レビ24章〜25章「やり直しのきく人生」

2015年11月15日

残念ながら、日本は、失敗者に厳しい社会であると言われます。そのような中である方が、キリスト教会で礼拝する恵みを、「どの顔して出てこられるのかと言われる心配もなく、昨日までのことが無かったかのように、神の前に出ることができる」と表現しました。

私たちはいろんな負の遺産を蓄積しながら生きていますが、神は常に新しいスタートの機会を与えてくださいます。今回は特に、「ヨベルの年」の教えのすばらしさを味わっていただきたいと思います。

1.「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない」

23章と25章のテーマは、「時の聖別」と言えましょうが、それに挟まるように、幕屋で守るべき務めと、主の御名への冒涜へのさばきが記されています。

そこでの第一の命令は、「イスラエル人に命じて、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ」ということで、その目的が、「ともしびを絶えずともしておくため」と記されます (24:2)。

そして第二の命令が、「アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主 (ヤハウェ) の前に絶えず、そのともしびを整えておかねばならない」と記されます (24:3)。

そしてこの二つにかけるように、「これは……代々守るべき永遠のおきてである」と厳しく念を押されます。この記述は、出エジプト記27章20、21節と基本的に同じです。そして、そこにはなかったことばとして、「彼(アロン)は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主 (ヤハウェ) の前に整えておかなければならない」と付け加えられます (24:4)。

Ⅰサムエル記3章では、少年サムエルが、老年になった祭司エリに代わってこの務めを果たし、そこで主のことばを聞いたことが記されています。そこでは、「神のともしびは、まだ消えていず」(Ⅰサムエル3:3) と描かれながら、サムエルに祭司エリの家の滅亡が告げられ、その後まもなくして、契約の板を納めた「神の箱」がペリシテ人に奪われるという前代未聞の悲劇が起こります。

つまり、「契約の箱」の前で、夜通し「ともしびを整える」という務めを祭司が誠実に守ることが、主ご自身にイスラエルの民の真ん中に住まいいただくための前提だったのです。

神の民であり続けるためには、民の側にもなすべき責任があります。それは、当時は、最上のオリーブ油を備え続けることと、ともしびを絶やさないということでした。

それは、現代の私たちにとっては、「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:19) という勧めにつながるのではないでしょうか。それは、いつでもどこでも、「イエスは私の主です」と告白し続けることを意味します。イスラエルの民は本来、「国々の民の光」となるために召されました。そして今、私たちは、この貧しい肉体という「土の器」のままで、世界を照らす光となっています。

24章5-9節では、幕屋のパンに関する命令が記されます。まずイスラエルの民は、「小麦粉」で、「輪型のパン十二個を焼」いて、「主 (ヤハウェ) の前の純金の机の上に」、六個ずつ重ねて、「二並びに置く」ことが命じられました。また、「それぞれの並びに純粋な乳香を添え」(7節) と命じられますが、これは二つの金の杯に入れられて、重ねられたそれぞれのパンの横に置かれたようです。それは「主 (ヤハウェ) への火によるささげ物」として、「パンの記念の部分」と共に、火で燃やし尽くされました。

これらは、安息日ごとに新しくされ、整えられました (8節)。これは十二部族からの献げ物の象徴ですが、同時に、主こそがすべてのパンのみなもとであることを覚えるためでした。

なお、このパンは「記念の部分」は焼いて煙にされますが、基本的には、祭司たちが「聖なる所で食べる」とあるように、祭司の「受け取る永遠の分け前」とされました (9節)。それは、主への奉仕に専念する者たちが、人々が主にささげたものの中から受け取って、自分の食べ物とするという意味がありました。

後に、ダビデはサウルから追われて逃げる途中に、飢えに苦しみましたが、神の幕屋に供えられたパンを祭司から受け取って食べさせてもらいました (Ⅰサムエル21:1-6)。主イエスは後に、この例を持ち出しながら、主の命令を本来の趣旨に立ち返って柔軟に適用することを勧めました。

なお、今イエスは、「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35) と言っておられます。私たちは、基本的にみな、パンのために働くのではなく、主のみこころを行なうために働くように召されています。そして、働いたことの報酬としての「パン」は、主ご自身が私たちに与えてくださるものと解釈すべきなのです。

24章10節からは突然、「イスラエル人を母とし、エジプト人を父とする者が」、あるイスラエル人と、「宿営の中で争った」ときに、「御名を冒涜してのろった」という事件が記されます。人々は、この者をモーセのところに連れてきて、主の命令を待ちます。それに対し主 (ヤハウェ) は、「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ」(14節)と命じました。

そして、そこからイスラエルの民すべてに対する教訓として、「自分の神をのろう者はだれでも。その罪の罰を受ける。主 (ヤハウェ) の御名を冒涜する者は、必ず殺されなかればならない……在留異国人でも、この国に生まれた者でも」(16節) と記されます。

イスラエルは主 (ヤハウェ) のご支配を世界に証しするために召されました。宿営の中で御名を冒涜することは、自分の存在を否定することに他なりません。しかも、これは律法を授けられた直後であり、子々孫々に影響を及ぼします。彼らは、冒涜者の頭の上に手を置き、その手で石を投げるという心の痛みを覚えつつ、神を恐れることを学んだのです。

その上で17節からは、「人を打ち殺す者は、必ず殺される」から始まり、「もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない」(19節) という同害報復法とも言われる原則が述べられます。

その上で、「目には目、歯には歯」(20節) と記されます。ただし、これは裁判規定であり、私的な復讐を許容するものでありません。しかも、その目的は、罪に対する処罰に上限を定めることと、復讐の連鎖を防ぐことにありました。カインの六代目のレメクは、「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」(創世記4:24)と豪語しましたが、古来、人はより大きな復讐を正当化することで、自分の身を守ろうとしていました。

しかもここでは続けて、「在留異国人にも、この国に生まれた者にも、ひとつのさばきをしなければならない」(22節) という「法の下の平等」の原則に焦点が合わされます。今から三千数百年前に、被害者の気持ちに寄り添った公平な裁判が命じられていたのです。

ちなみにイエスは、「『目には目で、歯には歯で』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい……一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」と言われました (マタイ5:38-41)。それは、当時のローマ帝国の暴力に、暴力で応答することへの戒めでした。

一見、イエスはモーセと真逆のことを言っているようにも見えますが、暴力や復讐の連鎖を止めて、今ここに平和を生み出すという点では同じ趣旨です。

24章全体で覚えるべきことは、「あなたがたの王、支配者はどなたですか?」という問いかけではないでしょうか。神はご自身に栄光を帰す者を「世の光」とし、パンを与えると約束してくださいます。しかし、神の御名を冒涜する者は、自分の存在基盤を自分で崩しています。

ただし、イエスはそんな罪人のためにも十字架にかかってくださいました。それを前提としてイエスは、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神を汚すことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず……」(マルコ3:28、29) と言われました。つまり、人は、聖霊をけがして救いを拒絶しない限り、死刑に価するようなどんな重罪も赦されるというのです。

2.「地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに寄留している異国人である」

25章2節は、「わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき」から始まり、特に「わたしが与える」が強調されます。中心命令は、「その地は、主 (ヤハウェ) への安息を守らなければならない」です。それは六年間は種を蒔き、収穫しても、「七年目は、地の全き休みの安息」として、「畑に種を蒔いたり……落ち穂から生えたもの」さえも「刈り入れてはならない」と厳しく命じられました。

6節は、「The Sabbath of the land shall provide food for you (ESV) 土地の安息はあなたがたに食べ物を与える」と訳すことができます。それは、その年に生産活動を一切休んでいても、奴隷にも雇い人にも居留者のためにも家畜にも、食べ物の必要が満たされるという意味だと思われます。

「サバティカル」という英語があり、欧米の大学教授や牧師などは七年に一度の特別休暇が与えられますが、その起源がここにあります。一年間も土地を休ませるとその後の生産力が回復されます。教師や牧師を休ませると、新鮮なインスピレーションが生まれます。

それにしても、その間をどのようにつなぐのでしょう。これは飢えの危険を賭けた途方もない冒険です。だからこそ、「わたしが与える」という神の主権が最初に強調されました。私たちは、土地や仕事にばかり目が向かうからこそ休めなくなります。しかし、休息を命じた神こそが、パンの源なのです。

なお、申命記15章では七年の終わりごとに負債の免除とヘブル人の奴隷解放が命じられています。ですから、七年目は、土地を休ませるということばかりか、すべてのことをリセットしてやり直すという意味があったのです。

25章8節からは「ヨベルの年」の規定が記されます。それは、「安息の年を七たび・・数えた……四十九年」目の「第七月の十日」、つまり「贖罪の日に」、「全土に角笛を鳴り響かせ……第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する」(25:9、10) ことです。

「贖罪の日」は、秋の収穫祭とも言える仮庵の祭りの五日前で、このときの「五十年目」としての「ヨベルの年」は、実質49年目の半ばから始まることになります。ただ、後の時代には、この月が新年の始まりとなり、現代のイスラエルでも「贖罪の日」の十日前から新年が始まっています。

なお「ヨベル」ということばは「角笛」に由来します。シナイ山に主 (ヤハウェ) が下り、律法を与えてくださったとき「角笛」が鳴り響きました。それはエジプトの奴隷状態から「解放」され神の民とされた記念です。

その趣旨は、何よりも、「自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない」(10節) という、神が先祖に与えた原初の相続地と自由な身分を回復させることにあります。七年に一度のリセットで不十分だったことを徹底的にやり直すという意味がありました。

経済活動の自由と共に貧富の格差は必然的に広がります。今も昔も、豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はますます豊かになり、貧富の格差は世代を超えて拡大して行きます。そして、借金を抱えた人は、先祖から受け継いだ土地を売ったり、自分の息子や娘を奴隷に売ったりして、その日の糧を得なければならなくなります。

しかし、五十年に一度は、神がそれぞれの氏族に平等に土地を分けてくださった原点に立ち返ることができるというのです。しかも、この年は、この全面的なリセットのために、土地を完全に休ませることが命じられました。

この根底にある原則は、イスラエルの土地の真の所有者は、イスラエルの神ヤハウェご自身であり、民にはその土地の管理が任されていたに過ぎないということがあります。

ですからここでは、「彼があなたに売るのは収穫の回数だから」(25:16) と、土地の所有権の売買という発想が、神の主権を侵すものとして退けられ、主の主権を軽んじる者に、「あなたがたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主 (ヤハウェ) である」(25:17) と宣言されます。

それにしても、このように土地を休ませることには、「飢え」の危険が生まれます。20節には、「もし、種を蒔かず、また収穫も集めないなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか」という疑問が記されますが、これは七年目の安息年の不安を表現したものと言えましょう。

そして、21節で主が、「わたしは、六年目に……三年間のための収穫を生じさせる」と言われるのは、ヨベルの年には、49年目と50年目の、二年間の休耕が命じられていることを前提としてのことばです。そして、22節の、「八年目に種を蒔くとき」とは、ヨベルの年が七年目の第七の月から始まることを前提にしてのことばで、八年目の第八の月にはヨベルの年が終わっているからです。

とにかくここでは、ヨベルの年を過ぎた九年目の収穫まで、六年目の収穫を食べ続けることができると途方も無い約束をしてくださいました。

23節は厳密には、「恒久的に土地を売ってはならない」(フランシスコ会訳) と記されています。これはヨベルの年の所有権の回復を前提としてのことばです。そしてその根拠を主が改めて、「地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに寄留している異国人である」と言われます。

そして、原文では、24節から初めて、「買い戻しの権利」ということばが登場します。それは、貧しさのために所有地を売らざるを得なくなった人の土地を買い戻す権利を認める規定ですが、たとい買い戻しの権利のある親類がいなくても、ヨベルの年を迎えると、無償で所有地を自分のものとして回復することができました。ただし、城壁の中にある住宅地は、原則、自由な売買が認められました。

これらの規定の背後には、私たちが、土地や財産や仕事以前に、それらすべてを与える主 (ヤハウェ) をこそ仰ぎ見るべきという教えがあります。「地は主のもの」との教えから、私たちも「地上では旅人であり寄留者であることを告白し」(ヘブル11:13) て、仕事の報酬に心を奪われるのではなく、仕事を与えてくださる主を見上げて生きるべきです。

3.「彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである」

「もし、あなたの兄弟が……」(25:35) とは、同族の者が貧しくなった場合のことです。「彼を在住異国人として扶養し」とは、その人を、一時的に寄留する客人かのようにもてなすことの勧めです。

また、「金を貸して利息をとってはならない。また食物を与えて利得をとってはならない」(25:37) とは、同胞の貧しさに付け込むような取引を禁じるのが趣旨です。これは私たちクリスチャンの交わりにも適用されます。

初代教会では、「信じた者の群れは、心と思いをひとつにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた・・彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった」(使徒4:32、34) という、それぞれの主体性に基づく愛の交わりが実現していました。これは私有財産制を否定するものではなく、自分の豊かさを神の賜物と受け止め、同じ神の民に分かち合うことの勧めです。

そして、同胞が「あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない・・住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい」(25:39、40) と命じられます。そしてその根拠として、「彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない」(25:42) と記されます。

つまり、同胞を奴隷とすることが禁じられるとともに、ヨベルの年には、約束の地で最初に先祖に分配された状態を回復させ、過去の負債を帳消しにし、神の民として再出発するように命じられたのです。七年毎に同胞の奴隷が解放されることとは別に、ヨベルの年には、家族の最初の相続地からやり直すことができたのです。

当時の奴隷制度は、飢えを回避するための必然性があり、異国人を奴隷にすることは認められていました。

また、イスラエルの民がこの地で、豊かな「在住異国人」に身を売ることもあり得ました (25:47-54)。その際でも、イスラエル人に限り、ヨベルの年には先祖の土地を返し、自由人とするように命じられました。その前の「買い戻し」の額は、ヨベルまでの年数で計算されました。

イスラエル人の所有権は神に属するので、労働力は売買できても、身分を売買することは神への主権侵害となったのです。イスラエルの地でのルールを決めるのは、ヤハウェだったからです。

その根拠を神は、「わたしにとって、イスラエル人はしもべ……わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである」(25:55) と最後に言われます。そして新約では「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23) と言われます。

人のたましいを支配するように仕事を強制してもいけませんし、また自分のたましいを売るような仕事の仕方をしてもいけません。それぞれのたましいは神の宝物だからです。

ところで、安息年やヨベルの年が、約束の地でどれだけ守られていたかは疑問です。少なくとも王政では不可能になりました。王を頂点としたピラミッド社会では、土地は恩賞として与えられ、少数の者が土地を所有し、多数の者が奴隷のように土地に縛られ、階級が固定されました。しかし、それは本来の神の意図ではありませんでした。

日本の戦後の高度成長の背景に、米国の占領軍による財閥解体や農地解放の恩恵があったと言われます。私の父の家は北海道の小作農でした。その状態が続いていたなら、私は大学にも入れなかったことでしょう。その政策の背後に、「ヨベルの年」の解放の原則が見られます。

ただし、日本では農地の売買自体が厳しく制限されたため零細農家が固定化され、農業の国際競争力が落ち続ける原因になりました。しかし、聖書では、ヨベルの年を前提とした土地や労働力の売買は認められていたのです。

しばしば、社会的弱者を徹底的に保護しようとする善意に満ちた政策が、官僚支配による不正と不効率を招きます。しかし、ヨベルの年の規定では、個々人の経済活動の自由を保証しながら、そこから必然的に生まれる貧富の格差を、定期的に無くすることができました。

現代的には、これは貧富の格差を、世代を超えて受け継がせないための、子供の教育の機会均等などの原則に適用できます。

ヨベルの年の教えから、西暦二千年を記念に発展途上国の債務免除が一部実行されました。金利負担で負債が負債を生むという悪循環から解放するためでした。多重債務者には「ゼロからの出発」は途方も無い恵みです。

イエスは、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目ある人を赦します」と祈るようにと命じられました。その基本は、負債の免除の祈りで、安息の年やヨベルの年の考え方を基にしています。

なお、「負い目」は、「罪」とも言い換えられます。罪が蓄積すると「のろい」を招きますが、それは莫大な借金と同じように、人間の力では取り除くことができません。それで神の御子がこの「のろい」を十字架で引き受けてくださったのです (ガラテヤ3:13)。

今、私たちは「のろい」から「祝福」へと移されました。だからこそ、「私たちに負い目ある人」にも、ヨベルの年の解放を宣言するのです。そして、人の負債を許すことで、自分の負債が許されていることが確認できるのです。

人間的に見ると、私たちは誰も、親の影響や自分の過去から自由になることはできません。しかし、神は、どんな負の遺産も、将来の益に変えることがおできになられます。

神を愛し、人を愛する生き方の中では、どんな忌まわしい過去の傷も、神の愛を体験する恵みの泉と変えられ、そこから人の傷に寄り添う愛の力が湧き出るのです。

実際、人は、人生が順調なときには、人の悩みに「それは、こうしたらよいでしょう!」と助言します。しかし、それはほとんど役に立ちません。しかし、様々な苦しみを通して、生きることの難しさが身に染みてくるとき、苦しむ人の気持ちに寄り添うことが可能になります。

また、その中でこそ、イエス・キリストにある救いの恵みが腹の底から理解できるようになります。私たちはイエス・キリストの十字架にあって、この世の因果律から自由になることができるのです。