ミカ6章9節〜7章20節「主はいつくしみ(ヘセド)を喜ばれる」

2013年11月17日

ミカの時代と現代とは似ています。見せかけの経済的な繁栄の中で、人の価値がどれだけの富を獲得できたかで計られるようになりがちだからです。そして、より多く稼いだ者は、より多くささげることができ、神に貢献できるかのように誤解されます。

しかし、私たちの創造主なる神が何よりも求められるのは、私たちの「誠実さ」です。そして、神が何よりも喜ばれるのは、ご自身が私たちに「いつくしみ」、「誠実」を施すことであり、私たちがそれに応答することです。それはヘブル語の「ヘセド」の訳です。これは翻訳し難い言葉ですが、それこそ聖書の核心です。

ミカ6章6、7節では、「私は何をもって主(ヤハウェ)の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主(ヤハウェ)は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか」と、不思議な問いかけがありましたが、それに対する応答が、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実(ヘセド)を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(6:8)と記されていました。

信仰の喜びは、掴(つか)み取る生き方よりも、与えられている恵みを思い起こすことから生まれます。イエスが七十人の弟子たちを神の国の宣教のために派遣した時、弟子たちは主の御名によって大きな働きができたことを喜んで報告しました。

それに対して主は、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と言われました。ユージン・ピーターソンはそれを、「あなたが神のために何ができたかではなく、神があなたのために何をしてくださったか、それこそが喜ぶべきアジェンダ(議題)です」と意訳しています。

神がご自身の計画の中でいつくしみと恵みを現してくださることを待つことができず、性急に自分の個人的な利益を確保しようとするところから偶像礼拝と争いが始まります。

1.「あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。」

6章9節は新改訳では「聞け」から始まりますが、原文では「声」とのみ記され、それを「主(ヤハウェ)の」と説明され、「町に向かって叫ばれる」と付け加えられています。ですから、ここは何よりも、エルレサレムの町に向かって叫ばれる主(ヤハウェ)の声に注目することが求められているという意味で、「聞け」と意訳されています。

そして、主の声に注目すべき理由が、「御名を恐れることがすぐれた知性だ」と解説されます。この原文は解釈が難しいのですが、ここには主(ヤハウェ)を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)という聖書の核心が記されているものと思われます。

その上で明確な「聞け」という命令とともに、「聞け。部族、町を治める者」と呼びかけられます。

10-15節では、三つの節に渡ってイスラエルの罪が描かれ、その後三つの節に渡ってさばきが宣告されます。彼らの第一の罪は不正のはかりを用いて不正の財宝を蓄えていることです。

10,11節の原文では最初に「まだ、悪者(不正)の家には・・あるではないか」と問われ、その内容が「不正の財宝と、のろわれた枡目不足の枡が」と記されます。そして引き続き、「罪なしとすることがわたしにできようか」という問いかけとともに、「不正なはかりと、欺きの重り石の袋を使っている者を」と記されます。

ここでは「不正」ということばが三回繰り返されそれが「不正の家」「不正の財宝」「不正のはかり」と非難され、それとともに「のろわれた桝目不足の枡」「欺きの重り石の袋」の問題が指摘されます。彼らは不正なはかりを用いて弱い民から搾取し、不正の富を蓄えていたのです。

12節では、「富む者たちは暴虐に満ち、住民は偽りを言う。彼らの口の中の舌は欺く」と彼らの罪が要約されます。エルサレムの富む者たちはお金の力で権力を握り、暴虐を働きます。また社会的弱者が権力者の不正を訴えても、住民は権力者におもねって偽りを言います。ここの「舌は欺く」と先の「欺きの重り石」が対応します。

それに対する神のさばきが13-15節で宣告されます。まず、主ご自身が「わたし」ということばを強調しながら、「わたしもそこで、あなたを打って痛め、あなたの罪のために荒れ果てさせる」(13節)と、怒りを顕にされます。

その上で、彼らの不正と欺きと暴虐の罪に対するさばきとしてののろいが、「あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。あなたは、移しても、のがすことはできない。あなたがのがした者は、わたしが剣に渡す。あなたは種を蒔いても、刈ることがなく、オリーブをしぼっても、油を身に塗ることがない。新しいぶどう酒を造っても、ぶどう酒を飲むことができない」と描かれます(14,15節)。

これは、まず、「桝目不足の枡」を使ったことで、食べても満ち足りない状況が実現し、暴虐を働いたことに対して「剣に渡す」という報いが実現し、「不正なはかり」や「欺きの重り石」を使って不正の財宝を蓄えたことに対し、自分たちの労働の実が奪われるという報いが実現します。

申命記28章には主のみことばを軽蔑する者に対するのろいが警告されており、そこでは、「あなたが・・ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、ふみにじられるだけである。あなたは目に見ることで気を狂わされる」(30,33,34節)と記されていましたが、いまそのようなのろいがエルサレムに実現するというのです。

イエスは、「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる」(マタイ7:2)と言われましたが、これは厳密には、「量る量りを用いて量られる」と記されます。

つまり、桝目不足の枡を用いた者は、その同じはかりによって神から量れることになります。つまり、人を軽く見て騙すような者は、同じように神から無価値な者と見られます。

それは反対に、人に恵みを与える枡を用いた者は、神から豊かに扱われます。そのことを主は、「あなたがたは、人に量ってあげるそのはかりで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます」(マルコ4:24)と言われました。

16節は9節に対応することばだと思われます。そこではまず、「あなたがたはオムリのおきてと、アハブの家のすべてのならわしを守り、彼らのはかりごとに従って歩んだ」と、北王国の前政権を倒してサマリヤに都を移したオムリ、その息子でバアル礼拝を持ち込んだアハブに習ったことを非難しています。

アハブの娘アタルヤは南王国エルサレムの王ヨラムに嫁いだところから、神の都エルサレムに偶像礼拝が持ち込まれました。

信じ難いことですが、ダビデが基礎を築いたエルサレム神殿に異教の習慣が入り込んで、それを取り巻く山々に偶像礼拝の高き所が築かれました。続く文章が新改訳では「それは・・・ためだ」と訳されますが、この接続詞は、「その必然的な結果として」とも解釈できます。

ですからここは、「そのため、わたしはあなたがたを荒れ果てさせ、住民をあざけりとする。あなたがたは、国々の民のそしりを負わなければならない」と訳すべきかと思われます。

エルサレムの権力者が社会的弱者を虐げ搾取し、偶像礼拝によって神の御教えを見えなくしてしまったことへの報いが実現します。

神は今、異教徒の国を用いてご自身の民をさばこうとしておられるのです。

2.親しい友をも信頼するな。しかし、私は・・私の救いの神を待ち望む

7章1-7節は預言者ミカの哀歌です。1-6節ではイスラエルの罪に対する嘆きであり、7節は神への信頼の歌です。まず彼は、「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない」と嘆きます。

これは、収穫の直前にすべての実が、奪い取られてしまったためだと思われます。初なりの実は、果樹園で働く者にとってはすべての希望の象徴のようなものですが、それが無に帰するということは大きな悲しみです。

そしてイスラエルの現状が、「敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている」(2,3節)と描かれます。つまり、全ての人が自分の都合を最優先して人を裏切ることを何とも思っていないというのです。

その上で、「彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ」(7:4)と記されますが、これは民の指導者たちの中で、善人また正しい者と見える人々も、助けを求めて近づくと、反対に傷つけられてしまうということを意味します。

それは、彼らが偽善者で、自分の利益しか考えていないことがわかるからです。

それに対して、「あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる」(7:4)と、二人称で神のさばきが宣告されます。「あなたを見張る者の日」と記されているのは、神のさばきとして敵の攻撃が町に迫って来ることを預言者が「見張るからです。

そして、5,6節では国の末期症状が描かれます。権力者は疑心暗鬼になって密告者を網の目のように散らすような中で、「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている」と描かれます。

国の将来に対する希望がなくなると、人は勇気が萎えて、自己保身しか考えなくなり、裏切りが日常化します。これは法律の善悪以前の問題です。そしてまさにこれは現代の北朝鮮やシリアが陥っている状況です。

ただ、このような中でミカは、「しかし、私は主(ヤハウェ)を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる」(7:7)と告白します。ここではまず、「私」ということばが強調されます。そして、「仰ぎ見」ということばは原文では先の「見張る」と同じ言葉が用いられています。

つまり、先には主のさばきを見張るという預言者としての働きが描かれていたのに対し、ここでは、主の救いを見張るという意味に逆転されているのです。

私たちは神のさばき救いをまったく対照的なことに理解しがちですが、それはこの世の不正や不条理を正すという意味において、さばきであり、同時に、虐げられている者たちにとっての「救い」なのです。

私たちは、目の前の不安な状況を変えようと必死になることがありますが、しばしばそれはかえって問題を複雑化させるだけということがあります。悪の力に、力で対抗しようとすると、なお強い力の反発を招くということがあるからです。

3.「私は主(ヤハウェ)の激しい怒りを身に受けている・・しかし・・・主は私を光に連れ出し」

8-10節の「私」はエルサレムを擬人化した者と考えると意味が理解できます。まずエルサレムは、「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主(ヤハウェ)が私の光であるからだ」と告白します。

これは当時のエルサレムばかりか、すべてのキリスト者に適用できる表現です。

しかも、エルサレムが敵の攻撃を受ける理由が、「私は主(ヤハウェ)の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ」(9節)と描かれています。

人間的な考えでは、主の怒りを受けたのであれば、もう希望がないとも思えますが、それを当然受けるべき主からの報いととらえるなら、そこに回復の希望が生まれます。

そのことが、「しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる」(9節)と告白されます。エルサレムは自分に対する主のさばきを謙遜に受け止めながら、同時に、敵の手からの救いを必死に求めます。

その結果、主は、今度はエルサレムを攻撃した敵にさばきの手を向けてくださいます。「主は私を光に連れ出し」は8節の「主(ヤハウェ)が私の光」ということばに対応します。また、「その義」とは、アブラハムの子孫に対する主の真実さと理解することができましょう。

10節はその結果が敵に見えるようになることが、「それで、私に向かい、『あなたの神、主(ヤハウェ)は、どこにいるのか。』と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる」と、描かれます。

エルサレムの敵は単に一時的に主のさばきの道具に用いられたに過ぎませんでしたが、彼らは勝利の中で自分たちの力を誇り、主を侮りました。それに対する報いが来るというのです。

11節から13節もひとつのまとまりになっています。まず、11、12節では「日」という言葉が三回繰り返されます。つまり、「あなたの石垣を建て直す日」は、同時に「国境が広げられる日」でもあるのですが、何と「その日」はイスラエルを懲らしめた国々の民がイスラエルの救いを求めに来る「その日」でもあるというのです。

そのことが、「その日、アッシリヤからエジプトまで、エジプトから大川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたのところに来る」(12節)と描かれます。

しかし同時に13節では不思議にも、「しかし、その地は荒れ果てる」とも記されますが、これは新しく広げられたエルサレムの国境の外に対して、神のさばきがくださることを意味します。

そしてその理由が、「そこに住んでいた者たちのゆえに。これが彼らの行いの結んだ実である」と描かれます。彼らは暴虐の種を蒔き、荒廃という実を刈り取るのです。神の救いを嘲る者には厳しいさばきが待っています。

この世の権力者、横暴な者たちに腹を立てるのは当然ですが、私たちが復讐を計画しなくても、主ご自身が報復してくださいます。

私たちにとっての回復の日は、同時に、私たちの敵が恥を見る日でもあるのです。

4.「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」

また14節から18節もひとつのまとまりです。そこではまず、「どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください」という祈りがささげられます。これは詩篇23篇にあるような主と主の民との関係が回復することを願ったものです。

そして、「彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください」という言葉の中に、残された地の豊かさへの感謝とともにその狭さを嘆き、ヨルダン川東岸にある昔の領土を回復したいという思いが描かれています。

そしてそれに対する主の応答として、「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう」(7:15)という主の力強い約束が記されます。

そしてそれを聞くイスラエルの民が、「異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。彼らは、蛇のように、地をはうもののように、ちりをなめ、震えながら彼らのとりでから、私たちの神、主(ヤハウェ)のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう」と告白します(16,17節)。

それは、今までイスラエルの神を嘲っていた者たちが、自分たちの力を恥じ、主の前にひれふすようになるという期待を表現したものです。これから間もなく、アッシリヤ軍がエルサレムを包囲しますが、主の御使いが現れその軍隊を敗走させます。

イエスを「ユダヤ人の王」としてあざけって十字架にかけたローマ帝国は、イエスの前にやがてひざまずきます。それは、イエスの十字架が、死の脅しの力を砕いたからです。

私たちはキリストにあって、すでに「死からいのちへと移っている」(ヨハネ5:24)のです。キリストにある救いは、死後のいのち以前に、ひとりひとりのこの世での生き方を逆転させるものなのです。

最後にミカは、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」と告白します。ミカという名には、「誰がヤハウェのようであろうか」との意味があり、それを言い換えたものです。

そして、「あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです」と主を賛美します。

ここは原文では「その方は」という主語のもとに三人称単数形の動詞が続き、最後は「主はいつくしみを喜ばれる」と記されています。「いつくしみ」はヘブル語の「ヘセド」(変わらぬ愛、誠実6:8)です。

この背景には主がモーセにご自身を啓示されたとき、「主(ヤハウェ)は、あわれみ深く(ラハム)、情け深い神、怒るのに遅く、恵み(ヘセド)とまこと(エメット)に富み、恵み(ヘセド)を千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代、四代に」(出エジプト34:6,7)と言われことばがあります。

その上で19,20節は新改訳では嘆願の祈りになっていますが、最近のほとんどすべての訳は、直説法になっています。しかも、最初は「彼は」という三人称単数形の動詞です。

ですからここは、「主はもう一度、私たちをあわれみ(ラハム)、私たちの咎を踏みつけてくださいます。あなたはすべての罪を海の深みに投げ入れてくださいます。昔、私たちの先祖に誓われたように、真実(エメット)をヤコブに、いつくしみ(ヘセド、変わらぬ愛、誠実)をアブラハムに与えてくださいます」と訳すべきかと思われます。

最初のことばは、厳密には「主は悔いて私たちをあわれむ(ラハム)」と訳すことができます。これは主がイスラエルを罰したことを悔いるように悲しみ、その上で彼らの痛みに徹底的に寄り添ってあわれみを施してくださるという意味です。

神は確かに、「罰すべき者」は罰して報い、「のろい」が「三代、四代」(約70年)に及びますが、神はご自分がくだされたさばきを同時に深く哀しまれます。

ヘブル語のラハムには「哀れみ」と同時に「哀しみ」の意味があります。母がこの痛みを見てはらわたを震わすように哀しみまた哀れむというのです。

主は決して、「天から見下ろすように罪人を軽蔑して罰を下す方ではありません。主は、ご自分の民をさばきながら、同時に、彼らの痛みを自分の痛みとして哀しみ、哀れんでおられるのです。

なお18-20節では「を赦し」「そむきの罪を見過ごされ」「を踏みつけ」「すべてのを海の深みに投げ入れる」と、主の「真実(エメット)」、主の「いつくしみ(ヘセド)」が、「罪」、「咎」、「そむき」に勝利するということが強調されます。

そして、18,20節で繰り返される「いつくしみ」(ヘセド)こそ、この箇所の核心部分です。神はアブラハムへの約束を決して破りません。アブラハム、ヤコブへの祝福の約束が千代に及ぶと言われているからです。

主のあわれみを軽蔑する者に対するご自身のさばきと、主のあわれみに感謝し、主の誠実さに応答して生きようとする者への主の報いというのは聖書のストーリーの核心です。この世は、どれだけの成果を生み出し方で人の価値を測りますが、そのような偽りのストーリーに身を委ねてはなりません。

確かに仕事をさぼると結果が出ないというのは当然のことですが、真面目にやったからといって結果が出るとは限りません。ときには誠実に働いた成果を人に奪われることだってあり得ます。しかし、神の前に誠実に生きるとは、ときにそれが自分に損になると分かっていても、それをも引き受ける覚悟を決めることです。

そこには必ず、永遠の観点から見た別の原因・結果の関係があります。それは、「誠実(ヘセド)こそが、神に喜ばれる」ということです。それはアブラハムへの約束を誠実に守り通すという「変わらない愛」に対する私たちの応答です。

神は最終的には、あなたの誠実さに報いてくださいます。しかも、神はご自身にすがってくる者をお見捨てにはなりません。確かに短期的にそのような美しい結果が見えるのは稀かもしれません。

しかし、「信仰」ということばは、ヘブル語(エメット)でもギリシャ語でも「真実」という意味が基本にあります。信仰とは、神の真実に応答する私たちの真実です。「アーメン」とは、「これは真実です」という意味です。

ヘブル語のふたつのことば、エメットとヘセドこそ、聖書のストーリーの核心です。