世界中では4秒に一人が餓死、1秒に1.8人、一年間に5,500万人が死んでいると言われます。そのような中で、たった一人のラザロの死とよみがえりには何の意味があるのでしょう。
しかも、彼がその人生で成し遂げたことなどは何も記されていません。ここで強調されているのは家族や周囲の人が、彼の死を深く悲しんでいるということばかりです。しかし、だからこそ、この記事は私たちにとって深い慰めとなります。イエスがそんな無名のラザロの死に対して「涙を流された」。そして彼を生き返らせることができました。
神は常に、たったひとりに目を向けておられます。だから神の民はひとりのアブラハムの記事から始まります。たとえば11月20日からの三日間のセレブレーション・オブ・ラブの伝道集会で、たったひとりの人しか決心に導かれなかったとしても、神の目には大きな喜びなのです。私たちはあまりにも統計的な数字に目を向けすぎているのではないでしょうか。
イエスはマルタとマリヤの悲しみに寄り添い、彼女たちの心の声に耳を傾けてくださいました。そして、その悲しみをともに味わいながら、ラザロをよみがえらせます。私たちはここに、キリストにある「愛の交わり」が、「死の力」に打ち勝った物語を見ることができます。
聖書の物語は歴史的な事実に基づいてはいますが、私たちの心を生かすのは、何かの客観的なデータや科学的な証明ではなく、神が私たちと何も変わらない、たったひとりの人にご自身を現わしてくださったという物語です。神の物語こそが、私たちの心の奥底に響くのです。
1.マルタとマリヤ
ユダヤ人はイエスを、神を冒涜する者として殺そうとしました。それで主と弟子たちは、一時ヨルダン川の東側に避難していました(10:40)。そこにベタニヤに住むマルタとマリヤから、その兄弟ラザロが病気であるとの知らせが届きました。その村はエルサレムの東側約3㎞のオリーブ山東側の斜面にあり、イエスはその家に何度か滞在したことがあり(ルカ10:38-42)、特に親しい関係にありました。
ところが、「イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」(6節)と記されます。その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」(7節)と弟子たちに言われましたが、弟子たちは、「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか」(8節)と、その危険を訴えました。
とにかく、イエスがベタニヤに向かうことには大きな生命の危険があったという文脈を私たちは忘れてはなりません。
それにしても、イエスはラザロの死を弟子たちに伝えたとき、「わたしは喜んでいます。あなたがのため、あなたがたが信じるために、わたしがその場に居合わせなかったことを」と、ラザロの死を明確に告げながらも、すぐにご自身の「喜び」を表現しておられます。人間的な悲劇が、神にあって「喜び」へと変えられます。
イエスがラザロの死を知ってベタニヤを訪ねたとき、マルタは村の外までイエスを迎えに行きました。それは貴人を迎える当然の礼儀でしたが、「マリヤは家ですわって」(20節)いました。悲しみのあまり動くことができなかったからです。
ここにふたりの性格の違いを見ることができます。マルタは行動的な人で、悲しみの中でも責任をわきまえ、イエスと理性的な会話をすることができました。
彼女は、イエスが、「わたしは、よみがえりです。いのちです・・・」と言われ、「このことを信じますか」と問われたとき、マルタは、「はい、主よ。私は信じています。あなたこそがキリスト(救い主)であること、神の御子であること、この世に来られることになっている方であることを」と、三重の観点からイエスへの信仰告白、旧約の預言を成就する方であることを告白しました。ここに彼女の模範的な信仰告白を認めることができます。彼女は多くの人にとって頼もしい存在だったと思われます。
そして、ここでもマルタは、この会話の後、すぐに家に帰って行き、姉妹マリヤを呼びます。そこでマルタはマリヤに、「そっと言った」と敢えて記されます。これは「秘密に」とも訳せ、他の人には聞こえないような言い方です。このマルタの行動と話し方に、何とも言えない優しい愛情が見られます。
多くの人は、ルカ10章38-42節の記事から、マルタが行動的なばかりで繊細さに欠けるように誤解しがちですが、彼女はここでマリヤの気持ちに優しく寄り添っていることが明らかです。
そこでマルタはマリヤに、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」と言います。その後のことが、「マリヤはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。さて、イエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた」と描かれます。当時の集落は、基本的に、城壁に囲まれるかたちでできており、入り口には門と広場がありました。当然ながら、墓は、城壁の外にありますから、イエスはなるべく早く墓に向かうことを考えて、門の外に留まっていたのではないでしょうか。
2.「イエスは霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ・・・涙を流された」
そして、続けてここでは、「マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った」(31節)と記されます。
何人ものユダヤ人たちが、マリヤを慰めていたのです。マリヤは悲しみに圧倒されるとともに、人の悲しみにも敏感だったのでしょう。その豊かな感性で、日頃から多くの人との心の交わりを築いていたのだと思われます。
なお、マルタは他の人には聞こえないように、イエスのことばを伝えていたので、そこにいるユダヤ人たちは、マリヤがイエスに会いに行ったとは思わず、彼女が「墓に泣きに行くのだろうと思った」というのです。ここにマリヤの悲しみの大きさと、それに寄り添うユダヤ人たちとの心と心の交わりの豊かさが描かれているとも言えましょう。
「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して」、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言います(32節)。不思議にも、これは先にマルタがイエスに出会った時とまったく同じことばです(21節)。たぶん、二人でそのように語り合っていたのでしょう。
それにしても、マリヤは、「その足もとにひれ伏し」、大声で泣き続けるというパニック状態にありました。
そのような中で、「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じた」(33節)と描かれます。それを見たイエスも感情をあらわにしました。
「霊の憤りを覚え」(33節)とは、鼻息を荒くして憤る様子です。「心の動揺を感じて」というのも、恐怖に心を騒がしているかのような様子で(12:27参照)、ゲッセマネの園の祈りに通じます。
私たちは、イエスはいつも冷静さを保っておられたと思いがちですが、そうではありません。「死」は「最後の敵」(Ⅰコリント15:26)と呼ばれますが、イエスはここでマリヤをこれほど悲しませる「死の力」に対して憤りを感じ、心を騒がせられたのでしょう。
その上でイエスは、「彼をどこに置きましたか」と、ラザロの墓の場所を尋ねます。そこにいた人々は、「主よ。来てご覧ください」と言います。そして「ご覧ください」ということばを聞いた反応が、「イエスは涙を流された」と感動的に描写されます(35節)。イエスはまさにこのことばでラザロの死の現実を目の当たりに思い浮かべたのでしょう。それは、静かに嘆き悲しむ様子です。
それを見たユダヤ人たちは、「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか」(36節)と言い、主の憤りや動揺や涙に「愛」を感じました。
私たちは自分が味わう感情自体を恥じる傾向がありますが、イエスはマリヤの感情をいっしょに味わってくださいました。イエスの感情表現は、彼がまさに私たちと同じ人間になって、私たちにとっての最後の敵である「死」と直面してくださる姿勢の現れです。
不思議なのは、マルタとマリヤは、イエスに会った時、まったく同じように、「主よ。もし、ここにいてくださったのなら・・」と言ったのですが、イエスはそれぞれに全く異なった応答をしました。
マルタに対しては、「わたしは、よみがえりです。いのちです・・・」(25節)と力強く語りましたが、マリヤの前では何と「涙を流された」(35節)という展開になります。それは、イエスが表面上のことばよりも、その心の奥底のことばに耳を傾けられたからでしょう。
この福音書は、「初めに、ことばがあった・・・すべてのものは、この方によって造られた・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」という、創造主の受肉の記事から始まりました。
それは、預言者イザヤが、この方のことを、「悲しみの人で、病を知っていた・・・まことに、彼が負ったのは私たちの病、担ったのは私たちの悲しみ」(53:3,4私訳)と描いていましたが、全宇宙の創造主が私たちと同じ「病」や「悲しみ」を味わってくださったということを意味します。
しかも、それは創造主ご自身が私たちの病と悲しみを担うためであったというのです。
3.「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」
ところがイエスの涙を見ても、別のユダヤ人は、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と冷ややかに言っていました。そして、その後のことが、「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた」(38節)と描かれます。それは、「死の力」に対する憤りであり、戦いの姿とも解釈することができます。
そして、墓の様子が、「墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった」と描かれます。そこでイエスは、「主よ。来てご覧ください」と言ったユダヤ人たちに向かって、「その石を取りのけなさい」と命じたのだと思われます。まさか主は、女性のマルタに向かって石の移動を命じはしないでしょう。
ところが、そこで、「死んだ人の姉妹マルタは言った」という表現と共に、彼女のことばが、「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」(39節)と記されます。いつものように気が利くマルタの姿が現れているとも言えますが、いつも細かい配慮ができる人は、ときに自分に問われてもいないことまで答えてしまいます。
確かに、死後四日もたつとラザロの身体は腐敗し始めているはずですが、彼女には、イエスがそんなこともわきまえていないと思えたのでしょうか。
彼女のことがここでそれは彼女が、信仰よりも常識の原則に動かされていることのしるしでした。だからこそ、彼女のことが、「死んだ人の姉妹」と敢えて記されているのかもしれません。
それで、イエスは、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(40節)と敢えて言われました。私は最初「もし・・信じるなら」という表現に当惑しました。「もしあなたがわたしを信じないなら・・」という脅しを読み取ることもできるからです。
しかし、イエスは、彼女と同じ人間の立場に立たれ、彼女の信仰を励ますように、「(神をともに)信じるなら、神の栄光を見る」と言われたのではないでしょうか。
イエスのことばに圧倒された人々は、「石を取りのけ」ました。そこでイエスはその中を見る代わりに、「目を上げて」天の父に祈られました。
そのことばが、「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」(41,42節)と記されます。それは、マルタの懸念とは異なり、四日たっても死体から腐敗臭がなかったからとも言えるのではないでしょうか。
その上で、「しかしわたしは、まわりにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです」(42節)と敢えて付け加えます。それは、イエスと御父との絶対的な信頼関係を証しするものであり、「回りにいる群集が・・信じるようになるため」でもありました。
つまり、イエスは、今、マルタとまわりの人々の大祭司、代表者として祈りつつ、彼らの信仰を育もうとしておられるのです。
なお、マルタは先にイエスに「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」(22節)と告白しましたが、ここでのイエスの祈りのことば(41,42節)はそれと何と似ていることでしょう。
実は、彼女の信仰告白は、自分のうちにある疑いを打ち消そうとする努力の裏返しとも言えます。イエスはそれを読み取られた上で、会話を導かれました。
そして、ここでも、彼女の心の奥底にあった不信仰に寄り添いながら、彼女が頭の上で理解していたことが心の奥底に落ちるように導かれたと理解できます。
イエスは、その後、「大声で叫ばれ」、「ラザロよ。出て来なさい」(43節)と言われました。それは、まるで眠っている人の目を覚まさせるような表現であり、すでに父なる神がラザロを生きかえらせておられることを前提としたことばです。
「すると」、それまで確かに「死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま」(44節)、何と自分の力で「出て来た」というのです。そこではさらに、「彼の顔は布切れで包まれていた」と描かれます。
ここで不思議なことがあります。イエスは、父なる神に向かって、「腐敗した身体をもとの状態に戻してください」とも、「生命の息を、ふたたびお与えください」とも祈っていたとも記されていません。
ただ、イエスは、墓の前で、「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」(41節)と祈っておられました。ですから、これは、ラザロの身体が、まさに「眠った状態」(13節)と同じ状態に保たれているようにと祈っていたことが含まれているのではないでしょうか。
また、マルタがイエスに、「あなたが神にお求めになることは、何でも神はお与えになります」(22節)と告白した時に、イエスは、「あなたの兄弟はよみがえります」と答えていますが(23節)、この時点でまさに、イエスはすでにご自分の祈りが、父なる神に届いていたことを確信していたということでしょう。
それを見て、イエスはさらに、「ほどいてやって、帰らせなさい」と言われます。それはマルタとマリヤの家に帰らせることを意味します。ラザロが死ぬ前の日常生活が取り戻されるというのです。その時マルタの疑いとマリヤの悲しみが完全にいやされました。
それは、イエスがすでに「死の力」に打ち勝っておられること、また、ご自身に信頼する者に、来たるべき世の復活のいのちとしての「永遠のいのち」を既に与えておられることの力強い証しとなりました。
イエスは今も、頭の上でしか信じられない常識人に向かって、心の奥底にある疑いの気持ちに寄り添いつつ、「もしあなたが信じるなら・・・」と語りかけ、私たちの信仰を成長させてくださいます。
4.「イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた」
その後、「そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた」(45節)と記されます。彼らはマリヤの悲しみに深く共感した人々でした。
そして彼らは、イエスが言っておられたように、イエスが天の父なる神から遣わされた方であり、父ある神はイエスの願いをいつも聞いてくださるということが分かりました。それはマルタの初めの信仰告白が、そこにいた人々に共有されたという意味です。
しかし同時に、そこには不気味なことが、「しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところに行って、イエスのなさったことを告げた」(46節)と記されます。ラザロの復活は意外な展開を引き起こしました。ユダヤ人の最高議会が召集され、イエスを「殺す」ことが決められ(53節)、犯罪人として指名手配することになった(57節)というのです。
人は、好意または憎しみの気持ちをあらかじめ持った上で、その理由付けを探し出すと言われますが、彼らもイエスを最初から信じないことに心を決めていました。彼らは、イエスが事前に巧妙な仕掛けを打ち合せていたに違いないと思ったことでしょう。彼らにとっての問題は、イエスが誰であるかより、多くの人々がイエスに従うようになったことです。
彼らの常識によれば、救い主を自称する人は、必ず民衆を導いてローマ帝国への革命運動を指導するはずでしたから、この動きを止めないと、ユダヤ人全体が滅亡に向かわせることになります。つまり、イエスのみわざがより偉大であるほど、彼らは事態を静観できなくなったということです。
イエスは、ラザロひとりを生かすために、ご自身の十字架への道を決定付けました。何と計算に合わないことでしょう。しかし、それは同時に、すべての人を生かすための歩みでもありました。
イエスが、そのように喜んでご自身を犠牲にすることができたのは、御父への信頼において、死の力に打ち勝っておられたからです。
イエスは、ラザロのもとを訪ねるのを二日間遅らせている間、父なる神に、彼のからだが、イエスのひとことで生き返れる状態に保たれることを祈っておられたことでしょう。しかし同時に、それがご自分を十字架刑に向かわせる歩みであることを知っていました。
ラザロをよみがえらせる神が、イエスが全世界の罪のために十字架に架かることを望んでおられるということを、祈りの中で改めて確信していたのではないでしょうか。トマスが、「私たちも行って、主とともに死のうではないか」(16節)と言ったのは、状況をよく見通していた言葉だったのです。
ただし、ラザロの復活は、イエスが既に、死に打ち勝っておられることを示すしるしです。イエスは今、ここで、「よみがえりであり、いのち」なのです。イエスは悲劇の主人公として十字架に架かるのではなく、死に打ち勝った勝利者として十字架に向かって行ったのです。
それは私たちにも同じように適用できます。私たちの中には、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が・・住んでおられ」(ローマ8:11)、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられる」(Ⅱコリント3:18)というその途上にあります。
私たちは既に勝利を約束されているからこそ、この世の矛盾と困難のただ中に向かって行くことができるのです。復活のイエスは、「父がわたしを遣わしたように、私もあなた方を遣わします」(20:21)と言われながら、ご自身の復活の御霊を与えて下さいました。
キリスト教会の正統的な三位一体論を守るのに多大な貢献をした4世紀のナジアンゾスのグレゴリオスは「ことば(ロゴス)は人(肉)となった」という意味を、「ひとり子の神」が、「罪とのろいとなった」と言われているのと同じ意味であると思われると述べています(Ⅱコリ5:21、ガラテヤ3:13)。
それは、主が、罪とのろいに変形されたのではなく、罪とのろいを引き受けたという意味です。なぜなら、イザヤ53章には、主のしもべが、「私たちの病と悲しみを担い」(4節)、また、私たちの「咎を担い」「罪を負う」(11,12節)と記されているからです。
イエスは、ひとりのラザロを生かすために死に向かって行きましたが、それは私たちすべてに適用できます。なお、イザヤ53章のキリスト預言は、厳密には、52章13節の、「見よ。わたしのしもべは 栄える。高められ、上げられ、はるかにあがめられる」(私訳)という復活宣言から始まっています。それはヨハネ11章で、「この病気は、死に向かうものではなく、神の栄光のためのものです」(4節私訳)ということばからラザロの復活が描かれているのと同じです。
神の御子が私たちと同じ肉体を持たれたのは、私たちを罪と死の支配から解放するためだったのです(ヘブル2:14)。
マルティン・ルターは、「キリストは死につながれたり」という讃美歌の3、4番で次のように歌っています。
「神の子キリスト 死のさばきを受く 死の力 もはや われらに及ばず… くすしき戦い 死といのちにあり いのちは勝ちを得 死をのみ尽くしぬ 罪なき死こそ 死の力 砕く 死は死を呑みたり ハレルヤ」