2014年7月20日
劣等感ということばを普及させたアルフレッド・アドラーは、「われわれ人間すべての文化は、劣等感情に基いている……すべての目標の中に……神のようになるという努力を見いだすことができる」と言いました。事実、私たちはみな、小さい時から、「より賢く、より強く、より美しく、より早く生きる」ことができるように訓練されています。
しかし、そこで忘れてはならないのは、生きる方向と交わりです。私たちはキリスト習って、互いに仕え合うように召されています。またすべてのことを神への祈りの中で行うように召されています。
この世界の様々な問題を見て、私たちはすぐに、ハウツー式に「こうしたら良い」と意見を出しがちですが、神でさえ大洪水を起こさずには世界を変えられなかったのですから、根本的に大切なのは、祈りの中で、創造主の哀しみを知り、キリストの思いを自分の思いとして行くことです。神は、より優秀な人よりも、ご自身のみこころを、自分の心とする人を求めておられます。
1.「神のようになることとエデンの園からの追放」
主 (ヤハウェ) は、そよ風の吹く夕方まで待たれた上で、「あなたは……食べたのか」と事実のみを尋ねられました。それは、人が自分の犯した罪を認めて、告白する機会を与えるためでした。ところが、人は、「あなたが私のそばに置かれたこの女が……」と、女に責任転嫁をしたばかりか、その創造主である神を非難しました (3:11、12)。
人は確かに、「神のようになり、善悪を知るように」なりました (3:22)。しかしそれは皮肉にも、神のように全能になることではなく、自分の弱さや過ちを認められなくなったということでした。なぜなら神は、助け手を必要とされませんし、間違いも犯さないはずだからです。
そして、女も、「蛇が私を惑わしたのです」と責任転嫁します (3:13)。
「神のようになり、善悪を知る」とは、自分を世界の中心に置き、善悪の基準にして、まわりを非難する生き方の始まりでした。そこにおいて、男と女は、エデンの園における、「神のかたち」として調和を、自分から失ってしまいました。
「ちりとしての人」(2:7、3:19) は被造物としての立場を忘れ、自意識だけが神のようになってしまったのです。多くの日本人は、「罪が分からないから、神の救いも分からない……」などと言われることがありますが、それはアダムの子孫すべてに共通することです。
アダムの子孫に必要なのは、創造主なる神が、私たち一人ひとりを愛し、生かしていてくださることを知ることなのです。また、自分を神とする自意識から解放され、神の前に自分の弱さや過ちを認められるようになることなのです。
そして、そのために何よりも大切なのは、私たちが、「ちり」でありながら、創造主ご自身から直接に「いのちの息を吹き込まれた」「高価で尊い」存在であるとの自覚に立ち返ることです。
なお、「自分たちが裸であることを知る」という恥の感覚は、神でない者が自分を神のようにした結果として味わった感覚でした。それは、自分がいのちの根源から離れてしまった不安から生まれるものです。ちょうど、自立できない子供が自分から親を捨てて不安に陥ることと似ています。
私は最初、この箇所を読んだとき、善悪の知識の木の実自体に何かを起こす力があったのかと誤解しました。しかし、神は、エデンの園に毒りんごを植えるような方ではありません。「善悪の知識の木」から取って食べるという行為自体が、人を害してしまったのです。
主 (ヤハウェ) は、人と女に罪の告白の機会をお与えになり、彼らが自分の罪を認めようとしないことを確認した上で、さばきを宣告します。ただし、この一連の悪の張本人である蛇には問いかけません。それは蛇がサタンの使いであったからという以前に、「あらゆる野の獣のうちで……一番賢い」存在であっても、「神のかたち」として創造されてはいなかったからです。
神は賢い蛇とは対話しませんが、誘惑された人間とは対話してくださいます。それは蛇に責任能力がなかったからではありません。神は誘惑した蛇に最も厳しいさばきを最初に宣告されました。
蛇は神のさばきを受けて、「一生、腹ばいで歩き、ちりを食べる」者へと変えられました。罪を犯す前の蛇の状態がどうだったかは分かりませんが、現在の蛇の姿は、神のさばきを受けた結果と言えましょう。
その上で、「蛇の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」(3:15) と記され、女の子孫が、蛇の「頭を踏み砕く」(3:15) と描かれます。これは、女から生まれたイエス・キリストがサタンに勝利することを預言するもので、原始福音とも呼ばれます。
女へのさばきは、出産という最大の誇りと喜びに大きな「苦しみ」を加えることでした (3:16)。陣痛に苦しんだ方は、「エバのせいで私は……」と嘆いていました。
また、「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」とは、愛を求めながら、そこに力関係が働くことですが、これは互いが自分を神としたことの当然の帰結です。そして、これは交わりを求めながら、交わりによって傷つけられるというすべての関係の原点でもあります。
また、土から造られた「人(アダム)」に対しては、その源である「土地 (アダマー) があなたのゆえにのろわれてしまった」ことで、「一生苦しんで食を得……顔に汗を流して糧を得、ついには土 (アダマー) に帰る」と宣告されました (3:17-19)。私たちは、本来、神のかたちとして、仕事を喜ぶことができたはずでした。仕事に苦しみとむなしさが入ってきたのは、アダムが自分を神のようにした結果だったのです。
そして、今、自分を神として生きようとするすべての人は、一見、たくましく生き生きと仕事をしているようであっても、それによって心の渇きが増し加わるだけで、真の喜びを体験することができなくなります。
そして、最後に、「あなたはちりだから、ちりに帰らなければらない」と言われます。人は「ちり」として創造され、神の息を受けて「生きもの(生けるたましい)」になったのですが、神との交わりを自分から切った人間は「ちり」のような無価値な、「生けるしかばね」のような存在になったということです。
ところが、人は、「必ず死ぬ」とのことばに対抗するように、妻を「エバ(いのち)」と名づけます (3:20)。それは、名付け親としての支配権とともに、新しい命を生み出して死を乗り越えようとする意思の表明でもあります。
それにも関わらず、主 (ヤハウェ) は、彼らが恥じて逃亡せずに済むように、「皮の衣を作り、彼らに着せて」くださいました (3:21)。それは、彼らが立ち止まって、主に向き合うことができるようになるためでした。また、それは、神に逆らった結果で生まれた恥の感覚を大切にさせようとの主のあわれみでもあります。
私たちは、恥の痛みにおいて、自分の本質的に孤独で頼りない者であることを意識し、自分が根源において、神から引き離された存在であることを覚えることができます。人は、痛みを感じなければ、救いを求めることもないのが現実だからです。
なお、「皮の衣」という表現に、神が人をご自分の前に立たせるために、動物を犠牲としたという「痛み」を読むこともできます。
ただし、同時に、主 (ヤハウェ) はご自身のことばを偽ることをできませんから、御心を痛めながらも、人間をエデンの園から追い出しました。主はかつて、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(2:17) と言われましたが、それがこのとき成就したのです。
今、エデンの園の外に住むすべての私たちは、「必ず死ぬ」ように定められています。それをパウロは、「罪によって死が入り、こうして、死が全人類に広がった」(ローマ5:12) と語っています。
「ちり」に過ぎない人間が永遠に生きる可能性があったのは、「いのちの木」がエデンの「園の中央」(2:9) にあって、それを食べることが許されていたからですが (2:16)、主はこのとき、「いのちの木への道」を封じられました (3:24)。そして、その道を開いてくださったのがイエス・キリストです。
そして、イエスは終わりの日に、「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」(黙示録2:7) と約束してくださいました。
もし、私たちが自分こそがアダムの子孫であることを認め、自分の努力では自分を救うことができないとイエスにすがるときに、主は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5) と安心させてくださいます。
恥の感覚は、「見捨てられ不安」とも表現されることがありますが、イエスにつながる者は、見捨てられる心配はないのです。そして、十字架にかけられ死んで、復活されたイエスは、私たちに、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20) と約束してくださいました。
ですから、もう死の力が、私たちと神との交わりを引き裂くことはできません。それこそが、キリスト者に与えられた「永遠のいのち」の意味です。
2.「エデンの園の外での悲劇」
4章の悲劇は3章の必然的な結果です。アダムとエバはかつて、「ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」(2:25) という調和の中にありましたが、今や、互いの弱さを隠し、互いに責め合う関係になってしまいました。そこから最初に生まれ育った人間であるカインは、弟を殺す者に成長しました。
今も、残忍な人は、争いに満ちた家庭から育っています。また、悲惨な戦争に人々を駆り立てた独裁者も、愛のない家庭から育っています。つまり、究極的には、国と国との戦争の原因は、アダムとエバとの関係にまでさかのぼることができます。
ただし、育った環境が人の性質をすべて決定するわけではありません。エデンの園の外での厳しい生活で、カインは怒りを貯めこみ、アベルは謙遜を学んだからです。それが献げ物に現われました。
カインの献げ物を神が退けられた理由は、神が「地の作物」(麦)よりも「羊の初子」(肉)を喜ばれたからではありません。受け入れられなかった理由は、「カインはひどく怒り、顔を伏せた」(6節) という結果からさかのぼって初めて分かります。
主 (ヤハウェ) は、「あなたが正しく行なったのであれば、(顔を)上げられるはずではないか」(7節別訳) と言われましたが、もし、彼が真心から献げたのであれば、主に向かって正々堂々と理由を尋ねることができたはずだからです。
その上で主は、「ただし、あながた正しく行っていないなら」と同じことばを繰り返しながら、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」と、男女関係のことば (3:16) を用いながら警告されます。
これは、神に正しい心構えで近づいて行かないなら、罪の誘惑に負ける可能性があるという意味です。ただ、ここでは、被害者意識に流されないようにと、「だが、あなたは、それを治めるべきである」と敢えて、カインに警告されています。
これ以前からカインは、主に対してもともと怒っていながら、それを主に正直に言い表すことができずに、ここで、しぶしぶ献げ物をしたのではないでしょうか。まるで、嫌な上司に仕える部下の気持ちです。
そして、貯めこまれた怒りは、はけ口を求めます。カインは、神に向けるべき怒りをアベルにぶつけて、だまし討ちにしました。
その後、それを見ておられた主 (ヤハウェ) は、アダムの場合と同じようにカインに問いかけますが、彼は、「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」(4:9) と鉄面皮な答え方をします。彼も親に習って自分の罪を認めることができません。自分を神のようにした者は、自分のことに関してはあらゆる言い逃れを見つけ出し、謙遜に謝罪することができません。
それに対して主は、「今や、あなたはその土地 (アダマー) からのろわれている」(4:11) と宣言されます。人は土地から造られたのに、神に背いた結果、土地がのろわれ、今度は土地から「のろわれる」というのです。これは、本来、喜びのはずの仕事が、苦痛に変わり、やがては人格をも破壊するという悲劇です。
主のさばきを聞いたカインは、「私の咎は、大きすぎて担いきれません」(4:13) と、ここにいたって初めて泣き言を言いますが、彼は自分の罪を本当の意味で認め、赦しを願っているわけではありません。ただ、「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう」(4:14) という自分の身の上の不安を訴えているだけです。
しかし、それに対し、主は、カインに「一つのしるし」(4:15) を与えたとありますが、これがどのようなものかは分かりません。どちらにしても、カインを殺す者には七倍の復讐があるということを明らかにして、神は彼を守ると約束してくださったのです。
ただし、カインは、「地上をさまよい歩くさすらい人になる」(4:12) ということばに反抗するように、「エデンの東」(昔の有名な映画タイトルの由来)に定住します (4:16)。そればかりか、そこに町を立て、「自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけ」ます。これは、アダムがその妻をエバと呼んだパターンと同じです。
これはカインが、神のあわれみにすがる代わりに、自分の力に頼る生き方を子孫に受け継がせるという意味があります。
その後、アダムから七代目のレメクはふたりの妻をめとって一夫多妻の元祖になります (4:19)。これは、「ふたりは一体となる」という結婚に関する神のみこころに対する反抗です。
そして、彼らから家畜を飼う者(富)の先祖、音楽家の先祖(喜び)、鍛冶屋(武器)の先祖が生まれます (3:20-22)。なお、カインは初め「土を耕す者」でしたが、アベルを殺して土地にのろわれ、土地を耕すことができなくなり、その子孫は「家畜を飼う」ことで生計を立てたのでしょう。音楽を奏する者と鍛冶屋は、人間の力で生み出す文化の象徴です。とにかく彼らは主のさばきをものともせずに、「富」と「喜び」と「力」を獲得したのです。
そればかりか、レメクは自分のふたりの妻たちに向かって、「打ち傷」に対して殺人で応答したことを誇り、「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」と豪語しました (3:23、24)。
「七倍の復讐」は、神がカインを守るために明らかにしてくださった神からの「あわれみのことば」でしたが、レメクはそれを自分の復讐の権利と再解釈したばかりか、七十七倍の報復という徹底的な力による脅しの原理で人を抑えこもうとしました。
彼らは、主がすぐに悪をさばかれないことに安住し、主のことばを軽蔑し、夫婦関係や人間関係を、愛ではなくて力で築くことを願い、この地にますます悪を広げ、神が創造された世界を腐敗させていったのです。
残念ながら、神のあわれみを逆手に取ったレメクの原理が、今もこの地を支配しています。
3.セツの家系に見られる敬虔な生き方と堕落、そして一人の人から生まれる希望
4章25節からセツの家系のことが描かれます。セツはアダムにとって、カインに殺されたアベルの代わりに、神から「授けられた」祝福の家系です。
なお、セツの子エノシュのときに「(人々は)主 (ヤハウェ) の名によって祈ることを始めた」と記されます。これは、アダムの三代目に、カインの家系ではエノクの名にちなんだ町の名が付けられたのとは対照的に、アダムの三代目のセツの家系では、主への礼拝の文化が広がったということを意味します。
5章1節の「アダムの歴史」での歴史とは、2章4節の「天と地が創造されたときの経緯」の「経緯」と同じ原文です。「歴史の記録」のギリシャ語七十人訳を英語にするとBook of Genesis になります。
それに続いて、これまでの要約のような意味で、「神は人を創造されたとき、神に似せて彼らを造られ、男と女とに彼らを創造された」と記されます。そして、「彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人(アダム)と呼ばれた」という表現には、大きな希望があります。
私たちは「アダムの罪によって……」と、アダムから始まる「のろい」の連鎖に心が向かいますが、人(アダム)という呼び名には、神の祝福が込められているというのです。
そして、それを象徴するように、セツは、「アダムに似た、アダムのかたちどおりの子」(5:3) として、「神の似姿」と「神のかたち」を引き継いでいるというのです。そして、私たちもすべて、「神のかたち」「神の似姿」として創造された「高価で尊い」存在です。
ただその後の記述に、絶望が示唆されています。神は「善悪の知識の木から……取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(2:17) と言われましたが、創世記5章では、「……年生きて、……を生んだ。……を生んで後……年生き、息子娘たちを生んだ……の一生は……年であった。こうして彼は死んだ」という表現が九回、エノクひとりの例外を除いてノアに至る十代にわたって繰り返されます。
このように、「生きて、生んで、死んだ」という繰り返しを聞きながら、ふと「生きる」ことの意味を考えさせられます。
なお、エノクはアダムから計算すると七代目ですが、彼に関しては、「エノクは神とともに歩んだ」と描かれ、その結果、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」とエノク一人が死を免れたように描かれます。これは4章のカインの家系でのアダムから七代目レメクとは対照的です。
このことに関してヘブル書の著者は、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました……移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました」と記しています (11:5)。
これは預言者エリヤが火の戦車と共に天に引き上げられたことに似ています (Ⅱ列王2:11)。そして、同時にこれはノアが洪水を通して救い出されることに結びつきます。
ところで、大洪水の前の寿命が平均九百歳と長かったのは、当時の地上が「大空の上の水」(1:7) によって保護されていたためかもしれません。多くの科学者は、過去の地球に天候の激変があったことに同意しますが、それは、隕石の衝突というよりも、世界中に残っている洪水伝説が事実だったからと言えましょう。
ところがその敬虔な家系も、「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て……自分たちの妻とした」(6:1-4) という堕落に至ります。これは御使いが人の娘を妻としたのか、敬虔なセツの子孫が不敬虔なカインの子孫を妻としたのか見解が分かれます。
ただ、この文章では、「見ると……美しく(良く)……(妻として)取った」と記され、3章6節で、女が善悪の知識の木の実を「見て、良い(美しい)ので、取って」食べたというのと同じ構造です。
どちらにしてもここでは、「神の子ら」は、「人 (アダム) の娘」の「美しさ」に憧れ、神のみこころに反した「雑婚」をし、大きく力強いネフィリム (6:4、民数13:33) が生まれるという様子が描かれています。「神のようになり、善悪を知るようになった」者たちは、「美しさや強さ」という価値観に支配され、人間的な基準で優劣を競い出したのです。
それに対して主 (ヤハウェ) は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉に過ぎないからだ」と言われます。「永久には」とは、3章22節での「永遠に生きないように」するために「いのちの木」から取って食べられないようにしたというさばきと同じ表現です。人は、神からの息(霊)がある限り生きますが、それが取り去られると「ちりに帰る」(2:7、3:19、詩篇104:29) のです。
また、神がここで「人の齢は、百二十年にしよう」(6:3) と言われたのは、人の寿命に限界を設けたというより、大洪水ですべてのものを滅ぼすまでの時間を指していると思われます。
そして、「主 (ヤハウェ) は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって……地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」と描かれます (6:5、6)。
「悔やむ」の原語には「深く呼吸する」という意味があり、「哀しむ」「哀れむ」とも訳されます。神は心を痛めることなく、冷酷に、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで」と言われたのではなく、「わたしは、これらを造ったことを残念に思う(悔やむ)」とご自分の痛みの思いを繰り返して表現しながら、さばきを決断しておられます (6:7)。
しかも、この箇所は、「しかし、ノアは、主 (ヤハウェ) の心にかなっていた」ということばで終わります。この世界にどれほど悪が広がっても、神は、ひとりの信仰者から、世界を造り変えることができます。
人は、「神のかたち」に創造されたのに、それに満足し、それを享受する代わりに、自分で「神のようになり、(自分を基準として)善悪を知る」ようになって、その祝福を失ってしまいました。
そこから罪が拡大し、アダムから七代目のレメクが主張した力と報復の論理は、今や、やくざの世界ばかりか、国際政治の常識のようになっています。
一方、セツから始まった家系では、カインの家系にあるような富も、音楽も、武力も描かれませんが、「主の御名によって祈る」「神とともに歩む」「主の心にかなう」という少数者による敬虔な生き方が強調されます。
人は生まれながら生存競走にさらされているかのように感じ、より強く、より美しく、より賢くなることに幸せの鍵がある?かのように誤解してはいないでしょうか。
しかし、主 (ヤハウェ) はたった一人との対話を望まれる方です。何と、一人の人の祈りから大洪水後の現在の世界が始まっているというのですから。世界の歴史を見ると、ほとんどの大きな過ちは集団の決定でなされています。しかし変化は、一人の神との対話から始まっています。その代表例はマルティン・ルター、米国の公民権運動の指導者マルティン・ルーサー・キング、南アフリカに白人と黒人の和解をもたらしたネルソン・マンデラ、ナイチンゲール、マザーテレサなどです。
他にも多くの例がありますが、富や力や美しさ、楽しさ心地よさの追求よりも、もっと根本的に大切なことが「神のかたち」に創造された者には問われているのです。