Ⅱコリント4章5節〜5章10節「闇への道、光への道」

2014年9月14日

聖書で最も頻繁に繰り返される命令は何でしょう・・・。「創造主を愛し、隣人を愛せよ」こそが、最大の命令であるべきはずですが、意外にも、「恐れてはならない」という趣旨の命令であると言われます。これは、恐怖感情を持つことの禁止ではなく、「恐れなくてもいいよ・・」という慰めである場合がほとんどです。

私たちは「恐れ」に支配される結果として、神と人とを愛することができなくなります。そして、「老いることの恐れ」「誰からも期待されず、誰からも相手にされなくなることへの恐れ」は非常に根深いものがあるのではないでしょうか。

多くの老人は「自分はもう無用の存在だ」と感じる傾向があります。これはIT革命などによって加速されています。しかも、この気持ちは、最近は若年層にまで広がっています。

しかし、私たちが自分の知恵や力を誇ることができる限り、「測り知れない、重い永遠の栄光」という目に見えない神ご支配の現実を見ることはできません。人にスポットライトが当てられる限り、神の栄光は隠されてしまいます。

しかも、人の栄光は、多くの場合、争いの原因を作ります。そして、その栄光を失うことを「恐れる」という原因になります。それは闇への道です。

一方、私たちは、年を重ねるとともに、人間的な栄光を離れ、神の栄光の現れに目を向けることができます。それこそ光への道です。

私たちは自分の弱さを知れば知るほど、神の栄光を身近に見られるようになるのです。

1.「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし・・

パウロは、自分の使命を、「私たちは自分自身をではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える」(4:5)と言います。私たちの心には「私の価値を認めて欲しい」という強い願望があり、それが仕事の最大の動機となりがちです。しかし、パウロは才能や世的な地位までも含めすべてを、自分ではなく、キリストのすばらしさを証しするために生かしました。

しかも、彼が伝えた福音は、「光が、やみの中から輝き出よ」(4:6)と、ひとことで光を創造した神のみわざが彼の「心を照らした」結果です。ここにはパウロ自身の体験が示唆されています。

多くの人々は、信仰は自分で見いだすものだと誤解していますが、パウロはそうではありません。彼はエルサレムからダマスコへと、クリスチャンたちを次々と捕えるために旅行していました。彼は、求道をしていたのではなく、「主の弟子たちに対する脅かしと殺意に燃えて」いました(使徒9:1)。

ところが、「天からの光が彼を巡り照らし」(同9:3)、復活のイエスが彼に向かって、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言ってご自身を啓示してくださいました。つまり、パウロがクリスチャンになったということ自体が、神の特別なみわざなのです。

それは、私たちひとりひとりについて言えます。私たちも、ほとんどの場合、自分の意志で聖書を買って読み始めて真理を発見したというのではなく、家族や友人を通して、福音への目が開かれています。

日本ではクリスチャン・ホーム以外の男性が信仰に導かれる際の、もっとも大きなきっかけは、クリスチャン女性に好意を抱くということに始まっています。それは私たちの信仰が、人間の知恵や求道心を超えていることを現しています。

人は、教会に通うようになったきっかけをいろいろ説明しますが、それよりもはるかに大切なのは、ある日、突然、どういうわけか、「イエスは私の主です」と告白できるようになったということ自体にあります。私たちは、自分の心に起きた突然の変化にこそ目を留めるべきなのです。

あなたの心に、突然、神のみことばが響いてきたということ自体が大切なのであって、そのきっかけがどこにあったかなどということは本質ではありません。

なお、ここで、「輝き出よ」とか「照らし」と訳されていることばはランプの語源となるギリシャ語の動詞、ランポウです。つまり、聖霊を受けている者は、心の中にランプの灯が灯されているのです。そして、そのことが、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(4:7)とさらに説明されます。

なお、この「宝」とは「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かす」という「働き」を指しますが、それは名詞でありながら動詞的な、「知識を輝かす」というダイナミックな働きを意味します。それこそ神の奇跡なのです。

「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白する者の「土の器」の中には、「宝」の源である創造主なる聖霊が住んでおられるのです。コリントの人々は目に見える超自然的なことばかりを求めましたが、聖霊の働きは何よりも、私たちの「心を照らす」ことにあるのです。

ポール・トゥルニエは、戦後間もなくのスイスの教会を見ながら、「教会が、過半数は生気がなく、物悲しげで疲れた心の持ち主によって占められている」という現実に心を痛めました。

その原因は、教会が聖書の教えを道徳主義に歪めて、恩恵によるひろやかな解放を与える代わりに、過ちを犯し、神の罰を受けるのではないかという「抑圧的な不安」の重荷を与え続けてきた結果でないかと語っています。

ある女性は、古い伝統に縛られた田舎の町で育ちながら、この「抑圧的な不安」を味わっていました。彼女の中には、広い世界で活躍したいと思うのは傲慢であるという声が聞こえていました。そう思っていないと、思うようなことが果たせなかった場合、平静を保って晩年を迎えられないという不安がありました。

彼女はその思いを私に相談してきました。私は「広い世界に出て行かずして、どうして謙遜を学べますか」と逆説的に励ましました。彼女はその時、心からの「解放」を味わったと言ってくれました。人間の心の中で、「願望」は必ず「不安」と結びついています。ですから、「不安」を刺激すれば自動的に「願望」が抑圧されます

実際、多くの宗教は、「不安」を駆りたてて人の願望と行動を制御します。でも、それは、同時に、「いのちの力」をも抑圧させ、生気をも失わせます。

2.「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される」

大切なのは、どこで何をするかということではありません。神のみこころは、恐れに囚われて自分を抑制することなく、キリストの苦しみをともに引き受けようという積極的な生き方を保つことです。

そして、神から与えられた「測り知れない力」(4:7)は、困難の中でこそ体験できます。私たちの肉体という「土の器」は、壊れそうになることがありますが、不思議に、そのような逆境の中で、神からいただいた「宝」の豊かさを体験できるのです。

パウロはそれを四つの対比を用い、「四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(4:8,9)と美しく表現します。

そして、それらを通して、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される」(4:10)と言っています。

誰しも不安定な立場は避けたいと思うのが人情ですが、パウロのようなぎりぎりの状況でこそ「イエスのいのち」を体験できるのです。

残念ながら、多くのクリスチャンはそれをリアルに体験することができていません。そのような人々は、「私は神と人とのために、損得勘定を超えて自分の身をささげようとしたことがあるだろうか・・自分の身を守ることばかりに汲々としてはいなかったか・・」と、自分に問いかけるべきかもしれません。

なぜなら、「イエスのいのち」は、「イエスの死をこの身に帯びる」ということ、つまり、「四方八方から苦しめられ」「途方に暮れ」「迫害され」「倒される」という苦難を通してこそ現されるからです。

パウロはここで、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」(4:11、12)と不思議なことを言っています。

コリントの教会の人々が求めていたのは、極めて個人的な霊的な祝福体験でした。それに対し、パウロは教会を建てあげるためにいのちを捨てる覚悟で生きていました。

彼は、人々から罵られ嘲られ十字架にかけられた「イエスの死」を自分の人生の中で再現していました。しかし、それによってコリントの人々に「イエスのいのち」がもたらされたのです。

私たちが「イエスのいのち」を受けることができた背後には、数えきれないほど多くの人々の「死」があったことを忘れてはなりません。先輩たちの犠牲の血がなければ、福音は日本に届くことはなかったのです。

それは宣教師の流した血ばかりではありません。第二次大戦を通して日本に民主化がもたらされ、信教の自由が確立されました。しかし、それは驚くほど多くの人々の血が流されたことによって初めて実現したことなのです。

パウロ が引用した「私は信じた。それゆえに語った」(4:13)ということばは詩篇116篇の要約のような意味があります。それは、信仰者が不条理な苦しみに会いながら、なおも、主への信頼を告白し続ける姿を現しています。そして彼は、「それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです」と言います。

私たちも同じ「信仰の霊」を受けています。そしてパウロはその御霊の働きを、「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです」(4:14)と説明します。

私たちのうちには復活の御霊が宿っているということを忘れてはなりません。

そしてパウロは改めて「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです」(4:15)と語って、自分たちの苦しみを通して、世界に祝福が広がっている様子を思い起こさせようとします。

コリントの人々は、世界の不条理を無視して、自分のたましいの救いばかりを求めていました。そして、それは現代の教会にも当てはまります。しかし、信仰の本質とは、苦しみことができる力にあります

私たちは神からの「測り知れない力」という「宝」を「土の器の中に入れている」のです。その宝の豊かさは、死を乗り越えるいのちとして現されます。不安によって自分の気持ちを抑圧せずに、大胆に困難に立ち向かう者こそが、キリストにあるいのちの輝きを体験することができるのです。

3.外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

パウロは、福音のために肉体的な命の危険にさらされ続けていましたが、それらを通して、「神の栄光が現れるようになる」という霊的な現実に目を向けながら、「ですから、私たちは勇気を失いません」と力強く告白しました。それは、自分の肉体の衰えを見ながら、「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(4:16)という霊的な現実が実現していることを知っていたからです。

「内なる人」とは「イエスのいのち」(4:10,11)を指します。それは、肉体の衰えに反比例するように「日々新たにされているというのです。

私たちは自分の弱さがあらわになることを恐れます。しかし、多くの信仰者は、人間的な知恵や力を生かすことができることを喜んでいる陰で、反対に、「イエスのいのち」が生かされる機会を自分でなくしているのかもしれません。年齢を重ねて、自分の肉体や記憶力の衰えを感じるにつれて、「内なる人」のいのちの力が現される機会が生まれるのです。

そして彼は、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(4:17)と告白しますが、それは皮肉にも、「三十九のむちを受けたことが五度・・難船したことが三度・・海上を漂ったこともあり・・盗賊に襲われ・・食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいた」(11:23-29)という重い患難を指します。しかし、それは、やがてもたらされる「測り知れない、重い永遠の栄光」との比較では、一時的な軽いものと見えるというのです。

そして、その栄光とは、14節にあったように、私たちのからだの最終的な復活の希望です。これは、せみや蝶々の幼虫が、さなぎの中で人知れず成長し、羽を生やした美しい姿に変えられることに似ています。人は老年になると行動範囲が縮まり、能力が急速に衰えます。

しかし、その現実の下では、新しい復活のいのちが成長し始めているのです。しかも、そのいのちはせみのように短命ではなく、永遠に続きます。

そのことをパウロは、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(4:18)と美しく描いています。

目の前の現実は悲惨の連続かもしれませんが、人間の力や知恵の限界があらわになる陰で、「重い永遠の栄光」が現されています。

それは、私たちの身体の復活という個人的なことを超えて、黙示録の著者が見せてもらえた世界のゴールでもあります。そこには、「私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」(黙示録21:1) と描かれています。

これは、この世を離れた極楽浄土のようなところではありません。この「天と地」が「神の平和(シャローム)」に満ちた世界へと変えられるのです。

またそこでは、「聖なる都、新しいエルサレムが・・・天から下って来る」(同21:2)と描かれています。私たちはその希望のもとにこの地で今を生きるのです。

キリストの復活以来、この世界は新しい時代を迎えています。世界の完成は目前に迫っています。それをもとにパウロは、「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている」(Ⅰコリント15:58)と宣言しています。

老年になって自分の退職を嘆く人は、一般に、それ以前は仕事について最も多く不平を言い、仕事から解放されることを憧れていた人だと言われます。つまり、老年に対する最大の備えとは、不安によって自分の気持ちを抑圧せずに、大胆に困難に立ち向かい、キリストにあるいのちの輝きを体験することなのです。

青年であることを喜ぶ人こそが、老年を喜ぶことができます。私たちは神がこの世界を新しくしてくださるという希望の基に、肉体的な死を迎える直前まで、主のために生きることができます。そして私たちの労苦は生かされるのです。

4.死ぬべきものがいのちにのみこまれる

5章1節の「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています」とは、現在の身体と、来るべき復活の身体の対比で、先の「見えるもの」「見えないもの」の対比を言い換えたものと言えましょう。

そして、「それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」と記されていますが、これは天国の住まいというのではなく、朽ちることのない永遠の身体を受け取ることができるという意味です。私たちはいつも、身体の復活ということをもっとリアルにイメージする必要があります。それこそ私たちの望みです。

2-4節では、「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています」と「うめき」(ため息)ということばが繰り返されていますが、私たちの身体は病気になってはうめき、また、空腹感やさみしさを満たそうとする様々な欲望と戦いながらうめきます。何と不自由なことでしょう!

しかし、その「うめき」の原因は、これは本来あるべき状態ではないという憧れがあるからと言えましょう。そのことをパウロは、「それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです」と表現します。

これは、いわゆる「たましい」が不自由な肉体から解放されるというのではなく、「天からの住まい」としての復活の身体を、主から受けることができることを意味します。

そしてそのときに実現する圧倒的な恵みが、「そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」(5:4)と驚くほどダイナミックに描かれています。

そして、これらすべてが、神の一方的な恵みであることが、「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです」(5:5、6)と描かれています。

「保証」とは新改訳の脚注にあるように「手付金」とも訳すことができます。たとえば家を購入した時、手付金を支払った時点で、ローンの支払いが残っていても自分のものとされます。同じように「御霊」を受けているということは、「新しい天と新しい地」における栄光のからだが、今ここで既に自分のものとされているという意味なのです。

つまり、私たちのうめき」(ため息)は絶望的なものではあり得ません。それは、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいるのです」(ローマ8:23)と記されている通りです。

そこでは引き続き、「私たちはこの望みによって救われているのです」と描かれています。つまり、しばしば「救われた」と言われることは、私たちの様々な問題が既に解決したということではなく、来たるべき復活の身体を目の当たりに思い浮かべながら生きられることなのです。

なお、「ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています」(5:6)とも記されているように、今、この肉の目は地上的な見方に引きずられています。それを超えるのが「信仰」なので、「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(5:7)と告白されます。

ただ、そのように言うと、漠然とした期待と混同されかねないので、再び6節と同じ告白、「私たちは(いつも)心強いのです」(5:8)が繰り返されます。そして、それと同時に、「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」と敢えて記されます。

それは肉体的な死を迎えることが多くの人の目には、「忌み嫌うべきこと」だからです。しかし、イエスが十字架で息を引き取られた時、となりの強盗に、「あなたはきょう、私とともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)と言われたように、私たちの肉体的な死は、永遠にイエスとともにいるという祝福の始まりです。

ですから、その結論として、「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」(5:9)と言われます。つまり、私たちにとって何よりも大切なことは、肉体的な生死よりも、「キリストにある」状態か否かという違いなのです。

私たちは今からキリストにあって、来るべき「新しい天と新しい地」のいのちを生き始めています。そこで私たちに問われていることは、何が、「主に喜ばれること」であるかを見極めることです。

最後に、パウロは、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じてさばきを受けることになる」(5:10)と語ります。コリントの人々は肉体を軽蔑し無節操な生き方をしていましたが、この肉体は、やがて与えられる復活のからだの種ですから、私たちはこれをどのように扱うかが問われています。

ただしそれは、失敗を拾い上げる減点主義ではありません。私たちのすべての罪はキリストの十字架で赦されました。ですから今、私たちに何よりも問われていることは、神が私たちに委ねて下さった宝の賜物を、土の中に埋めたりせずに、生かし用いることができたかということなのです。

もし、たといそれで失敗したとしても、機会を生かし、与えられた賜物をキリストのために用いようとしたという努力自体が報われるのです。

しばしば、老年期の課題は、「人生の意味の発見にある」と言われます。宗教改革者カルヴァンは、その教理問答書で「何が人生の目的だろうか?」という問いに、「神を知ることである」と答え、「どこに人間の幸福があるだろうか」という問いに同じく「神を知ることの中にある」と答えました。

残念ながら、年を重ねるに連れ、世への恨みと怒りをつのらせる人がいます。それは闇への道です。一方、年を重ねるほど、生かされている恵みを感謝できる人がいます。それこそが光への道です。どちらの道を選ぶかの選択に関しては、「遅すぎる」ことはありません。

ある大学教授は80歳を超えて信仰に導かれ「私は、今生まれたばかりのみどり児のような気がする。人生は今はじめて始まったのだ」と喜ぶことができました。

なお、広い世界に出ることで自分の弱さを自覚するようになる人、また、肉体の不自由を通して弱さを自覚するようになる人など、それぞれの違いはあっても、イエスのいのちの豊かさはその弱さの中でこそ体験できるという霊的な事実に変わりはありません。

大切なのは、日陰のもやしのように、じめじめと生きるのではなく、主からの光のもとで、「この宝を、土の器の中に入れている」(4:7)、「死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」(5:4)というダイナミックな生き方を今このときから体験し始めることなのです。