聖書全体には、創造主の圧倒的な愛の物語が描かれていますが、そこには同時に、神の愛を無視する者への永遠のさばきが描かれています。「のろい」と「祝福」をセットに提示するというのは、申命記以来の聖書の記され方ですが、しばしば、聖書全体の文脈を離れて、地獄の恐怖ばかりが独り歩きすることがありました。
ある米国在住の方が証ししておられたように、従来の福音的な教会では、神の厳しいさばきによって人々の地獄落ちが不可避であるという「悪い知らせ」を納得していただいて初めて、「良い知らせ」としての「救い」が提示できるという枠組みが一般的だったかもしれません。
しかし、それでは、東日本大震災や収拾の目処がつかないような放射能漏れというこの世の地獄のような「悪い知らせ」に苦しんでいる人々の反発を招いてしまうだけにならないでしょうか。
それ以前に、北米においても、迫り来る世の終わりの滅びの警告?とセットに「救い」を提示するという従来の福音宣教のあり方に対する反省が生まれ、より大きな神の救いの物語を聖書全体から提示する必要が説かれるようになって来ました。
特に今から二十年ほど前から北米の福音自由教会でも従来の信仰十二箇条の見直しが進められ、2008年に新しい信仰箇条が米国、カナダ両国の福音自由教会で採択されました。もちろん、信仰告白の基本は何も変わってはないのですが、神の救いのご計画がより幅広く解き明かされるようになっています。
米国とカナダの新しい信仰箇条は十箇条からなり、9条に若干の違いがある以外は全く同じです(9条は米国で保守派の抵抗で後に文言が変わった?)。
その第1条は以前は聖書の無誤性が記されていましたが、それは2条と入れ替わり、新しい1条では三位一体の創造主による「新しい創造」のみわざが描かれています。これは神による救いのご計画と新しい創造という観点を前提として聖書を読むという方向を示しているように思われます。
その後、人間の堕落、キリスト論、救済論、聖霊論が記され、第7条では教会論と礼典論がともに記され、8条においては、神による義認の恵みとセットに神による聖化の力と目的、またキリスト者の社会的責任や霊的な戦い、キリストの弟子としての成長のことが語られています。
また9条の再臨の教えにおいては、キリストの再臨の時期が人には分からないことが強調されながら、特にカナダの信仰箇条では「千年王国」という記述の代わりに、キリストご自身が既に始まっている「神の国」を完成に導いてくださることと、「キリストご自身による公正なさばき」を待ち望むことこそが現在の敬虔な生活と献身的な奉仕や伝道の原動力となるというように説明されています。
また10条においては従来通り、「死者の身体の復活」に関して、もちろん、不信者に対する永遠の意識的な苦しみのさばきとセットではありますが、信者に対する希望が、「新しい天と新しい地における永遠の祝福と喜び」として描かれています。
既に始まっている「神の国」の完成への期待、または「新しい天と新しい地」への望みが信仰告白の前面に出されるということは、北米の福音派では最近になってのことかもしれません(19,20世紀の神学の偏りのため)。
幸い当教会においては米国やカナダに8年も先立つ2000年3月において、教会のビジョンが、「新しい天と新しい地を待ち望み、その創造主を霊とまことによって礼拝し、キリストのみからだとして互いに愛し合い、地の塩、世の光として派遣される」とまとめられております。
本日は特に、新会堂のステンドグラスのコンセプトでもあります、「新しい天と新しい地を待ち望む」ということについて改めて考えてみたいと思います(以下はすべて私訳による)。
1.「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」
「この地で自分を祝福する者は、真実の神によって自分を祝福し、この地で誓う者は、真実の神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16)とありますが、「真実の神」ということばが、原文では「アーメンの神」という不思議な表現になっています。
それは、信仰者の歩みが、遠い将来の平和(シャローム)の完成の約束への「憧れ」に生きる状態が解消され、約束されたものを目の当たりに見ることを意味します。
そして、神が驚くべき約束が、「なぜなら、見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造するからだ・・・むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを・・・。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を(創造して)楽しみとする」(65:17-19)と描かれます。
ここでは、「わたしは・・創造する」と三度も繰り返され、「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応して記されます。
これは、エルサレム神殿が破壊され、バビロンへの捕囚とされたイスラエルの民に向かっての招きです。彼らはアッシリヤやバビロンとエジプトという巨大帝国にはさまれて、力の均衡ばかりを考え、神を仰ぎ見ることを忘れていました。
かつてモーセは彼らに、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と繰り返し語っていたのに、彼らはのろいを選んでしまいました。まさに、彼らの苦しみは自業自得です。
ところが、そんな彼らを神は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22)と招いてくださいました。
私たちの人生はしばしば失望の連続ですが、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。
私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と大胆に告白することができます。
ここでの神の「召し」とは、不条理のただ中に身を置くことに他なりません。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そしてこの世界をも造り変えてくださるのです。
「先の事は思い出されず、心に上ることもない」(17節)とは、全ての苦しみが遠い夢のように思える状態です。人の心が過去の痛みにとらわれるのは、現在を喜ぶことができていないことの結果に過ぎないのかも知れません。人は自分の記憶を自分で選び編集を加えているからです。
ですから、神に希望を置くことができない結果として、過去の恨みにとらわれるという心の状態が生まれているという構造があることも忘れてはなりません。しばしば、自分が向き合うべきことは過去の恨みである以上に、「今、ここで」の神のみわざではなのではないでしょうか。
その上で、神は、「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたし(強調形)が、創造するものを」(18節)とご自身の愛を込めて断固として語ってくださいます。それは、神が既に今なしておられる新しい創造のみわざを喜ぶことから始まります。それは新しいいのちの誕生から、新しい一日の始まりに至るまでのすべてのことです。
それは同時に、「エデン(喜び)の園」で、アダムが楽しみ喜んでいた状態を、神ご自身が回復してくださることに及びます。
そのことを、神は、「なぜなら、見よ、わたしがエルサレムを創造して喜びとし、その民を(創造して)楽しみとするからだ」と保障してくださいました。私たちはそれが実現したかのようにこの地で生きることができます。
つまり、「永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」での「新しいエルサレム」の「いのち」を、今から体験することなのです。
しかも、神は、「エルサレムをわたしは喜び、わたしの民を楽しむ」(19節)と敢えて繰り返しておられます。神はかつてご自身の民イスラエルの不従順に怒りを発せられ、彼らの堕落を悲しんでおられました。
その時代が過ぎ去り、神がエルサレをご自身の住まわれる都とし、またイエス・キリストにつながる者をご自身の民として「創造し」、楽しんでくださるというのです。それは、神がご自身の聖霊によって私たちを内側から造り変えてくださるからです。
先週の柳沢先生のメッセージの中で、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(Ⅰコリント15:52)という箇所が引用されましたが、保健医療の専門家である彼女が、チェルノブイリや福島の放射能汚染の実態を直接に見て、強く心に迫ったのは、聖書の救いが、体と離れた魂の救いという二元論でなく、体も魂も全部という包括的であるということです。
私たちは体のどこかが故障していくことを恐れますが、やがてこの身体は一度、死を迎えます。しかし、その後があります。イエスの復活の身体は、食事をともにし、魚を消化できたと同時に、完全に閉ざされた部屋に現れることができた不思議なものでした。放射能の問題で右から左まで様々な説が飛び交う現実を見、もう一度、「私たちに与えられたこの身体ってなんだろう」と思う中で、復活の希望が新鮮に心の奥底に響いたとのことです。
厳格なユダヤ人だったパウロは復活のイエスに出会うなかで、イザヤ25章8節の意味を再発見し、イスラエルが抱いていた「永遠」の希望が実現し始めたことを確信しました。そこでは、「主は死を永久に呑み込まれる。主ヤハウェは、すべての顔から涙をぬぐい、主の民への恥辱を全地から除かれる」と記されています。
ここは新改訳の「死を滅ぼす」よりも「呑み込む」と訳す方が原意を現わしますが、この動詞を受身形に解釈し「永久に」を「勝利に」と訳すことも可能で、パウロはそれをもとに「死は勝利にのまれた」と宣言しました。何と力強いことばでしょう!これは「放射能は勝利にのまれた」と解釈することもできます。
放射能事故なんてとんでもありませんが、今まで「復活?ふ~ん。いつかね」くらいで通り過ぎていたことが、とても現実として迫るようになってきたとのことです。そして、このような神様の壮大な歴史のなかで、今の放射能汚染に不安を感じている私たちの身体とは何か、健康とは何かを見てみたいと思ったとのことです。彼女の中では「新しい天と新しい地」のあり方と同じような物質としての新しい身体で、イエスと共に生き続ける幸いがリアルになってきました。
原発事故を契機に、多くのウクライナのユダヤ人が、イザヤ25章8節や、65章17,18節の主による新しい創造が、心の底に落ちて、復活の主に出会うことができた意味が分かります。私たちは、主にある新しい創造に目を向けて、不安に勝利することができるのです。そして、現実に、復活信仰に生きる人は、放射能の影響にさえ勝利して力強く生きています。
つまり、主(ヤハウェ)が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する・・・わたしがエルサレムを創造して喜びとし」と語られたことは、キリストによって既に実現し始めたことなのです。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。
2.「彼らはむだに労することはない。」
「そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない」(19節)とは、それ以降の文章の要約でもあります。そして、「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない、それは、幼子が死んでも、百歳になっており、罪人がのろわれても、百歳になっているからだ」(20節)という不思議な説明が描かれています。これは、新しいエルサレムには死ものろいもないということを詩的に表現したものと言えましょう。
これらの表現はすべて、預言された神のさばきとの対比で考えられるべきです。バビロン捕囚によって、「あなたの身から生まれる者も・・のろわれる・・主は、疫病をあなたの身にまといつかせ・・あなたを打たれる」(申命28:18ー22)という「のろい」の預言が実現しました。それに対し、新しいエルサレムでは、のろいの時代が過ぎ去り、「祝福」の時代が来るというのです。
なお、のろいの時代には、「家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・・あなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べる」(申命記28:30ー33節)という預言が成就しました。
それと対照的に、ここでは、新しい「祝福」の時代は、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが食べて他人が食べることはない」(21、22節)と描かれています。
そして、悲劇の預言が成就したことは、祝福の約束が成就することの何よりの証しとなりました。
「わたしの民の寿命は木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができる」(22節)とは、このような「祝福」は、神ご自身が選んでくださった神の民に実現するという意味です。
私たちが自分の力で理想郷を実現するのではなく、神の一方的なあわれみによって祝福がもたらされるのです。
そして21,22節をまとめて、「彼らはむだに労することがない」と力強く宣言されます。パウロはこのみことばを前提に、キリストの復活の説明の結論として、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と語りました。
ここでは続けて、「また、恐怖に会わせるために子を産むこともない」と記されますが、義人ヨブでさえは激しい苦しみの中で、「自分の生まれた日をのろった」(ヨブ3:1)とありました。しかし、新しい世界では、「生まれてこなければよかった・・・」という嘆きがなくなるというのです。
そして、「彼らは主(ヤハウェ)に祝福された者のすえ」(23節)と呼ばれますが、それが既に実現し始めています。それは、真冬の寒い時に梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。
春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。その「新しい天と新しい地」のつぼみこそ、このキリストの教会です。今既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっています。
また、「そのとき、彼らが呼ばないうちに、わたしは、答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは、聞く」(24節)とは、主がご自身の民に対して御顔を隠しておられたという状態がなくなって、モーセのように「顔と顔とを合わせて」(申命34:10)の親密な交わりが回復することを意味します。
ここでは、「わたしは・・」という主ご自身の意思が強調されますが、現在の私たちに与えられた救いとは、キリストの十字架によって私たちの全ての罪が赦され、そのような親密な関係が既に実現したということです。
それはレビ記26章36,37に描かれた「おびえ」の支配からの救いでもあります。残念ながら、今も、神との交わりを知らず、いつも何かを怯えながら生きている人々が多くいます。
私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を許せなくなりました。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。
赤ちゃんに「泣くな!」と叱ることが無益なように、自分や人の感情を否定してはなりません。母親が赤ちゃんを安定させることができるように、神の愛こそがあなたに平安と慰めを与えることができます。神の愛に包まれるとき、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません。
3.「「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い」
そして、「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇はちりをその食べ物とする。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない」(25節)とは、この世界から弱肉強食がなくなることを意味します。
この同じことが11章6-9節でも描かれながら、そこでは「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる・・・主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」と記されています。そして、その約束はキリストによって実現する救いであると保障されていました。
私たちはこの世界に平和が満たされることを願います。しかし、捕鯨反対の平和団体が暴力行為を行い、平和を守るという団体が、自分の主張を絶対化し、一方的に人の意見を裁くのを見ながら心が痛みます。実は、人間の力で平和を実現できるという楽観主義が、自分の政治信条を絶対化し、他人の意見を軽蔑するという争いの原因となっているのです。
すべての戦争は、自分にとって好ましい平和を実現しようと急ぎすぎる結果として生まれています。しかし、神がご自身のときに、この世界に完全な平和(シャローム)を実現してくださるということを信じるなら、私たちは自分にとって不都合な不安定な状況の中に身を置きながら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という最も大切なキリストの教えを地道に実行し続けることができます。
神はご自身の平和をこの地に静かに広めるためにご自身の御子を遣わしてくださいました。そして、キリストが再びこの世界に来られるとき、この世のすべての不条理を正し、目に見える形での神の平和(シャローム)で世界を満たしてくださいます。
私が伝道者の書の解説の本のタイトルを「正しすぎてはならない」として出版したのも、また、「お金と信仰」などという露骨なタイトルの本を書いたのも、正義を主張する人々が、他者の異なった政治的な見解などをあまりにも短絡的に批判することに心を痛めて来たからです。
幸い私たちの教会では、たとえば、原発再稼働の問題、死刑廃止、憲法9条の解釈、消費税のことなどで異なった見解を持つ人が、議論自体をタブー視することもないままで仲良く礼拝することができていますが、それこそがキリストの教会のあるべき姿ではないでしょうか。
人は置かれている立場や生まれ育ってきた背景から、政治的な見解の違いが生まれます。しかし、神がご自身のときにご自身の方法で平和を完成してくださることに目を留めるなら、政治的な見解の違いをより小さく見ることができます。
他者の意見を全面否定することから争いが生まれますが、それよりも大切なのは、今ここで矛盾の中に身を置いて、うめきながら祈ることです。たとえば福島の放射能収束のために必死に働いている人々のために祈ることです。
私自身もかつて、証券会社にいたとき、自分の仕事を恥じていた時期があります。しかし、ドイツで学びながら、ひとりひとりの選択の自由と限られた資源の効率的な分配のためには、証券市場はなくてはならないものだと分かった時、仕事への見方が変わりました(それでも牧師への道を歩み出したのは神の導きではありますが・・・)。
仕事には様々な矛盾がありますが、それに居直ることなく、また過度に罪悪視することもなく、少しずつでも改善しようとするその気持ちを、主は喜んでくださいます。
そのような中でずっと考えさせられているのは、所属組織への滅私奉公を言外の圧力で迫る日本の組織風土のことです。多くの信仰者が、良い働きをすることこそが、主の栄光を現わすことになると信じて、このような日本的精神の中に埋没してしまっているような気がします。
しかし、ときには、残業や休日出勤を拒否することこそが、最高の証しになるのかも知れないと思うことがあります。私たちはあくまでも、主に仕えることの一環として仕事をするのですから、主との交わりよりも仕事を優先することはあってはならないはずです。
もちろん、ただでさえ厳しい仕事で精神をすり減らしている方を、なお追い詰めるような意味で語っているのではありません。
世の人々の期待に沿うことができないことを恥じる必要がないばかりか、私たちは神の民として、日本人的な感覚を超えた仕事の仕方を提唱することこそが、長期的に最高の証しになると言いたいのです。
「新しい天と新しい地」は目の前にあります。そこで私たちは、神の御顔を直接仰ぎ見て、喜びに満ちた賛美をささげます。また互いの美しさに感動して愛し合うことができます。
労働は苦しみではなく創造性を発揮する喜びの機会となります。そして、私たちは、今、キリストのオーケストラや合唱団の一員として、天で演奏されているその曲に耳を傾け(黙示4,5章)、その美しさに魅了されて、未熟なために不協和音や雑音をたてながらも、それを世界に聞かようと一所懸命に演奏します。
ここで、「地の塩、世の光」として、「新しいエルサレム」の音楽を先取りして奏でるのです。それは、私たちが、イエスの弟、妹として、父なる神を愛し、人を愛し、地を愛する生活を続けることです。
このように、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことで、この地で生きる勇気をいただくことができます。
主は今もここで、目の前の世界が音をたてて崩れるような絶望を味わった人に向けて、「見よ、わたしは新しい事を行う」(43:19)という約束を与えておられます。神の新しいみわざに心を向けましょう。