証券営業の仕事をしていた時、「上司からの余計な叱責を受けないための知恵」を教わりました。それは、営業目標の達成に関して少々不安があっても、「大丈夫です!お任せ下さい」と言い張ることでした。なぜなら、当時の営業店は、ノルマを果たせないと人間扱いされない世界でしたから、弱音を吐くと、上司を心配させ、自分の個性を殺すような介入を招いてしまうからです。要するに、人の干渉を避けるためには、強がっているのが一番なのです。しかし、そのような態度が身についてしまうと、神の前でも同じような態度を持ってしまうことになります。神は人間とは違い、私たちの個性を全面的に生かすことがおできになる方です。神に対しても強がる者は、真の意味での神の力を体験することができなくなります。
信仰の基本とは、神の前で子供のようになることです。幼子が泣いたり笑ったり不安に震えたりするように、神の前に自分の心の奥底にある感情をさらけ出すのが最高の祈りです。
多くの人は、「喜びとは悲しみのないことであり、悲しみとは喜びのないこと」だと考えがちです。しかし、神の子イエスは、悲しみのお方であり、また完全なる喜びのお方でもあります。
ヘンリ・ナウエンは、喜びと排除しあう関係にあるのは、悲しみではなく、「皮肉」であると言いました。皮肉屋はどこへ行っても闇を探し出し、小さな喜びへの感動を軽蔑するからです。
これは、「横着な心」(「覆いかぶされた心」哀歌3:65) とも呼ばれます。自分の根本的な弱さに目をつむったり、罪を悲しむことに「横着な心」は、神の赦しを喜ぶことにも横着になることでしょう。
1.「あなたがたはみな、つまずきます」
イエスは弟子たちと最後の晩餐のときを過ごし、その後、「賛美の歌を歌ってから」(26節) とありますが、これは過越の食事を締めくくる賛美の歌です (詩篇114-118)。たとえば詩篇118篇のように苦しみの中から「主のめぐみ(ヘセド)」をたたえる讃美ではないかと思われます。詩篇朗誦には独特のメロディーが伴っていました。
イエスは「御名があがめられますように」と祈るように教えてくださいましたが、その模範をここに見ることができます。
そしてイエスと弟子たちは「みなでオリーブ山へ出かけて行った」とありますが、これはエルサレムの城壁の東側にあるエルサレムを見下ろすことができる山で、そのふもとのゲッセマネの園は神殿の東、ケデロンの谷の先にあります。
その途中でイエスは、弟子たちに向かって、「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」(27、28節) と言われました。
弟子たちは主の権威や癒しのみわざに圧倒されていましたが、今やおぞましい十字架にかけられます。彼らがその「弱さ」につまずくのも当然でしょう。ユダの裏切りは、いち早くそれを察知した結果に過ぎません。
ただし、イエスはそれを、ゼカリヤ13:7に記された預言の成就として説明します。つまり、羊飼いが打たれ、羊の群れが散り散りになるのも、神のご計画だというのです。ゼカリヤでは続けて、「わたしは、この手を小さな者たちに向ける」(私訳) と記されます。弟子たちは新しい神の国で大臣の地位に着くような事ばかりを夢見ていましたが、イエスは彼らが「小さな者たち」に過ぎないということを自覚させようとしておられたのです。
その預言の核心は、羊である彼らが目に見える飼い主を失うという試練を通して信仰が練られ、再び集められるということにありました。そしてイエスはここで、改めてご自身の復活を語るとともに、「あなたがたより先に、ガリラヤに行きます」と、弟子たちが散らされた後ガリラヤに集められ、そこから再出発すると言われました。
それに対しペテロは、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」(29節) と言いました。彼は心の底で他の弟子たちを軽蔑し自分を誇っていたのです。
それを聞いたイエスはすぐに、「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」(30節) と言われました。
そしてそれを聞いたペテロは、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と「力を込めて言い張り」ます(31節)。そして、「みなの者もそう言った」と描かれます。私たちは、ひとりになると極めて臆病なのに、仲間といっしょの時、自分の弱さを押し隠して勇気があるように振る舞う傾向があります。それはやくざでもイエスの弟子でも同じ心理です。
「挫折を知らない人ほど危ない人はいない」とも言われますが、自分の弱さを知らない者は、本当の意味でイエスに出会っていません。ユダもペテロも紙一重です。自分の期待が裏切られた時、簡単にイエスを裏切ってしまう者なのです。
しかし、反対に、「私はイエス様がいなければ何をするか分からないような者です」と告白する人は、イエスにつながり続けます。
ルカの福音書22章31、32節では、イエスは「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたと記されています。つまり、ペテロはイエスの祈りによって初めて信仰を保つことができるというのです。
それはペテロにとっての弟子訓練の最終段階を指しています。彼はこれによって文字通り、「心の貧しい者」とされました。彼は、そこでイエスの祈りなしには、自分の信仰がなくなっていたということを知りました。
彼は、それを通して、他の弟子たちの弱さを軽蔑する代わりに、共感できるようになります。彼は、福音を語るたびに、自分の愚かな失敗を証ししたに違いありません。彼の愚かさと、主のあわれみがセットになって、人を慰め励ましたのです。
キリスト者として生きるとは、聖霊に生かしていただくという歩みです。キリスト者とは聖霊を受けた人です。私たちがしばしば聖霊のみわざを感じることができないのは、自分の空虚さを心から味わうことができていないからです。
これはあくまでも逆説ですが、あなたが聖霊のみわざを知ることができないのは、信仰がないからではなく、ありすぎるからかもしれません。
私はあるとき、自分の祈りをとてつもなく空虚なものに感じ、「もう、祈るのをやめよう……」と思ったとき、反対に、自分の中で聖霊様が祈りを起こしてくださっているということが分かりました。ローマ人への手紙8章9-11節は次のように訳すことができます。これを繰り返し、じっくりと味わってみましょう。
「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられるからです……
キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています……
それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」
2.「アバ、父よ……どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」
そして、32節では、「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに」、「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい」と言われたと記されます。
その際、「ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた」(33節) と描かれます。「もだえ」とは、不安に圧倒される様子です。
そこでイエスは、三人の弟子たちに向かって、「わたしのたましいは深い悲しみのあまり死ぬほどです」(34節私訳) とご自分の気持ちを表現されました。これはペテロの強がりと何と対照的なことでしょう。
この「深い悲しみ」とは詩篇42、43篇で繰り返されている絶望感のギリシャ語訳と同じです。そこで詩篇作者は、「私のたましいは、私の前で、うちしおれ(うなだれ【新改訳第三版】、絶望し【新改訳第二版】)ています」(42:6) と告白しています。
そこで作者は、「私のたましいよ。なぜ、うちしおれ(絶望し)ているのか。なぜ、私の前でうめいているのか。神を待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を」と、自分の気持ちに正面から向き合おうとしています (42:5、11、43:5)。
つまり、イエスは詩篇の祈りの伝統の中でご自分の気持ちを表現されたのです。
その上でイエスは三人の弟子たちに、「ここを離れないで、目をさましていなさい」と言われました (34節)。ここで主は、孤独のあまり弟子たちに祈りの支援を求めたというよりは、ご自身の密室の祈りに招かれたと解釈できましょう。
その祈りの姿が35節では、「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」と、イエスの想像を絶する「恐れ」の様子が描かれます。
それにしても、「深くもだえ」ながら、「悲しみのあまり死ぬほど」と弟子たちに言われ、「地面にひれ伏し」という姿に、イエスがご自分の気持ちを自分で抑えようとせずに、神と最愛の弟子たちにそのまま表している自由さに驚きを感じます。
多くの人たちは心が動じなくなることを願います。哲学者ソクラテスは、不当な死刑判決を受けた時、死は災いではなく自分にとっての幸せであると友人たちを説得して慰め、法を破って逃亡することよりも法に従って死ぬことに価値を認め、毒の入った杯を堂々と飲み干します。
何と英雄的な姿でしょう。イエスの姿は正反対に見えます。
そしてイエスは、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」(36節) と祈られました。「アバ」とはアラム語で、当時の人々が自分の父親を「お父さん」と呼ぶときの自然な表現です。そこには親密さと共に信頼の気持ちが込められています。
イエスは全宇宙の創造主である方にそのように呼びかけながら、その全能の力によって、ご自分の目の前の苦しみを取り除いてくださるようにと率直に願ったのです。
主の祈りでも、「アバ(お父様)」から始まり、「御国(ご支配)が実現するように」と祈られます。
その上でイエスは、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(36節) と繰り返し祈られました。これは主の祈りで、「あなたのみこころが行われますように」と祈るようにと言われた祈りと基本的に同じです。
それにしても、イエスですら、ご自身の肉体から生まれる意思と神のみこころとの間に矛盾を認められたのです。それは、イエスが人として私たちと全く同質であられた(カルケドン信条)からです。
私たちの罪の根本とは、人間の肉から生まれる願望を神のみこころに対して優先することです。最初の罪は、食べたいから食べたことでした。現代の多くの人々は、正義や聖さよりも、心地よさ(アメニティー)を優先する傾向があります。
なお、イエスは、最初から、「みこころのままに」と祈ったのではなく、「この杯をわたしから取りのけてください」というご自分の願いをまず率直に祈っています。私たちも、祈りにおいて、自分の葛藤を父なる神に正直に訴えることが大切です。
ただし、イエスの苦しみは、あらゆる人間的な苦しみの次元を超えています。イエスが言われた「この杯」とは、「あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干す」(イザヤ51:17) とか、「憤りのぶどう酒の杯を……飲んで、ふらつき、狂ったようになる……飲んで酔い、へどを吐いて倒れる」(エレミヤ25:15、16、27) などとあるように、罪のないイエスが、すべての罪人の代表者となり、神の怒りを受けて、酒に酔いつぶれた人のようにあざけられながら死んで行くことを意味します。
また、主 (ヤハウェ) はかつて、ご自身がエルサレムの住民を殺し、その町を廃墟とすることを、彼らに向かって、「あなたは酔いと悲しみに満たされる、恐怖と荒廃の杯……あなたはこれを飲む」(エゼキエル23:33、34) と言われました。
つまり、イエスの十字架は、まず何よりも、神の都エルサレムが神の憤りをうけて滅ぼされるというような激しい苦しみを、たったひとりで引き受けることだったのです。
そればかりか、それは私たちにとって、全人類が受けるべき神の憤りを全世界の代表者、王として引き受けることでした。
なお、ヘブル書の著者は、「キリストは人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(5:7) と描いています。
この、「聞きいれられました」とは、十字架の苦しみを避けることができたという意味ではなく、何よりも、苦しみに耐える力が与えられたということです。そして、後には、復活として表されます。
そしてそれは、私たちにも当てはまることです。私たちも、祈りにおいて受けることができる勝利とは、自分の願いどおりに物事が進むということではなく、苦しみに耐える力が与えられ、最終的な肉体の復活という勝利が与えられるということです。
紀元200年頃、テルトゥリアヌスは、キリスト者を迫害するものに対して、「いかにあなた方の残酷さがより手の込んだものになったとしても、それはすべて何の役にも立たない。それはむしろわれわれの宗教の魅力となっているのだ。あなたがたがわれわれを刈り取れば、その都度、われわれの信者は倍加するのである。キリスト教徒の血は、種子なのである」と言いました。
ソクラテスが、「悪法も法なり」と言いつつ、毒杯を雄々しく飲み干したように、多くの哲学者たちは、苦痛や死に耐えることを美徳としていましたが、それを実践できる人は稀でした。
しかし、無学なキリスト者が、脅しに屈することなく、神と隣人愛に献身している様子は、人々の心に深い感動を与えました。
イエスは、ゲッセマネの園で、十字架の死を先取りして、苦しみもだえました。それは十字架の苦しみの予行演習のような意味があるのかもしれません。
しかしイエスは、父なる神に、ご自分の気持ちを正直に訴えることによって、この恐怖に勝利し、十字架に向かって雄々しく進むことができました。
イエスのいのちが十字架上で輝くことができたのは、それ以前に、このゲッセマネの祈りにおいて十分苦しみ、それに勝利を収めたことの結果でした。
3.「心(霊)は燃えていても肉体は弱いのです」
一方、このとき弟子たちはイエスの命令に反して眠り続けていました。そのことが37節では、「それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに」、「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか」と言われたと記されます。
これはペテロが、「全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と豪語したことを思い起こさせる表現です。彼は自分に自信があったからこそ祈る代わりに眠ったのです。
それを見てイエスは、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心(霊)は燃えていても肉体は弱いのです」(38節) と言われました。
これも主の祈りの、「試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と基本は同じで、それは、「誘惑に陥らせないで、悪い者からお救い下さい」と訳すこともできます。
なお、「私は弱いから眠ってしまう」というのは、言い逃れ、居直りです。自分の肉体の真の弱さを知っていればこそ、目をさまして祈る必要があります。
ペテロは自分の力を過信して居眠りをし、誘惑に負け、三度もイエスを否認しました。これは、天地万物の創造主である神の御子イエスが、三度も同じように祈られたことと対照的です。
その後39節では、「イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた」と描かれますが、マタイ26章42節では、二度目の祈りが「わたしが飲むことなしに、この杯が過ぎ去らないのであれば」(私訳) と記されます。それは、この憤りの杯は、イエスが飲むことなしに、私たちの前を過ぎ去ることはないからです。
私たちが飲むべき杯をイエスが飲んでくださり、イエスはそれを「祝福の杯」(Ⅰコリント10:16) に変えて、私たちに与えてくださったのです。
その後のことが、イエスが「また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった」(40節) と描かれます。
一方、ルカ22章45節では、「悲しみの果てに、眠り込んでしまって」いたと描かれます。彼らの眠りは、ストレスを回避するための無意識の自己防衛作用だったかもしれません。いわゆる現実逃避です。
ペテロは自分の内側にあった恐怖心に蓋をしていました。それが居眠りの原因かもしれません。しかし、いざとなったら、それが芽を吹き出し、その恐怖心に圧倒されて、誘惑に負けてしまいました。
自分の内側にある恐れの心に蓋をする者は、恐れに敗北します。
そして、41節では、「イエスは三度目に来て、彼らに言われた」とありますが、そこで語られたことばを直訳すると、新改訳の脚注にあるように、「では、ぐっすり眠って休んでいなさい。終わりました」となります(マタイ26:45も同じように訳すことができる。最近のフランシスコ会訳もこの訳を採用している)。これは、「もう厳しい祈りの時間が終わったので、もう目を覚ましている必要はない」という意味だと思われます。
イエスは祈りにおいて戦いに勝利を収められましたが、弟子たちは、これからも霊的に眠った状態にとどまり、失敗するまで目覚めることがありませんでした。
その上で、イエスは「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます」と言われました。
人としてのイエスにとっての最も厳しい戦いは、このゲッセマネの園での祈りでした。イエスはこの時、ご自分の肉の身体から生まれる願望を、御父に向かって包み隠さずに表現しました。その上で、「あなたのみこころのままをなさってください」と祈られました。そこには、究極の恐れの表現と、究極の献身の告白があります。
私たちは自分の肉の弱さを正面から認めないからこそ、恐れに振り回されるのではないでしょうか。イエスは、この祈りの戦いに勝利した結果、「罪人たちの手に渡される」ために雄々しく前に進まれました。その様子が42節ではイエスが、「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」と言われたことに描かれています。これは剣を振り回すよりもはるかに勇気の要ることです。
イエスがまだ話しておられる時、ユダに導かれた群衆が主をとらえにきました。一瞬のうちにイエスを見定めてとらえることで、イエスの信奉者を散らすためでした。
これこそ、すべてのキリスト者を襲う、「霊的な戦い」の現実です。その際、私たちは、人間的な力と方法によっては決して、暗やみの力には対抗できないということをわきまえる必要があります。
戦いの戦略は、「どんなときにも御霊によって祈る」ことです。その模範は、何よりも、詩篇の中に見られます。いつでも、どこでも、御霊の導きを求めつつ、詩篇を用いて自分の心を注ぎだすことが勝利の秘訣です。御霊にある解決方法が求められます。
復活のイエスは、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21) と言われました。私たちは矛盾と混乱に満ちた世に、イエスの代理として、救い主の代理として、日々、遣わされています。そこで問われているのは、何よりも、世界の痛みを自分の痛みとして感じることができる感性です。
パウロは、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだのあがなわれることを待ち望んでいます」(ローマ8:23) と語りました。御霊を受けた者は「うめく」というのです。
私たちは様々な悲劇を聞きながら、その関係者をさばいたり、評論家のような議論をしてばかりで、真の意味で、「心の中でうめく」という謙遜さが足りないのではないでしょうか。神は誰より、謙遜な者を、みわざに用いられます。
ゲッセマネの祈りには、主の祈りの基本が現れていますが、イエスはそこで何よりもご自分の不安や悲しみを真正面から受け止めそれを父なる神に訴えた上で、「あなたのみこころのままに」と祈られました。
私たちが主のみこころを実行できないのは、不安や恐れや悲しみの感情に蓋をして、強がってしまうからではないでしょうか。