私たちの視野は非常に狭いばかりか、その思い込みが強化されることがあります。
たとえば、日韓の間にトゲのように刺さる竹島(独島)の帰属問題では、それぞれの国民が自分たちの主張は100%正しいと主張し、相手の行動に怒りを顕にします。しかも、それぞれの国では、公的な立場にある人が、「相手がそのように言うのも一理ある」などと言えば、袋叩きに会い、役職を失いますから対話が困難です。
双方が自分の主張を絶対に正しいと言っていることは、双方にそれなりの理屈があるということでしょう。しかし、それを謙虚に聞くことさえできなくするのが「怒り」の感情です。
神がニネベを滅ぼすのを「思い直した」ことに対するヨナの怒りは、イスラエルの民からしたら極めて当然のことです。これを怒らないのは、非国民と言えましょう。
神は、ヨナの怒りを偏狭な愛国心と非難してはおられません。神はご自身の御顔を避けて逃げたヨナに徹底的に寄り添っています。
「あなたは当然のことのように怒るのか」という神の問いかけは、神の視点からこの地上の出来事を見るようにという招きでもあります。
1.「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主(ヤハウェ)を思い出しました」
ヨナは、アッシリヤの首都「ニネベ」に行って、主(ヤハウェ)のさばきのみことばを宣べるように命じられますが、彼はそれを拒絶し、「タルシュシュ」(スペイン?)に向かう船に乗ります。神は嵐を起こしてヨナの逃亡を妨げますが、ヨナは神に祈る代わりに、海に投げ込まれて死ぬことを望みます。
ただ、これらのことを通して、船に乗っていた人々は、ヨナの神、主(ヤハウェ)を礼拝するようになりました。
そして、その後のことが、「イスラエルの神 主(ヤハウェ)は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」(1:17)と描かれます。
ヨナは自分がなお生きていることに気づくと、「魚の腹の中から、彼の神、主(ヤハウェ)に祈って」
「私が苦しみの中から主(ヤハウェ)にお願いすると、主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました」と言いました(2:2)。
これこそ、私たちが苦しみの中でなお自分のいのちが守られていることに気づいたときに告白すべき言葉です。まだ出口が見えないのですが、苦難の中でも生かされていることは確かだからです。
その上で不思議にも彼は自分の苦しみを振り返りながら、「あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました」(2:3)と述べます。
彼は自分から海の真ん中に投げ込まれることを願ったのですが、これらすべてのことが主の御手の中で起こったという意味で、主が自分を投げ込んだと告白しています。
そればかりか、「私はあなたの目の前から追われました」と、引き続き自分を無力な立場に置きます。ただ同時に、「しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」とも願います(2:4)。
ヨナは、それまで「主(ヤハウェ)の御顔を避けて」いましたが、自分のいのちが主の御手で守られていることを知った時、再び、エルサレム神殿に上り、主を礼拝したいと心から願ったというのです。
またヨナは海の中での苦しみを振り返り、「水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました」と言いながら、「しかし、私の神、主(ヤハウェ)よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました」と感謝の告白をしています(2:5,6)。
またそれを別の観点から描いたのが、「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主(ヤハウェ)を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」(2:7)という表現です。
ヨナは窒息しそうな中で、祈る力もなくなっていたことでしょう。しかし、そこで聖霊ご自身が、「言いようもない深いうめきによって・・・とりなして」くださり、彼に主を思い起こさせ、祈りを起こし、その祈りは、はるか遠くにあるエルサレム神殿に届いたというのです。
彼はかつて、主の御顔を避けて、主から遠く離れようとしました。そして、彼が海の底でおぼれ死にそうなとき、つまり、人間的には主から最も遠く離れていたと思える時、主は彼のたましいをご自身の聖霊によってとらえておられたのです。彼は死を目前にして、信仰は徹底的に神の御わざであると悟ることができたのです。
その上でヨナは「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます」(2:8)と告白します。ここでの「恵み」とはヘブル語の「ヘセド」(真実の愛)です。それは苦難の中で意図的に偶像の神々を求めることが、神からの真実な愛に対して心を閉ざすことになるという意味です。
私たちは祈る気力が湧かない時、この世的な刺激で自分の心を元気づけようとするかもしれません。しかし、そこで大切なのは、ただ萎えてしまった心を神の前に差し出し、神からの一方的な真実な愛(ヘセド)に対して心を開くことなのです。
ヨナは最後に、「しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです」(2:9)と告白します。
これは彼が、もう主の御顔を避けるという愚かな生き方をやめて、主のご命令に従うという告白です。なぜなら、主のみこころに従うことにまさるいけにえはないからです。
主(ヤハウェ)はヨナのこの告白を聞いた後、「魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させ」ました(2:10)。
2.「それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった」
その後、主からヨナに再び、「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」(3:2)との命令がありました。
それに対し、今度は、「ヨナは、主(ヤハウェ)のことばのとおりに、立ってニネベに行った」と記され、ニネベの大きさが「行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった」と描かれます(3:3)。
そしてヨナの行動が、「ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び」と描かれ、そのメッセージの内容が、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と記されます。
普通の状況ではヨナのことばに人々が耳を傾けることはないはずです。ただ当時のアッシリヤ帝国は、地方の反乱に悩まされ、紀元前765年と759年には記録的な大飢饉に襲われ、紀元前763年6月15日は皆既日食がニネベで起きたと言われます。それは当時の人々に恐ろしい不安を呼び覚ましていました。彼らはそのような中で、ヨナの断固たる宣言に耳を傾けたのではないでしょうか。
ヨナは死の淵から神のあわれみによって生き返り、神の力によって神のことばを取り次ぐ器とされていました。私たちが神の聖霊に満たされるとき、私たちを通して神は語られ、そのことばは人々の心に届きます。
先週の水曜日、8月28日はマルチィン・ルーサー・キング牧師がワシントン市での黒人の地位向上のデモを導いた後に、「I have a dream」(私には夢がある)という白人と黒人の和解の夢を語って、アメリカの国民の心を動かした日でした。それはちょうど50年前のことでした。
当時のアメリカで、黒人の大統領の誕生など、誰も思い浮かべることはできませんでした。しかし、キング牧師のことばが、黒人の中にある憎しみのエネルギーを希望のエネルギーへと変えて行きました。
これは驚くほど精巧に準備されたメッセージのように思えます。しかし、現実は、彼は直前まで、何を語るか決めかねており、その場に同席した女性から「あなたの夢を語りなさい」と言われてこれが生まれたとのことです。もちろん、彼は十分な準備をしていました。準備の足りない説教はすぐにぼろを出します。
しかし、それまでの誠実な積み上げがあるなら、その場でふさわしいことばは生まれます。すばらしい礼拝説教とは、一字一句が準備されていながら、そのテキストを離れて生まれるとも言われます。
ヨナの説教には、そのような迫力があったことでしょう。それは何よりも、主ご自身が、ヨナを海の真ん中の深みに投げ込み、彼を徹底的な絶望に追いやり、その上で聖霊ご自身が彼の中に真の悔い改めの祈りを起こしてくださったからでした。
そして、ヨナの説教を聞いた人々の反応が、「そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た」(3:5)と描かれます。
それまで偶像の神々を拝んでいたはずのニネベの人々は、このときヨナの神を、ニネベをたちどころに滅ぼすことができる全世界の支配者であると認め、その神の前に徹底的にへりくだる姿勢を見せたというのです。
断食は神に徹底的にすがるというしるしであり、「荒布を着る」とは喪に服し、この世的な喜びを断つという意志の現れです。
そればかりか、「このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった」(3:6)と描かれます。
権勢を誇っていたアッシリヤの支配者自身も、ヨナの神の前にへりくだり、自分が吹けば飛ぶようなちっぽけな存在であると告白したのです。
その上で、「王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出され」ます(3:7)。
その内容は、「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない」(3:7-9)というものでした。
これは人ばかりか家畜にも断食と喪に服する姿勢を取らせ、ひたすら神に叫び続けるばかりか、「悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ」という生き方の転換を迫るものでした。
そこで期待したのは、神がわざわいを思い直してくださるということでした。興味深いのは、人間の側の「立ち返る」(回心)によって、神ご自身の回心が起きると期待したことです。
ここは厳密には、「神が立ち返って思い直し、その燃える怒りから立ち返り・・・」と記されています。
私たちの回心が神の回心を起こすというのは不思議なことですが、エレミヤ18章7,8節にも、「わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改める(立ち返る)なら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」と記されています。
そして、彼らの回心の熱心に対する神の応答が、「神は、彼らの行い、悪の道から立ち返ったのをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった」と描かれます(3:10一部私訳)。
ここでは、神が彼らの断食や荒布をまとうという姿勢と、悪の道から実際に「立ち返る」という現実の行いの変化を見て、「思い直された」と表現されています。
私たちは他の人に謝るとき、「もう、決してこんなことはしませんから・・・」などと、口だけで熱心に謝ることがありますが、ここに描かれているのは、神が現実に、ニネベの人々の回心の姿勢と、悪の道から立ち返るという行動の変化を見て、「わざわいを思い直された」ということです。
私たちの主イエスはこの出来事を振り返りながら、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。
なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです」(マタイ12:39-41)と言っておられます。
ここで、「預言者ヨナのしるし」とは何かについての様々な議論がありますが、ルカでは「ヨナがニネベの人々のために、しるしとなった」(11:30)と描かれているように、ヨナがことば以外の何かの奇跡を起こして人々を信じさせたというのではなく、人々の前に現されたヨナという人格自体がしるしとなったという意味だと思われます。
彼は三日三晩大魚の腹の中にいて、そこから再び神によって派遣されたことによって、その語り方がまったく異なった神の器になっていたということだと思われます。
それに対し、イエスの時代の宗教指導者たちは、神の御子であるイエスを目の前に見ながら、その人格に心が動かされることがなかったというのです。
たとえば、僕が皆さんに向かって、「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」と言ったって、ほとんど何の感動も起こさないことでしょう。しかし、マザー・テレサが同じことを言ったら、それは人々の行動を変革する生きた言葉となります。
3.「神である主(ヤハウェ)は・・・ヨナの不きげんを直そうとされた」
このあとの記述は、私たちを戸惑わせます。それは、「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って」(4:1)と記されているからです。
ヨナはイスラエル王国に対する神のあわれみと、神ご自身が当時のイスラエル王ヤロブアム二世のときに国を繁栄させてくださるということを預言した愛国的な預言者でした(Ⅱ列王記14:25)。
彼は当然ながら預言者として、イスラエルの人々に向かって、まことの神の前にへりくだり、偶像礼拝をやめ、その不道徳、不正な生き方を止めるように繰り返し語っていたはずです。しかし、ヨナのことばは、イスラエルの民を回心に導くことはできませんでした。
ところが、ここでヨナは、自分のことばで見も知らぬニネベの人々が一斉に回心したのを見たのです。たぶん彼はこのとき、ニネベを首都とするアッシリヤ帝国がやがてイスラエルに襲いかかり、自分たちの国が滅亡するということを心から確信したことでしょう。神がニネベの人々の回心を喜んだということは、これから弱体化していたアッシリヤ帝国が再び繁栄に向かうということです。
ヨナはまさに自分の敵の力を回復させ、自分の国の滅亡への道を開いてしまったのです。彼が怒ったのは当然のことと言えましょう。
それでヨナは、「主(ヤハウェ)に祈って」、「ああ、(ヤハウェ)よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。
私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。主(ヤハウェ)よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。
私は生きているより死んだほうがましですから」と言ったというのです。
「死んだほうがまし」(3節)という表現は8節でも繰り返され、また、9節では、「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」とヨナは告白しています。これはすべて、神が「思い直す」方であることに向けられています。
ヨナからしたら、自分の人生が神の気まぐれなみこころの変化に振り回されているように思えたのです。彼はそれぐらいなら死んだ方がましだと思ったのです。
しかし、彼は大きな魚の腹の中にいたときには、自分のいのちが神のあわれみによって助けられ、ことばにさえできなかった心の叫びがエルサレム神殿にまで届いたことを喜んでいたのです。
彼は自分が神に生かされていることは喜び、感謝しながら、神がイスラエルの敵をあわれみ、復興させることには死ぬほど怒っていたのです。まさに人間は、自分の視点からしか神を見ることができない者という現れです。
なお、ヨナが神のご性質に関して語ったことは、主ご自身がモーセに二回目の契約の板を与える時に、彼を岩の裂け目に入れ、ご自身のうしろすがたを見させながら通り過ぎたときに、「主(ヤハウェ)は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み」とご自身を紹介されたことばと基本的に同じです(出エジ34:6)。
つまり、ヨナは神のご性質を良く知っていた模範的な預言者なのです。
しかし、その神のあわれみが自分の敵の国に注がれることを知った時に、彼は主の御顔を避けてタルシュシュにのがれたばかりか、実際に神によって自分が遣わされ、彼らの悔い改めと神のあわれみを見たとき、「死んだほうがましです」というほどに怒ったというのです。
それに対し、主(ヤハウェ)は、「あなたは当然のことのように怒るのか」と、ヨナに問われました(4:4)。
それに対し、ヨナは何も答えることなく、「町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた」というのです。
これは、神が自分に語らせた通り、四十日してニネベを滅ぼしてくださるのを期待し、催促しているかのような姿勢と言えましょう。これは何とも不遜な態度です。
ところが「神である主(ヤハウェ)は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた」(4:6)と不思議なことを行なわれました。
「とうごま」がどんな植物かは不明(聖書中ここだけ)ですが、「備え」ということばは、海に投げ込まれたヨナに「大きな魚を備え」というのと同じです。神は、ニネベの滅亡を望むヨナを責める代わりに、彼の気持ちに寄り添ってくださったのです。
それに対し、「ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ」と描かれます。主は確かに、「ヨナの不きげんをなおして」くださったのです。事実、「不きげん」と訳されたことばは、4章1節の「不愉快」と同じで、「惨めさから救う」とも訳されるからです。
ところがそれは一日だけの安らぎでした。それは、「しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた」(4:7,8)とあるからです。
ここでも「虫を備え」「東風を備え」という神の「備え」が繰り返されていますが、今度は神がヨナのために救いの代わりにわざわいを備えられたという趣旨で記されています。
そしてこの東風によって仮小屋は吹き飛ばされたのかもしれません。その結果、「太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って」というほどに苦しみ衰弱し、先ほどと同じように、「私は生きているより死んだほうがましだ」と怒ります。
それに対し、神はヨナに、「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか」と言われます。それに対しヨナは、今度は明確に、「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」と真っ向から応答し、自分の怒りを正当化します。
ヨナが最初に「死んだほうがまし」と言ったのは、神が「思い直して」ニネベを滅ぼすのをやめたからです。そして、次にここでは、神がわざわざヨナの「不きげんを直す」ようなあわれみを施した後で、ヨナが何の罪も犯していないのに、その恵みを一晩のうちに取り去ってしまったからです。
ヨナはまさに、「神の気まぐれに振り回されるのはもう御免だ・・死んだ方がましだ」と思ったことでしょう。
なお、この「とうごま」によるごく一時的な慰めは、神が一時的に北王国イスラエルに繁栄を回復してくださったことに対応しています。
ヨナはこのとき、とうごまを一晩で枯らせ、東風を吹かせた神が、北王国イスラエルをもたちどころに滅ぼすことを恐れたことでしょう。
ヨナにとっては、自分のいのちも自分の国も、神のみこころの中で翻弄されているように思えます。
それに対し主(ヤハウェ)は、「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」と言われます。
ヨナにとってニネベは敵の本拠地としか見えませんでしたが、神の目には、権力者たちに振り回されているだけの社会的な弱者のことが見えていました。
実際、ニネベでの回心は「身分の高い者から低い者まで」という民衆のレベルから始まったことだったからです。もし、ニネベにヨナの親しい友か家族が滞在していたとしたら、ヨナはまったく異なった態度を取ったことでしょう。
愛国者の視点からしたら、ヨナが怒るのは当然のことです。しかし、ヨナにあわれみを注ぐ神は同時に、ニネベに住むひとりひとりにも目を留めておられます。
私たちの目からしたら、ニネベに見られたような不条理が正されないのは正義に対する神の一貫性のなさ、気まぐれのように思えることがあります。しかし、それは神がひとりひとりをあわれんでおられるからに過ぎません。
神はヨナの場合のように私たちの心に信仰を起こしてくださるばかりか、私たちが神のみこころを実行できるように力づけてくださいます。
また、ニネベに対するように私たちの態度の変化に柔軟に対応して、ご自身のあわれみを施し、ご自身の計画を変えてくださいます。
神は私たちとの対話を望んでおられます。神のみこころは、柔軟に変わりえるということは、私たちにとっての何よりの慰めなのです。