「約束」という漢字には、目印を付け、木を束ねて縛るという意味が込められています。つまり、「約束」には互いを束縛する取り決めを忘れないようにするという意味があります。そして、これはヘブル語の「契約」ということばでも同じです。
当時、契約を結ぶ儀式には、「のろい」の警告と「祝福」の約束が付随していました。人は基本的に束縛されることを嫌いますが、たとえば、結婚はいろんな意味で束縛しあうことです。そして、子供が生まれれば子供に束縛されます。しかも、その束縛から逃げようとすると、家庭が壊れ、子供も傷つきます。
しかし、どんなに困難な中でも、互いの約束を守り通そうとするときそこに祝福が生まれます。つまり、契約に伴う「祝福」と「のろい」は身近な関係でも確認できることでもあるのです。
神はイスラエルの民と契約を結びましたが、彼らは神を裏切りました。その結果、彼らに「のろい」が実現しました。しかし、神はその豊かな哀れみのゆえに、彼らをその「のろい」の束縛から救い出すためにご自身の御子を遣わしてくださいました。
イエスを救い主と信じる者は、その受けるべきのろいをイエスに引き受けていただき、イエスが受けるべき祝福を受け取らせていただけます。そして、イエスは私たちとの新しい契約をご自身の十字架の犠牲によって保障してくださいました。
教会ではクリスマスのたびにイザヤ11章が朗読されますが、そこには救い主が、私たちを狼が子羊とともに住み、ライオンと小さい子供がともに遊び、乳飲み子がコブラの穴の上で戯れることができるような神の平和((シャローム)が満ちた世界を創造してくださると約束されています。神の御子は、その約束を成就するために人となってくださったのです。
そして、その神のシャロームの完成の約束は、必ず実現します。信仰とは、どんな暗闇の中でも、その約束に信頼し続けることです。
1.新しい創世記としてのキリストの系図
この福音書の最初は、「ビブロス・ゲネセオス」Book of Genesis(創世記)と記されています(新改訳「系図」)。これは、「起源の記録」という意味です。つまり、キリストの起源を語ることは、神による新しい創造を語ることなのです。
「聖書」とは厳密には「契約の書」と呼ぶべきで、旧約聖書がBook of Genesis(創世記)から始まるように、新約聖書もBook of Genesisから始まります。聖書はアブラハムからイエス・キリストに至る神の契約の物語です。
なお英語(ESV)でも、The book of the genealogy of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham. ということばから始まるように、確かに、最初に記されているのは系図なのですが、それは血筋ではなく、契約の歴史を語るのが主題です。だからこそ、「系図、イエス・キリストの」ということばの後に、「ダビデの息子の」ということばが記され、その後に「アブラハムの息子の」という順番で続きます。
キリストとは、「救い主」という以前に、厳密には「油注がれた者」(ヘブル語はメシヤ)で、それはダビデの家系を受け継ぐ「王」という意味があります。ですから、この方は当時、何よりも、「ダビデの子」と呼ばれるのが当然でした。ただ、ダビデのスキャンダルを知る人にとっては、「救い主のことをダビデの子と呼ぶなど、失礼では・・・」と思う方もいるかもしれません。しかし、それは血筋を尊重した見方であって、「契約」という概念を忘れているためです。
そして、原文では、「ダビデの子」ということばの後に「アブラハムの子」と記されています。神と罪人との間の契約はアブラハムから始まるからです。
私は長い間、ここには血筋による系図が記されていると誤解していました。しかし、それならイエスを産んだマリヤの系図を書くべきなのに、イエスとは何の血のつながりもないヨセフに至る系図が記されます。ヨセフは契約によってイエスの父とされた者です。これは現代的に言えば養子縁組で親子関係が作られることに似ています。
そして、聖書の親子関係では、血筋よりも法律上の親子関係の方が重視されています。実際、最近の英語訳では、「Abraham was the father of Isaac, and Isaac the father of Jacob・・・」と、「beget(生む)」の代わりに、「父となる」という表現を使うようになっています。
しかも、個別に見ると明らかですが、この系図には、大きな時代上のギャップがあります。また、アブラハムからダビデに至る世代を十四代でまとめるのは当時、既に一般的だったということが最近の研究で明らかになっていますが、それは歴史的というよりはダビデという名前を構成する三つのヘブル語のアルファベット子音(デレク、ワウ、デレク)に由来するもので、それぞれのアルファベット上の順番は、4、6、4になります。これを合わせると14という数字になります。
この系図が血筋ではなく契約を受け継いだ系図なので、系図にギャップがあるのは何の問題でもありません。だからこそ、イエスは契約の上で、「ダビデの子」であり、また「アブラハムの子」なのです。
2節から始まる具体的な名ですが、アブラハムは信仰の父と呼ばれます。私たち自身も信仰によってアブラハムの子とされているのですが、その信仰とは、90歳になった不妊の女サラからイサクが誕生することに関して、「神には約束されたことを成就する力がある」と信じたことにあります(ローマ4:19)。
また、神はアブラアムにひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよとの途方もない命令を与えましたが、彼はそれに従うことによって、自分を神、善悪の基準とするアダムの罪に勝利しました。そして、神は、このアブラハムの信仰の応答に対して、「あなたの後の子孫の神となる」(創世記17:7)という祝福を約束し、契約のしるしとしての割礼を与えました。
アブラハムには子孫が約束の地を占領するという約束と、その子孫が天の星のように増えるという約束が与えられましたが、聖書の物語の核心とは、アブラハムに対する主の契約が成就するというものです。
ただし、アブラハムは家長としては大きな欠点を持っていました。それがイサクに受け継がれます。彼は自分の食べ物の好みを優先してエサウを祝福しようとしますが、リベカの機転によって祝福はヤコブに受け継がれます。ヤコブはラケルの息子を偏愛し、子供たちの間に争いを作りますが、神は兄たちに奴隷に売られたヨセフを用いてヤコブ一族をエジプトで増えさせる計画を進めてくださいました。このプロセスで「ユダ」が家族をまとめるために大きな貢献をします。
ダビデはヤコブの第四男の「ユダ」の子孫です。ユダの子を産んだ「タマル」(3節)は、本来、息子エリの妻として迎えられましたが、彼は神のさばきを受けて死にます。タマルはその弟のオナンを通して子を設けようとしますが、彼はオナニーの語源となる行為によって神に裁かれて死にます。ユダはタマルを迎えた息子たちが次々に死んだのを恐れて、彼女を別の息子に嫁がせるのを恐れ、やもめのまま残そうとします。
それに対し、「タマル」は遊女の姿をして義父を欺き、子を設けました。しかし、父と息子の嫁が関係を持つことは本来、死罪にあたる罪とも思われました(レビ20:12)。ただ厳密にはこのときユダは妻を失い、タマルもやもめの状態であったので、神はこれを許されたのでしょうか。
とにかく、神はタマルの信仰を見られて、その子を祝福してくださいました。ユダヤ人はタマルという名を見たら、すぐにこれらの物語を思い起こします。
なお、ここで、「タマルによってパレスとザラが生まれ」とありますが、そのあとの、エスロン、アラム、アミナダブ、ナアソン、サルモンという系図は、ギリシャ語の発音による違いを除けば、Ⅰ歴代誌2章5-11と基本的に同じです。
エスロンはヤコブと共にエジプトに下りました(創世記46:12)。そして、民数記ではモーセと共にエジプトを出たユダの族長が「アミナダブの子ナフション」と描かれています。つまり、エジプトでの四百年の間にはアラムとアミナダブしか描かれていません。
また「サルモンにラハブによってボアズが生まれ」(5節)と記されていますが、これは旧約のどこにも記録のない隠された話だったようで、神がマタイに特別に示してくださった事実だと思われます。
「ラハブ」は、ヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを命がけで逃したエリコの遊女です。神は滅ぼすべきエリコの住民、しかも遊女のラハブの信仰を喜ばれサルモンに嫁がせたのだと思われます。なお、サルモンとボアズの間にも士師記のかなりの年月が隠されていると思われます。
そして、「ボアズにルツによってオベデが生まれ」(5節)の経緯はルツ記に描かれています。「ルツ」はモアブの女でした。申命記23章3節ではモアブ人の子はその十代の子孫さえイスラエルの民の交わりに入れてはならないと警告されていた「のわれた民」の娘でした。しかし、神は、姑のナオミに従ったルツの信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。
そして、その関係からオベデが生まれ、その息子としてダビデの父エッサイが生まれます。つまり、ダビデの曾祖母はモアブ人であったというのです。
なお、「ルツ」が「ボアズ」に嫁いだとき、町の人々は、「主(ヤハウェ)がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」(ルツ4:12)と祝福を祈りましたが、まさにそれが成就したのです。
遊女の姿になってユダと関係を持ち子を産んだタマル、ヨシュアに味方したエリコの遊女のラハブ、のろわれた民モアブの娘のルツがダビデの系図に名を連ねるというのは何とも驚きですが、それで終わりません。
また、「ダビデにウリヤの妻によってソロモンが生まれた」というのは、ダビデと「ウリヤの妻」バテシェバとの不倫関係を敢えて強調しているかのようです。しかも、ウリヤはユダヤ人ではないのにダビデの忠実な家来になった人です。この記し方は、ダビデがその信頼を裏切って、忠実な家来の妻を奪い取ったという罪を明確にします。
しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えてくださいました。
この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろい」でしかありませんでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果として、祝福の基と変えられたのです。
キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。
2.神がダビデと結んだ契約
ダビデの子ソロモンから「バビロン移住の頃のエコニヤ(エホヤキン)」までの歴史に関しては、列王記や歴代誌に詳しく記されています。その間、20人の正式な王が立っていましたが、そのうちの14名だけがこの系図に記され6人の王の名は省かれています。省かれた理由はわかりませんが、ここに名を連ねている王も問題に満ちています。
ソロモンの子の「レハブアム」は傲慢さのために国を分裂させました。「アビヤ」はたった3年間の支配の後に死に、「アサ」は41年間王位に留まりダビデのように主の目にかなうことを行ない(Ⅰ列王15:11)、「ヨサパテ」も主の目にかなう歩みをしますが、北王国の悪王アハブの家と同盟を結び、その息子の「ヨラム」はアハブの娘アタルヤを妻に迎えてしまいます。これによって北王国の偶像礼拝が南王国に本格的に入ってしまいました。
なお、ヨラムからウジヤの間には三人の王の名が隠されていますが、彼らはみな北の王や家来たちに殺害されています。
「ウジヤ」はユダ王国の最盛期を導いた主の目にかなう王でしたが、晩年に傲慢になって神のさばきを受けます。その子のヨタムも主の目にかなう王でしたが、その子のアハズは何と、エルサレム神殿に異教の神への祭壇を建て、神の怒りを引き起こしました。
なお、その子の「ヒゼキヤ」と、ヒゼキヤのひ孫の「ヨシヤ」はダビデに並び称されるほどの傑出した王ですが、このふたりの間に在位した「マナセ」と「アモン」は最悪の王です。
伝承によれば、預言者イザヤはマナセによって鋸引きの刑で惨殺されました。その子のアモンは何と宮殿の中で家来に殺されるほどに無能な王でした。このふたりの名を省くと、この系図は、少しは美しく見えるのですが、マタイは敢えてこのふたりの救いがたい王の名も記しています。
それは、神の救いのご計画は、そのような無能で愚かで、不敬虔な王の存在にも関わらず、進んで行ったということを証しするためです。ヨシヤからエコニヤの間に二人の王の名が省かれています。
「バビロン移住のころ」(11節)の王として記される「エコニヤ」は、実際は最後から二番目の王ですが、バビロン帝国にすぐに降伏したため、捕囚の地バビロンで優遇され、ダビデの子孫を残すことができました。ここで不思議にも「捕囚」ではなく「移住」と記されているのは、目に見える王国は滅びても、ダビデ王家は絶えてはいないことを明らかにするためです。
ヨセフ物語では、エジプトの支配者となったヨセフが、自分を奴隷に売った兄たちの悔い改めを知って自分の身を明かしたとき、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなた方より先に、私を遣わしてくださったのです」(創世記45:5,6)と言いました。
奴隷に売られたことを、神が遣わしてくださった、と言い換えたのです。そしてここでも、バビロンに奴隷として強制移住させられたことを、神のみわざとして描かれています。
サムエル記第二7章には、かつてダビデが、主の神殿を建てようと思い立ったとき、主ご自身がダビデに、彼から生まれる子が神殿を建て、たとい、その子が罪を犯しても、彼を懲らしめはしても、サウルのようにはしないという意味で、「わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」と約束してくださいました(15、16節)。
一方、神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取りました。
その結果がバビロン捕囚であり、それは申命記28章7節以降に詳しく警告されていたことでした。しかし、神の計画は、民の不従順によって無に帰すことはありません。
そのことを神は、預言者エレミヤを通して、今まさにバビロンによって廃墟にされようとしているエルサレムに対して、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。
天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(エレミヤ33:20-22)と約束してくださいました。
簡単に言うと、目の前には途方もない悲惨が迫っているが、それは神の約束が反故にされたということを意味しない、この苦しみの後には、すばらしい祝福の世界が広がっているから、それを待ち続けるようにという励ましです。
その神の約束の確かさは、この天と地の規則的な動きを見ればわかるだろうと、二千六百年前から言われていることだというのです。
3.「バビロン移住からキリストまでが十四代になる」
なお、「バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ」とありますが、このエコニヤは二回数えないと17節の「十四代」が成り立ちません。これに関してエレミヤは興味深い記述を残します。
その22章30節には「この人を『子を残さず、一生さえない男』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ」と記されます。ところが、そのすぐ後の、23章5節には、「その日、わたしは、ダビデにひとつの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう」と記され、最後にはエコニヤが捕らえ移されて37年目に獄屋から出され、バビロンの王の前で食事をするようになったと描かれ、Ⅰ歴代誌3章17,18節では彼に七人もの子供が生まれたと記されます。
まるでふたりのエコニヤがいるかのようです。つまり、バビロン捕囚は、主のさばきとして実現したのですが、そこで同時に、ダビデに対する契約のゆえに人の目には理解しがたい神のご計画が進んでいるということになるのです。
なお、続けて、「サラテルにゾロバベルが生まれた」と記されますが、血筋から言えば、12節の「ゾロバベル」は、エコニヤの子の「サラテルの子」ではなく、サラテルの甥です。それはこの系図が、血筋によるものではなく、ダビデ契約を受け継いだという神の目からの系図だからです。
なお、エズラ記ではこの人の名はゼルバベルとして描かれ祭司ヨシュアと共に、廃墟となっていたエルサレム神殿を再建しています。それが可能になったのは、バビロン帝国を滅ぼしたペルシャの王クロスが、エジプトを支配するためカナンの地に特別な恩恵を施そうとユダヤ人の帰還を助け、神殿建設を援助したからでした。
預言者ハガイは再建されようとしている神殿の小ささに失望しているイスラエルの民に向かって、「わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ…この宮のこれから後の栄光は先のものよりまさろう」(2:7,9)と言われました。
神の救いは、人間の目には、絶望的な状況の中で、人の目には分からない形で進められるというのです。
なお、また歴代誌では、ゼルバベルの子の中に「アビウデ」という名はありません(第一3:17-19)。そしてアビウデからヨセフに至る名は、この福音書以外のどこにも出てきません。その期間は五百数十年があったと思われますから、これ以外の名も存在したことでしょう。
その上で、16節では、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」と、何よりもマリヤの夫のヨセフがダビデ契約の後継者であることが強調されます。イエスの父となったヨセフの父が「ヤコブ」と記されているのも興味深いことです。
イスラエルという名を与えられた最初のヤコブは、兄のエサウから逃れ、母の実家で騙されながら12人の子を生み、豊かになって約束の地に帰って来ました。その子のヨセフは奴隷として売られることで、エジプトで総理大臣になりました、ダビデは初代の王サウルから命を狙われる中で家来たちのとの絆を強め、王権の基礎を作りました。
すべて、人間の目には、「神がともにおられるなら、どうしてこのような不条理が許されるのか・・・」という悲惨を体験しながら、それを通して、神の栄光が現されて行きました。
そして、この系図の最後に、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」とあるようにイエスがダビデの正当な子孫であることの保障は、マリヤではなくヨセフにあることが明らかに記されています。
17節では、この系図が三つの期間に分けられます。第一期は「アブラハムからダビデ」で苦しみを通しての祝福、第二期はソロモンからエコニヤでバビロン捕囚に至る破滅に向かう時期、第三期はエコニヤ以降の外国の支配に服しながら救い主を待ち望むどん底の時期です。
それぞれが十四代として描かれており、これらを合わせると、七代が六回繰り返されていることが分かります。つまり、キリストは第七回目の新しい世代、歴史の完成の時代の幕開けとして位置づけられます。
18節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、これも1節と同じように、「キリストの起源“Christ’s Genesis”」と記されています。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。
しかも、ここにはマリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。マリヤが救い主の母となることができたのは、彼女の信仰が神に喜ばれたものであったことは確かなのでしょうが、神のみわざをただ忠実に啓示しようとするマタイにとっては重要なことではありませんでした。
イエスが誕生した頃のユダヤでは、宗教指導者たちが自分たちの信仰を人間的な基準で競い、評価しあっていました。神の約束を見る前に、人間の信仰が神を動かすかのような発想の人々が多くいました。
それは現在にも通じます。「あの人は信仰深いから・・・」とか、「私の信仰は、まだ未熟だから・・・」などということばが現在も飛び交っていますが、そのようなことは注意すべきではないかと思います。
とにかく、ここでは、マリヤが救い主の母となることができたのは、彼女の信仰以前に、彼女が、「ダビデの子」の「ヨセフ」の婚約者であったということが何よりも大切なことであったと描かれているのです。
私たちのまわりには、約束を平気で破るような人々が多くいるように見えるかもしれません。しかし、キリスト者として生きるとは、何よりも、神の約束に信頼し、人に裏切られても、自分は約束を裏切らない者として生きることです。そこに人生の美しさ、人生の喜びが生まれます。
この世の人々は、愛に飢えています。富や権力に動かされながらも、約束を守り通してくれる誠実な友を求めています。しかし、恐怖のために、自分の身を守ることばかりを優先し、互いに傷つけ合うことがあります。それは、神の真実を知らないからです。
多くの人々がとまどうこの系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証しです。のろいを祝福に変えてくださったということの証し、旧約の預言がひとつひとつ成就したということの証しです。
私たちは、これを味わうとき、神がこれからの私たちの人生を確実に守り通してくださるということがわかります。
それにしても、アブラハムから始まるキリストの系図を見てわかるのは、それは決して、偉大な信仰者たちの歴史というよりも神の再創造のみわざです。
そこに描かれただれひとりとして、挫折のない歩みはありません。基本的なパターンはすべて、苦しみに会うことで、神に祈ることを教えられ、神が人間的な想像を超える形で、ご自身の不思議な救いを実現して怒れたという歩みです。
私たちは今、目の前の問題をなるべく短期間にスムーズに解決するようなことが求められる文化の中に生きています。しかし、そのような人間的な能力や力を礼賛する文化の中で、競争に負け、居場所を失い、見捨てられたような歩みをする人々が増えています。そして、みんな、この生存競争から落ちこぼれないようにと必死に生きています。
しかし、神がアブラハムからキリストに至る系図で明らかにしているのは、神の救いは、奇想天外な神の一方的なあわれみによって実現するものであるということでした。主は預言者イザヤを通して次のようなみことばの成就を語っておられます。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なる・・・天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種まく者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしのくちからでるわたしのことばもむなしくわたしのところに帰っては来ない。必ずわたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる・・・
いばらの代わりにモミの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」(イザヤ55:8-13)