「十戒」として親しまれている神の御教えは、聖書では「戒め」というより「十のことば」(34:28、申命記4:13,10:4)と描かれます。私は昔、「十戒」が罪を指摘し、キリストの十字架が罪の赦しを与えるという構図で理解していました。
しかし、ここに神の民を創造しようという神の愛を見出し、またこれが当時の世界でいかに画期的な教えであったかを知って、心から感動しました。しかも、安息日の教えこそがその中核であり、そこに福音が詰まっていると分かり聖書の読み方が変わりました。
人は、自分の都合に合わせた善悪を主張しながらも、どこかで全ての人に共通の道徳律があると信じています。しかし、創造主を認めないで、どうして時代や文化を超えた基準があり得るでしょう?
<十のことばの背景>
「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の新月(直訳)のその日に、シナイの荒野に入った」とありますが(19:1)、彼らがエジプトを出た日は、第一の月の新月から十五日目(満月)ですから、第三の新月の日は約六週から七週間後という計算になります(今年は5月18日に相当)。それから三日目に、主がシナイ山に降りて来られ、律法を与えてくださいました。
イスラエルの民は過越の祭り後の七回目の安息日の翌日(50日目)を「七週の祭り」と呼び、律法が与えられたことを記念します。それは現代のペンテコステで、今年は5月24日です。イスラエルの民は、乳と蜜の流れる地で暮らすことばかりを願ったことでしょうが、神が民を救い出した第一の目的は、神の民、つまり主(ヤハウェ)を礼拝する共同体を創造することでした。
これは私たちにも当てはまります。私たちがサタンの奴隷状態から救い出された第一の目的は一人一人が天国に入れられるため以前に、神の民に加えられ、この東京砂漠とも言われる地で、愛の共同体を形成するためでした。
パウロはそれを、「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(ローマ6:17,18)と記しています。多くの人は「自由」をそれぞれが自分の意志のままに生きられることと誤解していますが、聖書の語る自由とは、罪の支配からの自由であるとともに、神の義の規準に従って、神に近づく自由なのです。
主はまず、「あなたがたは見た・・」(19:4)とご自身のみわざを思い起こさせ、「あなたがたをわしの翼に載せ・・」と言われました。
これは、彼らの努力とも熱意とも信仰とも関係なく、一方的な恵みによって解放されたことを指します。彼らは、海が分かれ、天からパンが降り、岩から水が沸くという不思議を通して、主(ヤハウェ)を知ったのです。
神はその上で、「もし・・まことにわたしの声に聞き従い・・契約を守るなら・・あなたがたは・・わたしの宝となる」(19:5)と言われます。神は既にイスラエルをご自身の宝と見ていたからこそ救ってくださったのですが、民の側にその自覚がなければ、実質的な意味で神の宝になることはできません。
また、それは「わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(19:6)とも言いかえられます。「祭司」とは、神と他の民との仲立ちとなること、「聖なる国民」とは、神の聖さを表す民という意味です。彼らの選びには、世界中の人々をイスラエルの神ヤハウェに服従させるという責任が伴っていました。
それに対して民は、「みな口をそろえて」、「私たちは主(ヤハウェ)が仰せられたことを、みな行います」と模範的な応答をします(19:8)。
ただ、その後、彼らは自分たちの特権と表裏一体にあった責任を忘れ、神のさばきを受けます。それに対して、イエスこそがイスラエルの王としてこの使命を全うしてくださいました。
そして、この責任は現代のクリスチャンに受け継がれ、ペテロはそのことを、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Ⅰペテロ2:9)と記しています。
ところで、神が人間には近づくことのできない聖なる方ですが(19:10-15)、主は神がご自身の側から民に近づくために降りて来られるための備えとして、「三日目のために用意しなさい」(19:11,15)と言われ、シナイ山の周囲に境を設けさすとともに、聖別のしるしとして自分たちの着物を洗うように命じられました(19:10,14)。
そして、「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響き・・主(ヤハウェ)が火の中にあって、山の上に降りて来られ」ました(19:16-18)。「角笛の音」のことは19節にも記されますが、人々にこれから語られることに注目させる警告の音でした。その際、山全体が、鉄を精錬する溶鉱炉のようになり、煙が円錐状に勢い良く立ち上り、それによって、全山が激しく震えたのでした。
太陽が少し地球に近づきすぎただけで、動植物は燃え尽きてしまいますが、その太陽の創造主がシナイ山に下って来るというのですから、それは恐怖に満ちた光景になるのは当然とも言えましょう。私たちは、主(ヤハウェ)が私たちのただ中に住まれるということを、あまりにも自分勝手に都合よく解釈してはいないでしょうか。
しかも、この場合は、まずモーセがシナイ山の頂に登山する必要がありました。それは標高2,250m程度もある高い山です。
主は不思議にも、民が、「主(ヤハウェ)を見ようと」して「滅びるといけない」(19:21)、「祭司たちも・・身をきよめなければならない。主(ヤハウェ)が彼らに怒りを発しないために」(19:22)、「祭司たちと民とは、主(ヤハウェ)のところに登ろうとしては押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために」(19:24)と言われました。
これは、主ご自身がご自分の権威を守るために民を罰せざるを得ないというのではなく、主が民に制限を設けられるのは、民を守りたいという愛の動機から生まれたということが描かれています。
「それから神はこれらのことばをことごとく告げて仰せられ」(20:1)ました。これは申命記5章で、「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた・・」(22節)と描かれ、神がモーセの仲介なしに民に直接語りかけたことが分かります。
しかも、神ご自身の手で二つの石の板に書かれ、それが契約の箱に納められていました(申命記10:4,5)。これこそ、時間と空間を超えて、すべての時代のすべての民に向けて語られた主(ヤハウェ)ご自身の「契約」(申命記4:13)そのものです。これこそ最高の愛の教えです。
新約と旧約によって、契約の内容が変わったわけではありません。そのことを主は預言者エレミヤを通して、「その日、わたしは・・新しい契約を結ぶ。その契約は・・・エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない・・・彼らはわたしの契約を破ってしまった・・・わたしはわたしの律法を・・・彼らの心にこれを書き記す」と言われました(エレミヤ31:31-33)。
それを受けてパウロは、コリント教会の人々に向かって、「あなたがたが・・・キリストの手紙であり・・・生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものである」と記しました(Ⅱコリント3:3)。
つまり、契約の文言ではなく、与えられ方が変えられたことこそ、新しい契約の特徴なのです。キリストの御霊を受けいている私たちはこのままで神の愛を分ち合う「キリストの手紙」とされているのです。
<前文> 「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神である」(20:2)
神はご自身の名を、ヤハウェ「わたしは『わたしはある。』という者である」と紹介しつつ、結婚の申込みのように、「わたしは、あなたの神」と語りかけ、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した」と具体的な事実を示してご自身の真実を示されました。
「十のことば」を、前文を省いて読まれることから、堕落した戒律宗教が始まります。
1.「あなたには、わたしのほか(前)に、他の神々があってはならない」(20:3)
これは、一人一人への愛の語りかけであり、結婚の際、浮気をしないと誓わせることと同じです。当時のカナン人は、陽気なバアルを拝んでしましたが、そこには退廃がありました。
私たちも、主(ヤハウェ)を信じると言いながら、「肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)などを、主との交わりよりも優先することがないでしょうか。神は私たちにお金の管理を命じられましたが、「金銭愛こそあらゆる悪の根」(Ⅰテモテ6:10私訳)とも言われます。
2.「あなたは、自分のために、偶像(idol or carved image)を造ってはならない・・・」 (20:4-6)
この直後、イスラエルは、豊かさや力を現わす「金の子牛」の像を作って拝みました。私たちも無意識に勝手な神のイメージを作る危険があります。ここでは、「拝んではならない、仕えてはならない」と命じられた後、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」と繰り返され、「ねたむ神」(20:5)と付け加えます。
夫婦関係は自分の理想のイメージを相手に押し付け、あるがままを認め合わないことから破綻します。神を、あなたの身勝手な理想のイメージに変えてはなりません。たとえば、「神が愛なら、地獄が空になるはず」という論理は、自分にとっての「愛」のイメージを創造主に押し付けることに他なりません。真の愛が神によって教えられるのであって、愛を神とするのは偶像礼拝です。
神は愛の交わりを切望されるからこそ、「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」(20:5)と警告されます。実際、親の生き方の歪みは孫の代まで不幸にするという現実があるのではないでしょうか。これは神の罰というより、必然的な現実です。
ただし、神は、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」との対比を見せ、神を愛する者への祝福は、後の世代の者すべてに及ぶと励ましておられます。
3.「あなたの神、主(ヤハウェ)の名をみだりに唱えてはならない」(20:7)
この解釈から、御名が「主」(アドナイ)と呼び変えられ、大贖罪の日に、大祭司が一度だけ、ヤハウェと発音するようになったと言われます。ただ、この命令の中心は「誓い」の際、「むなしく、わざとらしく」御名を用いることの禁止でした(レビ19:12)。
イエスも、「『主よ。主よ。』と言う者が天の御国に入るのではなく・・」(マタイ7:21)と言われ、軽々しく御名を持ち出すことを戒めました。もちろんハリウッド英語などで御名が悪用されているのは論外です。
ヒトラーは「造物主の精神において行動すべき…ユダヤ人を防ぎ、主の御業のために戦うのだ」と豪語し、「神のかたちに造られた人」を殺しました。創造主の御名を軽く扱うことと隣人を軽蔑することには表裏一体なのです。
4.「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(20:8-11)
これは他と違って肯定命令です。「安息」(シャバット)は、「神は・・第七日目に、なさってすべてのわざを休まれた」(創世記2:2,3)の「休む」に由来し、これは「休む」ことに誇りを与える教えです。
人の価値が仕事の能力で計られる人間社会で、「七日目は・・・主の安息である・・どんな仕事もしてはならない」と命じられることは革命的です。
同時に、ここでは「息子、娘」ばかりか「奴隷、家畜、在留異国人」までにも休みが命じられます。この日を創造主に聖別(他の日と区別)して、主のみことばを聴き、いっしょに礼拝し、食事し、遊び、喜び合うのです。
まさに、この日には、隣人愛と被造物への愛が実践されます。卵に悪玉コレステロールが高いのは、鶏を機械のように扱い、ストレスをかけたからという分析もあります。家畜を休ませないことは自分の身を害することにもつながるのです。
イエスは、「安息日は人間のために設けられた」(マルコ2:27)と言われ、これを「喜びの日」(イザヤ58:13)に回復してくださいました。私たちには、「神の安息にはいるための約束はまだ残っている」(ヘブル4:1)のですから、これを果たすべき義務としてより、やがて実現する真の安息の影として、喜び祝うべきでしょう。
5.「あなたの父と母を敬え」(20:12)
これも肯定形で、「これは第一の戒め」(エペソ6:2)とさえ呼ばれ、人間関係の核心の教えです。「敬え」とは、神をあがめ、恐れることにも用いられる「栄光」と同じ語源の重いことばです。
これは親の良し悪しや年齢に関わらず、無条件の命令で、「あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたに与える地で、齢が長くなるため(エペソ6:3では申命記を引用しつつ「そうしたら・・しあわせになる」が加わる)」との約束がついています。これこそまさに幸せの鍵です。
確かに、親から虐待を受け、親から離れなければ自由になれない人もいます。ただし、それでも親を愛せないこと自体が悲劇であることに変わりはありません。その人は、神の愛も心から味わうことができなくなるからです。親を敬うことなく本当のしあわせを味わうことができる人はいません。ですから、主は、それぞれの出生をご存知の上で、それぞれがそれぞれのときに親を敬うことを可能にしてくださいます。それこそ最高の祈祷課題と言えましょう。
6.「殺してはならない」(20:13)
生きる価値のない人は殺しても構わないと考えられる風潮は今もあります。つい七十年前に日本やドイツが行なったことを考えれば、これが三千年前にどれだけ大きな意味を持っていたかがわかります。
昔も、胎児や障害者、老人の命が軽んじられていました。今もまだ「中絶」という名のもとに、母親が胎児を殺すことが後を絶ちません。
このあまりにも簡潔な禁止命令の根拠は、「神は人を神のかたちにお造りになったから」(創世記9:6)という点にあります。すべての人は、目に見えない創造主のイメージを現わす、かけがえのない高価で尊い存在です。それからすれば、自殺も、安楽死も、神の命令にそむくものです。創造主だけがいのちを与え、いのちを取り去る権威を持っておられるからです。
また、たとえ、殺しはしないとしても、誰も、「神のかたち」に創造された自分も他人も、無用の存在と決めつけることは許されません。それでイエスは、「兄弟に向かって・・・『ばか者』(当時ののろいのことば、『死ね!』というニュアンス)と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:22)とさえ言われました。
7.「姦淫してはならない」(20:14)
当時は一夫多妻が許され、力のある者が、弱い者の妻を平気で奪うことさえありました。しかし、神は、権力者の横暴を抑え、すべての家庭が尊ばれるようにされたのです。
なお、イエスは、結婚を聖別し、結婚以外でのすべての性的な交わりを、姦淫の罪と見られました(マタイ19:3-9、Ⅰコリント6:16)。聖書の教えには他宗教のような戒律はありませんが、唯一、性道徳に関しては、驚くほどに厳しくなっています。
最近、同性愛を結婚として公に認めることが人権の問題にすり替えられていますが、本来、「結婚」ということばは、どの文化においても、男と女が、互いへの献身を約束して結ばれるものとして用いられています。
聖書の神を信じない方々に、性道徳の話しを聖書から説いても通じない場合が多いですが、同性婚などという概念は、「結婚」という言葉の定義を根本から覆す発想であると訴えることができるはずです。これは人権の問題ではなく、人が男と女に創造されたという人間観の問題です。
神は、「性」を「聖」の基準に引き上げさせようとします。しかし、この高い基準こそ、世の人々がキリスト教式の結婚式に憧れる根拠でもあります。一夫一婦制は、キリストの教えから始まっていることを私たちは誇るべきです。
8. 「盗んではならない」 (20:15)
昔は、敗戦国の人の所有権が認められないのは当然の事で、権力者はしばしば民衆の財産を合法的に奪うことさえできました。後にイスラエルの王アハブが、ナボデのぶどう畑を譲り受けられなくて悩んでいたところ、彼の妻シドンの王女イゼベルは、「今、あなたはイスラエルの王権を取っているのでしょう」(Ⅰ列王21:7)と言い、力づくで取り上げることを躊躇しませんでした。しかし、その結果、後に彼女の死体が犬に食べられるというのろいを招きました(同21:23)。他国では当然のことでもイスラエルでは許されないことでした。
ですからこれは何よりも、権力者の横暴を抑え、社会的な弱者の生存権を守る命令だったのです。権力者は自分の横暴を正当化しがちです。
9.「偽りの証言をしてはならない。」(20:16)
当時は、少しの罪でも死刑になりましたから、偽りの証言は恐ろしい力を持ちました。先の例では、アハブの妻イゼベルが町の長老たちに、「ナボデが神と王をのろった」(同21:13)と偽証させ、彼を死に追いやり、ぶどう畑を奪いました。それは、北王国イスラエルの首都サマリヤの堕落の象徴的な出来事でした。
現代は、うわさ話しによって、人の名誉を傷つけることが戒められるべきです。名誉は、人間にとって最高の宝であることを忘れてはなりません。
10.「欲しがってはならない」(20:17)
「欲しがってはならない」ということばが、二回繰り返されます。これは心の中の隠された思いが問題にされています。先の例で、アハブは最初ナボデからぶどう畑を買い取りたいと提案し、断られたことから悲劇が始まりました。
すべての罪は、「欲しがる」という思いから始まります。後にパウロは、自分自身を「律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3:6)と誇ることさえできましたが、この点に関しては、「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼり(欲しがる思い)を引き起こしました」(ローマ7:8)と自分の罪深さを認めざるを得ませんでした。
「欲しがってはならない」と言われれば言われるほど、欲しくなってしまう衝動が働いたのです。
エデンの園での最初の罪は、「賢くするというその木はいかにも好ましかった(欲しがった)。それで女はその実を取って食べ・・」(創世記3:6)と描かれており、欲しがることこそが悲劇の原因でした。
その子孫である私たちも、獲得することに喜びを感じますが、救い主イエスは、失うことの中での自由と祝福を保証してくださいました。
なお、この主の御声を聞いたイスラエルの民は、「雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃し」「たじろぎ、遠く離れて立った」と描かれています(20:18)。彼らはモーセを通して神の教えを聞きたいと願い、「神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから」(20:19)と言いました。
それに対してモーセは、まず、「恐れてはいけません」と言いました。それは主のみことばを直接聞くことを恐れる必要はないという意味です。なぜなら、それは主ご自身が彼らを殺すためではなく、真の意味で生かすために、この地にまで降りて来られたからです。
そしてそれは彼らを「試みるため」とは、それによって彼らが生きることができるかを試すためという意味です。ただ、そこには、神ご自身が彼らをこの試験に合格させたいという願いがあったので、「あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないため」(20:20)と記されています。
神は、敢えて、彼らの心に恐れを抱かせるような現実を見せつけることによって、彼らが主を恐れ、主の命令を真剣に受け止めるようにと導いておられます。
「恐れてはならない」と言われながら、恐れさせるというのは、人間の理屈を超えています。神が私たちに近づきご自身の教えを与えてくださるのは、私たちが真の意味で「神のかたち」として生きられるためです。それを恐れる必要はありません。
しかし、そのかけがえのない御教えを軽く扱う者には、厳しいさばきが待っているという「恐れ」をも持つ必要があります。私たちの場合も、そのような神への恐れがなければ、イエスを救い主として求めようとする気さえ起きないことでしょう。
「十のことば」は戒律ではなく、私たちを生かす教えですから、それを恐れる必要はありません。しかし、これを神が与えてくださった理由を、恐れをもって受け止めない者には、自滅が待っています。
もしイスラエルが、「十のことば」を守っていたとしたら、彼らの国は平和のうちに繁栄し、創造主にとっての「宝」の民として全世界の憧れとなり、また、「祭司の王国」として、主(ヤハウェ)のすばらしさを全世界に証しすることができたはずでした。そして、この教えは現在の私たちをも本当の意味でしあわせにし、平和と繁栄を与える規範です。
神は、私たちをご自身の花嫁と見られた上で、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられました。これこそ第一から第四の教えの要約です。
また、当時も今の独裁国家でも、社会的弱者の生命、家庭、財産、名誉の権利が軽んじられましたが、神はご自身が神の民の王として、人と人とが愛し合う共同体を造ろうとされました。それが第四から第十の教えであり、その要約が、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」です。
そして、安息日の教えこそは、十のことばの前半と後半を合わせる結びの帯の位置にあります。
パウロは「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです・・・行いによるのではありません」と言いながら、その直後に、「私たちは・・キリスト・イエスにあって造られた・・神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」と言いました(エペソ2:8-10)。
その良い行いの基準がこの「十のことば」であり、それを私たちは、肉の力によってではなく、神から与えられた聖霊によってまっとうさせていただくのです。