後藤健二さんの最後の様子が繰り返し映されます。それは悲しみをたたえながらも驚くほど静かな祈りの姿のようにも見えます。その意味を語るような彼の数年前のツイートが感動とともに世界に広がりました。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」
彼はイエスの御霊に導かれて、平和を祈っていたのかも知れません。
イエスは、「わたしはいのちのパンです・・・このパンを食べる者は永遠に生きます」と言われました。私たちのうちにはすでに、死に打ち勝ったイエスが生きていてくださいます。復活のいのちが、すでに始まっています。ですから、私たちはどんなに無力で臆病で不信仰であったとしても、神にあるいのちは奪われることがありません。
私たちはみな自分の信仰の成長を願います。そして、同時に、いつまでたっても変わらない自分の信仰に失望します。ただ、そのとき私たちは神から遣わされた生けるパンであるイエスを見上げる代わりに、自分を見てはいないでしょうか。
本当は今日、みことばに合わせて特別な聖餐式を持ちたいとも思いました。しかし、私には葛藤があります。子供たちも含め、ここにいるすべての方々に、イエスのからだとしてのパンと、イエスの血としての杯にあずかっていただきたいと思っています。ただ同時に、みことばは、その意味をわきまえずにパンを食べ、杯を飲むなら、イエスのからだと血に対して罪を犯すことになる、と言われています。この地では、恵みの座がさばきの契機になり得ます。
ですから本日は、ここにいる人が誰も漏れることなく、ともに主の食卓にあずかる姿をイメージしてお聞きいただければ幸いです。もし、初めて聖餐式にあずかりたいと願われるなら、ご遠慮なく牧師にご相談ください。
1.「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」
イエスは天から降ってくるパンをしるしとして求める人々に、「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました」(49節)と、目に見えるパンに固執する生き方をたしなめました。地上のパンは一時的に人間の身体を生かすだけだからです。
それと同時に、ご自分のことを指しながら、「しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです」(50節)と言われました。そしてイエスは「わたしがいのちのパンです」(6:35)以降をまとめるように、「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(51節)と言われました。
目に見えるパンは単なる物質ですが、イエスは「生きているパン」だと言うのです。それは、イエスこそが、私たちの心とからだの両方を養って下さる、真のいのちのみなもとであられるからです。
そればかりか主は、「パンは・・わたしの肉です」と不思議なことを言われました。最初の人アダムが善悪の知識の木の実を食べたとき、神はいのちの木への道を封じられました。それに対して、イエスの肉こそは、私たちのための贖いとなることによって、この「世」に対して「いのちの木」への道を開くことになりました。そして、私たちは、イエスの肉をパンとして食べて、永遠に生きるというのです。
この話を聞いたユダヤ人たちは「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」(52節)と互いに議論し合いましたが、それは当然とも言えます。
それに対しイエスは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と注意を引く枕言葉とともに、さらに困惑させるかのように、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」(53節)と言われます。
しかもイエスは、さらにそれを肯定形で言い換えるようにしながら、「わたしの肉を食べ(かじり)、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(54節)と言われます。ここではそれまでの「食べる」とは異なった「かじる」とか「かむ」という意味の動詞が用いられ、具体的にイエスご自身の肉を噛み、その血を飲むことで「永遠のいのちを持つ」ということが強調されています。
それにしてもイエスはなぜご自身の肉を噛み、イエスの血を飲むなどという表現を使われたのでしょう。
レビ記17章10-14節には、「血を食べる者を・・民の間から断つ。なぜなら肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である・・・あなたがたはだれも血を食べてはならない・・・すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである」と記されていました。
ユダヤ人は血を徹底的に抜くことなしには、どんな肉を食べることはありません。ですからイエスのことばを聞いた人は、まさに身の毛がよだつような嫌悪感を覚えたに違いありません。
しかし、イエスは敢えてそれでもこのような表現を使いました。それは、ご自分の肉と血こそがすべての人の贖いの代価となるからです。そして、これは聖餐式の原型でもあります。私たちはそこでイエスの身体と血をいただきます。まるで人食い人種のような行為です。
ですから古代教会の時代、聖餐式が信者だけで秘密裏に行われることを指して、「クリスチャンは礼拝のために嬰児を殺害し、その肉を喰らう」という「うわさ」が広がり、紀元200年頃、テルトゥリアヌスは真面目に否定する必要がありました。しかし、イエスはそのような誤解を招く表現を敢えて用いながら、ご自分の十字架の犠牲こそが、彼らに真のいのちをもたらす糧となるということを、語ってくださったのです。
2.「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」
イエスは、「わたしの肉を食べ(かじり)、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(54節)と言われながら、さらに、「わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」と、四度目の同じ表現を用いました(39,40、44節)。
ですから、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むという表現は、ユダヤ人が、目に見えるパンに心を奪われていたことに対し、いのちにとって真に大切なことを教えるためのイエスの衝撃的なレトリックと言えましょう。
さらにイエスは四度目に、「終わりの日の復活」のことを保証する理由として、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです」(55節)と言いました。
まさに、イエスご自身がこの地上の生涯のおいての食べ物、また飲み物として、私たちの肉のいのちを支えてくださるばかりか、終わりの日の復活まで保証してくださる理由が、イエスご自身がまことの食べ物、まことの飲み物であるからだというのです。
それにしてもイエスは、「信じる」という代わりに「食べる」とか「飲む」と言いました。「信じる」という表現のもとに肉的な意味での能動的な「働き」が見えるからかも知れません。何か、自分を変える「信念の力」を信仰と混同したり、また「私は殉教の死をも厭わない!」と断言できることが信仰の証しだと勘違いする場合もあります。
しかし、「私は必死の思いで食べたり飲んだりしています・・」などと自慢する人はいません。飲食は極めて日常的なことであり、喜びのときです。キリストの肉は、私たちの救いのために、神が人となられたという謙卑を表わし、その血は十字架の犠牲を表わします。それは苦しみを表現しますが、食べたり飲んだりする行為自体は喜びです。
イエスはこのとき、預言者エゼキエルの召命を意識していたと思われます。そして主は彼に、「人の子よ・・・あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ」(2:8)と言われながら、「一つの巻き物」を差し出しましたが、そこには「その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」というのです。
主は預言者エゼキエルに、「この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ」(3:1)と言われました。そして、彼がそれを食べたとき、「すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」(3:3)というのです。つまり、巻物は、その内容からするならば、口に苦いものであったはずなのに、それは彼の口に「蜜のように甘かった」というのです。それは、イスラエルに対する神のさばきは、彼らを滅ぼすためではなく、彼らを祝福に導くための神のご計画であったからです。
それは主が預言者エレミヤに、「わたしはあなたがたのために建てている計画をよく知っているからだ。―主(ヤハウェ)の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:11)と言われたとおりです。わざわいと見えることが平安の始まりなのです。
この福音書の初めで、イエスは「ことば」として紹介されました。そして私たちはその「ことば」である方の肉を食べ、その血を飲むのです。一見悲惨なようでありながら、実際食べるならそれは口で蜜のように甘いのです。
当時のユダヤ人は、人間的な努力によって永遠のいのちを勝ち取るかのように考えました。それに対し、イエスは、信仰を、食べることや飲むことで表わしました。それは、神が与えてくださった恵みを、ただ自分の口を開いて受け取るという姿勢です。
しかも、食べ物や飲み物が私たちの身体の中でエネルギーに変えられるように、イエスご自身が私たちの内側に力を与え、主の「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」(ルカ9:23)という厳しい命令を可能にしてくださいます。
イエスが、私たちのうちで生きてくださるとは何という喜びでしょう。使徒パウロも、それを「私はキリストとともに十字架につけられました。しかし、私は生きています。ただ、それはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の真実によっているのです」(ガラテヤ2:20私訳)と表現しました。
3.「主よ。私たちがだれのところに行きましょう」
続けてイエスは、「わたしの肉を食べ(かじり)、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」(56節)と言いました。「私がイエスのうちにとどまり、イエスが私のうちにとどまる」とは、互いが互いを抱擁し合うという密接な交わりです。
そして、イエスは、「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」(57節)と言いましたが、それは、私たちもイエスによって世に派遣され、イエスから与えられた使命を、イエスによって生きることを意味します。
さらにイエスはご自分の肉と血というご自身の身体のことを指しながら、「これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます」(58節)と言われました。
彼らの先祖は、天からのマナを食べながら、神の使命を生きることに失敗して滅びました。しかし、私たちは、天から下って来た生けるパンであるイエスを食べることで、真のいのちを生きるのです。
そして、このイエスの説教の最後に、「これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである」(59節)と記されます。
ところが、このようなイエスの恵みのみことばを聞いた多くの弟子たちが、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」(60節)と言ってイエスを離れて行きました。
それに対し、「しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ」、彼らに「このことであなたがたはつまずくのか」(61節)と言われ、さらに、「それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか」(62節)と言われました。これはご自身の十字架と復活また昇天のことをまとめて言われた言葉だと思われます。
イエスはかつてニコデモとの対話で、「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者が見な、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(3:13-15)と言われましたが、人の子が上げられるとは、明らかに十字架のことを指していました。
また、イエスはご自分の十字架の時を指して、「人の子が栄光を受けるその時が来ました・・・一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(12:23,24)と言われます。
このようにイエスはご自分の十字架を、「あげられる」とき、また「栄光を受ける時」と言っておられましたが、同時に、そのときに多くの弟子たちが「つまずく」ことを知っておられました。
弟子たちはイエスのことばをあまりにも肉的にしか理解できませんでした。それに対し、イエスは、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」(63節)と言って、目に見えるパンにとらわれた生き方の問題を指摘しました。
イエスはご自分の肉と血という極めて物質的なことを語っているようでありながら、ご自分こそが「天から下って来た」「神のパン」であることを繰り返し語り、私たちは「いのちのパン」であるイエスをこの身に招き入れることによってしか真に生きることができないということを何度も話しています。
そして、それはもちろん、具体的にイエスの肉を食べるということではなく、イエスの御霊を招き入れることであるということです。そしてイエスはさらに、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」と言われました。それは、イエスの肉を食べるとか、血を飲むとは、御霊を受け、御霊に満たされることの言い換えでもあるという意味です。
聖餐式のパンと杯が、物質的な意味において、キリストの肉と血そのものであるという意味ではありませんが、この礼典が、神のパンであるイエスの肉を食べ、その血を飲むことを、象徴的に表わすことは確かです。私たちは、キリストのみことばとともに、パンと杯を受けるとき、自分のいのちが、御父、御子、聖霊の三位一体の神の一方的な恵みによって与えられることを味わうことができます。
4.「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」
イエスのことばを多くの弟子たちは理解できず、また十二弟子のひとりのユダも理解できませんでした。それは生まれながらの肉的な私たちには無理なことです。そのことを指摘するように、主は「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます」(64節)と言われました。
そしてそれが主にとって想定外ではなかったことが、「イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである」という解説として描かれます。
そしてイエスは再び、「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです」(65節)と、イエスのへの信仰が父なる神の選びと御霊の導きであることを確認します。そして、これらの会話の結末として、「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」(66節)と記されます。
そこでイエスが「十二弟子」に向かって、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と問われます。この福音書で「十二弟子」ということばが登場するのはここが最初です。
そして、「まさか」と訳されていることばは、「思ってはいないね」という否定の答えを想定した問いかけで、それに続いて「あなたがた」という言葉が強調されながら「離れたいとは・・」と続きます。イエスは弟子たちの信仰告白を促すようにこの質問をしているのです。
それに対し、ペテロは弟子たちを代表するように、「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(68節)と答えました。
「神の聖者」ということばは、「わたしが、あなたの神、主(ヤハウェ)、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるから」(イザヤ43:3)という、神から遣わされた方という思いが込められています。ペテロはイエスこそがイスラエルの救い主として神から遣わされた「神の聖者」であることを信じることができていたのです。
確かにその後の裏切りを見る限り、このときの彼はイエスの言われることの半分も理解できてはいなかったでしょう。しかし、イエス以外の誰かに頼ろうと思わなかったことは確かです。私たちの信仰も、常に欠けがあります。しかし、イエス以外のところに行きようがないことを認め、イエスのもとに留まり続ける中で、永遠のいのちの喜びを、さらにさらに深く味わい続けることができるのです。しかも、それを可能にしてくださるのはイエスの父なる神ご自身です(65節)。
ところが、イエスはペテロが十二弟子すべてを代表するように「私たちは」と言ったことに対して、「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です」(70節)と言われます。悪魔とは「そしる者」(Ⅱテモテ3:3)とも訳すことができることばです。
そして、その解説として、「イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた」(71節)と記されています。ユダは、恐怖に怯えてイエスへの信仰を否認するとか、自分の身を守るために裏切るとかいうのではなく、イエスを心の中で積極的にそしり、非難し、ついには敵の手に売ろうとしていたのです。
この福音書は共観福音書のような最後の晩餐の様子は描いていません。しかし、この6章こそが、本福音書における聖餐式の場面と理解できましょう。なぜなら、他の三つの福音書にも共通することは、最後の晩餐の場面でユダの裏切りが描かれているからです。主の最高の恵みの食卓が、同時に、ユダにとっては裏切りの食卓になりました。
私たちが注意しなければならないのは、恵みの背後にある犠牲に鈍感になってしまうことです。私たちが罪の赦しを受けることができるのは、決して、当然のことではありません。そこにはイエスがご自身の肉と血を私たちのために与えるという、途方もない犠牲があったのです。その犠牲の大きさを理解せずに、恵みの食卓にあずかる者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
そのことが聖餐式の聖定のことばの中では、「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して、罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」(Ⅰコリント11:27-29)と記されています。
私たちは聖餐式のたびごとに、自分の信仰が問われています。しかし、それは、私たちが罪深ければあずかれないという意味ではありません。ユダは自分がいかに恐ろしいことをしようとしているかということを自覚していました。
「みからだをわきまえないで」とは、イエスの犠牲の大きさを理解しないで、「みんな食べているから、私も食べよう」などと軽い気持ちで受け取ってはならないという意味です。
反対に、「私はイエスのみからだと血を受けることなしに、とうていこの世の嵐の中に向かって行く自信はありません」という人は、心から歓迎されているのです。
祈りの中で、息をゆっくりと吐いた後で、力を抜いて息を吸いつつ「主よ」と心を開いてみましょう。「主よ」と呼び、キリストの肉を食べ、その血を飲むように、主をあなたの身体の隅々にまで受け入れ、力の源とさせていただくのです。主があなたのうちに生き、あなたが主に抱擁されていることを覚えながら、次のように祈ってみましょう。
「イエス・キリスト、神の御子、この罪人の私をあわれんでください。
宇宙の創造主、全能の神様 あなたのご支配を私たちのただ中に現してください。
生ける神の息の聖霊様、私たちを日々新たにしてください。また全世界をも」