Ⅱペテロ3章1〜18節「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」

2015年1月1日

ペテロ第二の手紙3章の新共同訳や新改訳を読むと、この目に見える世界が神によって「滅ぼされる日」というイメージに圧倒されます。これを一年の初めの日に読むのは気が滅入ってしまうかもしれませんが、ここには19世紀から20世紀にかけての神学的な偏りが反映されているように思われます。

ドイツ語では、「終わりの日」のことが、der Jüngste tag と呼ばれます。これは英語に直訳するとthe youngest day(最も若い日)となり、「元旦」の意味にさえ通じそうです。

ただ、それは最後に生まれる子が最も若い子と呼ばれるからのようですが、とにかく「世の終わり」というより、「キリストのご支配が全世界に明らかになる喜びの日」というニュアンスをドイツ語では明らかにできます。

先日の新聞に、「オリオン座崩壊?」という記事がありました。オリオン座の右肩の部分の赤色巨星ベテルギウスが寿命の最後を迎え、大爆発を起こして、その後、光を失うことは時間の問題だからです。

ただ、それは明日かもしれないし、十万年後かもしれないというのです。星の一生は数千万年から数十億年なので、宇宙の時間感覚からしたらすぐ目の前ということになります。しかも、明日爆発を確認したと言っても、それは640光年のかなたの星なので、室町時代の出来事を確認しているにすぎません。

イザヤ13章9,10節には、「見よ。主の日が来る。残酷な日だ・・・天のオリオン座?は光を放たず、太陽は日の出から暗く・・・わたしは、その悪のために世を罰し」と記されており、「だから主の日は近い!」と言ったとしても、オリオン座はギリシャ神話名、この宣告はバビロンに対するものです。何よりも、私たち人間の時間の感覚が宇宙の広がりから見るといかに狭いものかということがわかります。

とにかく、旧約から見る「主の日」は、主の敵に対するさばきとともに主の民にとっては救いの日を同時に意味していました。ところが、新約になると、救い主は二回に分けて来られるということが新たに啓示されました。

一度目は、私たちの罪を負うために私たちとまったく同じひ弱な肉体を持つ赤ちゃんとして来られました。しかし、二度目に来られるときは、主は、「その目は、燃える炎のよう・・・その声は大水の音のよう・・・口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のよう」(黙示1:14-16)という「さばき主」として現れるというのです。

1.「今の天(複数)と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ・・保たれている」

それに対し、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父親たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」(3:4)と嘲る者たちが現れるというのです。

「来臨」とは「パルーシア」の訳で、本来、王が自分の支配地を訪問し、そこにある不正を取り除き、自分の公明正大な支配を実現することを指します。

そしてそれに対しての答えが、「天(複数形)は古い昔からあり、地は神のことばによって、水から、水を通して、共に保たれていましたが、これらによって、当時の世界は、水に覆われて滅びました」(3:5,6私訳)と描かれています。聖書の冒頭には、「初めに神が、天(複数形)と地を創造された。地は茫漠として・・やみが大水の上にあり」と記され、天がどのように創造されたかは記されていません

そして、その後の展開で、水が大空の上と下とに分けられ、大空の下の水が海にまとめられてかわいた地が生まれたと記され、その後、ノアのときに「天の水門が開かれ」て(7:11)、全地が再び水に覆われて滅ぼされた様子が描かれていました。

つまり、神のみことばが水と水とを分けてかわいた地を創造しながら、また同じみことばによって水がもとに戻され、昔の地が滅びたと記されているのです。

続けてここでは、今度は、「天」にも焦点が合わされながら、「しかし、今の天(複数)と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」(3:7)と記されています。

ここでは、かつての「地が神のみことばによって水の間に保たれ、滅びた」ということと、「今の天と地がみことばによって、火で焼かれるために蓄えられ・・保たれている」という対比が記されていますが、それによって、みことばによって創造された世界が、みことばによってさばきに向かっているということが強調されています。

なお、「火で焼かれる」とは、それによって目に見えるものが煙になって消え去るというイメージではなく、「火で精錬され」(Ⅱペテロ1:7)ることで、不純なものが取り除かれ純粋な金が現れるようなことを指しています。

「火」は、このもろもろの天とこの地をきよめるために用いられるのです。決して世界がまったく消え去るのではありません。

そして、私たちの時間の観念を正すために、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(3:8)と記されます。

これは、詩篇90篇4節に「あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです」と記されていることに由来します。人間の時間感覚で「主の日」がいつかを論じることはできません。

その上で、「主は、ある人たちがおそいと思っているように、約束のことを遅らせているのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(3:9)と記されます。

つまり、主の来臨は、「おそい」と解釈すべきではなく、主はすべての人の悔い改めを待ち望んで、さばきの日を遅らせておられると解釈すべきなのです。

ただし、その反対に、主のさばきなどずっと先のことだとあまく考えている人に対しては、「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます」(3:10)と言われます。

この手紙では、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たち」(2:10)に対するさばきが強調されていますが、彼らは人々を「肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷である」(2:18,19)と描かれていました。主の日は、彼らを突然襲い、彼らを滅ぼすことが明らかであるという意味で、彼らは情欲の奴隷であるとともに、滅びに仕える奴隷なのです。

2.「諸々の天は大きな響きをたてて過ぎ去り・・・地と地のいろいろなわざは明らかにされます」

そして、その日のことに関しては、まず、「その日には、諸々の天は大きな響きをたてて過ぎ去り」と描かれます。これは「消える」というより、現在の姿が過ぎ去って、新しい状態へと変えられるという意味が込められています。

そして、「その構成要素は焼かれて(絆を)解かれ、地と地のいろいろなわざは明らかにされます」(私訳)と記されています。この最後の部分は、新改訳脚注で、「見つけ出されます」と記されていますが、最近はその解釈の方が一般的になっており、ここは隠された罪が暴かれ、良い働きが評価されるという意味と理解することができます。

このあたりの表現がピンと来ないのは、私たちの「天」の理解が聖書の世界観から離れたものになっているからです。ここでの「天」は何よりも複数形ですから、「諸々の天」と訳した方が良いかもしれません。

パウロはコリント第二の手紙で、自分が味わった神秘体験を、「第三の天にまで引き上げられ・・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた」と記しています(12:2-4)。その際、「肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません」と二回も繰り返し、これが単なる恍惚体験ではなく、実際に、現在の天の領域を超えたということを強調しています。外典のエノク書には根拠は曖昧にしても七層の構造が記されます。

しかも、不思議なのは、現在サタンは、天と地の間の「空中の権威を持つ支配者」と描かれ、また、「この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」などという表現があります(エペソ2:2、6:12)。

つまり、天上世界の一部はサタンと悪霊の支配領域になっているので、天との交流を目指す宗教がサタンの支配下にあるなどということになるのです。「地は汚れ、天はきよい」などとは簡単に言えない部分があります。

しかも、主の救いが私たちに迫ってくる表現が、「主は天を曲げ、降りて来られた。暗やみを足台として」(詩篇18:9私訳)と描かれています。

またイザヤ64章1,2 節では、「あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう・・あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう」と記されています。

つまり、諸々の天は、神とこの地とを隔てる領域で、神のご支配がこの地に貫徹されるためには、諸々の天が過ぎ去る必要があるというのです。

そして、この諸々の天の「構成要素」が焼かれて、その絆が「解かれる」ことによって、この現在の「諸々の天が過ぎ去る」というのです。なお、これを「天の万象」と訳すと、現在の広い宇宙空間に存在する物質、星の数々ばかりがイメージされて、目に見えない諸々の天の領域を成り立たせている要素という基本がわからなくなってしまいます。

とにかくここでは、諸々の天の存在によって覆い隠されていた「地と地のいろいろなわざ」が、神と地を隔てる領域が消え去ることによって、明らかに見られるようになるということが描かれているのです。

つまり、ノアの大洪水のときには、この地の上のすべてが完全に滅ぼされて新しくなったのですが、この来たるべき「主の日」には、諸々の天にある構成要素が焼かれ、絆を解かれることによって、神のご支配がなんの隔ても邪魔もなくなくこの地に顕にされるという希望の時なのです。

黙示録22章5節では、信仰者の希望が、「神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない」と記されています。つまり、神によって創造された光を生み出す様々な構成要素を介することなく、神ご自身が直接私たちを照らしてくださるのです。

3.「神の日の現れ(パルーシア)を待ち望みながら・・聖い生き方と敬虔さの中に留まる」

そして続けて11-13節は、「このように、これらのものはみな解かれるのだとすれば、あなたがたは神の日の現れ(パルーシア)を待ち望みながら、どれほど聖い生き方と敬虔さの中に留まる必要があることでしょう。そのときには、諸々の天は燃やされて解かれ、その構成要素は焼かれて溶けるのです。

しかし、新しい諸天と新しい地とを、主の約束に従って、私たちは待ち望みます。そこには、正義が宿っています」と訳すことができます。

つまり、ここではオリオン座のベテルギウスが大爆発して消えるように、太陽が寿命を迎え、大爆発を起こして、この地球を一瞬のうちに霧のように蒸発させるような「世界の終わりを待ち望む?」ことが記されているのではありません。そうではなく、神と私たちを隔てる諸々の天の構成要素が燃やされ、その絆が解かれることによって、神の正義のご支配がこの世界を満たすようになることを待ち望むということなのです。

なお、「新しい天と新しい地」の姿は、何よりも、「そこには、正義が宿っています」と描かれていることを私たちは深く味わうべきうでしょう。人々は代々に渡って、暴力やお金の力によって、正義が曲げられていることを嘆いてきましたが、それが正されるのです。

残念ながら、この箇所の誤解から、この地上が放射能で汚染されようと、砂漠化が進もうと、どうせすべてが火で焼かれて消え去るのだから、私たちは人間のたましいの救いだけを考えればよいなどという解釈が生まれたことがあります。しかしここにおける中心テーマは、この「」の滅亡ではなく、「諸々の天」が火で焼かれきよめられ、隠されていた空中の権威を持つ支配者の欺きがあらわにされ、滅ぼされることにあるのです。

地上は一度、大洪水によって滅ぼされましたが、今度は、隠されていたすべてのことが明らかにされ、火で精錬されるのです。だからこそ、この諸々の天とこの地が火で焼かれるということと、聖い生き方と敬虔さがセットになって記されているのです。

主イエスはこの世界の苦難の後のことに関して次のように語っておられます(マタイ24:29-31、34,35、下線部私訳)。

「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天(単数)から落ち、天(複数)の諸々の力は揺れ動く。そのとき人の子のしるしが天(単数)に現れ・・・人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天(単数)の雲に乗って来る・・・

人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天(複数)の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます・・・

これらのことが全部起こってしまうまではこの時代は過ぎ去りません。この天(単数)とこの地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して過ぎ去ることがありません」

ここでは、諸々の天を襲う恐ろしい変化は、再臨のイエスが栄光を持って現れ、私たちの救いを完成に導いてくださる望みの時でもあると描かれます。

そして、「この時代が過ぎ去る」ことと、「この天と地が過ぎ去る」ことがほとんど同じような意味で重ねて言われる一方で、主のことばが決して「過ぎ去らないと強調されているのです。

なお、「太陽は暗くなり、星は天から落ち」は、科学的に理解すべきことというよりは、詩的な描写と考えるべきだと思われます。

私たちの人生には、世界の終わりと思えるような絶望感に襲われることがあり得ます。たとえば、最愛の人が亡くなった時、「私はその人の笑顔を期待して、どんな苦しみにも耐えられたのに、もうこれから生きる意味も目的もなくなった」などと思える時があるかもしれません。それがまさに「星が天から落ちる」ということと言えましょう。

しかし、この天とこの地は過ぎ去っても、主のことばは過ぎ去ることがありません。詩篇18篇では、「主が天を曲げ、降りて来られた」という記述が、「主(ヤハウェ)は、私の義に応じて報い、手のきよさに応じて返してくださった」という二回に渡る告白へとつながっています(20,24節)。

つまり、主は私たちの善い行いをきちんと見ておられ、それに対して誠実に報いてくださるということが、主の支配がこの地に明らかになることとして描かれているのです。

12-14節には三回に渡って「待ち望む」が繰り返されています。第一は、「神の日の現れを待ち望む」、第二は、「新しい天と新しい地を待ち望む」、第三は、「このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから」という表現です。

そして、その結論として、具体的な日々の生活の勧めが、「しみも傷もない者として、平安を持って御前に出られるように、励みなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」と記されます(14,15節)。

つまり、「新しい天と新しい地を待ち望む」生き方とは、何よりも神の御前に出ることを意識した生き方、日々の生活を聖く保つとともに、「主の忍耐が救い」であることを自覚して、自分と他の人の救いに気を配る生き方に他なりません。

その上で、15,16節では使徒パウロの手紙が当時誤解されて読まれることがあったことが示唆されています。パウロは、私たちがキリストにつながることによって罪の支配から自由にされ、神の怒りから救われたということ、つまり、私たちが神の前にこのままで義とされ、さばきを恐れる必要がなくなったということを繰り返し強調していますが、それを自分に都合よく、「もう聖い生き方を追求しなくても良い・・・」と解釈する人が現れたのだと思われます。

そのことが、「それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています・・・・よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないように注意しなさい。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と言われます(3:16-18)。

私たちは、常に成長を目指す必要があります。それこそ、この手紙のテーマです。私たちは最終的に、「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」(1:4)という約束が与えられています。それを可能にしてくださるのが聖霊の御業です。

そこでは、「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」(1:5-7)という成長のプロセスが描かれていました。

残念ながらこの世の宗教では、「信仰には力を、力には富を、富には権力を、権力には威厳を、威厳には奇跡を、奇跡には神秘を、神秘には神格化を」などということがまかり通りがちなので、ペテロはその反対の成長のプロセスをいつも心に留めるように命じたのです。

しかも、その成長は、自分の努力というのではなく、すべての強がりを捨て、何よりも示された罪を繰り返し告白し、自分を聖霊に明け渡すことによって生まれる成長です。

「新しい天と新しい地を待ち望む」という生き方は、何よりも、イエスご自身が教えてくださった「主の祈り」に現されています(マタイ6:9-13)。そこでは複数形の「天」と単数形の「天」の絶妙な使い分けがなされています。

最初は、「私たちのお父様、諸々の天におられる方」という呼びかけです。そこでは、全宇宙の広がりばかりか、「空中の権威を持つ支配者」としての「悪い者」(13節別訳)も、父なる神の支配下にあるという告白があります。

そして、「あなたの御名が聖とされるように、あなたのご支配が現されるように、あなたのご意志が行なわれるように」と三つの観点から祈られ、それらすべてにかかるように、「天(単数)におけるように地の上にも」と付け加えられます。そこでの「天」とは単数形で、神と神に忠実な御使いたちの領域を指します。

それは、「天において、御使いたちの中で、主の御名が聖とされ、ご支配が現され、みこころが行なわれているように、この地においても私たちの間で、神の御名が聖とされ、神のご支配が現され、神のご意志が行なわれるようにという祈りです。

This is my Father’s world 「ここも神の御国なれば」という讃美歌があります。その1,2番では、この目に見える世界に現されている神のご支配が喜び歌われています。

そして3番では、「ここは私の父の世界だ。たとい、この世の悪がどれほど強く見えたとしても、神こそがなお、支配者であることを忘れさせないでください。ここは神の御国であるが、戦いはまだ終わってはいない。しかし、やがて、私たちのために死なれたイエスが、満足される時がくる。そのとき、地と天はひとつとなっている」と歌われます。

天と地がひとつになるとは、先の、「天のように地の上にも」という祈りが完成するときです。その世界こそ、「正義の住む新しい天と新しい地」の約束が成就する場です。

「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望む」という生き方は、「この世でどんなに苦しいことがあっても、天国に入ったら・・・」という厭世的な希望の告白ではありません。

この世界も既に神の支配下にあります。ただ、空中の権威を持つ悪霊が人々を惑わし、神のご支配を見えなくさせています。それで私たちは十字架を負うキリストに習ってこの世界に神のご支配を証しするように召されているのです。

その働きが何の成果が見えなくても、失望する必要はありません。やがて、キリストが目に見える姿で現れ、その時に一瞬のうちにすべてを正されるからです。

私たちは最終的な勝利が保障された戦いに召されています。私たちは「神のことば」によってサタンの勢力に勝利することができます。ただその際、何よりも大切なのは「御霊によって祈る」ことです(エペソ6:17,18)。

つまり、みことばを読み、思い巡らすことと、世界のため教会のため互いのために「祈る」ことが信仰生活の両輪です。