この世の多くの人々は、富や名声に惹かれて依存症の罠にはまって行きます。確かに富も力も人間関係も極めて大切です。しかし、それらすべてをもたらす方がどなたなのかを忘れてはいないでしょうか?
詩篇73篇25,28節では、「天ではあなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません…私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」と告白され、また、詩篇16篇11節では、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と告白されています。
これをもとに、ウエストミンスター大教理問答の第一では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」という問いに対して、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである(Man’s chief and highest end is to glorify God, and fully to enjoy him forever)」と答えられます。創造主を、真心をもって賛美し、また喜び楽しむことが、人間の生きる目的であるとは何と感動的な告白でしょう。
ジョン・パイパーという米国を代表する説教者は、「God is most glorified in us when we are most satisfied in him.(私たちが神に最高に満足する時、神は私たちのうちで最高に栄光を受けている)というクリスチャン快楽主義なるものを教えています。要するに私たちの信仰とは、いやいや義務を果たすことではなく、主を喜ぶことであるというのです。義務化された信仰は、生きる力を生みません。
本日は、主の祝福を受け継ぐということがどれほど大きな喜びなのかということをともに考えてみたいと思います。
1.イサクからの「祝福」を得るために、すべてを失ったヤコブ
「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた」(25:28)という歪んだ関係は、祝福の継承における悲劇を生みます。イサクは、主のみこころではなく、自分の判断でエサウを祝福しようとしますが、その前に猟の獲物を食べたいと願います(27:1-4)。
それを聞いたリベカは、ヤコブに「わが子よ。あなたののろいは私が受けます」(27:13)と断言してまで、祝福を騙し取る計略を授けます。イサクは声の違いに気づきながら、「おいしい料理」(27:4,7,9,14,17)に気を惹かれ、エサウに扮したヤコブを祝福します。
「祝福」とは、イサクが騙されてヤコブの祝福を祈ったように、その内容は「神が・・天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国々の民はおまえに仕え・・・おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように」(27:28,29)とあるように、成功と繁栄、尊敬などを得ることを意味します。ヤコブはそれを受け、エサウはその正反対の言葉を受けました(27:39,40)。
それはかつてペリシテの王アビメレクがアブラハムに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」(21:22)と言ったことを指します。これは新約の、「神の子」とされる恵みにつながります。
不思議なのは、イサクは騙されてヤコブを祝福したのに、その祝福は有効で、やり直しは効かなかったことです。それは、祝福を与える権威が、イサクではなく神にあったからです。実際、エサウに対するイサクの祈りの内容を見ると、そのことばはイサクの意志を超えた神から出ていることが明らかです。
後の教会の歴史では、迫害の中で信仰を捨てた司祭が授けた洗礼は有効であるかという議論が起こった時、礼典の有効性は司式者の信仰ではなく、その権威を授けた教会にあるという判断がくだされています。洗礼を授けるのは、個人ではなく教会なのです。
エサウはこのことで激しく怒り、「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった」(27:36)と言い、また「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう」(28:41)と心の中で言います。母リベカはこの息子の心の声を聞き、ヤコブをハランに住む兄ラバンのもとに遣わし、そこでエサウの憤りが鎮まるのを待たせるともに、信仰を共有できる妻を娶るようにと願います。
リベカはイサクに「私は(エサウの妻)ヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました」と言いますが(27:46)、それはヤコブを逃がす口実ばかりではありません。リベカは、神の民を作るために、父の家を離れて見知らぬ土地に来ました。もし息子たちがカナンの娘たちを娶ってしまうなら、彼女の人生自体が否定されることにつながります。その意味でエサウは既に、自分で祝福の継承者となる道を閉ざしていたのです。
イサクはヤコブを送り出すに当たり、かつて騙されたことを忘れたかのように、ヤコブが祝福の継承者であることを明らかにしながら、「母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえを増えさせてくださるように・・神がアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け・・この地を継がせてくださるように」(28:2-4)と祈ります。
ただし、「こうしてイサクはヤコブを送り出した」(28:5)とありますが、エサウを気遣うイサクは、遠い旅に出るヤコブにほとんど何も持たせず、またしもべもつけずに、たった一人で送り出さざるを得ませんでした。これは、かつてアブラハムのしもべがイサクの嫁を捜しに行ったときの豊かな旅路とは対照的です。ヤコブは、イサクからの祝福の祈りだけを財産に、見知らぬ地に向かいます。
28章6-9節では、今頃になって、エサウはカナン人の娘たちを娶ったことが父イサクの気にいらないということに気づいて、アブラハムの子のイシュマエルの家から三番目の妻を娶ろうとします。
エサウも問題ですが、これまでイサクが息子を跡継ぎにしようとしながら肝心のことをきちんと指導して来なかったことが明らかになっています。
その上で、「ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った・・ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった」(28:10,11)と簡潔に記されますが、彼は不安と寂しさで一杯だったことでしょう。
彼は、母リベカの勧めがあったにせよ、結果的には、まだ見ることができない将来の「祝福」を得るために、目の前の家族も財産もすべてを失ったのです。エサウは「祝福」は逃しましたが、家族と富に恵まれていました。あなたならどっちを選ぶでしょうか?
2.「ここは天の門だ」
ヤコブは孤立無援で暗闇に囲まれています。しかし、「彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」(28:12)というのです。
それは、天からの助けがヤコブに向けて差し伸べられ、神と彼との間を取り次ぐ御使いがいることを示します。
しかもここでは、そこで起こった現実が何と、「主(ヤハウェ)が彼のかたわらに立って」と描かれます。これはかつて、「主(ヤハウェ)はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた」(18:1)と記されていたことに匹敵する驚くべきことです。
その上で、主(ヤハウェ)ご自身が直接に、「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主(ヤハウェ)である・・・この地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり・・地上のすべての民族は、あなた・・によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り・・わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(28:13-15)と仰せられました。
ヤコブのこの体験は、私たち自身にとっても「信仰の原点」となります。人は基本的に孤独を恐れます。しかし、最愛の伴侶すら、最も深いところでの孤独感を癒すことはできません。ところが多くの人は、人や物への依存によってそれを紛らわそうとし、依存症の罠にはまります。
しかし、聖書は、積極的に、神の前にひとりになることを勧めます。孤独を避ける代わりに、深めることが解決なのです。そこで徹底的に自分の無力感に直面する時に、ヤコブへの語りかけが、神から私自身への語りかけとして迫ってきます。ひとりになって静まり、自分の心と向き合い、神と向き合う、そのような中で、新しい世界が広がります。
イエスの父となるヨセフが、誕生する救い主の名が、「インマヌエル(神は私たちともにおられる)」と聞かされたのもマリヤの妊娠のことをたった一人で思い悩みながら眠っていたときでした。
つまり、主のご臨在を覚えることと、孤独を深めることは切り離せない関係があるのです。
ヤコブは眠りから覚めて「主(ヤハウェ)がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった・・・こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」と言い、「その場所の名をベテルと呼び」ます(28:16-19)。
私たちも八方塞と思える中で、ひとり静まる時、自分の上に「天の門」が開かれているのを知ることができます。
ところで、イエスは公生涯の初めに、ナタナエルの信仰告白に応答して、弟子たちに向かって、「まことに、まことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます」(ヨハネ1:51)と言われました。これこそ、イエスが様々な偉大なみわざを行なうことができた理由です。
そして、私たちが「神の子」とされるとは、イエスに起こったことが私たちにも起こるということです。目の前の道が閉ざされていると思えるときにも、天の門が開かれているなら心配する必要はありません。神の御使いがあなたの上を上り下りしてくださるからです。
このヤコブの夢から生まれたのが讃美歌320番「主よ、みもとに近づかん」です。今から約百年前、豪華客船タイタニックが氷山にぶつかって沈没し始めたとき、ウォレス・ハートリーという英国のヴァイオリニストは、乗客たちのパニックを鎮め、女性や子供たちが異常に少ない救命艇に誘導されるようにと、八人の弦楽バンドを励まして演奏し続けました。彼らは船と共に沈みましたが、最後に演奏されていた曲がこれであると伝えられています。
親が子供のために命を捨てられるように、主にある「永遠のいのち」を確信する者は、命がけで人を愛することができます。この美しい歌詞を味わう時、私たちは自分にとっての真の喜びをどこに見いだすべきかが心に迫ってきます。
「主よ、みもとに近づかん。上る道は十字架に ありともなど悲しむべき 主よ、みもとに近づかん さすらうまに 日は暮れ 石の上の仮り寝の 夢にもなお天(あめ)を望み 主よ、みもとに近づかん 主の使いは御空に 通う梯(はし)の上より 招きぬれば いざ上りて 主よ、みもとに近づかん 目覚めて後 枕の 石を立てて 恵みを いよよ切に たたえつつぞ 主よ、みもとに近づかん 現(うつし)世をば離れて 天(あま)がける日きたらば いよよ近くみもとに行き 主の御顔を仰ぎ見ん」
ヤコブは、主ご自身が現れ、祝福を約束してくださったことに感動し、「・・私が無事に父に家に帰ることができ、主(ヤハウェ)が私の神となってくださるなら(条件文、新改訳第三版)、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます」(28:22)と誓約します。
それは、自分の旅路が成功に終わったことを確認したあかつきには、この同じ場所に、主(ヤハウェ)のために祭壇を築くという意味です。アブラハムの場合は、主が現れてくださるたびに祭壇を築きました。ヤコブは今、一文なしだったからなのか、信仰が未熟だったからなのかは分かりません・・・。
ただこの夢は、ヤコブにとって信仰の旅路の出発点を飾るものでした。私たちも、不安を持ちながらも最初の一歩を踏み出す時、神の約束が自分に迫ってくるのが分かります。
3.ヤコブが受け継いだ「祝福」がもたらした富
ヤコブは母の郷里に辿り着きました。彼は井戸のかたわらで羊飼いたちと対話し、母の兄ラバンの安否を尋ねます。するとそこで、ラバンの娘ラケルが羊の群れを連れてやって来ることが告げられます(29:6)。
ヤコブは羊飼いたちをその場から追いやる口実を見つけようとしますが、それがうまく行かないと、突然、そこに割り込むようにして、井戸の上の大きな石をひとりでころがし、ラバンの羊の群れに水を飲ませます(29:7-10)。これは明らかなルール違反ですが、ラケルの好意を得るために必死だったのでしょう。
なお、かつてアブラハムのしもべがイサクの嫁を捜してこの地に来たとき、まず主に祈って導きを求め、リベカに出会った時は、その行動を冷静に見たうえで、主の導きを感謝して、「主(ヤハウェ)を礼拝」しました(24:10-27)。それに比べると、ヤコブの信仰は何と未熟なことでしょう。
しかし、そんなヤコブを生まれる前から選んでおられた神は、ヤコブが願う前からすべてを備えておられました。私たちは自分の信仰の未熟さを卑下する必要はありません。主の祝福が私たちの信仰を育んでくださるからです。
ヤコブはラバンのもとに身を寄せ、彼に仕えます。ヤコブは、「ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言って、結婚の了承を得ます(29:18)。その後のことが、「ヤコブは彼女を愛していたので、それも数日のように思われた」(29:20)と描かれます。
ところが婚姻の祝宴を迎えた後、喜びの初夜を終えてみたら、自分の横に寝ていたのは、姉のレアでした。ラバンは、この期に及んで、「長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしない」(29:26)などと言い張りながら、レアを嫁に押し付けるとともに、さらにラケルのためにもう七年間も仕えるように命じます。
これはヤコブが目の悪いイサクを騙したことに似ていますが、人を騙す能力にかけてはラバンがはるかに上手でした。
ただ、この後のことが不思議にも、「主(ヤハウェ)はレアが嫌われているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかし、ラケルは不妊の女であった」(29:31)と記されます。
サラもリベカも不妊の女でしたが、そこに主のみわざが現されました。レアは嫌われる代わりに多くの子どもが与えられ、ラケルはヤコブの愛を得る代わりに不妊の悩みを抱えました。それぞれの悩みはまったく違いましたが、神は苦しみとセットに祝福を与えておられました。それが私たちにも起きています。
しかも、主はそのようなそれぞれの葛藤をご覧になりながら、ときに応じてあわれみを施し、ヤコブに多くの息子たちが生まれる道を開いてくださいました。そして、レアは主のあわれみによって、立て続けに、ルベン、シメオン、レビ、ユダを産みます。その中で、彼女は主(ヤハウェ)に感謝し、主をほめたたえています。
一方、ラケルは姉に嫉妬し、「私に子どもをください。でなければ、私は死んでしまいます」とヤコブに迫ります(30:1)。ところが、ヤコブは、リベカの不妊に悩んだ父イサクの場合のようには祈らなかったようです。ラケルは女奴隷のビルハによって子を得ようとし、それによってダンとナフタリが生まれます。それに対抗し、レアは自分の女奴隷ジルパによってガドとアシェルを産みます。
その後、長男ルベンは「恋いなすびを見つけ」(30:14)、母レアに持ってきます。これは不妊治療に効果があると見られたものです。それにしても、息子が母の夜の生活まで気づかうとは異常です。まさにアダルト・チャイルドとして育ったしるしと言えましょう。
それを見た不妊のラケルは、「恋いなすび」をもらおうと必死になり、ヤコブと夜を過ごすことを姉のレアに譲ります。レアはヤコブに、「私は、私の息子の恋いなすびで、あなたをようやく手に入れた」(30:16)と、息子を巻き込んだ発言をしているのですから、何という歪んだ家族でしょう。
しかも、このレアとラケルの争いに、ヤコブは家長としての責任を果たそうとはせずに、ただ黙って身を任せています。これは残念ながら、アブラハムやイサクにも見られた姿勢であり、機能不全家族の特徴です。
とにかく、「神はレアの願いを聞かれたので・・」(30:17)、レアは、イッサカルとゼブルンを産みます。このように、神は、嫌われているレアをあわれみ、彼女から六人もの男子を誕生させ、最後に女の子のディナも産みます。
その上で、「神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれ」(30:22)と記されながら、ヨセフの誕生が描かれます。何とも、レアとラケルがヤコブの愛を得ようと必死になったおかげで十一人の男子が誕生したのです。
これは、ヤコブが家長としては失格であったにも関わらず、神がヤコブとともにいてくださった恵みの結果です。神の「祝福」はまさに人間的な因果律を超えた形でヤコブに及びました。
それにしても不思議なのは、レアもラケルも、極めて人間的な動機で動きながらも、それぞれの子を神の賜物と受けとめ感謝をしていたという点です。家族としての関係は歪んでいるのですが、それぞれなりに、神を見上げて歩んでいました。
これらの後、ヤコブは自分の郷里に帰ることを望みますが、ラバンは彼のおかげで家が豊かになったので、帰すのをしぶります。27、28節は、「お前の目に気にいってもらえるなら(言外に「とどまって欲しい」の意味)・・・、私は占いによって、主(ヤハウェ)がお前のゆえに私を祝福してくださったことを知ったから。お前の望む報酬を言ってくれ。私はそれを払おう」と訳すことができます。
それでヤコブはラバンが納得できる譲歩的な提案をして山羊と羊を飼い続けることに同意します。当時の羊は白いのが一般的で、やぎは黒毛が一般的でしたから、ヤコブは例外的なものだけを自分のものにしたいと願い出たはずなのです。
34節のラバンの返事は、「よろしい。おまえの言うとおりにしよう」(フランシスコ会訳)の方が良いと思われます。ところが、ラバンは、そのようにきっぱりと返事をしながら、その日のうちに本来ヤコブにあたえられるべき家畜を自分の息子たちに渡して、「三日の道のり」という遠く引き離します。
これは明確な裏切りですが、ヤコブはそれに抗議をすることもなく、「ラバンの残りの群れ」を飼い続けます。37-39節に記されているヤコブの工夫が「しま毛」「ぶち毛」「まだら毛」のものを産ませることになった理由は分かりません。それは神に祈りつつ、与えられた知恵にしたがって黙々と「ラバンの残りの群れ」を飼った結果として、神の恵みによって、羊もやぎも、ラバンがヤコブに与えると約束した例外的なものを次々と産んだということだと思われます。
しかも、彼はラバンと争いはしなかったものの、「こうして弱いものはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった」という結果を生み出すことができました。まさに、ラバンは人を陥れることで貧しくなって行くのです。
このように、ヤコブはラバンに裏切られながらも、自分の家族も家畜を増やすことができました。それは、主がヤコブとともにおられたからです。43節の描写は、ラバンに何度も騙されたことの不思議な結果で、「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだとろばとを持つようになった」(30:43)と記されます。
私たちもヤコブと同じように、自業自得の罪によって、孤独と不安に苛まれることがあるかもしれません。しかし、主にあっては、取り返しのつかない失敗はありません。それらすべてが、主との交わりを深めるチャンスとされます。私たちも、そこで、「わたしはあなたとともにある」と言われる主と出会うことができます。
そして、それこそが、すべての富、力、交わりの源となります。実際、ヤコブは、「主からの祝福」以外の何も持たないで、信仰も未熟なまま旅に出ました。しかし、苦しんだり、騙されたりしながらも、十一人の息子が与えられ、驚くほど豊かにされました。そして、それを通して、彼の信仰は育まれて行ったのでした。
主の祝福を求める者には、主が道を開いてくださいます。
私たちもヤコブのように人から騙されることがあるかもしれませんが、主がともにいてくださるなら、すべてが祝福に変えられます。
それを前提として、「地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる・・・主を待ち望む者・・貧しい人は地を受け継ごう。また豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう」(詩篇37:3,4,9,11)と約束されています。
誠実を養う者は、天国と言うより、「地を受け継ぐ」という祝福があるのです。