創世記35章16節〜42章9節「夢を見させ実現してくださる神」

2014年11月30日

1990年以降のバブル経済崩壊、1995年のオウム真理教事件は、多くの日本人から信仰的な面での「夢」を奪い取りましたが、今もその後遺症に支配されている人が多いのかもしれません。

たしかに、高度成長時代の多くの人々の「夢」は、持ち家やマイカーという「空しいもの」だったかもしれませんが、どんな夢であっても、夢を持っているということ自体が人々に生きる力を与えていたと言えるかもしれません。

最近では、何よりも原発事故という不条理が、日本人の夢を奪っています。それにしても、私たちはこの世を支配する不条理の中で、本当の意味での「夢」を忘れてはいないでしょうか。夢を見させ、それを実現してくださる神のみわざにともに目を向けてみましょう。

1.ベニヤミンの誕生、ルベンの罪、エサウの家系

ヤコブがベテルでの礼拝の後、さらに南下する旅の途中、ラケルは「ひどい陣痛」とともにベニヤミンを出産します(35:16、17)。彼女は「死に臨み」ながら、その子を「私の苦しみの子」という意味で「ベン・オニ」と呼びますが、ヤコブは彼を「右手の子」という意味でベニヤミンと名づけます。

ベニヤミンの誕生はヤコブにとって最愛の妻ラケルを失うという犠牲を伴いましたが、彼はその子を自分の右手のような名誉ある、かけがえのない子と見たのです。

これによってイスラエルの十二部族の父がそろいますが、ヤコブにとってラケルが産んだ二人の子は宝となりました。

ところがそのとたん、「ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た」(35:22)というのです。これは父に対する最大の侮辱で、これによって、ルベンは長子の権利を失います(49:3,4、Ⅰ歴代5:1)。

彼は、母のレアがヤコブから愛されるようにと「恋なすび」を持ってきたようなアダルト・チャイルド的な息子でした(30:14)。ビルハは、母と愛を競っていたラケルの女奴隷ですから、ルベンには抑えられない情欲とともに、歪んだ家族関係への怒りがあったのかもしれません。

その上でヤコブの十二人の子の名がそれぞれの母の名とともに記されます(35:23,26)。

その後、ヤコブが「ヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った」という記述の直後にイサクの死が描かれますが、そこでは「エサウとヤコブが彼を葬った」と、ふたりの和解による共同作業が強調されています。

36章では、「エサウの歴史」が記されます。不思議なのは、「エサウは・・弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。それは、ふたりがともに住むには彼らの持ち物が多すぎて」と記されている点です(6,7節)。エサウはヤコブがこの地に帰って来る前から既にセイル住んでおり(32:3)、ふたりがともに住むには狭すぎたので「セイルの山地に住みついた」(36:8)わけではないはずだからです。

しかし、ここは時間的な因果関係を超えて、神の視点からエサウとヤコブの和解を描き、彼らの持ち物が多すぎたために、分かれて住むようになったと描かれていると言えましょう。これはアブラハムとロトが分かれて住んだことを思い起こさせる記述です(13:6)。それは、神がヤコブの兄エサウの子孫ひとりひとりをも導いておられるというしるしです。

なお31節で、「イスラエル人の王が治める以前、エドムの地で治めていた王たちは」と記されますが、これはⅠ歴代誌1:43にもあると同じ表現で、エサウの子孫がエドムと呼ばれ、比較的早い時期に王制を敷き、後にイスラエルの王に支配されることを描いたものです。

また40-43節のエサウから出た11人の首長の名は歴代誌にも描かれます。

なお申命記23章では、「エドム人を忌み嫌ってはならない・・彼らに生まれた子供たちは、三代目には、主の集会に入ることができる」(7,8節)と特別待遇にされています。

ベニヤミンという命名、ルベンの罪、エサウに関しての記述すべての共通するのは、人間的な原因結果の見方を超えて、神の視点から目の前の出来事の意味づけを見直す(リフレイミング)必要があるということです。

2.「あの夢見る者」と兄弟たちから憎まれたヨセフ

37章2節には「これはヤコブの歴史である」と記され、ここからヨセフ物語が始まります。まず、「ヨセフは17歳のとき」の悲劇が記される前に、その原因として、「イスラエル(ヤコブ)は、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた・・・彼の兄たちは・・父が兄弟のだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった」(37:3、4)と描かれます。

ヤコブ自身、「イサクはエサウを愛していた・・」(25:28)という関係で傷ついていたにも関わらず、親の過ちを繰り返しています。

しかも、ヨセフは、兄たちの思いに無頓着に、自分が見た夢を兄たちに告げます。それは、ヨセフと兄たちが畑で束をたばねていたところ、ヨセフの束がまっすぐに立って、兄たちの束がまわりに来てヨセフの束におじぎをするというものでした。それを聞いた兄たちは、「おまえは私たちを治める王になろうとするのか」と言って、「彼をますます憎むようになった」と描かれます(37:8)。

ところが、ヨセフはなおも別の夢を、「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」と語ります。それは父と母と十一人の兄弟たちすべてが彼を伏し拝むという意味でした。父はそれを聞いて怒りながらも、「このことを心に留めていた」(37:11)というのです。

そして、この夢を見させてくださったのは神ご自身でした。その後の記述は、その夢が実現するという物語です。

「その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけ」、父ヤコブは、兄たちの思いに無頓着に、ヨセフを使いにやります(37:12,13)。ヤコブは息子たちの葛藤を全く見ようとしていません。

兄たちは、「はるかかなたに、彼を見て・・『見ろ。あの夢見る者がやってくる。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。』と互いに言った」(37:18-20)のでした。

この際、ルベンはヨセフを救い出し、父のところに返そうとします。しかし、彼のいないうちに、ユダの主導で、ヨセフはイシュマエル人の隊商に売られます。それはユダが、兄弟たちに弟ヨセフを殺させないためでした。この時点から、ルベンに代わってユダが兄弟たちを導く姿が見られます。

それにしてもイシュマエル人も、アブラハムの子孫ですが、女奴隷ハガルの子でした。ここに、約束の子が、奴隷の子に売り飛ばされるという皮肉が描かれます。

兄たちは、ヨセフの長服を雄やぎの血に浸して持ちかえります。ヤコブはそれを見て、ヨセフが獣にかみ裂かれたと思い、泣き悲しみ「慰められることを拒み」、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」とまで言います(37:35)。

ヤコブにはまだ死後の「いのち」という視点はなかったのだと思われます。

それにしても、かつて、やぎの毛を用いて父を騙したヤコブは、息子たちからやぎの血で騙されたのです。

ところが、ヨセフはエジプトで、パロの重臣の侍従長ポティファルに売られます(37:36)。ヨセフが奴隷に売られたのは、ヤコブの息子の罪深さがもたらした悲劇でした。

神は、それを差し止めることもできたはずですが、ただじっと見ておられました。神は沈黙しておられるかのようです。しかし、すべては神の御手の中で起きていました。

3.「あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」

38章ではユダの物語が記されます。彼はレアから生まれた四男です。ルベン、シメオン、レビはその悪行によりヤコブからうとまれます。しかし、ユダも、弟を奴隷に売ったばかりか、カナン人の娘を躊躇なく娶り、三人の息子を生みます。

なお、ユダは「長子エルにタマルという妻を迎え」ますが、「エルは主(ヤハウェ)を怒らせていたので」、死にます(6、7節)。その詳細は分かりませんが、タマルはこれによって次男オナンを通して、長子エルの子孫を残す使命が課せられます。

ところが、オナンは、タマルを通して兄の子孫を生むことを拒否し、精を地に流します。これはオナニーの語源とされる出来事です。そして、このことでオナンは「主(ヤハウェ)を怒らせ」、主は彼を殺します(10節)。

タマルはユダの三男シェラを通して子孫を残すべきはずでしたが、ユダは息子の死を恐れて、タマルを「やもめのまま」(11節)に残します。

それでタマルは、遊女のふりをして、舅のユダと関係を持ち、彼の印形とひもと杖を代金代わりに預かり、妊娠したときそれをユダに見せて誰の子であるかを明らかにしました。彼女は、焼き殺される危険を犯して、子どもを得ました。それを見てユダは「あの女は私より正しい」(26節)と言いました。

それが後の時代にも評価され、「あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家になりますように」(ルツ4:12)という祝福のことばに用いられるようになり、彼女の名はキリストの系図にも出てくることになります。

舅と嫁が関係を持って、子孫を残そうとするということは、神のみこころに明確に反するはずです(レビ記18:15)。しかし、神は、タマルの使命感の方に目を留めて、それを喜んでくださったのです。ここにもリフレイミングが見られます。

4.「主(ヤーウェ)が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった」

ところでヨセフの痛みや悲しみに聖書記者は沈黙したまま、エジプトの侍従長の家で、「主(ヤハウェ)がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり・・彼の主人は、主(ヤハウェ)が彼とともにおられ主(ヤハウェ)が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た」(39:2、3)と描かれます。

彼は、その家の全財産の管理を委ねられます。そればかりか、「主(ヤハウェ)はヨセフゆえに、このエジプト人の家を、祝福され」(39:5)ます。

兄たちから奴隷に売られたヨセフが、「幸運な人」と呼ばれていたり、彼のゆえにエジプト人の家が豊かにされるとは、何とも不思議です。

ところが、「ヨセフは体格も良く、美男子であった」(39:6)のに惹かれた主人の妻は、彼に関係を迫ります。しかし、彼は「どうして・・・私は神に罪を犯すことができましょうか」(36:9)と拒絶します。彼の信仰は、ここで初めて表現されます。それは、奴隷の身に置かれながらも、主の祝福を体験できたことの応答です。

しかしある時、主人の妻は、彼の上着をつかんで関係を願い、拒絶されると、「私にいたずらをしようとして私のところに入ってきました」(39:17)と濡れ衣を着せました。その結果、「王の囚人が監禁されている監獄に」入れられます(40:20)。

ここでもヨセフの無念の気持ちには触れられないまま、「主(ヤハウェ)はヨセフとともにおられ、彼に恵み(ヘセド)を施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで、監獄の長は・・すべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった・・・それは主(ヤハウェ)が彼とともにおられ、彼が何をしても、主(ヤハウェ)がそれを成功させてくださったから」(39:21-23)と描かれます。

この記述の基本は2,3節と同じで、「主(ヤハウェ)がともにおられ」が二回繰り返され、「主(ヤハウェ)が成功させてくださる」という結果が描かれます。

なお、37章から始まるヨセフ物語には「主(ヤハウェ)」という名が、50章までに12回出て来ますが、そのうち8回がこの39章に集中します。他の三回は38章におけるユダの子たちへの怒り、他の1回は49章18節の祈りだけです。つまり、39章こそが、ヨセフ物語の核心部分なのです。主は苦難のただ中に、ともにおられ、それを益に変えてくださるのです。

主がヨセフと共におられるなら、なぜ兄弟から奴隷に売られ、無実の罪で監獄に入れられるのかと思います。その悲劇をもたらしたのは人間の罪です。しかしその中で、神のご計画は着実に進んでいました。

ですから、私たちも、自分の置かれている場が、世の不条理に振り回された結果であろうとも、それも神の御手の中にあることを覚え、そこで誠実に生きることが求められます。神の祝福は、その不条理のただ中に現されるからです。

5.「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか」

40章では、王のそばに仕えるふたりの高官、献酌官長と調理官長が「王に罪を犯し」、監獄に拘留され、ヨセフが彼らの「付き人」になる様子が描かれます。

ある時、このふたりは、自分たちが見た夢のために悩んでいました。それに対し、ヨセフは「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話して下さい」(40:8)と自分の信仰を告白しつつ、促します。ふたりの高官の葛藤とヨセフの余裕が何と対照的なことでしょう。

献酌官長の夢は、三日のうちに彼がもとの地位に戻されるというものでした。ヨセフはそれを解きき明かしながら、彼に切々と、「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵み(ヘセド)を施してください・・私のことをパロに話してください」(40:14)と訴えます。

ヨセフは、あらゆる機会を用いて、不当な状況から抜け出るように努力しています。一方、調理官長の夢は、三日のうちに木につるされるというものでした。そして、すべてヨセフの解き明かしの通りになります。

ただ、その後のことが、「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れて」(40:23)しまったと描かれます。ヨセフはどれほど落胆したことでしょう。

そして、「それから二年の後、パロは夢を見た」(41:1)というのです。ここでも、ヨセフの心の揺れは描かれませんが、彼は二年間も監獄で待ち続ける必要がありました。

しかし神は、ご自身の時に、パロに不思議なふたつの夢を見させ、「心が騒ぐ」ようにされました(41:8)。そして、献酌官長は、このときになって初めてヨセフのことを思い出し、パロに紹介しました。

パロはヨセフに夢の解き明かしの能力を尋ねると、彼は「私ではありません。神がパロの繁栄(シャローム)を知らせてくださるのです」と答えます(41:15,16)。

そして、ヨセフはその夢が、七年間の豊作の後に七年間の飢饉が続くことを意味すると解き明かしました。その際、彼は、「神がなさろうとすることをパロに示されたのです」(41:25,28)と繰り返し、「神によって定められ、神がすみやかにこれをなさる」(41:32)と、神のご支配を強調します。

そしてその上で、「さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように・・・」(42:33)以下の具体的な政策提言までします。

それに対しパロは、「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか・・・神がこれらすべてのことをあなたに知らせたのであれば、あなたのようにさとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ・・私はあなたにエジプト全土を支配させよう」(41:38-41)と言います。

不思議に、パロは、ヨセフが語った「神のご支配」の現実を認めつつ、ヨセフがその神に目を留められているということを理由に、彼にエジプトの支配を委ねました。自分を現人神と称するはずのパロがヨセフの神を認め、ヨセフを囚人から総理大臣の地位へと一挙に引き上げたのです。これはどんな立身出世の物語も及びもつかない神ご自身が演出された逆転劇です。

ただ、ヨセフは同時に、エジプト人としての名を与えられ、現在のカイロの北東12㎞にある「オン」という町の、太陽神を礼拝する「祭司の娘と結婚させられます。

これはヨセフがエジプトの支配層に完全に受け入れられたことを意味しますが、同時に、それはヨセフの意に反して受け入れざるを得なかった代償と言えましょう。

なお、ここで、「ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったのは三十歳であった」(41:46)と記されます。これは、奴隷に売られて十三年後を意味します。彼は、このように苦しみを通して祝福を受けたという思いを、マナセとエフライムというふたりの子の名に表わしますが、そこには、「神が・・私の父の全家を忘れさせた」とか、「神が私の苦しみの地で・・」という痛みも込められています(41:51、52)。このふたりの母親が異教の祭司の娘であるというのも何とも皮肉です。

不思議なのは、ここに至るまで、ヨセフの心の悲しみについては沈黙されたままということです。それは私たちの目が、ヨセフの信仰に向けられるのではなく、神ご自身に向けられるためではないでしょうか。私たちはこのヨセフ物語を、決して偉人伝説にしてはならないのです。

42章の始まりでは、七年間の飢饉が始まった中で、カナンのヤコブのもとからが十人の兄たち穀物買い付けのために送られてくると描かれます。ベニヤミンに関しては、ヤコブがラケルの一人息子ということで行かせませんでした。

十人の兄たちは、「顔を地につけて」ヨセフを「伏し拝」みます(42:6)。その時、「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出し」(42:9)ます。まさに、神がヨセフに夢を見させ、成就してくださったのです。

ヨセフが奴隷に売られても、無実の罪で監獄に入れられても、そこで主の臨在を感じることができたのは、それらすべての苦難の初めに、神からの夢を見ていたからではないでしょうか。

もちろん、彼は、自分の見た夢がこのような形で実現するとは、まさに夢にも思わなかったことでしょうが、彼の生涯が苦難のまま終わることはないということは、どこかで確信していたのではないでしょうか。その希望の確信こそが彼に困難に耐える力を与えたのではないでしょうか。

聖書的な夢で世界を動かした代表者と言えばマルティン・ルーサー・キング牧師かもしれません。1963年8月に彼は、「I have a dreamという有名な演説で、自分がいつか暗殺されることを意識しつつ、「夢」を語りました。

彼は、白人と黒人との平和を、イザヤ11章の「狼は子羊とともに・・・」のレトリックを用いて次のように表現しています。

「今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある・・・・それは、いつの日か・・・かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである・・・

私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。私は今日、夢を持っている。

私には夢がある。それは悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か、幼い黒人の男の子と女の子が、白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである・・・

これが私の希望なのである・・・こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることができるのである」

それから五年後、彼は自分の死を予感しつつ、「この目で、主が来られる栄光を見た」と言った翌日、メンフィスで暗殺されます。それから40年たったアメリカで、当時誰も予期しなかったこと、あるひとりの黒人と白人との間に生まれた子が大統領になりました。

オバマ大統領は、それまでの不の遺産を背負って苦しんでおり、その政策に批判があるのは当然ですが、キング牧師の夢が実現したということは、誰も否定できない事実ではないでしょうか。

主の再臨によって実現する「」と、目の前の平和の「は切り離せない関係にあります。それどころか、イザヤの預言が成就することを信じているからこそ、私たちは目の前の問題に、平和の使者として向かってゆくことができます。永遠の夢を持つからこそ、私たちの中に、この世の悪に屈しないための力が生まれるのです。

しばしば人は、自分の過去の過ちを正当化したり、後悔したりと、原因結果ばかりに目が向かい、それを超えた神のみわざを忘れがちです。しかし、どんなに暗い過去を持っていても、今ここで、「主がともにおられる」ことを信じるなら、そこに確かな希望が生まれます。それこそヨセフ物語の核心です。

神はあなたの人生を確かに導いておられます。人生のゴールは、失望ではなく、神のご支配が誰の目にも明らかな、平和に満ちた世界なのです。

神は私たちにも、みことばを通して、「新しい天と新しい地」また「新しいエルサレム」という夢を見させてくださいました。そして、私たちの人生も、その夢が実現される途上にあります。キリストの教会の交わりは、その夢を世界に証するために存在します

たとえば、チェルノブイリの原発事故のあと、その近郊で多くのユダヤ人がイエスを主と告白するようになりましたが、彼らは教会を形成するにあたり、それまで迫害されてきたユダヤ人と迫害した側のウクライナ人が、ともに礼拝できることを何よりも大切にしているとのことです。なぜなら、キリストの教会の使命は何よりも、民族の和解や、様々な階層間の和解を目に見える形で表現することにあるからです。

ひょっとしたら、皆さんの中に、「私はこの教会では少し浮いた存在かもしれない・・」などと感じることがあるとしたら(意外に誰でも一度は、そう感じるものですが・・・)、そこにこそあなたの使命があります。それは、あなたこそが違った種類の人間を集めるための契機として、神がこの集まりに加えてくださったと解釈できるからです。

キリストの教会のいのちは、何よりも、異なった民族、異なった年代、異なった社会階層、多様性を保った人々がともに礼拝できることにあります。