Ⅰテサロニケ2章13節〜3章13節「信仰の成長とは?」

2013年10月27日

クリスチャンとして生きることを決めたからには、自分の信仰の成長を願うのは当然のことです。しかし、私の場合はどうも、「信仰の成長」などと言われると、信仰の世界にそれを測る何らかの人間的な尺度が持ち込まれるようで、抵抗感を覚えてきました。

また「信仰」と「信念」が混同されることもあります。確かに試験や試合に臨んだとき、必勝の信念は大いに役に立つものです。でも日本陸軍はこれを標語にして無謀な戦いに人々を駆り立てました。

聖書での「信仰」はヘブル語ではアーメンの類語であり、ギリシャ語では「真実」とも訳されることばで、基本的にどちらも、「神の真実」に対する私たちの応答として描かれます。つまり、「信仰」は、人間の心の働きというよりは、神のみわざから湧き上がる私たちの側の応答なのです。

「必勝の信念」などでは、「戦う前から負けたときのことを想定しているようでは既に負けたも 同然である」などと言われることがありますが、聖書の信仰では、皮肉にも、最初からこの世的には「わざわい」と「苦しみ」が約束されています。

それでも、目に見えない神に信頼し続けることができるのは、自分の人間的な力の限界が見えたところでこそ、人智を超えた神の力が体験されるからです。

1.「ユダヤ人は・・・神に喜ばれず、すべての人の敵となっています」

2章13節には「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」と記されています。

興味深いのは、彼らが聞いたのは表面的には「人間のことば」でありながら、実際には、この世界を創造した「神のことば」であり、それが「信じているあなたがたのうちに働いている」というのです。

そして、「光があれ」との「ことば」で光を創造された神ご自身の「ことば」が、「私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださ」(Ⅱコリント4:6)います。

「神のことば」が私たちのうちに働くことは、「新しい創造」の始まりです。

そして、「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです」(14節)と記されていますが、これはギリシャ人が中心的メンバーであるテサロニケ教会の人々に向かって、彼らがキリストの使徒たちを中心としたユダヤ人の教会に「ならう者」となっているという「誇り」を与えたものです。

それはユダヤ人クリスチャンたちがユダヤ人から激しい迫害を受けたと同じように、テサロニケの信徒たちが同胞のギリシャ人から迫害を受けていたからです。

イエスはかつて弟子たちに向かって、「わたしのために、人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい、喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを人々はそのように迫害したのです」(マタイ5:11-12)と言われました。迫害は、神のことばの力を輝かせる舞台となるのです。

そればかりか、クリスチャンを迫害するユダヤ人に関して、「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました」(2:15、16)と厳しく責めています。

パウロがこのように書いているのは、彼がテサロニケで伝道した時、「ユダヤ人の会堂に・・入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた」のですが、パウロの話しを受け入れ、彼に従った中に、幾人かのユダヤ人のほかに、「神を敬うギリシャ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった」のを見て、「ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ」、パウロとシラスを捕らえようとしましたが(使徒17:1-5)、そのためパウロ一行はすぐにこの町から発ち去らざるを得なくなった得なくなったばかりか、彼らに従った多くのギリシャ人が激しい迫害にあったからです。

まさにユダヤ人がテサロニケ伝道の最大の妨害者となったばかりか、ギリシャ人クリスチャンが同胞から迫害を受けるきっかけを作ったのです。そのとき、ユダヤ人たちは、「彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしている」という言いがかりをつけました。

パウロはそれに心を痛めていたからこそ、神の民であるはずの彼らが、実際には、「神に喜ばれず、すべての人の敵となっています」と激しく非難しました。

そればかりか神の「御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しました」とまで言いますが、これは間近に迫ったエルサレム神殿の崩壊を指しているものと思われます。

神はユダヤ人を通して世界にご自身を知らせ、すべての人々を神の民へと招き入れようとされましたが、ユダヤ人はその反対に、神のご計画の最大の妨害者となりました。

なお、この箇所は、後に、キリスト教国がユダヤ人を迫害する最大の根拠として用いたみことばの一つですが、パウロは同時に、ローマ人への手紙では、ユダヤ人の救いを切望して、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(ローマ9:3)とも書いていることを忘れてはなりません。

パウロはここで、最初の使徒たちの教会がユダヤ人によって迫害されたことと、テサロニケの教会が同胞のギリシャ人から迫害されたことを描いています。同じように日本のクリスチャンを迫害するのは日本人です。

キリストを殺したユダヤ人と、クリスチャンを迫害する日本の文化は同じように「神に喜ばれず、すべての人の敵」となっています。

私たちは彼らの悪だくみを直視するとともに、パウロが同胞であるユダヤ人の救いのために「のろわれた者となることさえ願いたい」と言うほどに愛した、その愛を持って、同胞の日本人に福音を宣べ伝えるべきでしょう。なぜなら、神の怒りは確かに不敬虔な日本人の上にも臨んでいるからです。

2.「サタンが私たちを妨げました・・・誘惑者があなたがたを誘惑して・・労苦がむだになる」

17、18節では、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので─といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、─なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました」と記しています。

パウロはユダヤ人たちの策謀によって、テサロニケの信者から肉体的に引き離されました。ただ、心においては引き離されてはいないとも敢えて記しています。そして、心でつながっているからこそ、「顔を見たいと切に願って」、実際に訪問を二度までも計画しましたが、サタンに妨げられたと記しています。

最初に引き離したのはユダヤ人でしたが、今度は、「サタンが妨げた」と記しています。

パウロは、二回目の伝道旅行の時、現在のトルコの南西部のアジヤや北部のビテニヤで宣教しようとしましたが、二度にわたって、「聖霊によって禁じられた」「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」と記しています(使徒16:6、7)。それはパウロをヨーロッパ伝道へと導くための、神のみこころに沿った妨害でした。

私たちが善意に満ちてあることを計画しながらそれが妨げられることがあります。それは聖霊によって差し止められたことかもしれませんし、サタンの妨害かもしれません。

確かにサタンも神の御許しの範囲でしか行動できませんが、パウロは、ユダヤ人の策謀に関しては、大胆に明確な神によるさばきを宣告したのと同じように、ここでは宣教の妨害をサタンの妨害と理解しました。

そして彼は、サタンの妨害に屈すことなどあり得ないという意味でこう語ったのです。

その上でパウロは、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」(2:19,20)と記します。

彼はキリストの再臨のときに、テサロニケの信者たちこそが、自分たちにとっての「望み」「喜び」また、「誇りの冠」であると記しながら、現在すでに彼らこそが、「誉れ」であり「喜び」であるとさらに重ねます。

パウロにとってテサロニケの教会はかけがえのない宝でした。それで彼の取った行動が、「そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わした」と記されています(3:1,2)。

パウロはテサロニケを追い出された後、その西にあるベレヤに伝道しましたが、そこにもユダヤ人たちが押しかけて来ました。パウロはやむなくシラスとテモテをその地に一時的に残したまま、ギリシャの南部のアテネにまでたどり着きます。

彼はふたりを待つ間、アレオパゴスで有名な説教をします。そうしながらもパウロはテサロニケ教会のことが気になってたまりませんでした。それでアテネにようやくたどり着いたばかりのテモテを、再び元の地に戻すように、はるか北のテサロニケに送りました。

そしてその目的が、「それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするため」(3:2,3)と記します。

パウロは彼らの信仰が苦難の中で動揺することを心配していました。ただ、同時に、「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです」(3:3,4)と記しています。

私たちが苦難の中で動揺するのは、「こんなはずではなかった・・」と悩むからですが、パウロは、苦難に会うのは、想定外のことではなく、それは以前から定められていたことだというのです。日本人は、言霊(ことだま)思想の影響下にあります。

ですから、キリスト教式の結婚式であっても、「切る」「離れる」「分かれる」というような言葉を使わないようにと細心の注意を払います。なぜなら、発せられた言葉に魂が宿って、そのとおりのことを実現させると恐れる信仰があるからです。

ある学者は、日本人が最悪の原発事故の可能性を想定した対処ができなかった最大の理由に、この言霊思想があると言います。事故の可能性を公言すると、それがかえって事故を招くことになると思われるというのです。第二次大戦の際も同じような呪縛で、敗北を想定できないまま原爆投下を招きました。

私たちの日常用語でも、「縁起でもないことを言わないで・・」などという表現が身近にあります。しかし、パウロは、ここで「苦難に会うようになる」と繰り返し言っていることが、何よりの苦難への備えとなると信じていたというのです。

それはキリストご自身から直接に親身な指導を受けたペテロも、「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです」(4:12,13)と書いている通りです。

それは初代教会の人々の間にも、「火の試練」に襲われたとき、「どうして、こんなことに・・」と「驚き怪しむ」風潮があったことを示しています。

ですからパウロもここで、苦難に会っている人に対して、「はたして事実となった」と、それを堂々と受け止めるようにと命じています。

それは何よりもイエスご自身が、「あなたがたは世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と、患難の中での勝利を約束されたからです。

そして、パウロは改めて、「そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです」(3:5)と記します。

この「誘惑者」とはサタンのことです。そしてサタンは、試練に会っている人に向かって、「イエスに従っても、何にも良いことがないではないか・・・」「おまえの神が無力だからこんな苦しみに会うのだ」などと、試練を用いて、人々の信仰を揺るがそうとします。

サタンの働きは、日本の言霊思想の中にも見られ、また、「試練」を信仰の破船の機会として用いる「誘惑者」としての働きの中にも見られるものです。

3.愛を増させ、満ちあふれさせ・・・聖く、責められるところのない者としてくださいますように

ところがパウロの心配は杞憂に終わりました。そのことが、「ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました」(3:6)と記されています。

良い知らせの第一は、彼らの信仰が揺らいでいないことでした。第二は彼らの「愛」でした。それは続く、「あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっている」という彼らの心の動きでした。

パウロはテサロニケの人々を愛しているからこそ、彼らに会いたいと切望しましたが、彼らの側でもパウロやシラスに対して同じ気持ちを抱いていました。

そしてパウロこれらのことを振り返って、「このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました」(3:7)と述べています。

「あらゆる苦しみと患難」は、深い慰めを受けるための舞台と変えられたのです。彼はなおも、「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」(3:8)と述べますが、最後のことばは厳密には、「今、私たちは生きている!」という感動の表現です。それは彼らが「主にあって堅く立っていてくれる」ことから生まれるものです。

彼は続けて、「私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう」(3:9)と、それらがすべて神の御わざであると受け止め、神に心からの感謝をささげようとしています。

そしてそれに付属する文節として、感謝にあふれる中での嘆願を、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈りながら」(3:10私訳)と述べます。

パウロはもっと時間をかけて彼らに聖書を解き明かしたいと願っていました。なぜなら、彼はテサロニケでは三週間余りしか滞在できなかったのに、そんな短期間で教会が生まれたからです。しかも、その時代には、旧約聖書しかなかったから、その願いは切実でした。

しかし、パウロは彼らの信仰の不足を嘆いているのではなく、彼らの現在の信仰に関してどう感謝してよいか分からないと喜びながら、同時に、さらなる成長を望んでいるのです。

そして、その祈りの内容が11-13節に記されています。もし、パウロが私たちの教会のために祈るとしたら、何を祈るでしょうか?地上の教会には様々な必要があります。

それは、しばしば、お金であったり、奉仕者の必要であったりします。しかし、彼は私たちの緊急の必要以前に、これと同じことを祈るのではないでしょうか。

その祈りの中心は、「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように」(3:12)と、その結果として、「主イエスが・・再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように(3:13)ということでした。つまり、愛と聖さこそが最大の祈りの課題なのです。

ただし、パウロの当面の何よりの願いは、神が「私たちの道を開いてあなたがたのところに行かせてくださいますように」という具体的なことでした。それはそれまでの文脈からしたら、当然の願いです。

ここで不思議なのは最初に私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が(3:11)と呼びかけられていることです。ここでは、この御父と御子が意味上の主語であり、文法上の主語は「ご自身が」です。そして、道を開いて・・行かせてくださいますようにという動詞は三人称単数形です。つまり、御父と御子のみわざが合わされて、唯一の神のみわざと見られています。

しかも、原文では、12節に「主が」という主語が記されており、これは「聖霊」を意味するとも解釈できます。つまり、御霊の働きを、御父と御子に対して願っているのです。パウロは、この祈りの中で、御父、御子、御霊の、三位一体の神の交わりを意識していたとも言えましょう。

12節の文章の中心は、主が、あなたがたを、愛において満ちあふれるほど豊かにしてくださいますように」と訳すことができます。その「愛」は、まず、互いの間という目に見える教会の交わりで表わされます。

イエスは弟子たちに、互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)と命じられました。抽象的に、「世界を、会社を、教会を、貧しい人を、愛する」などと言う前に、ここで一緒に礼拝をしている目に見える隣人への愛が成長し満ちあふれる必要があります。

そして、その互いの間の愛が、すべての人へと広がって行くのが教会の成長であり、社会的責任です。私たちの交わりは外に向かって広がって行くものだからです。

またこの文章の最後には、私たちがあなたがたを愛しているように」と、付け加えられています。この私たち」とは、パウロ、シルワノ(シラス)テモテ(1:1)の三人です。パウロは自分の彼らに対する思いではなく、この町を最初に訪れた三人の交わりを思い起こさせています。

つまり、彼は、彼らの愛における成長を祈るとき、御父、御子、御霊の三位一体の神の交わりと三人の使徒の交わりを同時に思い起こしています。」とは、「あの人には愛がある」などという個人的な特質を意味する以前に、具体的な交わりの現実に見られるものだからです。

「愛」は、三位一体の神ご自身の愛の交わりから生まれ、人の愛の交わりを通して伝えられ、それは教会の交わりの中で成長し、満ちあふれて行くのです。

13節では、「聖さ」のために祈られますが、それは愛と並行して求められるものではなく、愛の成長の結果生まれるものです。その初めの接続詞は、「また」ではなく、それによって」と訳されるべきです。文章の中心は、厳密には、私たちの父なる神の御前で、聖さにおいて責められることがないほどに、あなたがたの心が強められますように」です。

つまり、心が強め(支え)られる結果として、神の御前で責められることがないほどの、神のご性質に似た「聖さ」がキリストの再臨とともに達成されるのです。そして、心は、真実の愛によって強められるのです。

パウロはテサロニケの人々の「信仰」を聞いて慰められたと言いながらも、同時にその信仰の不足を補いたいと熱心に祈っていました。つまり、信仰の成長は、「まだ」とか「もう十分」という人間的な尺度で測れるものではないのです。

彼が願った成長とは、何よりも「互いの間の愛」「すべての人に対する愛」における成長です。それはまた、父なる神の御前に立つときに「聖さにおいて責められるところのない者」となるという目標を意識することです。

大切なのは、自分の信仰の成長というより、神と隣人の姿がいつも目の前に迫ってくることなのではないでしょうか。