ヨハネ9章41節〜10章18節「豊かないのちを与えてくださる牧者」

2015年9月13日

多くの人は、「主(ヤハウェ)は、私の飼い主。私は乏しいことがありません。主は私を緑に牧場に伏させ、憩の水際に伴われます。主は私のたましいを立ち返らせ、御名のために、義(ただ)しい道筋に戻されます。たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、わざわいを恐れはしません。あなたが、いつもともにいてくださいますから」という詩篇23篇のみことばに慰めを得ています。

そこで問われているのは、私たちの知恵や能力、また信仰心のことでもありません。私たちは無意識のうちに、自分が周りの状況を支配すべきで、信仰はそのための支えとなるという程度に考えてはいないでしょうか。羊に問われているのは、真の羊飼いを見分けることだけです。

私たちのいのちを守り、必要を満たし、わざわいから守るすべての責任は羊飼いにあることを忘れてはなりません。

1.「羊はその声を聞き分けます」

イエスは生まれつきの盲人の目を癒されました。ただ、その日は安息日でした。パリサイ人たちはそれを神のみわざとして認めないどころか、この癒された人がイエスを神から遣わされた方と言うのを聞いて、破門しました。

その時、イエスは彼を見つけ出し、ご自身こそが預言された救い主であることを証しし、「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」(9:39)とパリサイ人をも意識して言われました。

それで彼らは、「私たちも盲目なのですか」と問い返しました。イエスは「あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っている」こと自体が根本的な問題であると言いました。

イエスが10章初めで、「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と言われた直接的な相手は、この目が見えていると主張するパリサイ人でした。その上でイエスは、「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です」(1,2節)と言われました。

昔から、神の教会に混乱を起こす人は、社会に適応できない人ではなく、自分は教師になる資格があると自負している人々です。彼らは、「私は、神から、無知な信徒の世話をする責任が与えられている」などと言いながら、実際は、「盗人や強盗」(10:1)と同じように、自分の利得のために神のことばを利用しているに過ぎません。

この背後にエゼキエル34章の記述があります。主はそこでイスラエルの指導者たちの罪を生々しく指摘して、「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さずかえって力ずくと暴力で彼らを支配した」(2-4節)と言われます。

しばしば、カルト化する宗教団体があります。そこに共通するのは、目に見える大きな目標を掲げながら危機意識を高め、信者どうしの競争意識をあおるような組織運営です。弱い人は、信仰の脱落者として排除されます。

キリスト教会でも同じことが起きる可能性があります。なぜなら、人は基本的に、強力なリーダー、この世の成功者を求めるからです。ナチス・ドイツは、人の心の底に眠るサド・マゾヒズムの心理を刺激して人を操作したと思われます。それは、「強者に対する愛と無力者に対する憎悪」です(エーリッヒフロム「自由からの逃走」p253)。これはそのまま、日本の軍国主義にも適用できたことでしょう。

共同体の良し悪しは、「弱った羊」、「病気のもの」、「傷ついたもの」、「迷い出たもの」、「失われた者」がどのように見られているかによって判断されます。

主が嘆かれるのは、そのような弱い人々が排除され、「牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」(34:5)という状態になることです。

そのとき、神である主は、「わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる・・・わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない」(34:10)と言われます。

現代の教会の指導者は「牧師」と呼ばれ、信徒を養い育てることが期待されていますが、主はときに、牧師を退けることでご自分の羊を守ろうとされます。しばしば日本の教会では、牧師が公私ともに信徒の方々のお世話係になりがちですが、そのような依存関係がひとりひとりの成長を阻んでいるのかもしれません。

牧師の使命は、大牧者であられるイエスご自身を指し示すことです。イエスはご自分の羊をご自身の聖霊を通して守り、導いてくださいます。牧師の指導は大切ですが、聖霊の働きに取って代わってはなりません。

なお、イエスが、「門から入る者は、その羊の牧者です」と言われたのは、イエスがこの福音書で繰り返しておられるように、「わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです」(8:42)と言われたように、イエスが常に、父なる神によって遣わされたということを意識しておられたということを意味します。

引き続きイエスは、「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです」(3-5節)と言われました。

なお、ここで「門番」とはどなたなのか、というようなことに入り込むと中心点が見えなくなります。これは6節にあるように、「たとえ」であって、それは神の国の霊的な現実を目に見える例で示すことだからです。このテーマは、明らかに、羊と羊飼いとの信頼関係です。

羊は、無力無能な代わり、盗人や強盗の声と、真の羊飼いの声を聞き分けます。一方、真の羊飼いはそれぞれの羊を見分け、それぞれをその名で呼んで連れ出すことができます。宗教指導者たちが自分の正当性を主張しても、最終的に、羊たちが逃げ出すことで、その偽りが見破られるというのです。

彼らの目は、安息日のおきてを守らせることばかりに向かっていましたが、イエスの目は、ただ一人の盲人に向かっていました。そして、イエスの正当性を反論の余地のないほどに証ししたのは、この無学な人でした。

羊は極度の近視で、方向感覚がないのに頑固な、愚かでひ弱な生き物ですが、臆病なだけに自分たちの牧者の声を聞き分ける能力だけは発達しています。つまり、イエスとこの盲人だった人の関係こそが、真の牧者と羊の関係を現しているのです。

今から約五百年前、カトリック教会の教えが歪んでいた時、マルティン・ルターの主導で宗教改革が起こされました。それまで、教会の司祭や牧師の資格を保証したのはローマ教皇を頂点とするプロの聖職者たちでしたが、その権威を否定したとき問題が生じました。ある教会が福音をきちんと述べ伝える牧師を招聘したいと願っても、一般信徒は教理の正しさなど判断できないと思われたからです。

しかし、そのときルターは、「羊はその声を聞き分けます」と断固と主張して、一般信徒に判断能力が与えられていることを強調しました。

多くの人は、聖書知識や信仰の不足を卑下し、教会に関することで消極的になりがちです。しかし、最も大切なのは、自分が羊のように愚かで弱い存在であることを認めることと同時に、イエスを主と告白する者のうちに聖霊が与えられ、神が立てた真の牧者の声を聞き分けることができることを自覚することです。また、みことばを慕い求めているという事実自体を喜ぶことです。

私も長い間、自分自身の足りなさを嘆いて来ました。しかし、真実の牧者との交わりを求めていること自体が、神からの最大の賜物であると分かり、気が楽になりました。羊は、自分の力や知恵ではなく、真実の牧者の声を聞き分ける能力によって豊かさを味わうことができるのです。

2.「わたしは羊の門です」

続けて、「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった」(6節)とありますが、イエスの話しがパリサイ人たちに通じなかったのは、「私たちは目が見える」と言い張り、真の牧者を求めていなかったからです。それでは、イエスの声を聞き分けることができません。

そこで、イエスは続けて、ご自身の途方もない使命を、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(7-10節)と言われました。

ここを見ると、イエスは「門」なのか、「羊飼い」なのか、混乱するという方もいるでしょうが、当時の羊飼いは、しばしば、夜通し羊を囲って守る施設の「門」で寝泊まりすることによって羊を守ったと言われます。ですから牧者と門の働きは重複していたと見ることができます。

イエスはまずご自身を、「わたしは羊の門です」(7節)と言われた後、「わたしは門です」(9節)と繰り返します。門というのは、「安らかに出入りし、牧草を見つけ・・羊がいのちを得、またそれを豊かに持つ」(9,10節)ための唯一の道です。

羊に問われている責任は、盗人や強盗の声を聞き分けることであり、また、自分の努力で道を開くことではなく、正しい門を見分けることです。それができさえしたら、豊かな「いのち」は保証されているのです。

一方、当時の多くのパリサイ人たちは、神の一方的なあわれみによる「選び」を教理的には認めながらも、実際は、永遠のいのちを自分の敬虔さで獲得するかのような生き方を勧めていました。そのため、良心の敏感な人は、かえって絶望感に襲われ、結果的に自暴自棄になり、神から離れ自分を滅ぼしてしまいました。

今も、自分の行いを見ながら、自分こそ神に喜ばれるクリスチャンだと誇ったり、反対に、自分は偽物、偽善者のクリスチャンだと落ち込んだりする人がいます。そんな人は、残念ながら、バーンアウトに向かって宗教お宅をやっているだけかも知れません。

豊かないのちを与える責任は、「」であり「牧者」である方の責任なのです。

イエスは、「だれでも、わたしを通して入るなら、救われます」(9節)と言われました。知恵や力のある人や行いの正しい人が救われるのではなく、どんな人でも、「私には選択の余地がない、これしか道がない」と思い、イエスに信頼する人が救われるのです。

しかも、救いとは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つ」こととして表現されます。パリサイ人たちは、神の教えを守るためにいのちを捨てることばかりを強調し、禁欲を勧めていました。しかし、イエスは、驚くほど、暖かく優しいイメージでご自身が与える救いを表現されたのです。

イエスの命令は排他的にも聞こえます。しかし、自分が、自分の知恵や力では豊かな「いのち」を体験できない愚かでひ弱な羊と同じだと認めている者にとっては、これほど「やすらぎ」となることばはありません。もう、いろいろと迷ったあげく、無駄な努力で失望を繰り返す必要はありません。

しかも、イエスに従い続けた信仰の先輩たちが証ししているように、この道は、世間的には狭く厳しいように見えても、実際に進んでみると、不自由なようで自由に満ちた、貧しいように見えて豊かな、まさに、真の「いのちの喜び」が満ち溢れる歩みなのです。

3.「わたしは良い牧者です」

イエスは引き続き、「わたしは良い牧者です」(11,14節)と二回繰り返しながら、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です」(10-14節)と言われました。

羊が幸せになれるかどうかは、羊の能力ではなく、ひとえに羊飼いの能力と誠実さにかかっています。ここで、「良い牧者」と「羊の所有者ではない雇い人」が対比されますが、それはパリサイ人たちが、ことばとは裏腹に、いざとなったら自分の身の安全のために信念を曲げるからです。

なお、ここでの「良い」ということばには、「正しさ」以上に、「魅力的」という響きがあります。厳密に言うと、だれもイエスの正しさを理性で判断して従うのではありません。それは自分を基準とする歩みの延長に過ぎないからです。敢えて人間的に言うと、私たちは、何とも説明できないようなイエスの魅力に引かれているのではないでしょうか。

イエスは、「わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です」(14、15節)と言われましたが、このように自分がイエスに知られ、また自分がイエスの魅力に引き寄せられていると心の底で味わっていることこそが信仰の真髄ではないでしょうか。

これは理性では説明し切れません。羊は、その臆病さのゆえに、本能的に羊飼いの声を聞き分けます。同じように、私たちは、自分がいざとなったら何をするかわからない弱く愚かな者である事を、心の底で味わいつつ、「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」(15節)という御声に心がとらえられます。

その時、私たちは、御霊の働きで、イエスが真の羊飼いであると知っているのです。

先に引用したエゼキエル34章11節以降で、主はご自身を理想的な「牧者」にたとえながら、「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする・・・わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し・・・イスラエルの山々や谷川のほとり・・・で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い」(34:12-14)と約束されます。

つまり、主がイスラエルを滅ぼし、その民を散らしたのは、彼らを悪い牧者から解放し、ご自身で直接彼らの世話をするためだったのです。

そのことを主は、「わたしがわたしの羊を飼いわたしが彼らをいこわせる」(エゼキエル34:15)と力強く宣言されます。そして、改めてご自身のみわざを、先の「イスラエルの牧者たち」との比較で、「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(34:16)と言われます。

そればかりかエゼキエル書では引き続き、主は、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主(ヤハウェ)であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる」(34:23、24)と約束されました。これがイエス・キリストにおいて成就しました。イエスの十字架は、神の民の「君主」としての愛の現われでした。

戦後七十年にあたり今年は太平洋戦争を終える際の天皇の積極的な役割を描いた映画が上映されました。残念ながら、天皇は天照大神の子孫、神道の大祭司としての役割がありますから、キリスト教会としては天皇制に関して批判的にならざるを得ない部分がありますが、昭和天皇の誠実さに関しては批判的な評価を聞くことはありません。

たとえば、歴史上、多くの国々では、敗戦や革命が起きるとすぐに指導者は様々な理由をつけて逃亡します。太平洋戦争の後、日本は米国のマッカーサー元帥の支配下に置かれましたが、昭和天皇は彼の執務室を自分から訪ね、「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたに会いに来ました」と言ったとのことです。

マッカーサーはこのことばに非常に深い感銘を受け、その後の、方向が変えられたといわれています。

イエスは、「良い牧者」としてのあり方を世に示してくださいました。それが世の人々にも、指導者のあるべき姿として共有されたからこそ、マッカーサー元帥が、昭和天皇のことばに感銘を受けたのでしょう。

しかし、エルサレムの最後の王ゼデキヤは、自分の身を守ることばかりを考え、民を捨てて逃亡しました。そして、自分をネブカデネザルの再来と位置づけたイラクのフセイン大統領は、自分の身を守ろうとして、国を混乱に陥れました。指導者の生き様が、国民が互いに助け合いながら生きるかどうかの方向を示していると言えないでしょうか。

ここでイエスは、「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」(16節)と言われました。

「この囲いに属さないほかの羊」とは、ユダヤ人以外の異邦人のことですが、この水と油のような民どうしが「ひとりの牧者」のもとで「ひとつの群れ」とされます(16節)。これも人間的な努力ではなく、ひとりの牧者の魅力にひかれる羊であるがゆえに生まれる一致なのです。

日本の天皇がどれほど国民から尊敬されていようとも、天皇は軍部の暴走も開戦も止めることはできませんでした。また朝鮮半島や中国人の尊敬を得ることはできませんでした。

イエスはそれに対し、全世界の人々の尊敬を得ています。ただ問題なのは、多くの人々がイエスの「良い牧者」としての権威と力を信じていないことです。イエスをある意味で、天皇のように祭り上げているだけで、イエスご自身が、一人一人の直接的な牧者として、「捜し」「連れ戻し」「包み」「力づける」方であることを認めていません。

戦前に国策で統合された日本基督教団の指導者は、無力な信徒たちを守るため自分たちは泥をかぶると言いながら、神社参拝や天皇崇拝を率先して行いました。それはまるでイエスご自身にご自分の民を守る力がないと告白したようなものです。

イエスを道徳的な模範として祭り上げるのではなく、一人一人がイエスの父なる神に直接的に訴えられることを教え、主が全世界の一人一人の声を聞き分け、導き、豊かな「いのち」を与えることができる方であることを実際に体験してもらうべきだったのです。

羊飼いと羊のたとえにおいて、羊は何もできないひ弱な愚かな動物の代名詞であり、羊を守るのは徹底的に羊飼いの力量にかかっていました。教会の指導者も愚かな羊なのです。彼らの責任は自分の無力さを分ち合い、神にすがる模範を示すことです。

なおエゼキエル書では基本的にイスラエル王国の復興に焦点が当てられていましたが、イザヤ11では、新しいダビデの子が全世界から弱肉強食の現実をなくし、「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎとともに伏し」という平和が実現し、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩うところは栄光に輝く」(10節)とあるように、ダビデの子が全世界の平和を実現する救い主であると描いています。

イエスは、このように語った後、ご自身の十字架の死を示唆しながら、「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(17節)と言われます。それは、ご自身の死が、羊飼いとしての能力の欠如のゆえに起こることではなく、御父から出た計画であることを説明し、それが羊に、豊かな「いのち」を与えるためのみわざであることを示すためでした。

それでイエスは続けて、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(18節)と言われました。

イエスは、父なる神から遣わされた者として、ご自分の「いのち」は徹底的に、父なる神の御手の中で守られていることを知っていました。イエスの十字架の死とは、「死は勝利にのまれた」というみことばを実現するためでした(Ⅰコリント15:54)。

イエスは、羊を連れ出し、羊の先頭に立って歩く方として(10:3,4)、神が「永久に死を滅ぼされる」方(イザヤ25:8)、ご自分の民を「死から贖う」方である(ホセア13:14)ことを証しされました。

私たちを襲う様々なわざわいは、すべて私たちがイエスにあって既に死に打ち勝っている証しの機会とされています。

日本のかつての軍部は、天皇の権威を守るため、問題が起きたときの責任を天皇が負わなくて済むようにという名目で、天皇に政治的判断をさせないように祭り上げながら、同時に、自分たちの決断を天皇の名で国民に押し付けました。二二六事件にしても、終戦間際の玉音放送を巡るクーデター未遂事件にしても、自分たちの政治的理想を天皇の権威で実現しようとする動きでした。

同じようなことがキリスト教の歴史でも起きました。戦争のたびごとに、神の御名が持ち出され、人々が戦いに駆り立てられました。しかし、私たちの主イエスは、人間の仲介者を必要とされず、世界の一人一人の訴えを同時に聞き取ることができる有能な牧者です。一人一人がみこころを求めて祈り、みことばから教えられます。

私たちの牧者は、一人一人の名を呼び、声を聞き分け、それぞれの人生を導くことができる方です。私たちはもっと大胆に、自分の日々の必要を訴え、具体的な導きを求めるべきでしょう。

信仰とは、何かの真理や教理を信じること以前に、イエスの父なる神に向かって、アバ父と、親しく呼び求め、自分の無力さ愚かさを認め、真の羊飼いに祈りながら、すべてを委ねて生きることです。

伝道とは、何かの教理を教えること以前に、イエスに向かって直接祈り、導かれ得ることを分ち合うことです。