Ⅱテサロニケ2章9節〜3章18節「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」

2014年2月23日

今も昔も、「この世の終わりが近づいた」という教えを信じると、目の前の仕事がバカらしくなるのでは、という誤解があります。それに対しルターは、「たとい明日、世界が消えると分かっていたとしても、それでも今日、私はリンゴの木を植えよう」と言ったと伝えられています出典不明

それは、キリストの復活の中に生きる人にとっては、「自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている(Ⅰコロ15:58)という力強い証しのことばと言えましょう。

 確かにテサロニケ教会には、「主の日」への期待が、怠惰を正当化するという誤解を生むことがありましたが、真の信仰者にとっては、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べる」という勤労の励ましにつながります。

なぜなら、「主の日」とは、目に見える世界が「過ぎ去って」、「正義の住む新しい天と新しい地」が実現する時だからです。この地には、誠実さが報われないという不条理が見えます。しかし、誠実さが正当に評価される世界が来るのです。

 1.「不法の人の到来(パルーシア、現れ)」に目を向ける

29節で「不法の人の到来は・・」とありますが、「到来」の原語はパルーシアで、このことばはほとんどの場合、「私たちの主イエス・キリストが再び来られる(2:1)という再臨を現す言葉として用いられます。

ただ、「パルーシア」は「再臨」以前に、「王としての現れ」を意味します。キリストの再臨は、キリストが全世界の王であるという現実を明らかにするときなので、「パルーシア」が「再臨」と意訳されているに過ぎません。

つまり、8節では不法の人を滅ぼす「主の来臨(パルーシア)」が、そして9節ではそれに先立つ「不法の人の到来(パルーシア)」が描かれているのです。

 今も昔も、「主の日はいつ来るか」と論じたくなりますが、パウロはそれよりも、「不法の人の到来(現れ)」の方に目を向けるようにと記したのです。なぜなら、それは「サタンの働き(エネルギー)によるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴う」からだというのです(9)

この「偽り」とは「不思議」の後に記される形容詞に過ぎません。ESV訳では、「with all power and false signs and wonders」(あらゆる力と偽りのしるしと不思議)と訳されています。

つまり、サタンは、「あらゆる力」を用いて「偽り」を信じさせようとするというのです。イエスも主の日が近づくときのことを、「にせキリスト、にせ預言者が現れて、できれば選民を惑わそうとしてしるしや不思議なことをして見せます」(マルコ13:22)と言っておられます。つまり、サタンもあなたの願いを聞き入れて、あなたを金持ちにしたり、あなたの病気を癒したり、あなたを驚くべき成功へと導くことができるということを忘れてはなりません。

私たちは、目に見える「力、しるし、不思議」よりも、それがキリストからか、サタンからのものかを見分ける必要があります。

 そして、ここでは続けて、「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです」(10)と記されます。つまり、悪の欺きが力を発揮するのは「滅びる人たち」であり、彼らが滅びる理由は、「真理への愛を受け入れなかった」ということにあるというのです。

「真理への愛」とは「イエスへの愛」と言い換えることもできましょう。生まれながらの人は、権力や富自体を偶像のようにして求めようとしがちです。しかし、キリストは私たちを救うために惨めな十字架の死を忍んでくださいました。

私たちも、この世的な成功を求めるか、神の愛が世界を満たすことを求めるか、が問われています。

 11節では何と、「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」と記されます。これは厳密には、「惑いへの働き(エネルギー)を送る」と記されています。しかも、その目的は、「それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるため(12)と描かれます。

つまり、神ご自身が人を惑わすという以前に、進んで悪を喜ぼうとしている人々の罪深さを明らかにして、神のさばきの公平さが世界に示されるということなのです。

ヤコブの手紙でも、「神は・・ご自分でだれをも誘惑されることはありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(1:13,14)と記されています。

たとえば、サムエル記第一1614節以降には、「主(ヤハウェ)からの、わざわいの(悪い)霊が彼(サウル)をおびえさせた」様子が描かれていますが、それは既に、サウルが進んで主のことばを退けたことに対する主の応答でした。

ただ、同時に、ここでは悪霊も神の支配下にあることを明確にして、私たちは悪霊ではなく、主ご自身だけを恐れていたらよいということを現そうとしています。

つまり、神ご自身が人を惑わしているかのように描かれているのは、主があらゆる悪の力をも支配していることを教えるためであり、私たちが「主(ヤハウェ)のみを恐れて生きる」ことができるようになるためなのです。

 なお、私たちは何度も誘惑に負けることがあります。そんなときふと、「神は、私に『惑いへの働き(エネルギー)』を送って、地獄に落とそうとしているのではないか・・・」と不安に思う人がいるかもしれません。しかし、そのような罪の自覚を持つ人は次のことばを聞くべきでしょう。

「神は、あなたがたを救いのみわざの初穂としてお選びになられました。それは御霊による聖め(聖化)と、真理への信仰を通してです。そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召してくださいました。それは、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださるためです」(2:13,14私訳)

私たちは自分の意志以前に、神によって選ばれ、聖霊のみわざによって聖められ、真理を信じ、キリストの栄光にあずかるようにと、既に召されているのです。

私たちが自分の罪深さを自覚して、神にすがっている限り、私たちのうちに聖霊の働きがあることは明らかです。なぜなら、アダムの最初の罪にあるように、罪の根本とは、自分の罪を認めずに神の御前から逃亡してしまうことだからです。

イエスは、取税人が自分の胸をたたいて、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と祈ったとき、「この人が、義と認められた」と言われました(ルカ18:13,14)。誰もが認める正しい人よりも、自分の罪深さを知って神にすがる者を、神は守ってくださるのです。

 2.「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」

15節では「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」と記されていますが、これは、テサロニケの人々が、「主の日」に関しての惑わしの教えに翻弄されそうになっていることに対し、必要な教えはすでに彼らに届けられているということを明らかにするためです。

私たちの場合も、すでに聖書66巻を通して、神の救いのご計画に関してのすべての必要な知識が与えられているのです。

   なお、1617節の祈りには三位一体の神秘が込められています。原文では「ご自身が」ということばが冒頭に来て、「私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神」と説明され、その方が「私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった」と記されています。これは不法の人に現れに対するキリストの現れ(パルーシア)の圧倒的権威を強調するためであり、父と御子が一体となって私たちを愛してくださったことを示すものです。

そして、祈りの内容が、「あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように」(17)と記されますが、この主語は冒頭の「ご自身が」です。そして、このように私たちの心の中に働いてくださる神こそ「聖霊」ご自身です。

パウロはサタンの働きの大きさを明らかに見せながら、それにまさって、三位一体の神が、私たちを取り囲み、私たちの信仰を導き、完成させてくださるという希望を示しています。

 3章の始まりでは「終わりに」ということばとともにパウロからの祈りの要請が記されます。彼の何よりの願いは、「主のみことばが・・早く広まり・・・あがめられる」ことでした。それこそ私たちの祈りでもあるべきです。

その上で、「私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように」(3:2)と祈るように願いますが、それは自分の身の安全という以前に、主のみことばを広める働きを続けることができるためということです。私たちも、人の安全や癒しを祈りますが、その際、何よりも、その人が大切にしている使命を果たすことができるようにと祈るべきではないでしょうか。

そして、彼は「ひねくれた悪人ども」を意識しながら、「すべての人が信仰を持っているのではないからです」と、「信仰(真実)」ということばを最後に用いながらすぐに「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます」と述べます。

2節の終わりは「信仰」で、3節もその形容詞形の「真実な」から始まります。つまりここでは、人間の不真実と神の真実が対照的に記されているのです。

たとえば私は、迫害に会う時に自分の信仰を全うできる自信は全くありませんが、神が私を「強くし、悪い者から守ってくださる」ということは信じることができます。自分の信仰を信じるのではなく、神の真実に信頼することこそ信仰の核心です。

 その上でパウロは、「私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています」(4)という信頼を表現しつつ、彼らの信仰の成長を願って、「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」(5)と祈ります。

これこそ私たちの成長の目標です。「神の愛」とは、神からの愛であるとともに、そこから生まれる神への愛をも含む相互的な概念です。「キリストの忍耐」とは、私たちがキリストの苦しみにあずかるように召されているからです。

私たちの成長の目標とは、誰からも尊敬される人になることではなく、神との愛の交わりが深められ、キリストが敢えて苦しみの道へと進まれたように、キリストとともに苦しみ、そこで神をあがめることなのです。

私たちの祈りはしばしば、あまりにもこの世的な成功志向になりすぎて、キリストに似た者へと変えられるという視点を欠いてはいないでしょうか。

 3.「私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すため」

パウロは6節で厳かに、「兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます」と言いつつ、「締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさいと驚くべき命令を与えました。

彼は先の手紙で「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです」(4:9)と書いていたほどに彼らの兄弟愛の豊かさを称賛していましたが、ここではパウロの教えに従わない「すべての兄弟から離れなさい」と、兄弟の縁を切るかのようなことを勧めているからです。

それは、22節にあったように、「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」する人がいたからです。彼らは働かないことを正当化していました。

 ギリシャには特に、広場で哲学を論じることが高級な人間のしるしと見るような文化がありましたが、クリスチャンの中にも、再臨の教えの誤解と相まって、そのように労働を軽蔑する風潮が広がったのだと思われます。

しかも、初代教会の群れでは食事を共にする愛餐会がとっても大切にされていました。ですから、クリスチャンの仲間入りした者は、飢え死にする心配が無くなりました。彼らは働かなくても愛餐会で豊かな食事にありつくことができました。

それに対しパウロは、そのような怠惰な者たちを、食事の交わりから締め出すように命じたのです。

 しかもパウロはそのために自分たちの歩み方を思い起こさせました。

そのことが、「あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした」(3:7-9)と描かれています。

 パウロはかつてパリサイ人として訓練を受けていました。彼らは祭司やレビ人のように神殿に仕えることから生活費を得ることなく、はるかに熱心にみことばを学んでいた真の信徒伝道者でした。

パウロの場合は、「天幕作り」をしながら生活費を稼ぎ、聖書の学びと伝道に励んでいました。その姿勢は、回心前も回心後も一貫していました。とくにギリシャでは、巡回哲学者のように、人々の興味をそそるような哲学論議をしながら、人々から聴講料を取るような人々が多くいました。

パウロはギリシャの教会がそのような巡回哲学者によって折角の福音が歪められることを意識したということもあり、「身を持って・・模範を示した」と語っているのだと思われます。

 しかも、テサロニケ教会などは、三週間の伝道で生まれました。そんな若い教会に経済的な負担をかけるわけにはいきません。そればかりかパウロはユダヤ人クリスチャンからも誤解を受けながら異邦人伝道を展開していましたから、支援者は最初はいなかったと思われます。ですから、当時のパウロが天幕作りをしながら伝道するというのは必然的なことでもありました。

このときの彼は、同胞に頼ることなく、天幕作りで生活費を稼ぎつつ異邦人伝道を展開し、同時に、労働を軽蔑するギリシャの悪習を変えるという二つの事を意識していたのだと思われます。

   後にパウロはギリシャの諸教会に対して大胆な献金のアピールをします。それはギリシャ人クリスチャンに、飢饉で苦しむエルサレムの教会のユダヤ人を経済的に支援させることによって、ギリシャ人とユダヤ人の間に真の一致を生み出すためでした。パウロはそのようなことも視野に入れながら、自分の伝道の働きに関しては彼らの支援を受けまいと心に決めていたのです。

なお彼がここで、「権利がなかったからではなく・・・模範を示すためであった」と記しているのは興味深いことです。彼は後に、弟子のテモテに対する手紙では、「みことばと教えのためにほねをおっている長老」に関して、「働き手が報酬を受けることは当然である」というイエスご自身の言葉を引用しながら、教会の支援を受けることを正当化しています(Ⅰテモテ5:17,18)

しばしば、パウロに習って自給伝道を目指す人が英語ではテント・メーカーと呼ばれますが、それを拡大解釈して現代に適用することには注意が必要です。パウロには「模範を示す」という必要があったのです。働き過ぎの日本にそのような必要はありません。

 4.そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい

パウロはその上で後の世に有名になる言葉を記します。それは、「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」(10)というものです。これはしばしば、「働かざる者食うべからず」ということわざとして引用されますが、厳密には、「働くことを望まない者は、食べるな」と記されています。働きたくても働けない人への配慮を忘れない優しさを込めた勧めです。

しかし、このことばは後に独り歩きして、旧ソ連の憲法では、「労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力あるすべての市民の義務であり、名誉である」と記されていたと言われます。

しかし、そこには恐ろしい落とし穴があります。私は共産主義下の東ベルリンを旅行した時、ガイドさんが、「私たちの国には失業がありません」と言っていたのに妙に感心しました。西ドイツに戻った時、ソ連からの亡命者にそれを言いました。彼女はたちどころに、「それは、職業選択の自由がないということなのよ・・・自分の賜物や意思に関係なく、命じられた仕事をしなければ処罰を受けるという、恐ろしいシステムなのよ」と言ってくれました。

しかし、聖書の本来の意図は、人間に、自分の意に反した労働の義務を課するものではありません。文脈から明らかなように、働くことを軽蔑する人に対する戒めのことばに過ぎないのです。

   11節は先の「働きたくない者」のことをさらに詳しく述べたもので、まずパウロは、「ところが、あなたがたの中には、・・・締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています」と述べて、それをさらに、「何も仕事をせず、おせっかいばかり」することと説明します。

「締まりのない」の原文は、「秩序を欠いた」とか、「気ままな」(Ⅰテサ5:14)とも訳される言葉ですが、ここでは特に、「仕事をしない」ことと、「おせっかい」で説明されます。

「おせっかい」は英語でbusybodyと訳されるように、ある意味で忙しく動き回っている人なのです。ただそれは、他人に不必要な干渉をしながら、ゴシップを言いふらすような生き方です。彼らは、「私はあなたのためを思って、言ってあげているのよ」などと恩着せがましい言い方をします。

それぞれの人には、自分が守るべき責任領域(バウンダリー)があります。テサロニケにいた問題児は、労働を軽蔑しながら、分かりもせずに「主の日」を論じるような人だったと思われます。誤った霊的な知識で怠惰を正当化しながら、その怠惰な生き方に他の人を巻き込んでいました

 そのような人々に対し、パウロはキリストの権威を用いながら、厳かに、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と極めて簡潔に命じます(12)。これこそ、「締りのない、おせっかいやき」に必要なことばです。

その上で、13節では「しかしあなたがたは、兄弟たちよ」と対照的に優しく呼びかけながら、「たゆむことなく善を行いなさい」と命じました。これは厳密には、「善を行なうことに疲れ果ててはなりません」と記されています。

私たちもしばしば、他の人の気ままな生き方を見ながら、「私ばっかりが真面目にやってることが、バカバカしくなってきた・・・」と思うことがあります。しかし、私たちはいつでもどこでも、主の眼差しを意識して、誠実を尽くすべきなのです。

 そればかりか1415節で、「もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい」と記されています。

これは、怠惰な人と縁を切るというのではなく、きちんと警告しながら、それでも仕事に身を入れないようであれば、愛餐会の交わりには決して入れないという意味ではないでしょうか。

 その人は、「腹が減った。そんなに冷たくせずに、何か食べさせてよ・・・」とすがって来るかもしれませんが、それでもその人に向かって、「あなたは働かないことを自分で選んだのですから、その結果として飢えることは、あなたの問題です」と、突き放すということです。

依存症の人には、このような責任と結果を明確した対応が必要です。甘い顔をしてむやみに助け続けることは、かえってその人の依存症を加速させることになるからです。

 そして、パウロの最後の挨拶が、「どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように」と祈っているのは興味深いことです。彼の厳しい命令は、差し当たり、争いを産む可能性があります。だからこそ「平和の主」からの「平和」を求めているのです。

ただし、真の平和は、衝突を回避して生まれるものではありません。見せかけの平和を望むことは、交わり全体を破壊に導くことになるからです。真の平和を求めるからこそ、争いを避けてはならないときがあります。

伝道者の書には、「天の下のすべての営みには時がある」と記されながら「崩すのに時があり、建てるのに時がある・・抱擁するのに時があり、抱擁を止めるのに時がある」と対照的な時を描きながら、最後に「戦うのに時があり、平和になるのに時がある」と締めくくっています(3:1-8)

私たちも、「平和の主」に祈り求めながら、誤った教えに惑わされた人と「戦う」必要な時もあるのです。

讃美歌313番では、「この世の勤めいと忙しく、人の声のみ繁き時に、内なる宮に逃れ行きて、我は聴くなり主の御声を・・・主よ、騒がしき世の巷に、我を忘れて勤しむ間も、小さき御声を聴き分け得る静けき心 与えたまえ」と歌われます。

私たちは忙しさの中で、目に見える結果ばかりに心を奪われがちです。しかし、サタンも仕事を成功させることはできます。私たちのこの地での仕事は、すべて神の愛の現れであり、キリストの忍耐を学ぶプロセスでもあります

私たちの信仰とは、「主は真実です」(Ⅱテサ3:3)との告白に尽きますが、忙しさの中でそれを忘れ、見当違いの方向に自分のたましいを駆り立てはいないでしょうか。静まりつつ、自分の仕事に励みたいものです。