人間の歴史は、それぞれの国が自分たちの理想とする平和を実現しようと争いを繰り返してきているのではなでしょうか。平和を求めるがゆえに争うという皮肉があります。大切なのは自分たちに都合の良い平和ではなく、創造主ご自身にとっての平和(シャローム)に憧れ、そのために生きることです。
そのような中で、改めて、救い主預言に注目し、「この方こそが彼らの平和となる」(5:5私訳)、「彼は、私たちをアッシリヤから救う」と言われる神の救いの意味をともに考えてみましょう。アッシリヤとは、横暴な支配者の代名詞です。それはイエスの時代はローマ帝国であり、また第二次大戦下の日本では軍閥でした。あなたの身近なところにも、横暴な人間がいるかもしれません。
イエスによる救いは、「今は、辛いけど、やがて天国では・・・」というものではなく、不条理に満ちた現実の世界のただ中での「生きる力」となります。
実は、イエスはご自分の民をローマ帝国の圧政から解放してくださったのです。その話を非現実的と拒絶したユダヤ人の国は独立戦争を起こし、ローマ帝国によって滅ぼされました。しかし、イエスの福音は、現実のローマ帝国の中に広まり、ついには帝国の支配者である皇帝をひざまずかせたのです。
1.「彼らはその剣を鋤に、槍をかまに打ち直し・・・二度と戦いのことを習わない」
預言者ミカの時代は、北王国イスラエル、南王国ユダともに経済的な繁栄を謳歌した全盛期の少し後の時代で、隣国のアッシリヤ帝国が勢力を拡大し、それに対する対応を巡って政治的な対立が起き、混乱していました。それは現代の日本の状況にも似ている面があります。
1-3章までで、主は両国それぞれに対しての厳しいさばきを宣告されます。ところが4章1-5節には、一転して、「終わり(のち)の日々」のシオンの回復の希望が記されます。特に、その1-3節の表現は、ほぼ同じものがイザヤ2章2-4節にも記されています。混乱の中にあるときこそ、救いのストーリーを大枠から見直し、歴史のゴールが「神の平和(シャローム)」の完成にあるという観点を思い起こす必要があります。
まず、諸国の民はエルサレムの神を嘲っていましたが、「その日々」には「主(ヤハウェ)の家の山」は、様々な祭壇が置かれた「高き所」を見下ろす栄光に満ちた山として「そびえ立つ」というのです(4:1)。その結果、「国々の民はそこに流れて来る」と、世界中の人々が、新しいエルサレム神殿に引き寄せられてくる様子が描かれます。
それは、主の家の山は地理的にどの山より高くなるということよりも、世界中の人々にとっての憧れとなるという意味です。
そしてそこに、「多くの異邦の民が来て」とは、エルサレムの神が、全世界の人々にとっての神となることを意味し、そのときに彼らが言う言葉が、「さあ、主(ヤハウェ)の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を・・教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」と記されます(4:2)。
つまり、人々を惹きつけるのは、神殿の荘厳さや輝きというよりも、主が教えてくださる「道」、主が示してくださる「小道(生き方)」を歩みたいと願うからだというのです。
そして、その理由が再び、「それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主(ヤハウェ)のことばが出るからだ」と描かれます(4:2)。「みおしえ」とはトーラーで、律法とも訳されます。また、「主(ヤハウェ)のことば」も、「十のことば」を初めとする御教えです。
つまり、かつてイスラエルの民が捨ててしまった主の御教え、それを守ることができなくてさばきを受けた「主のみことば」を、世界中の人々が聞きたいと切望して、エルサレムに集まって来るというのです。
3節には、「主は多くの国々の民の間をさばき(治め)」とありますが、これは主が正義を持って世界を「治める」ことです。また「遠く離れた強い国々に、判決を下す」とは、アッシリヤやバビロンのような国々を従えることを意味します。その結果として、世界に平和が実現される様子が感動的に描かれます。
それが、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」という表現です。つまり、「終わりの日々」には、神のご支配が明らかになるので、「剣」や「槍」という戦いの道具が、「鋤」や「かま」という農耕具に打ち直されるのです。
それは、世界中から戦争の恐怖が無くなり、戦いの訓練もなくなるからです。今、私たちの世界では、たとい戦争がなくても、自分の身や権利を守るために、「戦いのことを習う」必要がありましたが、主の公正なさばきが全地を満たすとき、「戦う」という概念自体を忘れることができるというのです。
それが引き続き、「彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない」(4節)と描かれます。彼らは財産を守る必要さえも感じなくなります。そして、それを保証するかのように、「なぜなら、万軍の主(ヤハウェ)の御口が告げられるから」(私訳)と記されます。この世界では互いの支配権を巡って強さを競い合いますが、「万軍の主」のご支配が目に見える形で明らかになると、争う必要がなくなります。
なお、5節は「たとい、すべての国々の民が、おのおの自分の神の名によって歩むことがあっても」と訳すことができます。つまり、今、多くの人々が偶像の神々を拝んでいたとしても、「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主(ヤハウェ)の御名によって歩もう」と告白するのです。それは私たちが、主の約束が必ず実現すると信じているからです。
2.「エルサレムの娘の王国が帰って来る」
4章6,7節では、「その日(単数)」という表現で、新しい世界の約束が、「主(ヤハウェ)の御告げ」と言う宣言と共に、「わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。わたしは足のなえた者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主(ヤハウェ)はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」と記されます。
使徒の働きにある「足のなえた者」の「いやし」こそ、このミカの預言の成就と言えましょう。
初代教会時代、ペテロとヨハネは、エルサレム神殿の「美しの門」で、「生まれつき足のなえた人」を癒しました。そのときペテロはこの乞食に向かって、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。するとこの人は「おどりあがってまっすぐに立ち、歩きだし」「神を賛美しつつ・・・、宮に入って行った」というのです(使徒3:1-8)。
記事の中心は、使徒たちとともにこの足の癒された人が、権力者の脅しにも屈することなく、イエスを救い主としてあがめたことです。まさに、神から「追いやられた者」が集められ、「足のなえた者」が、「残りの者」として真の神の民とされ、「強い国民」とされました。
そしてこのことを通して何よりも、イエスがシオンの山で彼らの王となったことが明らかになりました。なぜなら、ペテロもヨハネも厳しい脅しを受けながら、ユダヤ人の最高議会の命令に従うよりも、イエスを王としてあがめることを明確にしたからです。
4章8節の始まりは、「あなたに」と記され、それが「羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ」と説明され、「以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る」と述べられます。
それは羊の群れを見守る「やぐら」、「シオンの娘」としての民を見守る「丘」に、「王」が帰って来ることです。これは、失われたと思われた神の国が回復する希望です。
4章10節では奇想天外な救いのご計画が、「身もだえし、もがき回れ、シオンの娘よ。子を産む女のように。なぜなら今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンにまで行くのだから。そこであなたは救われる。そこで主(ヤハウェ)が贖ってくださる、あなたを敵の手から」と描かれます。
それは将来的なバビロン捕囚という悲惨を通してエルサレムの民を、敵の手から贖い出してくださるというのです。「敵」とは、皮肉にも同胞の支配者です。それは民衆がミカの時代から、この世の権力、暴力支配の中で奴隷状態にあったからです。彼らを奴隷としていたのはイスラエルの支配者自身でした。そして、主は国を滅ぼすことによって、そのような抑圧者を一掃してくださるというのです。
人は直線的な時間の観点でこの世界の動きを見ようとしますが、4章初めにあるように、主はまず歴史のゴールを示されます。それは神の平和(シャローム)が世界を満たし、全世界の民がイスラエルの神ヤハウェを礼拝するときです。そして、その始まりとして、主は、「足のなえた者」、この世の弱者を集めてキリストの教会を建てられます。
ただ、この世界では、強い者、賢い者が支配権を握り、人を奴隷化しています。神はイスラエルの民をバビロン捕囚という悲惨を通して建て直しました。
同じように、日本の救いのために、神は様々な悲惨が起こるのを許されました。それは日本人の傲慢を砕くために必要なことでしたが、多くの人々はそれによってもなお、神の前にへりくだろうとはしていません。
目の前には、様々な苦しみや悲惨があります。それらは私たちが負うべき十字架かもしれません。しかし、それは光り輝く世界への入り口でもあります。主の十字架は悪の力に対する勝利の宣言だからです。
3.「この方こそが、平和となる・・・彼は、私たちをアッシリヤから救う」
5章初めでは、娘のようなひ弱な軍隊に、召集を呼びかけるしかない絶望的な状態が、また、エルサレムがアッシリヤの軍隊によって包囲される中で、イスラエルの王の頬が杖で打たれるという辱めを受ける様子が描かれます。しかし、それを通して、4章8節にあった「以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来」るというのです。
それを実現する新しい王の誕生が、「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから・・イスラエルの支配者になる者が出る」(5:2)と預言されます。
これは、マタイの福音書2章では東方の博士たちの訪問に驚いたヘロデ大王が学者たちを集めて「キリストはどこで生まれるのかと問いただした」ときに引用されます。その際、学者たちは、ヘロデが理解しやすいように若干の言い換えをしたと思われ、「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者があなたから出るのだから」(同6節)と記されています。
ミカ書で、「ベツレヘム・エフラテ」とあるのは、当時、二つのベツレヘムがあったためです(ヨシュア19:15では北のゼブルンの支配地にも)。ダビデの出生に関しては、「ユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子」(Ⅰサムエル17:12)とあり、そこから地名が生まれたと思われます。
またミカ書で「最も小さい」と記されているのは町のサイズを示し、マタイで、「一番小さくはない」と記されているのは、小さな町であるにもかかわらず、小さな意味しか持たない町ではないという意味だと思われます。
また、ミカでは続けて、「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」と記されていますが、それは主がダビデに、彼の王家の永遠性を約束されたことを指します(Ⅱサムエル7:16)。
そして3節では、救い主の誕生まで、イスラエルは外国の支配下に置かれるということが示唆され、同時に、民が四方に散らされていても、この救い主のもとに集められるという意味のことが記されます。なお、新約では、ペンテコステの日に、世界各地から集まった三千人ほどの人々が弟子に加えられていますが、それこそこの預言の成就と解釈することができます。
引き続き、この救い主の働きが、「彼は立って、主(ヤハウェ)の力と、彼の神、主(ヤハウェ)の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ」(5:4)と描かれます。
4章の初めでは、主(ヤハウェ)ご自身が全地に平和を実現すると約束され、その7節では、「主(ヤハウェ)はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」と記されていましたが、ここでは救い主として誕生する方が、主(ヤハウェ)の支配をこの地上に目に見える形で現すと記され、主(ヤハウェ)と一体となっている王であられると描かれています。
不思議にも5節では、救い主が実現する平和のことが、「この方こそが彼らの平和となる」(私訳)と記され、6節の終わりで、「彼は、私たちをアッシリヤから救う」と言い換えられます。
現代の誰も、イエスをアッシリヤ帝国の支配からの解放者としては理解しません。イエスは、アッシリヤ帝国滅亡後600年余りたって誕生しているからです。しかも、ここでは、そのプロセスで、「七人の牧者と八人の指導者」という地上の指導者が、救い主のもとで立てられ、アッシリヤの地とニムロデの地を軍事的な剣の力で治めると描かれます。ニムロデの地とはバビロン帝国の中心地を指します。
詩篇2篇では救い主の働きが、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」(9節)と描かれ、黙示録では「ハルマゲドン」(16:16)での戦いに勝利する方が、「神のことば」と呼ばれ、その「口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は鉄の杖をもって彼らを牧される」と記されます(19:13-15)。
実は、預言された救い主は、二回に分けて現れることになったのです。最初は剣も鉄の杖も用いない方として現れ、世の終わりになってこの預言を文字通りに成就すると解釈できます。実際に、救い主は、一度目は人の罪を負って十字架にかかる方として現れ、二度目は、鉄の杖で神の敵を踏みにじる方として現れるのです。
それが示すことは、イエス・キリストは単に柔和で優しい方ではなく、地上的な力をもってこの地の敵を従える方であるということです。残念ながら多くの方々は、その点で救い主を誤解します。救い主は、この世の悲惨や争いを、涙を流しながら途方に暮れている方ではありません。
事実、ミカの預言から数十年後に、アッシリヤ帝国がエルサレムを包囲した時、ミカの預言を信じたヒゼキヤ王は、主に従うことでアッシリヤの攻撃を奇跡的に退けました(エレミヤ26:18,19)。
「この方こそが、平和となる・・・彼は、私たちをアッシリヤから救う」は、この地の横暴な権力者すべてに対する勝利として適用できます。
イエスが十字架で息を引き取ったとき、ローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と告白し、イエスにローマ皇帝と同じ権威を認めました。それを証しするように、主は死の力を打ち破って復活されました。
その後のキリスト者に剣の脅しが通じなくなったとき、ローマ皇帝自身がイエスを真の王と告白するようになります。私たちはどこかで、救い主のご支配をあまりにも浮世離れしたことと理解してはいないでしょうか。
4.「ヤコブの残りの者は・・・人に望みをおかず」
5章7,8節は諸外国の攻撃や圧政の中を生き延びた子孫に関しての約束です。その第一は、「ヤコブの残りの者は・・・主(ヤハウェ)から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のよう」に、世界中に潤いをもたらします。それは「人に望みをおかず」、神に望みをかける者として世界の希望となるからです。
今、私たちが「世界中に潤いをもたらす」ことができるのです。第二は8,9節で、苦難を潜り抜けた「ヤコブ残りの者」が、ライオンのように強くされると約束され、また、「あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる」と、主にある勝利が約束されます。
使徒パウロも、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい」(エペソ6:10,11)と記しています。事実、イエスが、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)と言われたのは、この世の横暴に泣き寝入りをする敗北主義の教えではなく、悪の力に勝利するための秘訣でした。それは神のご支配を信じているからこそできる勇気です。
5章10,11節では、「その日」ということばとともに、4章1節の「終わりの日々」、4章6節の「その日」で約束されていた神の平和を、神ご自身が神の民の戦いの道具である「馬」や「戦車」をなくすことによって実現すると描かれています。
それはまた、人間的な力を誇る神の民を内側からきよめる神のさばきでもありました。神の平和は、そのさばきから始まるというのは。恐ろしいことでもありますが、ダビデ自身も詩篇20篇7節で、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主(ヤハウェ)の御名を誇ろう」と告白していたのです。
この預言から間もなく、ミカに励まされたヒゼキヤ王は、ただイスラエルの神に救いを求めました。すると、「主(ヤハウェ)の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」ます(イザヤ37:36)。神の民は、戦う必要さえありませんでした。
そればかりか、主はイスラエルの中から、「呪術師を断ち、占い師を・・なくする・・・刻んだ像と石の柱を断ち滅ぼす」(5:12,13)と言われますが、ヒゼキヤのもとでそれも行われます(Ⅱ歴代誌31章)。
ところでその後、ミカ6章6,7節でイスラエルの民の愚かな犠牲のいけにえを非難します。この時代は、北王国も南王国ユダも経済的繁栄をまだ享受できていました。彼らはその豊かさを用い、高価な一歳の子牛や幾千の雄羊、幾万の油の流れを、エルサレム神殿でささげていましたが、それは社会的な弱者から搾取したものでした。
それでミカは本書核心の教えとして、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(6:8)と告げます。
「公義を行なう」とは、神の基準に従ってこの世界を治めることです。
「誠実(原文「ヘセド」)を愛する」とは、真実な変わらない愛(ヘセド)を愛するという不思議な表現です。それは周りの反応に左右されずに神の眼差しを意識しながら神と人とに誠実を尽くすことです。
「へりくだってあなたの神とともに歩む」とは、主の祈りの「みこころ・・」にあるように、神との対話の中で神の意志を自分の意志としながら日々生きることです。
イエスは、几帳面な生活ばかりに気を取られているパリサイ人を非難して、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」(マタイ23:13)と言われましたが、その背後にはこのミカのことばがありました。
この書では、「さあ、聞け」(1:2、3:1,6:1)と繰り返されます。神への最高の愛の表現は、みことばに耳を傾けることです。もちろん、イエスが「十分の一もおろそかにしてはいけない」と言われたように、ささげものや奉仕は大切ですが、「私は自分の責任を果たすために日夜頑張っています」と言いながら、身近な人々の心の声にまったく耳が向いていない人がいるかもしれません。
事実、パリサイ人たちは、自分たちは神の前に誠実を尽くしていると思いながら、イエスを十字架にかけるように叫びました。神に聴くことと、隣人のことばに耳を傾けることは切り離せません。何よりも大切なのは、神の御思いに自分の心を向けながら、何が神の目に良いことなのかを慕い求めることです。
私たちは多くの成功物語を聞きます。私も、「お金と信仰」の中でで、この世の経済活動を軽蔑することなく、心の中に湧き起こって来た思いに将来を賭けてみる大胆さも大切であると説いてきました。周りに気遣いながら自分の情熱を殺すなど愚かなことだからです。
しかし、同時に、目先の成果に一喜一憂する近視眼的な生き方からも自由になる必要があります。「結果がすべて!」などという発想を、主は決して喜ばれません。主に創造された者としての個性を生かすことと、いつでもどこでも、主のみこころを第一として生きることには何の矛盾もありません。
救い主の誕生は、この世の権力システムをあざ笑うかのような貧しいものでした。しかし、それこそが、神の永遠のご計画だったのです。互いを押しのける競争ではなく、貧しくなる中に神の救いが実現したのです。
戦争を引き起こすのは、邪悪な人であるよりも、理想に燃えて、人々の心を世界の不条理に対する怒りに駆り立てる人です。直線的な、早急な問題解決を目指し、自分の正義を押し通すことができる人です。
しかし、それは人々の罪を負って十字架にかかられたイエスの生き方とは正反対です。ときが来たら、イエスがご自身の方法で、この地に平和を実現してくださいます。それは聖書の預言が成就し続けていることで保証されています。少なくも、ミカの預言はその直後のヒゼキヤ王に実現し、何よりもベツレヘムでのイエスの誕生に実現しています。
今何よりも求められているのは、「公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩む」という置かれた場での地道な生き方です。