2014年1月5日
私たちは互いに、「今年は(も)、良い年でありますように……」と互いの祝福を祈り合います。しかし、はっきりしていることは、わざわいのない年はだれにもありえないということです。必ず何らかの「まさか」に出会います。
ユダヤ人たちはナチス・ドイツがもたらした強制収容所の悲惨の中で、「Trotzdem Ja zum Leben sagen(にも関わらず、人生に対して『はい』と言おう」と励まし合っていました。私たちの信仰とは、「神を信じたら順風満帆の人生が……」というものではなく、「逆境にも関わらず、主 (ヤハウェ) に信頼して、喜ぶことができる」というものです。
敬虔な信仰者ヨブに理不尽な苦しみを与えたサタンは、今も信仰者への攻撃を繰り返しています。しかし、私たちは復活のキリストにあって既に勝利が与えられています。
「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、ヘブル10:38) という新約の教理の核心は、ハバクク書からの引用ですが、それは、「にも関わらず」の信仰と呼ぶことができます。
1.「正しい人はその信仰によって生きる」
預言者ハバククの嘆きの訴えに対し、主は奇想天外な「幻」(啓示)を見せてくださいました。それは「まやかし」ではなく、その実現を、ひたすら待ち続けるべきものでした (2:3)。
それは、人間の目には、「いつになったら実現するのか……」と思えたとしても、神の視点からは、「それは必ず来る、遅れることはない」という内容なのです。
4節では最初に、「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない」と記されます。これは1章4、13節に記された「悪者」、真の神を忘れた者、または「自分の力を自分の神とする者」(1:11) のことを指していると思われます。
彼らの心の特徴は、「うぬぼれ」にあり、真の神を「まっすぐに」見上げるということがないことに現されています。
一方、その反対に、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と描かれます。「信仰」の原語は、「エムナー」で「アーメン」と同じ語源に由来し、「真実」と訳した方が良いかもしれません。興味深いことに七十人訳(ギリシャ語)では、「わたし(神)の真実によって」と記されています。ですから、これは「信仰の力によって」とか「行いではなく信仰によって」などという意味ではありません。
これは、目に見える現実が、人間の目には神の不在、神の無力さを示すようにしか思えない中で、イスラエルの神ヤハウェが確かに、全地の支配者であり、正しく世界を治めて(さばいて)おられるという、神の真実に信頼して歩む者こそが「正しい人」であるというのです。
つまり、私たちの信仰とは、神がご自身の真実を示してくださったときに、それを真実に受け止めるという心の応答なのです。
しかも、ここでは「私たちは死ぬことはありません」(1:12) を言い換えるように、「正しい人は……生きる」と断言されます。
人間的には実現が遅いと思われる神からのビジョン、ときには「まやかし」とさえ言われるような神からのビジョンが必ず実現するということを信頼し、ここで誠実を尽くす者こそが、真の意味で「生きる」ことができるのです。
そして、5節では「心がうぬぼれている」人の状態が、「実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める」と描かれます。これは「正しい人」と対極にある生き方です。
当時のウガリト神話にはモトという死の神が描かれていますが、彼は「足ることを知らない」貪欲な神です。そして、エルサレムの支配者も、カルデヤ人も、そのような死の神に操られた生き方をしているというのです。
なお、最初の「ぶどう酒は欺くものだ」というのは唐突な感じがしますが、「足ることを知らない」生き方の基本はアルコール依存症に似ています。私たちが生まれながら罪人であるというのは、私たちが生まれながら何らなの依存症患者であると言い換えることができます。「アル中!」などと人をバカにしている人は、実は同じ病を抱えている可能性があります。
2.「水が海をおおうように、地は、主 (ヤハウェ) の栄光を知ることで満たされる」
2章6節では、「これらはみな、彼についてあざけりの声をあげ、彼を皮肉り、風刺してこう言わないだろうか」と記されますが、ここからは、高ぶるバビロン帝国によって苦しめられてきた者たちが、その中心部族である「カルデヤ人」(1:6) の最後を風刺して、五回に分けて「わざわいだ」と「あざけりの声をあげ」るものです。
その第一は、「わざわいだ。自分のものでないものを増し加える者。─いつまでだろうか─その上に担保を重くする者」というあざけりです。これは1章6節にあったようにカルデヤ人が「自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る」ことを非難したことばですが、彼らが奪い取った物は、主の御前には「担保」のように積み上がっています。彼らは奪った分を強制的に返却させられるのです。彼らは奪った分だけ奪い返されます。
彼らは「いつまで」ということを知らずに、自分の将来的な悲惨を自分で準備しているというのです。そしてそのことが8節では、「あなたが多くの国々を略奪したので、ほかのすべての国々の民が、あなたを略奪する」と記されます。
第二は「わざわいだ。自分の家のために不正な利得をむさぼり、わざわいの手からのがれるために、自分の巣を高い所に据える者」(9節) というあざけりです。カルデヤ人は占領国から奪い取った物を敵の手から守るため「自分の巣を高い所に据え」ました。しかしそれは、「あなたのたましいは罪を犯した」(10節) とあるように、「罪」と宣告され、さばきを免れないものです。
そればかりかそのさばきは、「まことに、石は石垣から叫び、梁は家からこれに答える」(11節) という形で実現します。それは石垣の構成要素である「石」の叫びを招き、また家を守る「梁」の「答え」を引き出すように、罪に対するさばきが、彼らの土台の崩壊というかたちで実現されるというのです。
第三は、「わざわいだ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者」(12節) というあざけりです。彼らは他国民の血の犠牲によって町を建て、略奪した富で都を築き上げただけであり、滅びは時間の問題です。
そして13節では「これは、万軍の主 (ヤハウェ) によるのではないか」と言いつつ、「国々の民は、ただ火で焼かれるために労し、諸国の民は、むなしく疲れ果てる」という国々の悲劇が描かれます。これはバビロン帝国で起きたことを一般化して述べたものだと思われます。
国々は主のさばきを知らずにむなしい労苦を積み上げていますが、バビロン軍にはるかにまさる「万軍のヤハウェ」のみわざによってすべてが無に帰すことがあるのです。
そして、それを通して主の偉大さが現されることが、「まことに、水が海をおおうように、地は、主 (ヤハウェ) の栄光を知ることで満たされる」(14節) と描かれます。
これは第一義的には、バビロン帝国へのさばきを通して、この地の真の支配者がイスラエルの神、主 (ヤハウェ) であることが明らかになるときが来るという意味です。
ただそれは同時に最終的な救いの完成を示すことばでもあります。「主 (ヤハウェ) の栄光」はたとえばかつてイスラエルの民が荒野を旅していたときに雲の中に現され、翌朝には宿営の周りにマナが降りているということで現されました (出エジ16:10-15)。
またモーセに導かれた民が幕屋を建てたとき、「雲は会見の天幕をおおい、主 (ヤハウェ) の栄光が幕屋に満ちた」と描かれています (同40:34)。同じことはソロモンの神殿にも起きました。
また、預言者イザヤの召命のときには、セラフィムの「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主 (ヤハウェ) 。その栄光は全地に満つ」という賛美の声とともに「宮は煙で満たされ」ます (イザヤ6:3、4)。
そして彼は救い主が実現する世界を、「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さい子どもがこれを追ってゆく……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる……主 (ヤハウェ) を知ることが海をおおう水のように、地を満たすから」と描きます (同11:6-9)。このとき、全地が主の神殿となり、主のシャローム(平和、繁栄)が全地を満たすことになるのです。
ペテロはこの目に見える天と地が過ぎ去ることを述べながら、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13) と記しています。
3.「主 (ヤハウェ) は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ」
第四は、「わざわいだ。自分の友に飲ませ、毒を混ぜて酔わせ、その裸を見ようとする者。あなたは栄光よりも恥で満ち足りている」(15、16節) というあざけりです。これは彼らが脅しの力によって自分たちの「栄光」を現そうとしていることを皮肉って、実は「恥で満ち足りている」と言ったものです。
続く、「あなたも飲んで、陽の皮を見せよ」とは、割礼を受けていない者のしるしの男性器を覆う包皮を露わにして恥を現すという意味です。
また、「主 (ヤハウェ) の右の手の杯は、あなたの上に巡って来て、恥があなたの栄光をおおう」とは、「主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干す」(イザヤ51:17、23) ともあるように、イスラエルを苦しめた主の杯がカルデヤ人に渡されることを意味します。
そして、この書で強調されてきた「暴虐」(1:2、9) に対する報いが、「レバノンへの暴虐があなたをおおい、獣への残虐があなたを脅かす。あなたが人の血を流し、国や町や、そのすべての住民に暴力をふるったためだ」(17節) と描かれます。人に「暴虐」を行なう者は、自分の身に「暴虐」を招いているのです。
第五は、18、19節で、「彫像や鋳像」のような偶像が「偽りを教える者」、また「物言わぬ偽りの神々」と呼ばれるばかりか、それを礼拝する者が、偶像に「目をさませ」「起きろ」と必死に祈っている姿があざけられています。
そしてその終わりに、それに対する主のさばきの声が、「それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない」と描かれ、表面が高価に見えても、神の息の入っていない空しさが強調されています。
そして最後に、「しかし主 (ヤハウェ) は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ」(20節) と描かれます。ここでの「聖なる宮」とはやがて滅ぼされるエルサレム神殿ではなく、「主 (ヤハウェ) は聖なる住まいにおられ、主 (ヤハウェ) の王座は天にある」(詩篇11:4フランシスコ会訳) とあるように「天の宮」を指すと思われます。
この書が記された少し前のミカ1章2節では天の聖なる宮から降りてきてこの地をさばかれるということが描かれていました。
ここでは偶像礼拝をする者が「物言わぬ偽りの神々」に向かって「目をさませ……起きろ」と騒ぎ立てていることとの対比で、主の御前に静まることが勧められています。
なぜなら、主は今、預言者ハバククに向かって明確な言葉で語っていてくださるからです (2:1)。そして主の語られたことばが今、この書として残されているからです。
4.「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」
3章の初めでは、「預言者ハバククの祈り」と記されますが、それは詩篇の賛美や祈りを指す言葉でもあります。また「シグヨノテに合わせて」とは小さなハープのような弦楽器の調べに合わせてという意味だと思われます。
祈りのことばの初めでは、「主 (ヤハウェ) 」ということばが二回繰り返されながら、「主 (ヤハウェ) よ。私はあなたのうわさ(知らせ)を聞き、主 (ヤハウェ) よ、あなたのみわざを恐れました」と呼びかけられますが、これは歴史における主の具体的な救いのみわざの知らせを聞いて、主のみわざに恐れをいだくようになったという意味です。
「この年(数年)のうちに、それをくり返してください。この年(数年)のうちに、それを示してください」とありますが、「年」は複数形ですから、「数年」と訳した方が良いかと思われます。これは、過去になされた偉大な救いのみわざを見せて欲しいという訴えです。
しかも、「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」と記されるのは、主の激しい怒りを知りながらも、そこで主のあわれみが示されることを懇願したものです。この書の最初では、「いつまで、救ってくださらないのですか」という訴えがなされましたが、そのことを再び具体的に表現したものと言えましょう。
3、4節では主のかつての救いのみわざが描かれます。「テマン」はエドムの地で「主よ。あなたが……エドムの野を進み行かれたとき、大地は揺れ、天もまた、したたり、雲は水をしたたらせた」(士師5:4) とあったようなことを思い起こさせるものです。
また「パランの山」とはシナイ山の北東に広がる荒野で、そこでは、「主はシナイから来られ……パランの山から光を放ち……その右の手からは……いなずまがきらめいていた」(申命記33:2) というような救いのみわざが思い起こされています。ここでは、その時と同じようなみわざが繰り返されることを願ったものです。
「その御前を疫病が行き、熱病はそのうしろに従う」(5節) とは、主がイスラエルの民をエジプトから解放するときにエジプトの上に下された様々なわざわいを思い起こさせる表現だと思われます。
6節では引き続き、人々に恐怖を起こさせる主の姿が、「神は立って、地を測り、見渡して、諸国の民を震え上がらせる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その軌道は昔のまま」と描かれます。
これは主がシナイ山に下りて来られた時の様子を思い起こさせるとともに、主が進まれる道が何ものにも阻まれることがないことを描いたものだと思われます。イザヤ40章3節以降には主の救いの現れが荒野に主の道が備えられることで描かれています。
7節では、「私が見ると、クシャンの天幕は乱れ騒ぎ、ミデヤンの地の幕屋はわなないている」と描かれますが、クシャンもミデヤンもエドムに近い地に住んでいる遊牧民ですが、これは主がイスラエルの民を約束の地へと導いたとき、その通り道に住む遊牧民が震えおののいたことを思い起こさせたものと思われます (出エジ15:14-16)。
5.「あなたは、ご自分の民を救うために……油そそがれた者を救うために出て来られます」
3章8-15節はひとつのまとまりで、主に向かって呼びかけることばを用いながら出エジプトの際の救いの御業を思い起こしているものと思われます。
8節の「主 (ヤハウェ) よ。川に怒りを燃やされるのですか……憤りを海に向けられるのですか……あなたの救いの戦車に乗って来られます」とは、主がナイルに災いを起こし、ヨルダン川をせき止め、紅海を分けられて民を通らせ、エジプトの軍隊を海に沈めたことを思い起こさせているものと思われます。
9節での、「弓」とは主が地に雷を落とす様子を、「地を裂いて川々とされます」とは嵐によって濁流を起こす様子が描かれたのだと思われます。「ことばの杖の誓い」という部分は様々な訳が可能で意味不明です。
10節の「山々はあなたを見て震え……」とは、人間に恐怖をもたらす地形や嵐や海の深淵が、主の思うままに動かされる様子が描かれています。
続く、「太陽と月はその住みかにとどまり……あなたの矢の光によって……それらは動きます」(11節) では、当時の人々が崇めた太陽や月が主のご意志に従って動く様子が描かれます。
また、「あなたは、憤って、地を行き巡り、怒って、国々を踏みつけられます」(12節) とは、主がこの地の横暴な国々を思いのまま滅ぼすことができることを示しています。
そして13節の「あなたは、ご自分の民を救うために(出て来られ)、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます」では「出て来られ」が鍵のことばです。これは、1章4節での「さばきはいつまでも行われません(出て来ません)……さばきが曲げて行われます(出て来ます)」という訴えに対する答えとなっています。
かつて主は沈黙しておられたように思えましたが、ご自身の時にご自分の民を救うために「出て来られ」、また「油注がれた」王を救うために「出て来られ」ます。これは、不当に殺されたと思われた救い主イエスを、死者の中からよみがえらせ、全地の王とされたことをも示唆する表現と言えましょう。
そして、13-15節では、神の民の敵に対するさばきが生々しく描かれます。その終わりの「あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ、大水に、あわを立たせられます」(15節) とは8節に立ち返るもので、主が紅海を分けてエジプト軍を海の底に沈めたことを示し、同じことが横暴なカルデヤ人の軍隊の上に起こされることを示唆したものです。
6.「……にも関わらず、この私は主 (ヤハウェ) にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」
16節の「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう」という表現は、それまでの2-15節の要約のような意味があります。
主の「激しい怒り」(2節) を見せられた彼の骨はまるで腐ってしまったように弱くなり、足元がぐらついていますが、ハバククは何もできない中で、自分たちの敵に訪れる「悩みの日」をただ「静かに待とう」と告白します。カルデヤ人へのさばきが、主の民の救いになるからです。
17、18節は、目先の悲劇を覚悟しながら、そのただ中で、私は主にあって喜ぶという、悲惨と喜びの対比が描かれています。ですからここは、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さず、羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなるにも関わらず、この私は主 (ヤハウェ) にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と訳した方が良いと思われます。
これは目の前にバビロン帝国の攻撃が起きて、自分たちの農作物が台無しにされ、家畜がいなくなるようなことが起きるという悲惨を目の前に見ながら、そのただ中で、主の救いのご計画は確実に進んでいることを確信することです。その結果として、「私は……私の救いの神にあって喜ぶ」と告白するのです。
そして最後に、「ヤハウェ、私の主」と告白しながら、「その方が、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」と締めくくります (19節)。
また末尾の「指揮者のために。弦楽器に合わせて」とは、これが会衆の祈りと賛美として歌われるために記されたという意味だと思われます。
ハバククはこの書の最初で、「いつまで、あなたは聞いてくださらないのですか……なぜ、あなたは私にわざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか……なぜ黙っておられるのですか」(1:2、3、13) と、主を非難するように訴えていました。ただ、その彼に示された主の救いは、暴虐なカルデヤ人を用いてご自身の民にわざわいを下し、その後にカルデヤ人の横暴にさばきを下すという奇想天外なものでした。
そのような不思議なご計画を示しながら、主はハバククに、「正しい人はその信仰(真実)によって生きる」と言われました。これこそ、私たちの聖書信仰の核心です。
それは、目の前の現実がとうてい自分に納得が行かないような悲惨であったとしても、また自分に受け入れがたい現実があったとしても、それらの背後で、主の真実な救いのご計画が進んでいることを信じて、わざわいのただ中で、最終的な「私の救い」を確信して、「主にあって喜び勇む」ということでした。
私たちの喜びは、目の前の現実ではなく、主との親密な交わりから生まれるものです。そのことをパウロは、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となっている」(ローマ8:37) と告白しました。
ただし、この喜びは、不安や嘆きを、自分で押し殺す中から生まれるものではありません。ハバククの祈りは、ヨブのような主への率直な嘆きの訴えから始まっているからです。
ところで教会福音讃美歌422番に唯一掲載された私のドイツコラール訳は、目の前が真っ暗な中で「イエスは私の喜び」と力強く告白するものです。