詩篇1篇〜2篇「問題に追われているとき」

2013年2月10日

何年か前ですが、健康診断を受けた時、いつもは低い血圧が上がっていることがわかり、驚きました。医者からは、「あなたには、血圧が上がりやすい傾向があるということを知っておいたほうがよいですよ……」と言われ、ショックを受けました。私は何が起きても動じない平静な心 (Serenity) にあこがれていました。牧師として二十四年がたち、すでに還暦を迎えるというのに、ストレスに弱く、いろんなことに心が敏感に反応してしまいます。

そのようなときに大切なのは、そのような自分の気持ちを、否定もせず、また解釈もせず、そのまま置いておくということです。そして、その一方で、聖書のストーリーに心を向けるということです。

福音の核心とは、神の国、神のご支配が、キリストによって始まり、世界は平和の完成に向かっているということです。私たちが味わう悲しみは、その永遠の観点からしたら、ほんの束の間の間奏曲にすぎません。それは来たるべき喜びを際立たせるための神のご配慮とも言えます。

ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「あらゆる人間の生活は、苦痛と退屈の間を行ったり来たり、揺れ動くだけのことである」と言いました。持続的な満足などはなく、欲望が充足されると飽きが来ます。そして、心配事がなくなったとたんに退屈さが顔を出します。ですから昔から、民衆を治めるために必要なのはパンとサーカスだと言われます。パンは苦しみを減らし、サーカスは退屈さを減らしてくれるからです。

しかし、そんな人生は何と空しいことでしょう。このそれから解放させるためには、悲しみのなかに喜びを発見することです。そして、一時的な問題解決の中に、来たるべき新しい天と新しい地の前味を見ることです。

1.「幸いな人とは」

サラリーマン時代の私は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを思い巡らす人は……行うすべてが繁栄をもたらす」という約束が、仕事の成功と結びついてうれしく思えました。

しかし、さまざまな悩みを抱えた方に接しているうちに、それがあまりにも楽天的に見えてきました。ところが二篇とセットで読むようになった時、その意味が納得できました。

なぜなら、ここに聖書の要約があるからです。ノー天気な信仰も危険ですが、暗いことばかりを見る信仰はもっと始末が悪いかもしれません。

詩篇一篇は突然、「幸いな人よ」ということばから始まり、二篇は、「幸いなことよ、すべて彼(御子)に身を避ける者は」ということばで終わります。

そして、「幸いな人」として生きるための秘訣は何よりも、「主 (ヤハウェ) の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを思い巡らす(口ずさむ)」ことにあるというのです。

残念ながら「主の教え(律法:トーラー)」を神のさばきの基準としてしか見ることができず、「聖書を読むと、かえって息苦しくなる……」という人がいます。

しかし、「主の教え(律法)」は何よりも喜びの対象であり、愛する人からの手紙のように、いつでもどこでも思い巡らすことで幸せになることができる教えなのです。

そして、「その人」には、確かに、「(神の)時が来ると実を結び、その葉は枯れない」という「繁栄」が約束されています。

なお、「繁栄」の実現には「時が来るの」を「待つ」という忍耐が必要です。それは、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36) とある通りです。

一時的にうまく運んでいないように思えても失望する必要はありません。多くの信仰者が、「忍耐」によって、確かに繁栄を体験して来ました。

しかも、著者が強調したいのは何よりも、「主 (ヤハウェ) は、正しい者の道を知っておられる」(1篇6節) という点で、そのことが詩篇二篇に展開されていると考えられます。

この世の人生のむなしさは、何よりも「正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きする」(伝道者7:15) という不条理にあります。そこにサタンがつけ込み、不敬虔な生き方を刺激します。しかし、真の繁栄は、天地万物の創造主、すべての豊かさの源である方に結びついた生き方から生まれるのです。

神の目に「正しい人」とは、社会で尊敬されているような人という意味ではなく、自分の弱さやふがいなさを心から知って、「私は神の助けなしには一瞬たりとも生きられない……」と思っている人です。それは、自分の弱さを神の御前にさらけ出して祈る人にほかなりません。

私たちは知らないうちに、神の助けがなくても生きられるような強い人になろうとしてはいないでしょうか。

ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイヤ」第二部の16曲目は「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。平和の福音を告げる人々の足は」(ローマ10:15) と歌われます。

このみことばは、イザヤ52章7節から来ています。そこでは、「なんと美しいことよ。山々の上にあって福音を伝える者の足は。その足は、平和を聴かせ、幸いな福音を伝え、『あなたの神が王となる』とシオンに告げる救いを聴かせる」(私訳)と記されています。

つまり、平和の福音の内容とは、「あなたの神が王となる」ということなのです。これは様々な不条理の中で、神のご支配が見えないように思えた中で、神の愛のご支配がキリストにおいて明らかにされることを意味しています。

あなたはどんなに弱くても、あなたの神、あなたの救い主は、全宇宙の王、支配者であられるのです。

2.「聖書を忘れて思い巡らすことの危険」

以前、問題が山積している中、友人の誘いで「メサイヤ」を聞きに行ったことがあります。この曲は三部から構成されており、その真ん中の第二部の終わりはあの有名な「ハレルヤ・コーラス」です。それは、世界が完成する時の喜びの歌ではなく、目の前には次から次と問題が起きているただ中で歌われるキリストの勝利の歌です。

私は、それを聞きながら、身体が震えるような感動を味わいました。目の前の問題が、キリストが「王たちの王、主たちの主」であるというその霊的現実のただ中で起こっている一時的な悲劇にすぎないということがわかったからです。

メサイヤ第二部では、ハレルヤ・コーラスに至るプロセスで詩篇2篇からのみことばが四曲も歌われます。イエスの復活によってサタンの敗北は決まったはずなのですが、それによって戦いが止むどころか、かえって激しくなっている面があります。

それはたとえば、第二次大戦でナチス・ドイツの敗北を決定的にしたのは1944年6月のノルマンディー上陸作戦の成功でしたが、ドイツの降伏は1945年の5月であり、その間の戦争はそれ以前よりはるかに悲惨なものになったのと同じです。

太平洋戦争の場合もミッドウエー海戦で日本の敗北は決定的になりましたが、それを理解したのはごく一部の人でした。しかも、敗戦の兆候が強くなるほど戦いは激しさを増し、硫黄島、沖縄、広島、長崎の悲劇につながりました。

つまり、現在、サタンの攻撃が激しくなり暗闇が増し加わっているように見えるのは、勝敗が決定的となったしるしなのです。

そのことを第2部19曲目では、激しい戦いのイメージの音楽で、1、2節から Why do the nations so furiously rage together, and why do the people imagine a vain thing? 「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやく(むなしいことを思い巡らす)のか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主 (ヤハウェ) と、主に油をそそがれた者とに逆らう」と歌われます。

ここでは、この世の権力者が、神に逆らうばかりか、「油注がれた者」、つまり「メシヤ(キリスト)」に逆らうのはなぜなのかと問われています。

これは、使徒4:25では、ペテロとヨハネがイエスの福音を宣べ伝えたことで厳しい脅しを受けながら、自分たちは神に従うと言って脅しに屈しなかったときにそれを喜んだ弟子たちが引用したことばです。

そこでは、聖霊が私たちの父であるダビデの口を通して、救い主とその教会に対する迫害のことを預言したと解説されます。この世では、「神の民」は少数派にすぎず、神に逆らう者たちの力のほうが圧倒的に強く感じられるからです。

そのような中で、「人々は、むなしいことを思い巡らす」というのです。新改訳で「つぶやく」とも訳されている言葉は、「主の教えを思い巡らす(口ずさむ)」(詩篇1:2) というときと同じ原文です。そこでは、「主の教えを思い巡らす人は、流れのほとりに植わった木のように……」と言われていましたが、「つぶやき」は、神を忘れた「思い巡らし」なのです。

私たちは聖書にある神の救いのストーリーを「思い巡らす」代わりに、この世の不条理ばかりに目を留めて、「神がおられるなら、なぜ……」と「つぶやいて」しまいます。しかし、聖書を読むことを忘れた「思い巡らし」は、時間の無駄であるばかりか、人を狂気に走らせることすらあります。

その代わりに、私たちが「思い巡らす」べき「なぜ?」とは、この世の権力者が、なぜこれほどノー天気な生き方、つまり、自分の明日のことを支配する創造主を忘れた生き方ができるのかということではないでしょうか。

聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神の御手の中にあったと知ることができ、また私たちの人生も、この世にあってはさまざまな試練に満ちているのが常であるということを知ることができます。

神の敵は、サタンに踊らされているだけです。彼らは隠された霊的な現実を見ることができないからこそ神に反抗できるのです。

第二部19番目の合唱では、詩篇2篇3節から Let us break their bonds 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう」と歌われますが、これは、「神の国(支配)」の民として生きることを、単に束縛ととらえ、創造主を否定した生き方に自由があると思い込むことを指します。

しかし、彼らは自由なのではなく、自分の欲望の奴隷になっているだけです。

第20番目の曲では、詩篇2篇4節から、「天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる」と歌われます。神は今、天に座しておられ、ご自身の権威を否定する者たちのことを「笑い」、また「あざけって」おられるというのです。

そればかりか、詩篇2篇5節では、主は彼らを、「燃える怒りでおおのかせ怒りをもって彼らに語る」と記され、その内容が、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」(6節) と描かれます。これは目に見えない神が、目に見える地上の王をエルサレム神殿に立てたという意味で、その「王」こそ、ダビデの子であるイエス・キリストであるという意味です。

これこそ目に見える神の国の始まりです。私たちには不条理としか思えないことも、神のご支配の中にあります。私たちはこの地の支配者がどなたなのかを忘れてはなりません。

そして、7節では、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしはきょう、あなたを(新しく)生んだ」と記されますが、これは神がご自身の子を、王として即位させられるという意味です。イエスの十字架には、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と記されていましたが、それはあざけりのようで、真実を表しています。

十字架こそは、イエスの玉座でした。ヨハネの福音書におけるイエスの十字架は、王としての威厳に満ちています。イエスは神の民のすべての罪を負う王として、十字架に向かわれたのです。

バッハもヨハネ受難曲の前奏曲では、「主よ、あなたは驚くべき低さの極みにおいて栄光を受けておられる」と歌われています。

詩篇1篇では、神に従う者の幸いが美しく歌われていました。イエスの十字架は、その原則に反するように見えましたが、詩篇2篇では、目に見える苦しみがあったとしても、この神の民の勝利の原則は変わらないということが保障されています。

そしてメサイヤ第二部第12番目の曲では、これがヘブル書で引用されていることを、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう……」と歌われます。

そして、13番目の合唱曲は、その勝利の祝福を、「神の御使いはみな、彼を拝め」(ヘブル1:6) と力強く歌ったものです。これは、イエスがこの地上においてばかりか、天においても礼拝の対象とされている様子です。イエスは復活によって、神と並んで礼拝の対象とされたのです。

3.「キリストの支配」

そして、詩篇2篇7節では主 (ヤハウェ) はこの世界に対し「布告」(新改訳では「定め」)を発せられます。それは、ダビデ王国の支配が全世界に広がることを意味するもので、「あなたはわたしの子。わたしはきょう、あなたを生んだ。わたしに求めよ。国々をあなたに受け継がせ、地の果てまであなたのものとする」(2:7、8) ということばでした。

ただ現実には、彼の支配地は約束の地カナンに限られていましたから、その完全な成就は、「ダビデの子」としての救い主の出現を待つ必要がありました。

イエスのバプテスマの時、天からの声が、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と響いたのは、この預言の成就でもありました。イエスは公生涯の初めから、ご自分こそ王であることを示しておられました。

またイエスの十字架刑が決定的になったのは、大祭司の質問に対して、ご自分が神の子キリストであることを認めたばかりか、ダニエル7章13節を引用しつつ、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのをあなたがたは見ることになります」(マタイ26:64) と言いながら、ご自分こそが全世界を治める王であると宣言されたからです。

それが当時の人々が思ったような大ぼらではなく、真実であるということが、ここに記された「主 (ヤハウェ) の布告」の内容で約束されているのです。

また父なる神が御子に、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち、焼き物のように粉々にする」(2:9) と約束されたことばは、ヨハネの黙示録では (2章27節、12章5節、19章15節)、再臨のキリストが力をもってこの地を治めることとして引用されています。

これらはすべてダビデの子イエスの最終的な勝利を約束するみことばです。救い主は、二千年前はひ弱な赤ちゃんとしてこの地に来られ、神の優しさを示されましたが、今度は剣をもって神の敵を滅ぼすために来られるからです。つまり、ここにはキリストの誕生から再臨までが合わさって預言されています。

そして今、私たちの救い主イエス・キリストが、すでに「王たちの王、主たちの主」としてこの地を治めておられます (黙示11章15節、19章16節)。

ですから、「ハレルヤ・コーラス」は、この詩篇二篇から導かれる必然的な帰結です。ハレルヤ・コーラスは、目に見える不条理に中にすでに始まっているキリストの支配を歌ったものなのです。

そこでは最初、黙示19:6から、Hallelujah! For the Lord God omnipotent reigneth.「ハレルヤ。全能の神である主は、支配しておられる」と繰り返し歌われます。これは、この世の現実が悲しみと不条理に満ちているようなときの何よりの慰めです。

私たちの教会の群れの基礎を築いてくださった古山洋右先生は、ご自身の葬儀の際にはぜひこのハレルヤ・コーラスを歌って欲しいと切に願われました。そして、今から18年前の最も悲しいときに、私たちはこのみことばから、目に見える現実を超えたキリストのご支配をともに高らかに歌いました。

これこそ黙示録のテーマです。それは賛美と礼拝です。そして、その頃、私も武蔵野や東村山の牧会にも携わりながら、何とも言えない疲れと無力感を覚えていましたが、メサイヤのコンサートで、この部分の賛美を聞きながら、ことばにできない感動に心が満たされました。

それは、目の前の状況がコントロール不能と思われる中で、「全能の神である主は、この状況を支配しておられる」と確信できたからです。

そのことが、引き続き、黙示11:15から、The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of His Christ and He shall reign for ever and ever 「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」、また、黙示19:16から、King of Kings, and Lord of Lords 「王たちの王、主たちの主」と歌われます。神のご支配は、御子イエスが王として世界を治めるところに現されるのです。

この地上を支配しておられるのは、私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストご自身です。私たちの救い主ご自身が、今、「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるというのは何という慰めでしょう!

なお、このヘンデルの指揮によるメサイアの演奏を聞いていたイギリス王、ジョージⅡ世は、この部分を聞いたとき、突然、起立したと言われます。それは、「王の王、主の主」であるキリストへの敬意の表現でした。

それにならってすべての聴衆が起立し、それ以後の演奏会でも、聴衆がこの部分で起立するようになったと言われます。

黙示録では、キリストが弱さの象徴としての「小羊」と呼ばれながら、同時に「右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は照り輝く太陽のようであった」(1:16) という方として描かれています。それは、キリストがこの世の悪をさばき、この世の不条理をすべて正してくださる方だからです。

キリストの支配は、生まれながらの人間には分かりません。しかし、神は確かにキリストを王として立ててくださったのです。

詩篇2篇10–12節では、「王たち」「地の支配者」たちに向けて、「恐れつつ主 (ヤハウェ) に仕え、おののきつつ喜べ」と記されながら、「御子に口づけせよ」と命じられます。これは、主 (ヤハウェ) に仕えるとは、御子イエス・キリストに対して臣下の礼を取るという意味であるということです。

そればかりかその理由が、「怒りを招き、その道で滅びないために」と記されています。それは御子を自分の王として認めない者には神の怒りが下るという意味です。

そして、再び、「怒りは今にも燃えようとしている」と記されながら、最後に、「幸いなことよ、すべて彼(御子)に身を避ける者は」と閉じられます。つまり、私たちは御子に身を避けることによってのみ、神の怒りから救われるのです。

イエス・キリストはすでに全世界の王となっておられます。私たちが神の平和を味わうための道は、この方を自分にとっての「王の王、主の主」として認める以外にないのです。

私たちは、このキリストのご支配の現実をどれだけ味わっているでしょうか。ただ、それは武力による支配ではなく、愛による支配です。私たちは、キリストの教えが世界の価値観を変え続けてきたことを思い起こしてみましょう。

このような見方は、信仰生活の持ち方にも影響を与えます。十字架で終わる福音は、死ぬこと自体を美化することになりかねません。犠牲愛が道徳とされるところでは、何かしらの息が詰まるような感じが出てこないでしょうか。それは、何か自己犠牲を強制されるような嫌な気持ちを味わうといことかもしれません。

しかし、十字架には神の勝利が隠されています。十字架の「のろい」の背後に、神の祝福が見えます。私たちはいつもその喜びと、祝福を見ながら、信仰の旅路を歩むのです。

私たちの目の前にあるすべての問題は、私たちがキリストにある勝利を味わうための契機に過ぎません。最終的な勝利はすでにキリストにあって確定しました。