コロサイ1章15〜29節「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」

2013年5月12日

1960年代に、「小さな親切」運動が全国的に盛り上った時期がありましたが、その後、「小さな親切、大きなお世話!」となどと言われ、急速に冷めて行ったと言われます。多くの人は、何か人の役に立ちたいと思っていながら、「余計なお世話」と言われることを恐れ、「私などがやらなくても・・」と自分に言い聞かせます。しかし、今回の東日本大震災を契機に、また少し変化が生まれてきているのかもしれません。

たとえば、六十歳以上の方々が、「福島原発行動隊」を組織し、若い人々の身代わりになって放射能事故の終息のために労しようなどという動きは今までなかったことです。そこには原発の運営に関わって来られたような方もおられ、まさに政治信条を超えたボランティア組織になっています。日本はこのボランティア活動においてはアメリカから大きな後れを取っています。たとえば、米国では現在、ふたりに一人が、週に三時間以上のボランティア活動に加わっていると言われます。日本ではまだまだそのような人は少数派です。しかし、それでも、自分の利害を超えたことのために何かの貢献をしたいという思いは強くなっています。

私たちの教会でも、今回の会堂建設に際し、多くの方々が多大な資金的なご協力をしてくださいましたが、その半額は、新会堂を決して利用することのない方々からのご協力によっています。ですから、私たちも新会堂において、地域のために、またこの東京のため、他教会のために何ができるかを積極的に考える必要があります。

米国であるご高齢の方が、回心した時、心から、「私は人生を無駄にしてしまった、無駄にしてしまった」と嘆いたとのことです。私たちが犯すすべての失敗は、益に変えられます。しかし、失敗するようなリスクも犯さなかった人、自分のためにしか生きて来なかったような人は、イエスの前に立って後悔の涙を流さざるを得ないことでしょう。失敗は益に変えられても、無為に過ごした時間は、主にあって無駄になってしまうのです。私たちは神と世界とを愛するためにこそ、生かされているのです。

1.「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって・・・」

「万物は、御子にあって・・御子によって、御子のために造られ・・御子にあって成り立っています」(16,17節)で、「万物」を、人、仕事、食べ物、趣味その他の具体的なもので置き換えて読む時、どんな状況の中でも、父なる神に喜びをもって感謝をささげることができます。

ナチス・ドイツのもとでのある南ドイツの強制収容所でのことです。囚人たちは、強制労働で死ぬほど疲れている中、雲が、夕日に照らされ、驚くほどに神秘的な色彩にいろどられて行くのを、感動の沈黙をもって眺めていました。その時ある人が「世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう」と尋ねたというのです。この世の地獄で、人はなおも美に感動できるのです!

これを記したフランクルは、早朝の寒さと疲労の極みの作業場への行進の中で、生死も不明の愛する妻ティリーのほほ笑みと眼差しを思い浮かべることができました。彼女とは結婚後たった9ヶ月で強制収容所に入るために生き別れざるを得ませんでしたが、彼は歩きながら妻の面影を思い浮かべ、彼女と語り合い、その微笑みを見ました。

そこで、彼は、「彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった」と記しています。そのとき彼は、「愛は死のように強く」(雅歌8:6)というみことばの真理を思い起こし、「神は、愛によって、愛のうちに、被造物を救う」という真理が分かったと言っています。

世界には、昔から、目を覆いたくなる程の、不条理と悲惨が見られます。それを見ながら、人は、「神はいない」とつぶやき、「神を離れ、心において敵となって」(21節)行ったのではないでしょうか。

なお、「神を離れ」とは厳密には、「離されていた者たちであった」と記されています。これは真の神との交わりが断たれ、神の敵となって、人生の基準を失い、ますます「悪い行ないの中に」沈んで行った状態を指します。

イエスの時代の異邦人も、現代の日本人も、商売繁盛の神を礼拝するのが好きでした。日本では、稲荷神社などがその代表ですが、そこでは神の使いとして「きつね」が祭られたりします。人は、自分が拝む対象に似てきます。イエスを救い主としてあがめると、イエスに似た者となりますが、きつねをあがめると、狐に似てしまうのかもしれません。

古来、人間は、富や力や多産を願い、それらをもたらす神々をあがめていました。聖書が描く「悪い行い」とは、それらの欲望自体を神として、権力やお金やセックスの欲望の奴隷になってしまうことを指しています。クリスチャンとは、何よりも、キリストに似た者に変えられたいと願う者たちです。それこそ信仰のゴールです

しかし、神は、人を裁く代わりにあわれみ、「御子の肉のからだにおいて、その死によって・・ご自分と和解させて」(22節)くださいました。「御子の肉のからだ」とは、私たちの同じ死ぬべき身体です。なお、「御子は、見えない神のかたち」(15節)でしたが、処女マリヤから生まれて私たちと同じ肉体となることによって死ぬことができるようになりました。それは罪の報酬である死を私たちの代表者として体験するためでした。

そして、「御子はそのからだである教会のかしら」(18節)ですので、その「からだ」に属する私たちの代表者として、罪の結果の死を引き受けることができたのです。キリストは、私たちが負うべき罪のさばきを引き受けてくださいました。それゆえ、神は私たちにもう罪の刑罰を科す必要がなくなりました。

罪や苦しみと無縁と思われる方が、敢えて、罪深い肉と同じ姿となり、罪人の代表者としての死を体験されたのです。

人の創造主が、敢えて、人の暴力をその身に受けられ、「父よ。彼らをお赦しください・・」(ルカ23:34)と祈られました。それは世界を、ご自身の愛のうちに、愛によって、愛の完成に向けて、造り変えるためです。

 

しかも、「御子は・・死者の中から最初に生まれた方」(18節)です。そして、キリストのからだである教会に属する私たちもキリストの復活のからだとつながっています。

私たちは、キリストご自身が「聖く、傷なく、非難されるところのない者」であると同じように、私たち自身も、「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせて」(22節)いただけるのです。

なおこれは、将来の完成の姿ばかりではなく、既に実現している関係でもあります。神は、今、私たちに、愛する御子を見るような暖かい眼差しを向けておられます。

なお、「聖く、傷なく・・」とは、神殿の「いけにえ」のための用語ですが、パウロはローマ書で救いのみわざを語った後に「そういうわけですから、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(12:1)と命じました。

神は私たちに献身を求めておられますが、それは「神にこれほど愛されているのだから、愛されている者らしい生き方をしなさい」ということなのです。イエスは私たちのために苦しんでくださいました。ですから、私たちもイエスのために世界の苦しみを担うように召されているのです。

2.「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たす」

「しっかりした土台の上に堅く立って・・」(23節)と勧められるのは、「すでに聞いた福音の望み」からはずれさせる教えが入って来たからです。

それでパウロは、彼らが聞いた福音が、「天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」ものと同じだと強調しました。なお、ここは厳密には、「天の下のすべての造られたものの中で宣べ伝えられている」と記されています。パウロは別に人間以外の者に福音を語ったわけではありません。しかし、この福音は、「地にあるものも天にあるもの」のすべてを含めた「万物」を創造主と「和解させ」るという壮大なスケールを持ったものでした。

神は初めに、天と地を創造されましたが、その世界の中には、人間の罪によって、様々な問題が入り込んでしまいました。それは今回の原発事故の例などにも明らかなことです。

しかし、キリストの十字架は、この世界を、神の平和(シャローム)が満ちた世界へと造りかえる力を持つものです。私たちはその「望み」に留まり続ける必要があります。

パウロはその「福音」に「仕える者」ですが、その働きのゆえに苦しみに会っています。具体的には、パウロは今、「キリストの奥義を語る」ことのために、「牢に入れられています」(4:3)。

それを、彼は、「私の身をもって、キリストの苦しみ欠けたところを満たしている」(24節)という不思議なことばで表現しました。彼を誰よりも憎んだのは同胞のユダヤ人たちでした。彼は、コロサイのような異邦人の町の人に、旧約聖書で約束された救いがキリストにあって実現したと語り、割礼や食べ物の壁を飛び越えて異邦人を神の民として受け入れ、神殿礼拝を不用のものとしたからです。それは、イエスご自身も、取税人や遊女、罪人に、神殿を飛び越えて罪の赦しを与え、神の民として受け入れたことに従ったものです。

つまり、パウロは、イエスご自身が受けたのと同じ意味の迫害を受けたのです。もし、パウロが、異邦人のために「受ける苦しみを喜びとしています」(24節)と告白しつつ、いのちがけで異邦人教会を守ろうとしなかったなら、キリスト教はユダヤ教の一派にとどまったことでしょう。

「苦しみの欠けたところ」とは、罪の贖いのための十字架の苦しみに欠けがあったという意味ではありません。そうではなく、キリストの苦しみによって始まった神の国が、今、完成に向かう中で、産みの苦しみをしているということです。

女性の出産の苦しみによって新しい命が誕生するように、神の平和に満ちた世界が実現するためには産みの苦しみがあります。そして、私たちはその産みの苦しみに共にあずかるように召されているのです。

それは私たち自身がキリストの姿に変えられるために受けるべき訓練のときでもあります。誰も、訓練なしに成長することはないからです。

パウロはかつて、ユダヤ主義者がパウロを憎んだのと同じ理由で、キリストの教会を迫害しました。そのときイエスが彼に現われ、「なぜ、わたしを迫害するのか・・わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:4,5)と言われ、教会への迫害をご自身への迫害と同一視されました。その経験から、彼は、教会の苦しみをイエスご自身の苦しみと心から受けとめたのです。

実際、キリストは、今、教会をご自身の「からだ」としておられますから、私たちが指先の痛みを頭で感じるように、教会の痛みをご自身の痛みとして感じられますし、反対に、私たちが教会を愛することを、ご自身への愛として喜んでくださいます

パウロの時代の教会の苦しみとは、具体的には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間にあった誤解や対立でした。彼は、そこに和解を実現するために、コリントやピリピというギリシャ人の中心都市の教会から献金を集め、エルサレムの教会に届けました。それはエルサレムの教会が飢饉で苦しんでいたからですが、それによって、エルサレムのユダヤ人クリスチャンはコリントのギリシャ人クリスチャンに感謝をすることができるようになりました、また、ユダヤ人クリスチャンは、パウロを通してギリシャ人からのささげものを受け取ることによって、彼らの信仰の真実を評価することができるようになりました。

パウロはユダヤ人から憎まれている自分がエルサレムに行くと捕らえられて殺されるという可能性が高いことを知っていながら、エルサレムに向かいました。それによってパウロは実際に捕らえられ、裁判にかけられますが、彼はローマ市民としてローマ皇帝に上訴します。その結果、パウロは今、ローマで裁判を待つ囚われの身となっています。

しかし、彼は自分がギリシャ人とユダヤ人の和解をもたらすために犠牲となっていることを喜んでいるばかりか、それによってローマで福音を語り、皇帝にまで福音を語る機会が与えられるという期待をもって喜んでいるのです。

パウロは、「私は(強調形)・・神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました」(25節)と自分の働きに誇りを持ちます。それは、「多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義」(26節)を伝えるという名誉ある働きだからです。

なお、「奥義」とは、今や一部の聖人にではなく全ての人に明らかにされており、この誇りに満ちた働きは、私たちにも委ねられています。そして、奥義の内容は、神はユダヤ人だけの神ではなく、全ての民族の父なる神となられ、神の愛が、全世界、全被造物に及ぶということにあります。

キリストは万物の創造主であられますから、世界が痛むとき、ご自身も痛んでおられます。ですから、私たちは、この世にも、「キリストの苦しみの欠けたところ」を見つけることができます。

私たちはキリストのからだの一部として、世に遣わされ、その痛みをイエスとともに味わい、うめき、祈り、「私の身を持って・・欠けたところを満たす」という姿勢が必要です。

3.「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(27節)とは、キリスト者の幸いをひとことで表わしたようなことばです。「かつては神を離れ、心においては敵となっていた」人が、キリストの肉のからだにおける苦しみによって、神と和解させられました。

しかも、その福音は、「私の身をもって・・」と言って、異邦人伝道にいのちをかけたパウロの苦しみを通して伝えられたのです。イエスとその弟子が苦しまれたからこそ、今、キリストが私たちのうちに住むことが可能になりました。その方こそ、私たちの、「栄光の望み」です。

主が十字架で死んで、栄光の身体によみがえったように、私たちにも、栄光の復活が待っています。それは、青虫が冬の間、さなぎになることを通して、春には美しいアゲハ蝶に変わるようなものです。

私たちは今、青虫のように地に這いつくばって生きています。しかし、私たちにとっての死とは、さなぎになって越冬することに似ています。越冬さなぎの場合は、5カ月間から8ヶ月もの間のためにさなぎの状態で、まるで死んだような状態で冬眠しています。しかし、春が来るとそれまでとは似てもいつかない姿に変えられ、空に羽ばたいてゆきます。

それゆえ、私たちはどんなに暗い中にも、栄光の望みに満たされることができます。このことをパウロはローマ書8章10,11節で、「キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者のなかからよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(私訳)と記しています。

そして、パウロは、「私たちはこのキリストを宣べ伝え」(28節)と言いますが、それは単にキリストの紹介をするというのではなく、具体的には、「知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教える」という神経を使う、骨の折れる働きです。

特に「戒め」ということばは、混乱し分散している「心をまとめる」という意味があります。そして、その目的は「すべての人を、キリストにある成人(成熟した者)として立たせるため」(28節)です。

原文では、「あらゆる人」も「すべての人」も同じ言葉ですが、これが三度も繰り返されます。パウロは、自分の枠にはまる人というのではなく、あらゆる種類の人々を分け隔てなく「戒め」「教え」て、彼らをキリストにある「成熟した者」または「完全な者」として立たせようとしているというのです。

ここでの「完全」とは、私たちが思い描く完璧と言うのではなく、いけにえとして神に受け入れられる状態、22節にあった「聖く、傷なく、非難されるところのない者」になることです。

そしてパウロは、「このために労苦しながら、奮闘しています」(29節)と言っています。キリスト者の成長を導くというのは、途方もない労苦とエネルギーが必要なことですが、パウロはそれを「自分のうちに力強く働くキリストの力(働き、エネルギー)」によって実行していると語ります。

それは、まさに人間の力ではなく、私たちの「死ぬべきからだをも生かす」ことができる復活の力、神からのエネルギーによって可能になることなのです。

なお、私たちはしばしば、「私は自分の問題だけで精一杯なのです」と言いますが、それは子供の状態への居直りかもしれません。成熟とは、自分の問題を抱えたままで、世と人のために苦しむことができる余裕が生まれることです。それを可能にしてくださるのが「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」の働きです。

私たちが自分の力の限界にぶつかって見なければ、この御霊の力は分かりません。最初から、「そんなの、私には無理です・・」という人は、御霊の働きを自分で拒絶しているのかもしれません。

教会は癒しの場という面もありますが、真の癒しとは、目の前の問題が解決することではなく、自分の外の「欠けたところ」に心の目が向けられることです。残念ながら、キリストにある愛の交わりの場であるはずの教会には様々な問題が起きがちです。

しかし、それを見たとき、「どうして、この教会は、いつもこうなのか・・」とその問題を指摘することは、誰にでもできます。そこで求められていることは、その「欠け」を「キリストの苦しみの欠けたところ」と見る霊的な視点です。そこであなたが担う苦しみは、キリストにあってのかけがえのない苦しみなのです。

キルケゴールは、「幸福への戸は、自ずと外側に向かって開く」と言いましたが、自分のための幸福を追い求め、その扉を自分の側に無理して開こうとするなら、それは閉じられます。

しかし、「キリストの苦しみ・・」に目を向けるなら、キリストにある幸せを見出します。アウシュビッツで、ある人が「神よ。私の苦悩と死の代わりに、愛する人から苦痛に満ちた死を取り去ってください」と願いました。自分の苦しみばかりに目を向けたら、生きることさえできませんが、人の痛みに目を向ける者は、闇の中で、そこに射し込む光と喜びを見るのです。

 

この世の苦しみや不条理を避けたいと思うのは人情ですが、主の再臨まではそれらはなくなることはあり得ません。しかも、そのただ中で、愛が成長するという現実が見られます。

人の苦しみを正当化することは許されませんが、それでも、万物を創造し、保っておられる御子が、「苦しみの欠けたところ」を、敢えて、残しておられると見ても良いのではないでしょうか。

なぜなら、私たちのいのちは、それを満たそうと燃える中でこそ、美しく輝くからです。蝋燭は自分の身を削りながら輝きますが、それはいのちが燃焼するための必然なのです