない」と、主の沈黙を非難するように訴えています。

彼はエルサレムの中に支配者たちの「暴虐」を見て、必死に神の助けを求めて叫んでいるのですが、いつまでたっても答えが無いので絶望的になっています。ただ彼は、それでも諦めることなく主に訴え続けます。それこそが感動的です。残念ながら、多くの人々は、ほんの少し祈っただけで、「神は何も私の訴えを聞いてくださらない……」と諦めることがあるからです。

ハバククは神の沈黙に耐えつつ、「なぜ、あなたは……」と、積極的に神に疑問をぶつけながら、「私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか」と訴えています (3節)。神ご自身がわざわいを放置し、「労苦」をただ上から「ながめて」いるだけだというのです。

その上で、「暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています」と訴えます。ここでは先にあった「暴虐」の同義語が、「暴行」「闘争」「争い」と描かれています。

引き続き彼は、「それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません」(4節) と訴えます。「暴虐」が放置される結果、「律法」(御教え)が「眠り(麻痺し)」、機能しません。ここでの「さばき」とは、神の正義に従った政治を指し、それが「いつまでも(まったく)、行われない(出てこない)」と嘆いているのです。

また、続く文章は、「悪者が正しい人を取り囲んでいます。それゆえ、さばきが曲げて行われています」と訳した方が良いと思われます。この節の二番目の「それゆえ」が訳されないことがありますが、ここでは「正しい人」が悪者に取り囲まれて見えなくなっているので、その必然的な結果として、本来あるはずの神の正義の基準に従った政治(さばき)が、曲げて行われる(出てくる)と記されています。そこでは、「正しい人」、つまり、神の前に誠実に生きようとする人々のことばが、真の神を忘れた人々(悪者)の陰に、完全に隠されています。

神の国の都のエルサレムにおいても、「正直者がバカを見る」ような現実があるため、神の御教えを無視する不法がますますはびこるようになっていました。ハバククの祈りは、不条理な苦しみに悩むヨブの訴えに通じます。これこそ真の祈りです。自分で答えを作ってはいないからです。

1章5-11節に神からの答えが記されます。主はご自身の計画を知らせる前に、現実の世界の動きを、あるがままに「見よ」、また「目を留めよ」と命じ、その上で「驚き、驚け」と、常識をひっくり返すことが起きると示唆しつつ、「わたしは一つの事をあなたがたの時代にする」と、ご自身の主導権を強調します。

つまり、ハバククの祈りは神に届いていたのですが、神の答えはあまりに意外なので、「告げられても、あなたがたは信じまい」と言われます。

そして主は突然、「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす」と言われます。これはバビロン帝国の中心部族で、紀元前626年にアッシリヤ帝国からの独立を果たし、その14年後の紀元前612年にはアッシリヤ帝国の首都ニネベを滅ぼし、6年後の紀元前609年にはカルケミッシュの戦いでアッシリヤとエジプトの連合軍を打ち破ります。

ただ、このカルデヤ人の国が、「強暴で激しい国民だ」 (6節) と描かれます。神がご自身のさばきを実現するために立てた国は、まるで暴力団のような集団だったというのです。そして、「これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る……自分自身でさばきを行い、威厳を現す」(6、7節) とあるように、自分を神の立場において他国を次々と支配します。

続けてバビロン帝国の傲慢さが、「彼らは王たちをあざけり……すべての要塞をあざ笑い……それを攻め取る」(10節) と描かれます。彼らは他国を攻め取ることに何の躊躇も感じません。

しかし同時に、その危うさが、「それから、風のように移って来て、過ぎて行く。自分の力を自分の神とする者は罪と定められる」(11節私訳) と描かれます(新改訳の「罰せられる」は、まださばきが見えない段階なので訳し過ぎ)。

なお、「自分の力を自分の神とする」での「力(コーアハ)」は、しばしば人間的な能力を指します。バビロン帝国が誇る「力」は、サムソンが自分の腕力を誇ったのと同じもので、神の前には無に等しいものに過ぎません。

1章12節で彼はさらに主に向かって、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか」と訴えています。それに続く「私たちは死ぬことはありません」は、「カルデヤ人の手によって私たちが滅びることはないはずでは……」(1:17参照) という期待を込めた意味でしょう。

その上で、カルデヤ人を「彼」と呼びながら、「主 (ヤハウェ) よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました」と述べます。そこでは、神が、ご自身の計画を進めるためにカルデヤ人を立て、イスラエルの民を滅ぼすためではなく、「叱責する」ためにカルデヤ人を据えられたと解釈しながら、神のご計画は「岩」のように揺るがないと告白しているのです。つまり、ハバククは、カルデヤ人はあくまでも神の道具に過ぎないと認めています。

ところが13節で彼は続けて、「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留める(ながめる)ことができないのでしょう」と述べますが、ここには皮肉が込められています。それは、3節で神が「労苦をながめておられる」と訴えたのと同じ言葉を用いながら、主は真の意味では「悪を見てはいない」、「労苦をながめてはいない」と述べているからです。

彼の目には、神はこの世の悪にも私たちの労苦にも、正面から向き合おうとしてはいないように思えたので、失礼にも、神に向かって、「あなたの目はあまりにもきよい」と、言ったのです。神は、ご自身の町エルサレムの現実に心を痛めていたはずですが、それをさばくために、「悪」の程度にはるかに激しいカルデヤ人を用いることが、ハバククには到底納得が行きません。それは広域暴力団の助けで目先の不正を正すようなものです。

2.「幻を板の上に書いて確認せよ……正しい人はその信仰によって生きる」

2章の初めでは、突然、ハバククは、「見張所」や「とりで」にしっかりと立ちながら、「見張り」、また「見る」と告白します。これは主の答えを期待し、そのタイミングは主の主権に属することを認め、その上で、ひたすら待ち続けるという意志の表明です。

そして、その内容は、「何を主が私に語り、何を私が返すのか、私の訴えに関して」と訳すことができます。ハバククは、あくまでも、主ご自身との対話自体を待ち望み続けているのです。

その上で、「主 (ヤハウェ) は私に答えて言われた」(2:2) という大きな転換点が記され、その内容が、「幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために」と記されます。「幻」は多くの英語訳ではヴィジョンと訳され、この書の最初で、「ハバククが預言した(見た)」というのと同じ語源のことばで「啓示」とも訳されます。ですからこの「幻」(ヴィジョン)とは、ハバククが主から見せられたこの書の啓示全体を指していると思われます。

それを「書き記して確認する」とは、法手続きの二段階を意味し、誤解のないように明確にすることです。それはこの使信に出会った者が、それを伝えるために「走る」ことができるためです。

そして3節の最初は、「なぜなら、この啓示はまだ定めの時を待っているのだから」と訳すことができます。これはその内容が、実現まではまだ間があるからこそ、誤解のないように明確に書き記しておく必要があると強調するためです。しかも、その内容は、「終わりについて告げる」ものと記されますが、これは世の終わりという以前に、「主 (ヤハウェ) の日」と基本的に同じく、「地は、主 (ヤハウェ) の栄光を知ることで満たされる」(2:14) と言われる、バビロン帝国に対する神のさばきが現されるときを指します。

とにかく、この「幻」(啓示)は、「まやかし」ではなく、その実現を、ひたすら待ち続けるべきものです。そのことがフジ子さんの愛唱聖句、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る、遅れることはない」(2:3) と記されています。

4節で最初に突然、「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない」と記されます。これは1章4、13節に記された「悪者」のこと、つまり、真の神を忘れた者、または「自分の力を自分の神とする者」のことを指していると思われます。彼らの心の特徴は、「うぬぼれ」にあり、真の神を「まっすぐに」見上げるということがないことに現されます。

一方、その反対に、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と描かれます。「信仰」の原語は、「エムナー」で、アーメンと同じ語源に由来することばで、「真実」と訳した方が良いかもしれません。

興味深いことに七十人訳(ギリシャ語)では、「わたし(神)の真実によって」と記されています。ですからこれは「信仰の力によって」とか「行いではなく信仰によって」などという意味ではありません。これは、目に見える現実や、すぐ先に待っている現実が、人間の目には、神の不在、神の無力さを示すようにしか思えない中で、イスラエルの神ヤハウェが確かに、全地の支配者であり、正しく世界を治めて(さばいて)おられるという、神の真実に信頼して歩む者こそが「正しい人」であり、神に喜ばれる人であるというのです。

信仰の父アブラハムは、世継ぎが生まれない時に、主 (ヤハウェ) から「あなたの子孫は星のように増え広がる」というビジョンを示されて、そのことばを「アーメン」と受け止めました。それに対し、「主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6) と記されています。つまり、私たちの信仰とは、神がご自身の真実をみことばを通して示してくださったときに、それを真実に受け止めるという、心の応答なのです。しかも、ここでは先の「私たちは死ぬことはありません」(1:12) を言い換えるように、「正しい人は……生きる」と断言されます。

当時のエルサレムの支配者たちは、目先の政治判断の是非ばかりを論じ、神の真実なご支配を忘れていました。私たちも目先の政策論争に心を奪われて、今ここにある神のご支配、今ここで求められている誠実さを忘れるようなことがあってはなりません。

実現が遅いと思われ、ときには「まやかし」とさえ言われるような神のビジョンが必ず実現するということを信頼し、ここで誠実を尽くす者こそが、真の意味で「生きる」ことができるのです。

そして、5節では「心がうぬぼれている」人の状態が、まず、「実にぶどう酒は欺くものだ」と描かれます。「足ることを知らない」生き方の基本はアルコール依存症に似ているからです。

その心の状態が、「高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない」と描かれます。これは「正しい人」と対極にある生き方です。

主が現代の私たちに示してくださっている「幻(ヴィジョン)」とは、神の平和(シャローム)に満ちた世界の実現です。神のひとり子は、ひ弱な人間になることによって、「自分の力を自分の神とする」生き方との対照を示してくださいました。サタンはイエスの十字架を見て、自分たちの勝利を大喜びしたことでしょうが、それこそサタンの大敗北の始まりでした。

この世の権力者や身近な人々が私たちを苦しめる時、それは彼らがまさに墓穴を掘っているときです。神は私たちの労苦に確かに目を留めておられます。主の真実に応答する者は必ず「生きる」のですから。

3.「水が海をおおうように、地は、主 (ヤハウェ) の栄光を知ることで満たされる」

2章6節以降は、バビロン帝国によって苦しめられた者たちが、そこの「カルデヤ人」(1:6) の最後を風刺して、五回に分けて「わざわいだ……」と、「あざけりの声をあげ」る様子が記されます。

12節はその第三のもので、「わざわいだ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者」というあざけりです。他国民の血の犠牲と略奪した富で都を築き上げた者の滅びは時間の問題です。

13節では「これは、万軍の主 (ヤハウェ) によるのではないか」と言いつつ、「国々の民は、ただ火で焼かれるために労し、諸国の民は、むなしく疲れ果てる」と国々の悲劇が描かれます。これはバビロン帝国で起きたことを一般化して述べたものです。創造主を忘れた国々も世の人々も空しい労苦を積み上げますが、バビロン軍にはるかにまさる「万軍のヤハウェ」のみわざによってすべてが無に帰すのです。

それによって、「水が海をおおうように、地は、主 (ヤハウェ) の栄光を知ることで満たされ」(2:14) ます。これは第一義的には、バビロン帝国へのさばきを通して、この地の真の支配者が(ヤハウェ) であると明らかにされるという意味ですが、同時に最終的な救いの完成を示すことばでもあります。

「主 (ヤハウェ) の栄光」は、イスラエルの民が荒野を旅していたときに雲の中に現され、翌朝には宿営の周りにマナが降りていることで現されました (出エジ16:10-15)。またモーセに導かれた民が幕屋を建てたとき、「雲は会見の天幕をおおい、主 (ヤハウェ) の栄光が幕屋に満ちた」と描かれています (同40:34)。

そしてイザヤは救い主が実現する世界を、「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さい子どもがこれを追ってゆく……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる……主 (ヤハウェ) を知ることが海をおおう水のように、地を満たすから」と描きます (同11:6-9)。このとき、全地が主の神殿となり、主のシャローム(平和、繁栄)が全地を満たすことになるのです。

ペテロはこの目に見える「天と地」が過ぎ去ることを述べながら、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13) と記しています。

第五は、18、19節で、偶像が「物言わぬ偽りの神々」と呼ばれ、それに向かって「目をさませ」「起きろ」と必死に祈っている姿が「わざわいだ」とあざけられています。

そして最後に、「しかし主 (ヤハウェ) は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ」(2:20) と描かれます。「聖なる宮」とはエルサレム神殿ではなく、「主 (ヤハウェ) は聖なる住まいにおられ、主 (ヤハウェ) の王座は天にある」(詩篇11:4フランシスコ会訳) とあるように「天の宮」を指します。

ここでは偶像礼拝をする者が「物言わぬ偽りの神々」に向かって「目をさませ……起きろ」と騒ぎ立てることの対比で、「主 (ヤハウェ) の御前に静まる」ことが勧められています。なぜなら、主は今、預言者ハバククに明確な言葉で語っておられるからです (2:1)。そして主の語られたことばがそのとおりに実現し、今、この書として残されています。

4.「にも関わらず、この私は主 (ヤハウェ) にあって喜び勇み……救いの神にあって喜ぼう」

3章17、18節は、目先の悲劇を覚悟しながら、そのただ中で、私は主にあって喜ぶという、悲惨と喜びの対比が描かれています。ですからここは、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さず、羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなるにも関わらず、この私は主 (ヤハウェ) にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と訳した方が良いと思われます。

これは目の前にバビロン帝国の攻撃によって農作物が台無しにされ、家畜がいなくなるという悲惨を見ながら、そのただ中で、主の救いのご計画が確実に進んでいることを確信し、「私の救いの神にあって喜ぶ」と告白することです。

最後に、「ヤハウェ、私の主」と告白しながら、「その方が、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」と締めくくります (3:19)。

しばしば、「夜明け前が、一番暗い」と言われるように、ハバククは目の前の状況が悪くなればなるほど、神の救いのご計画が進んでいることを信じ、そこで喜ぶことができました。

これは私たちの人生にも適用できます。「何で次から次と、悪い事ばかりが起きるのか?」とつぶやきたくなる時、それこそ「夜明け」が近いしるしです。それを前提にパウロは、「今は救いが私たちにもっと近づいている……夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて……昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」(ローマ13:11-13) と記します。

本書のテーマは、わざわいが迫ってくるただ中で、主の真実な救いのご計画が進んでいることを信じ、「主にあって喜び勇む」ことです。私たちの喜びは、主との親密な交わりから生まれるものです。ただそれは、不安や嘆きの気持ちを、押し殺すことではありません。ハバククの祈りは、主への率直な訴えから始まるからです。

教会福音讃美歌422番はドイツの古い讃美歌を筆者が訳したもので、目の前が真っ暗な中で「イエスは私の喜び」と力強く告白されます。この世では、いつも結果を出すことが求められがちですが、努力が報われないことも多くあるからです。

そこで問われるのは、神の真実に信頼して、今、自分としての真実を尽くす道が何かを問い続けることです。

フジ子ヘミングさんはドイツでデビューしようと思った途端、高熱で耳が不自由になり、その後、30年余り極貧の生活を続けました。彼女は自分の演奏が感動を生む理由を、「私の辿って来た数奇な半生が、音に表れるからじゃないのかな。これは隠せない真実だから。ピアノの前では、すべてをさらけだすことができる。演奏には自分のすべてがでてしまう」と記しています。彼女はコンサート中、一分毎に「イエス様、イエス様」と祈るとのことです。

これは、私たちのすべての働きに適用できる真理ではないでしょうか。労苦は主にあって決して無駄にはなりません。