私たちはときに、「とんでもないことが起きてしまった。これからどうなるのか・・・」と不安に圧倒されるようなことがあるかもしれません。そのとき、その原因を冷静に分析すること以上に大切なことは、何よりもまず、そのわざわいの中で、泣いて主にすがることではないでしょか。
なお、ヨエル書が記された時代がいつなのかは、永遠の謎です。明確な時代を特定できない以上、時代を超えたメッセージをここから読み取ることが大切ではないでしょうか。
1.「心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」
この書には、いなごの来襲によってイスラエルが壊滅的な打撃を受けることが預言されます。そしてそれが、前代未聞のことであると強調されながら、「これを・・子どもたちに・・その子どもたちは後の世代に伝えよ」と記されます(1:3)。イスラエルを襲った悲劇が、子々孫々まで伝えられる必要があるというのです。これは、たとえば日本でいえば、広島、長崎の原爆悲劇と同時に、東日本大震災、福島第一原発の悲劇を子々孫々まで伝え続けることを意味します。
そして4節には「いなご」に関する四種類の呼び名が記されます。ヘブル語には「いなご」に関して何と、九つの異なった名があり、新改訳での第一の「かみつくいなご」は「ガザム」、第二の「いなご」とのみ記されているのは「アルベ」で、これが最も一般的な呼び名です。第三の「バッタ」は、「イェレク」で「飛びいなご」と訳されることもあります。第四の「食い荒らすいなご」は「ハシール」です。これは同じいなごの成長段階によって呼び名が、イェレク、ハシール、ガザムと変わるとも言われます。
ですからここは、「ガザムが残した物はアルベが食い、アルベが残した物はイェレクが食い、イェレクが残した物はハシールが食った」と記されているのです。
2章25節ではこの四種類のいなごの順番が変えられながら、神がご自身によって、「わたしがあなたがたの間に送った大軍勢」であるなどとと描かれています(2:25)。どちらにしても、ここでは「いなご」が少しずつ姿を変えながら、四回にわたってイスラエルの民が大切に育てた作物を絶滅させる様子が描かれています。
ソロモンは神殿を建てたとき、「もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合・・・この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき・・あなたご自身が・・赦し、またかなえてください」と祈っています(Ⅰ列王8:37-39)。それは「いなご」の発生の背後に、悔い改めを迫る神の招きを見るという意味です。
2章11節では、「主(ヤハウェ)は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い」と描かれます。つまり、恐ろしいいなごの大軍を導いているのは、主ご自身であるというのです。
詩篇148篇8節には、「火よ、雹よ、雪よ、煙よ、あらしよ。それはみことばを成就する」(私訳)という表現がありますが、この地を襲うすべて災害は、「自然?災害」というより、神のことばによって起こされていると解釈すべきです。
ただそれを根拠に、ある地域に地震や津波が起こったことを、「神がその特定の地域の罪をさばくために、それを起こした」などと、勝手な解説をしてはなりません。イエスが、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と言われたように、この地のすべてのことは、神のご支配のもとにあると理解すべきなのです。
その上で「主(ヤハウェ)の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう」と記されます。様々な自然災害への備えはすべきですが、「主の日」の苦難を人間的な知恵で避けたり、それに耐える方法は一切ありません。私たちにできる唯一のことは、主のあわれみにすがるということです。
それを前提に2章12節では、「しかし、今、─主(ヤハウェ)の御告げ─心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」という訴えがなされます。
命令の中心は「立ち返れ」で、回心を訴える最も頻繁に用いられる動詞ですが、その際、「心を尽くし・・・」と描かれるように、自分の心が神から離れていたことを何より反省する必要があります。
それは、「心を入れ替え、立派な行いをする」という決断以前に、「私は神のあわれみなしには一瞬たりとも生きることができない者です」という自己認識です。それは、意志を強く持って行動を変えて行くという生き方ではなく、無力さを認め、泣きながら必死に神におすがりするという心の姿です。
そのことが13節では、「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ」と命じられます。それはすべてのプライドを捨てて、乞食のような気持で主にすがるということの勧めです。
そして、その理由が、「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」と描かれます。
主はかつて、金の子牛を造って拝んだ民を滅ぼす代わりに、「その民に下すと仰せられたわざわいを思い直され」ました(出エジ32:14)。主は「罰すべき者は必ず罰して報いる」(同34:7)ばかりではありません。ですから、私たちはいつでもどこでも、繰り返し、神に立ち返って、神にすがることができます。
そのような期待が、「主が立ち返って、思い直し、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主(ヤハウェ)への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう」(2:14私訳)と記されます。
驚くべきことに、主ご自身が「回心」して「思い直してくださる」と期待することは無理ではないと言われているのです。主のさばきは、人の行いに応じて自動的に下されるものではありません。主はご自身に向かってへりくだり、すがって来る者に対し、豊かなあわれみを注ぎ、「のろい」を「祝福」に変えてくださる方なのです。
日本語の「悔い改め」に対応するヘブル語には、「思い直す」と「立ち返る」という二つのまったく異なったことばがあります。不思議にも、神が「悔いる」とか「思い直す」いう表現の一方で、人間の「悔い改め」には、ほとんどの場合、「立ち返る」が用いられます。
神はご自身のさばきの決断を「思い直す」ことがあります。それは私たちが自分の傲慢さを悟り、また弱さに気づき、真心から神に立ち返る時に、神が示してくださるあわれみです。それに対して、私たちがなすべき「悔い改め」とは、自分の意志の力に頼ることから、神に「立ち返って」、神のあわれみにすがるということです。
私自身にはある種の神経症的な傾向があります。自分の精神的な葛藤と真正面から向き合ってきた結果として、それをカウンセリングに役立てて来ることができました。自分で言うのも何ですが、多くの方々に感謝されてきたと言う自負があります。でも、それが仇になります。あるときに深く反省させられました。私は自分で自分をカウンセリングするような癖がついてしまいました。でも、自分で自分の問題を解決できるぐらいならイエス様は十字架に架かる必要がありませんでした。
実際、自分で自分の精神構造は分析できても、感情を制御することができずに、同じ間違いを何度も繰り返します。そのたびに人を傷つけてしまいます。本当に申し訳ない限りです。しかも、葛藤のただ中にあるときには、祈る気さえ湧かなくなることがあります。ですから、寄り添ってくれる方の祈りの支援が必要です。
こんなことを話すのは、同じような問題を抱えておられる方は、意外に多くいるからです。私たちは無意識のうちに、自分を神として、神にしかできないような「思い直し」を目指してしまう傾向があります。
信仰とは、わざわいの原因を冷静に分析する「平安な心」である以前に、泣いて、創造主なる神にすがり、叫び続けることです。
なお、本書のテーマは「主(ヤハウェ)の日」で、新約では、キリストの再臨の日として数多く用いられます。ペテロ第二の手紙3章3-13節では、不敬虔な人にとっての「主の日」が、世界が火で焼かれるさばきの日として描かれながら、イエスにすがる者にとっての「主の日」は、「正義の住む新しい天と新しい地」に復活の身体で入れていただく希望の日と描かれます。
信仰とは、自分で自分を変えることではなく、主にすがることです。
2.「主(ヤハウェ)はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」
2章18節では突然、「主(ヤハウェ)はご自分の地をねたみ」と記されます(私訳)。「ねたみ」は自分に属するものに対する排他的な熱い情熱で、「愛」と表裏一体の感情です。それはイスラエルの「ゆずりの地」が、「諸国の民のそしり」「物笑いの種」とされているからです。
そして、「ご自分の民をあわれまれた」とは、主がイスラエルの民の痛みや悲しみに徹底的に共鳴して、彼らの問題をすみやかに解決してくださるという強いご意志の現れとして表現されています。
そして、「主(ヤハウェ)は民に答えて」、「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とを・・送る。あなたがたは、それで満足する」と(2:19)、主が、泣きわめいていた民に「満足」を与えると描かれます。
2章21-23節は「恐れるな」ということばが文頭で二回繰り返され、「楽しみ喜べ」が「地」に対してと同時に「シオンの子ら」に向けて重ねて語りかけられますが、次のように訳すことができます。
「恐れるな。地よ。楽しめ。喜べ。主(ヤハウェ)が大いなることをされたからだ。/
恐れるな。野の獣たちよ。荒野の牧草はもえ出る・・・/
シオンの子らよ。楽しめ。あなたがたの神、主(ヤハウェ)にあって喜べ。/
主は、あなたがたを義とするために初めの雨を与え、以前のように、初めの雨と後の雨という大雨を降らせてくださるからだ。」
イスラエルには短い二度の雨季の他にはほとんど雨が降りません。「初めの雨」は10月末から12月初めの間に降り、夏の日照りを潤します。また「後の雨」は3月から4月にかけて降り、蒔かれた種が渇くことがないようにします。
主はかつて、「主(ヤハウェ)を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら・・・先の雨と後の雨とを与えよう」と言われる一方で、「ほかの神々に仕え、それを拝む」ときには、「主(ヤハウェ)の怒りが・・燃え上がり、主が天を閉ざされ・・雨が降らず・・あなたがたは・・その良い地から、すぐに滅び去ってしまおう」(申命記11:13-17)と警告しておられました。つまり、神の「のろい」と「祝福」は、この二回の短い雨季に最も分かりやすく現されていたのです。
そして2章24-26節では、神がいなごを追いやり、雨を降らせるという祝福の回復が約束されます。
原文では25節の冒頭で、主ご自身による「わたしはあなたがたに償おう」と記され、四種類のいなごの攻撃によって失われた「穀物、ぶどう酒、油」に関して、主ご自身による回復が保障されます。
「償う」とはシャローム(平和、平安)の動詞形で、完成の状態を創造するという意味があります。神がいなごを送ったのはイスラエルの罪をさばくためでしたが、終わりの日には、ご自身が、まるで彼らに悪い事をしたかのように、彼らの苦しみに対する「償い」をしてくださるというのです。
同じように、あなたが神に立ち返り続けるなら、あなたの人生は、一時的に不幸な状態に陥ったとしても、必ず帳尻があった状態へと回復されるというのです。
そしてそれを受けて、「わたしの民は永遠に恥を見ることはない」ということばが二度繰り返されながら、それに挟まれるようにして、「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であり、ほかにはないことを知る」と記されます(2:26,27)。
3.「しかし、主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」
2章28~32節を使徒ペテロはペンテコステの日に引用しつつ、聖霊が弟子たちの上に、「炎のような分かれた舌」として現れ、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」という不思議な現象が、ヨエル書の預言の成就であると語りました(使徒2:1-21)。キリスト教会の誕生は、この書を抜きに語ることはできないのです。
旧約と新約の違いは何よりも聖霊が与えられることです。それがここで「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」と描かれます。
旧約では、初代の王サウルの上に「神の霊が激しく下って預言をした」(Ⅰサムエル10:10)という記述があるように、神がある特定の人を選んで、聖霊を注ぎ、ご自身の働きに用いられることがありましたが、約束の地の祝福の回復の「その後」という「終わりの日」(使徒2:17)には、老若男女ばりか奴隷を含めたすべての種類の人々に聖霊を注いでくださるというのです。
しかも、「息子、娘が預言する」とは、子供たちが親の教育を超えて、主がどのようなお方であるかを心の底から知ることを意味します。エレミヤ31章34節では、「そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない」と記されています。
「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」とありますが、夢も幻も、同じように、未来予告と言う以前に、主が人間の歴史全てを支配しておられることを腹の底から理解させるものですが、夢は眠っているときに与えられる一方で、幻は目覚めているときに与えられるということで、そこに老人と若者と言う表現を置いたのだと思われます。
説教の最中に居眠りしてしまうことを恥じる必要はありません。その場で、主が、主の夢を見させ、意気消沈してしまうことがある若者には、幻が見させられます。
ヘブル語の並行法の原則からすれば、預言も夢も幻も、基本的に、すべて神の救いのご計画の全体像が把握できるという意味と解釈すべきでしょう。それは、その前の27節に、「イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたの神、主(ヤハウェ)であり、ほかにはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることがない」と知らされていることを確信できることです。
後にパウロは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)と記しましたが、それこそ聖霊の働きの核心です。
その聖霊は、恐怖に満ちた主の日のさばきから、人々を救うために与えられるという意味で、「わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。主(ヤハウェ)の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」と記されます。
使徒パウロは、先の「わたしの民は永遠に恥を見ることがない」(2:26,27)ということばの繰り返しを意識しつつ、「彼に信頼する者は恥を見ることがない」(私訳)と保証し、「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられる」と述べ、その根拠にこの箇所を引用して、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と言いました(ローマ10:11-13)。
つまり、主の最後の審判から救い出されるのは、私たちが主の一方的な恵みによる聖霊を受けて主の名を呼び求めることによるのですが、ヨエルが「ヤハウェの名を呼ぶ者はみな救われる」と言ったことを使徒パウロは、「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」と言い換えました(同10:9,10)。
つまり、旧約のヤハウェが新約ではイエスと呼ばれたのです。
2章32節では、「主(ヤハウェ)が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主(ヤハウェ)が呼ばれる者がいる」と、「のがれ」「生き残った者」たちとは「主が呼ばれる者」であると記されます。使徒パウロはイスラエルの救いに関して、「今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:5)と語っています。
「主(ヤハウェ)が呼ばれる」とは、具体的には、聖霊が私たちの心のうちに語りかけてくださることを意味し、その結果として私たちは「主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」という恵みに預かりました。私たちは、「主に呼ばれ」て、「主を呼ぶ者」となったのです。
しかも私たちはみな、外からの強制によってではなく、自分の意志で主を礼拝するために集まっていますが、その私たちの意志に働きかけるのが聖霊です。そして、私たちが聖書を読んで感動し、主の教会の一部として奉仕に加わっているのは、神の霊が注がれた結果です。
3章14節でヨエルは、「さばきの谷には、群集また群集。主(ヤハウェ)の日がさばきの谷に近いからだ」と記しますが、これは機が熟した結果として、神の民の敵たちが皮肉にも、自分から進んで主のさばき(審判)の谷に近づいてくるという意味です。
この終わりの日の「さばき(審判)の谷」のことに関しては、黙示録では、終わりの日に、悪霊どもは全世界の王たちを、愚かにも神との戦いに動員すると描かれ、その最後の戦いの場がハルマゲドンと呼ばれます(16:13-16)。
しかし、そこに「王の王、主の主」であるキリストが白い馬に乗って天の軍勢と共に下って来られ、たちどころに神の民の敵を滅ぼしてくださるというのです(19:11-21)。つまり、一時的には、神の敵が全世界を支配するように見える中で、神の民に求められることは、富にも権力にも惑わされずに、キリストに忠誠を誓い、主を賛美し、礼拝し続けることだけなのです。私たちはそのときに決して、武器を手に取る必要はありません。
3章17,18節では、イスラエルの民の希望が、「エルサレムは聖地となり・・その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主(ヤハウェ)の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す」と記されます。
「シティム」とはアカシヤの木々で、契約の箱を作る材料に用いられました(出エジ25:10)。この「シティムの渓流」は、終わりの日にエルサレム神殿から水が湧き出て死海に注ぎ、その川の岸にはあらゆる果樹が実をならせるというエゼキエル47章、黙示録22章の記述に結びつきます。
最後に、神の民に敵対した国々へのさばきと、エルサレムの祝福が告げられます。いなごの大量発生から始まった本書は神の民の敵に対する「血の復讐」(3:21)で終わるように見えますが、その最後のことばは、「主(ヤハウェ)はシオンに住む」です。
これこそ、「国々の民」が、「彼らの神はどこにいるのか」と嘲ったことに対する答えです。
イエスは今、信仰者の交わりのただ中に住んでいてくださいます。そのことを主は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と約束してくださいました。
またヘブル10章23-25節では、迫害を恐れている人に対し、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と記されます。
信仰生活は、一人で神に召されることから始まりますが、それは共同体的な営みであることを決して忘れてはなりません。希望が真の意味で共有されるとき、そこにはキリストにある真のコイノニア(愛の交わり)が、強制や脅しによってではなく、ひとりひとりの主体性とともに生まれます。