オバデヤ「あなたの報いは、あなたの頭上に返る」

2013年8月4日

オバデヤ書は旧約聖書中、一番短い書ですが、そこには聖書のメッセージの核心部分が記されています。人はときに同じ親から生まれた兄弟姉妹との関係で深く傷ついたり、また想像を絶する裏切りに合うことがあります。

歴史上、赤ちゃんから大人になった最初の人間はカインです。彼は弟を殺す者となりました。またイサクから生まれたエサウとヤコブは、母リベカの体内にいるときから争っていました。よく「兄弟だから、仲良くしなさい」などと言われますが、現実は、兄弟だからこそ憎しみ合ってしまうということがあります。

そのようなとき、兄弟民族に対する神のさばきを描いたオバデヤ書は、私たちのマイナスの感情を抑える上で豊かに用いられることでしょう。

1.私たちは主(ヤハウェ)から知らせを聞いた・・・「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう」と

この書の始まりは、「幻」ということばです。そしてそれはオバデヤという預言者に示されたもので、エドムに関しての幻でした。オバデヤがどのような人であるかについてはまったく分かりません。

記された時代に関しては諸説がありますが、紀元前586年のバビロン帝国によるエルサレムの破壊と、紀元前553年の同帝国によるエドム攻撃の間だと見て良いのではないかと思われます。

そして、時代的にはエレミヤの少し後だと思われ、ここにはエレミヤ49章7-22節と似た表現が記されています。

なお、この書が一番古い預言書と見られるアモス書の次に置かれているのは、アモスの終わりが主からの五つの幻が示され、その最後でエドムに対するさばきが示唆されているからだと思われます(アモス9:12)。

その上で、その「幻」は、「主ヤハウェはこう仰せられる」という定型的な表現とともに「エドム」についてとその内容が特定されています。ただ、普通ならそこですぐに主のことば自体が記されるはずですが、ここでは引き続き、この幻が示された背景が、「私たちは主(ヤハウェ)から知らせを聞いた」と記されます。

つまり、預言の内容は、エデムに対するさばきですが、そのメッセージはエドムに向けてというよりは、滅ぼされたエルサレムの残りの者に向けて語られたということです。

そして、「使者が国々の間に送られた。『立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう』」という表現もこの幻が記された背景を指します。これは主ご自身が御使いという「使者」をエドムの周辺諸国に送り、エドムへの攻撃を起こさせようというものです。

このときのユダヤ人はエドムに非常に怒りを覚え、復讐をしたいと願っていました。しかし、ここでは主ご自身が彼らの悪に復讐してくださるという趣旨のことが記されています。

このことをパウロはローマ人への手紙12章18、19節において、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」と記しています。

私たちも理不尽なことをされたときに、怒りで夜も眠られないとことがあるかもしれません。そのようなときに、主ご自身が私たちの味方となって、私たちに代わって復讐をしてくださるということがわかるなら、怒りの気持ちを静めることができます。

私たちは信仰においてアブラハムの子孫であり、彼への約束が私たちへの約束となっています。その最初は、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3)と記されていました。つまり、神の民とされるとは、神ご自身が私たちの味方となってくださり、私たちのために戦ってくださるということなのです。

そこで私たちに求められていることは、私たちが感情に振り回されて復讐をする代わりに、「敵が飢えたなら彼に食べさせ・・渇いたらなら、飲ませ」るということです(ローマ12:20)。

そして、主は滅ぼされたエルサレムの残りの者に対して聞かせるように、エドムを「あなた(おまえ)」と呼びつつ、「見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする」(2節)とさばきを宣告されます。

そして、その理由を「あなたの心の高慢自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか』と心のうちに言っている」と描いています。

エドムは死海の東南からアカバ湾(紅海の入り江)に広がる国で、その中心は標高1,500mもある高地が広がっています。彼らはその天然の要害により頼んで、周辺の諸国からの攻撃の可能性を低く見積もっていました。

エサウがかつてヤコブに欺かれたように、エドムは今も、自分たちの国の立地条件を過信し、「心の高慢」が「自分自身を欺いた」といわれる状況になろうとしています。

箴言18:12に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」と記されていますが、エドムはその高慢さのゆえに現実を誤って理解してしまい、自分で自分を欺くようにして破滅に向かっているのです。

また、主は彼らの幻想を正す意味で、「あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろすー主(ヤハウェ)の御告げー」(4節)と追い打ちをかけるように宣告されます。

エレミヤ書49章14-16節には、これらの箇所と似た表現が以下のように記されています。

「私は主(ヤハウェ)から知らせを聞いた。「使者が国々の間に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに立ち上がれ。』見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、人にさげすまれる者とするからだ。岩の住みかに住む者、丘の頂を占める者よ。あなたの脅かしが、あなた自身を欺いた。あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。─主(ヤハウェ)の御告げ─」

ヒトラーのことが妙な形で話題になっていますが、彼は当時のドイツ人の鬱積した恨みや怒りの感情に訴えかけて政権を握りました。そして、彼は神に代わって、ドイツ人に復讐を遂げさせようとしました。そのようなときに必要なのは、神ご自身があなたのまわりの高慢で狡猾で、人を人とも思わないような人間にさばきを下されるということに関しての、「主からの知らせを聞く」ことです。あなたに与えられた使命は、高慢な人間の罵倒することではなく、彼らを愛することです。彼らがすでに滅びに向かっていることを知ることです。

2.「ああ、エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される」

主は引き続き、彼らが天然の要害に引きこもって安心していることを嘲るかのように、「盗人があなたのところに来れば、夜、荒らす者が来れば、あなたは荒らされ、彼らは気のすむまで盗まないだろうか。ぶどうを収穫する者があなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。ああ、エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される」(5、6節)と述べられます。

ここでは、エドムが徹底的に収奪されることが強要されています。ぶどうの収穫をする者は、敢えて取り残しの実を残すように命じられていましたが(申命記24:21)、ここでは「エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される」と、すべてが奪われることが強調されています。

エレミヤ49章8-10節にも同じような主のことばが、「わたしがエサウの災難をもたらすからだ。彼を罰する時だ。ぶどうを収穫する者たちが、あなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さない。盗人は、夜中に来るなら、彼らの気のすむまで荒らす。わたしがエサウを裸にし、その隠し所をあらわにし、身を隠すこともできないようにするからだ。彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられてひとりもいなくなる」と描かれています。

これはエドムがバビロン帝国によってそのすべての富を奪われ、とりでや隠れ場が壊され、廃墟とされることを意味します。

そればかりか、エドムの足元の不安定さが、「あなたの同盟者がみな、あなたを欺き、あなたを国境まで送り返し、あなたの親しい友があなたを征服し、あなたのパンを食べていた者が、あなたの足の下にわなをしかける。それでも彼はそれを悟らない」(7節)と記されます。

彼らは近隣の国々と同盟関係を結ぶことでバビロン帝国の攻撃に対応しようと計っていましたが、それらの国々は頼りにならないどころか、最も恐ろしい敵となるというのです。

そして、8,9節では、「その日には」という15節の「主(ヤハウェ)の日」と重なる主のさばきの日の現実として、人間の知恵も力も何の役にも立たなくなるということを、主ご自身のことばとして、「わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。テマンよ。あなたの勇士たちはおびえる。虐殺によって、エサウの山から、ひとり残らず絶やされよう」と記されます。

エレミヤ49章ではエドムへのさばきの宣告が、「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか」(49:7)という言葉から始まっています。

テマンはエドム北部の中心都市で、彼らの誇りは自分たちの知恵でした。ヨブ記に登場するヨブの友人「テマン人エリファズ」(ヨブ4,5章)とは、この地の出身者だと思われます。しかし、彼らの「知恵」も「勇気」も、何の役にも立たなかったことが示されています。

主はエレミヤを通して、「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主(ヤハウェ)であって、地に恵みと公義(さばき)と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ」(同9:23,24)と語っておられます。

もちろん、この世を生きて行くうえでは、知恵も力も富も大変便利なものです。しかし、それらはあまりにも有益すぎて、全地の支配者である神を忘れさせる偶像になり得ます。便利なものほど誘惑に満ちているのです。

3.あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。

10-14節ではエドムに対する主のさばきの最大の理由として、主の民「ヤコブ」への暴虐のことが描かれます。それは、彼らが兄弟民族の苦難を傍観者のように眺めていたばかりか、兄弟の苦難を喜び、略奪に加担し、生き残ったユダの民をバビロン帝国に引き渡すようなことまでしたということが、以下のように描かれます(一部私訳)。

「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。

その日、あなたは(知らぬ顔で)立っていた。

その日、他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったとき、あなたもまた彼らのうちのひとりのようだった

あなたはただ、ながめているな、あなたの兄弟の日、その災難の日を

喜ぶな、ユダの子らの滅びの日を

大口を開くな、その苦難の日に

わたしの民の門に入るな、彼らのわざわいの日に

あなたはまた、その困難をながめているなそのわざわいの日に

彼らの財宝に手を伸ばすな、そのわざわいの日に

別れ道に立ちふさがるな、のがれる者を断つために。

彼らの生き残った者を引き渡すな、その苦難の日に。」

エレミヤの預言でも、はるか昔のイザヤの預言でも、エドムに対するさばきの理由を、彼らのヤコブの子孫に取った態度との関係ではほとんど描いていません。

エゼキエル35章では、さばきの理由が、イスラエルに対する敵意を抱いたこととして描かれています。しかし、オバデヤは何よりもエドムの罪を、エルサレムの破滅のときに、加害者のひとりのようになり、また、兄弟の苦難をただ、「ながめていた」ことをさばきの理由として描いています。

11節では、「その日に、(知らぬ顔で)立っていた・・・外国人のひとりのようであった」また、12,13節では、ヤコブのわざわいの日をただ「ながめていた」ということが非難されています。

これはあなたの身近な人がいじめに会っている時に、傍観者であったり、また、いじめる側のひとりのようになってしまうことにつながります。

また、身近な人がわざわいに会っているのを見て、「私の言った通りになったでしょう。反省しなさい」などと、傷口に塩を塗るようなこともあるかもしれません。

私たちが身近な人との関係で持つべき態度を、使徒パウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)と表現しました。これこそ隣人愛の基本です。

しばしば、キリスト者は、正論を述べることで相手を追い詰めてしまうことがあります。しかし、ほとんどの場合、自業自得でわざわいに会っている人は、自分の問題は十分に認識しています。このとき、エルサレムの民はまさに自業自得で、「わざわいの日」を迎えることになってしまいました。そのときエドムは、「ユダの子の滅びの日」をあざ笑ったこと自体が、神の怒りを買ったということを忘れてはなりません。

私たちも、エドムほどひどい態度ではないにしても、自業自得でわざわいに会っている人に対して心の中では軽蔑の心を抱くことがないでしょうか。

4.あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る

15節からは「主(ヤハウェ)の日」という明確な表現と共に、「すべての国々の上に」神のさばきが「近づいている」ということが表現されます。

そして、ここでは特に、「あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る」という原則が強調されます。つまり、エドムはエルサレムの滅亡を他人ごとのように傍観者的に眺めながら、加害者の味方をして自分の安全を計ろうとしました。それと同じ目に彼ら自身が会うということです。

これは、たとえば、自分の身の安全のためにいじめに加担した人が、みなからの信頼を失い、いじめられる側に立ってしまうということで現れることがあります。「あなたがしたように、あなたもされる」というのは、現実の生活の中でしばしば見られます。

人を裏切る人は、人から裏切られます。親を軽蔑する人は、子供から軽蔑されます。人をいじめる人は、いじめられます。罵声を浴びせる人は、罵声を浴びます。人を非難する人は、人から非難されます

これらをすべてまとめて、「あなたの報いは、あなたの頭上に返る」ということができます。

そして、それらすべてを神が支配しておられます。そうは言っても、人を裏切り続け、人を人とも思わないような人間が、みんなをだましつづけ、長寿を全うするということがあります。来たるべき世のいのちまでに目を向けて、それらすべてを神が支配しておられるということこそ、福音の核心でもあります。

イエスは、毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと、全身おできで門前に捨て置かれたラザロとの対比を、ラザロはアブラハムのふところに連れて行かれ、金持ちはハデスの炎で苦しむというたとえで示しました(ルカ16章)。

なお、エドムへのさばきが16節では、「あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう」と記されます。

これはエドムがエルサレムの陥落を喜んでシオンで勝利の杯を飲んだことを皮肉って、今度はそれが神の怒りの杯を飲み続けるというように変えられるということ、またそれがすべての国々に及ぶということが描かれています。

エレミヤ49章12節でも、エドムへのさばきが神の怒りの杯を飲むということとして、「見よ。あの杯を飲むように定められていない者も、それを飲まなければならない。あなただけが罰を免れることができようか。罰を受けずには済まない。いや、あなたは必ずそれを飲まなければならない」と記されています。

5.しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。

ところが17節からは一転して、イスラエルの回復の希望が「しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する」と約束されます。

エドムはイスラエルの滅亡を喜んだことで破滅に至りますが、今度は反対に、一度神のさばきを受けて滅んだエルサレムに、滅びから「のがれた者」がそこに住むようになり、「ヤコブの家」であるイスラエルの民が約束の地を回復することができるというのです。

そしてイスラエルの滅亡に加担したエドムが、反対にイスラエルによって焼き尽くされるということが、「ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。火と炎はわらに燃えつき、これを焼き尽くし、エサウの家には生き残る者がいなくなる」(18節)と描かれます。

なお、ヨセフの家とはずっと昔にアッシリヤによって滅ぼされた北王国イスラエルの中心部族ですから、ここに北王国の民の復興も約束されていると言えましょう。

19、20節の意味は分かりにくいですが、かつてのダビデの時代の支配地を回復するという全体の意味を把握する必要があります。

「ネゲブの人々」とはベエルシェバの南の荒野に住むイスラエルの民を指し、彼らがその東にの「エサウの山」を占領するというのです。

「低地の人々」とは、エルサレムのあるユダの山地とペリシテの地の間の低い土地の住民だと思われ、彼らは「ペリシテ人の国を占領する」というのです。

またそればかりか、「彼らはエフライムの平野と、サマリヤの平野とを占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する」とも言われます。

どの民族がどの地をというよりも、かつての北王国イスラエルの支配地ばかりか、いつも係争地であったヨルダン川東岸の「ギルアデ」さえもイスラエルの民の支配地となるということが約束されているということに目を留めるべきでしょう。

そして、20節においては「イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民(この最初の捕囚の民)はカナン人の国をツァレファテまで」とは、北王国の捕囚の民はかつてのダビデの領地の北限までを支配するという意味です。

また、「セファラデにいるエルサレムの捕囚の民」というのは、どこに捕囚とされているのかはよくわかりませんが、とにかくユダの捕囚の民も回復されて「南の町々を占領する」というのです。

最後に「救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主(ヤハウェ)のものとなる」と記されます。「救う者たち」とは、将来的な救い主に導かれた人々を指すと思われますが、彼らはエサウの山をさばき、支配するためにシオンの山に上るというのです。

そして「王権は主(ヤハウェ)のものとなる」というのは主のご支配が明らかになることを意味します。エドムの民は、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の支配権を認めずに、神の民を迫害していましたが、今、イスラエルの神、主のもとで、神の民が全地を治めるようになるというのです。

私たちクリスチャンこそが、「救う者たち」です。私たちは「キリストとの共同相続人」(ローマ8:17)と呼ばれ、キリストと共に世界を治めることになると約束されています。それは神の目には今から始まっていることです。

私たちは自分のことばかりか、全世界のこと、また地球環境の保護のことにも目を向けて生きることが求められています。

この目に見える世界においては、しばしば、神のご支配という「天」の現実を忘れてしまいがちです。私たちはこの世の不条理に悩まされ、そこで狡賢く振る舞う人間に憤りを覚えます。

しかし、そのようなときこそ、このオバデヤ書の主の日の記述、「あなたがしたように、あなたもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る」ということばを心から味わってみるべきでしょう。

私たちは知恵と力と富を増し加えるために日夜奮闘しています。しかし、主(ヤハウェ)のご支配を忘れた知恵も力も富も、驚くほどはかないものです。神の民は、この世ではその努力が報われないこともしばしばありますが、目に見える形で「王権は主(ヤハウェ)のものとなる」という歴史のゴールを決して忘れてはなりません。

この世界は神にあるシャローム(平和)の完成に向かっています。あなたの使命は、自業自得で滅びに向かっている人に寄り添い、やさしく、神の救いのご計画を分ち合うことではないでしょうか。