2013年1月20日
どの宗教においても、この世で犯した罪に応じて地獄のさばきを受けるという教えがあります。日本でも、嘘をついたら舌を抜かれる、人を殺したら何度も生き返りながら鬼に食われる、人を貶めたら崖から落とされて針の山で突き刺される、放火をしたら何度も火あぶりの刑で殺される、血も涙もない冷酷な人は血の池地獄に落とされる、などという地獄絵図が描かれて、人々に善行を促しました。
それに関してキリスト教の世界で最も有名なのは14世紀初めにイタリア・フィレンツェのダンテが書いた「神曲」です。そこでは、彼の地獄と煉獄巡りの旅が描かれます。地獄は9層に分かれ、煉獄は7層に分かれています。それぞれが犯した罪に応じて苦しみを受けます。滑稽なのは、金儲けに走った聖職者がお金を入れる壺に頭を逆さに入れられて火で焼かれるとか、争いを作り出した人が身体を何度も裂かれるとか、ダンテを騙した人が氷の海で踏みつけられているという描写です。
そして煉獄では、人の持ち物をうらやんだ人の目が針で縫われてきよめの訓練を受けるとか、美食飽食を繰り返した人が食べ物を見させられながら痩せ細って行くという描写があります。
この作品は、私たちの心の奥底にある罪の現実に真正面から向き合わせる古典的名著ではありますが、それを読みながら不思議に思ったことがあります。
そこではすべて、生前の罪に応じて、ほとんど自動的にそのさばきがなされるので、神がいてもいなくてもまったく同じだということです。どの宗教にも共通するというような教えの落とし穴とは、創造主と私たちとの交わりを見えなくすることです。
しかし、聖書の神は、痛みも悲しみもなく、人の罪をさばく方ではありません。神は私たちの罪がどのような結果を招くかを予め明確に警告しながらも、そのさばきを下すとき、まるで親が自分の子を折檻するときのように、涙を流しながら懲らしめる方であられ、何よりも私たちの回心を待ち望んでおられる方です。
神の燃えるような怒りの背後には、私たちへの燃えるような愛、「哀れみに胸を熱くする神」の姿が隠されているのです(拙著タイトル)。神の愛は、何よりも自分の愛する人の帰還を待つ恋人の思いに似ています。主はあなたを「恋い慕って」おられます。
1.「彼らを呼べば呼ぶほど・・いよいよ遠ざかり・・・」
11章の初めで、主(ヤハウェ)は出エジプト以来を振り返りながら、「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた」と言われます(1-4節)。
3節では、北王国イスラエルの中心部族であるエフライムと神との関係が、幼子に歩くことを教える優しい父親にたとえられます。幼子はだれも自分が一人で歩くことができるようになったように感じていますが、親は幼子が歩くことができるように優しく教えています。
また、幼子は自分が何度も病気にかかりながら親の必死の看病によって癒されたということを自覚してはいません。それと同じようにエフライムは神の慈愛を忘れているというのです。
4節では、エフライムと神との関係が牛と農夫にたとえられます。10章11節では、エフライムが飼いならされた小牛の状態から成長するにつれて頑迷になり、首にくびきをかけて農耕に駆りたてられるようになった様子が描かれましたが、神は本来、牛にくびきをかけて動かす代わりに、牛を人間のように優しく扱い、「人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」というのです。
しかも、「あごのくつこ」をはずして「優しくこれに食べさせてきた」と言われます。
残念ながらしばしば人は神を、厳格な罰を加える父親や、牛をたたいて従わせる厳しい農夫かのようにとらえてしまっています。
確かに神は、私たちがあまりにも頑迷でかたくなになるときに、くびきと鞭で従わせることがあります。しかし、それは頑迷な者が滅びの道に向かって行くのをひたすらふせごうとする、燃えるような神の愛の現れであって、私たちを最初から頑迷な家畜のように扱おうとしているわけではありませんでした。
なおここでは、恩知らずなエフライムに対する神の嘆きと心の痛みが、「彼らを呼べば呼ぶほど・・いよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた」と描かれます(11:2)。
子供は成長の過程で、親の愛を「うざったい」「うっとおしい」と感じることがありますが、エフライムは神の愛の語りかけを、そのようなものと受け止め、自分勝手な道に向かい、神を最も悲しませる行動を敢えて選んでしまったというのです。
たとえば、愛されれば愛されるほど浮気に走ってしまう人だっているかもしれません。残念ながら、人の心は気まぐれです。
パウロはコリントの教会の信徒に向かって優しい親の態度で接しましながら、「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」(Ⅱコリント12:15)と嘆きましたが、これはしばしば人間関係で起こってしまう現実です。
私たちはそのような現実の痛みを通して、神ご自身の心の痛みに思いを馳せるべきでしょう。
2.「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」
しかし、神に対して恩知らずな行動を取り続ける者は、どこかでそのつけを払わざるを得なくなります。そのことを神はエフライムを指して、「彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。剣は、その町々で荒れ狂い、そのかんぬきを絶ち滅ぼし、彼らのはかりごとを食い尽くす」と言われます(11:5、6)。
エジプトとは、イスラエルがかつて奴隷として仕えた地ですが、ここでは彼らがエジプトよりもはるかに冷酷で残酷な剣の力を行使するアッシリヤの支配に屈せざるを得なくなるということが警告されています。それは彼らが自分たちの神にヤハウェに立ちかえることを拒んだからです。
神は彼らの状態を、「わたしの民はわたしに対する背信からどうしても離れない。彼らはいと高き方(バアル)を呼び求めるが、彼(バアル)は彼を助け起こせない」と嘆いておられます(11:7私訳)。
バアルはカナンにおいて「いと高き方」とも呼ばれましたが、バアル礼拝はイスラエルの神を何よりも悲しませました。神の嘆きには、神の懲らしめが伴います。
箴言13章24節には、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」と記されているように、神はご自身の民を愛するがゆえに、厳しい態度を取られます。
しばしば、愛に満ちた親が子供をたたく時、子供の身体よりも親の方が痛みを感じると言われます。親は子供が憎いから懲らしめるのではなく、子供の誤った行いが、悲惨な結果を招くということを体験させるために懲らしめるのです。
そのことを神は、8.9節で、エフライムに向かって「あなた」と呼びかけるようにしながら、「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。(どうして)わたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない」と語られます。
アデマとツェボイムとは、ソドムやゴモラと並んでその忌まわしい罪のゆえに天からの硫黄の火によって焼かれた町だと思われます(申命記29:23)。
ここでは、神がエフライムをさばくときのお気持ちが、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と描かれています。
新共同訳では、「わたしは激しく心を動かされ、あわれみに胸を焼かれる」と訳されています。
これと似た表現がエレミヤ31章20節では、「エフライムはわたしの大事な子なのだろうか・・・わたしは彼のことを語るたびに、いつも彼のことを思い出す。それゆえわたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」と描かれています。
この箇所を北森嘉蔵は、「わがはらわたかれのために痛む」と訳し、そこから世界的に有名になった「神の痛みの神学」という書を記します。
神はエフライムの罪を、怒りや憎しみの感情に駆り立てられて罰しようとするのではありません。「わたしは神であって、人ではなく」と言われている通りです。しかも、ご自身を、「あなたのうちにいる聖なる者」と紹介しておられます。
人の想像を超えた「聖なる」かたが、ご自身の聖さから生まれる葛藤を抑えながら、罪人のただ中に住んでおられるというのです。主はエフライムに対して、自分の子供の痛みを自分の痛みとするような母親のような葛藤を味わい、ご自身の心を痛め、はらわたをわななかせながら、彼にさばきを下しているのです。
そしてエフライムをさばくことが、神ご自身にとっての耐え難いほどの痛みであるからこそ、さばきのあとには慰めが期待できます。それは、父親が子供の罪を厳しくいさめながら、子供が罪を反省した時に、その子を優しく抱擁するような姿です。
その後のことが10節では「彼らは主(ヤハウェ)のあとについて来る」と描かれます。これは呼べば呼ぶほど遠ざかったという2節の姿と対照的です。
しかも、ここで主はライオンにたとえられながら、「主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。彼らは鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリヤの地から、震えながらやって来る。わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう」と、エフライムが震えながら神のもとに立ちかえる様子が描かれます。
かつてエフライムは主の愛をあまりにも軽く捉え、その愛を振り切るように神から離れて行きました。しかしここで興味深いのは、エフライムが臆病な鳥や鳩として描かれ、彼らが、主を吠える獅子かのように恐れながら、震えつつ、なおも、神のみもとに引き寄せられてくると描かれている点です。
彼らは苦しみを通して、神の威厳とあわれみとを知り、本当の意味で「主を恐れる者」へと変えられたのです。
3.「彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った」
11章12節は12章にそのままつなげて理解すべきで、そこでは神の嘆きが、「わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで、取り囲まれている」と描かれます。「偽り」と「欺き」とは、神の「誠実」と「真実」に対照される彼らの姿です。
それと同時に南王国ユダへの期待が、「しかし、ユダはなおさまよっているが、神とともにあり、聖徒たちとともに堅く立てられる」と記されます。後に神はユダ王国をアッシリヤの攻撃から守ってくださいます。
12章1節では、エフライムの空しい生き方が、「エフライムは風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている。彼らはアッシリヤと契約を結び、エジプトへは油を送っている」と描かれます。
彼らは北のアッシリヤと南のエジプトを両天秤にかけ二股外交をして、アッシリヤの怒りを買うようなことをしています。
そして、続けて、「主(ヤハウェ)は、ヤコブを罰するためにユダと言い争う(ユダへの告発状を持っておられる)」(12:2)という不思議な記述があります。
ヤコブはエフライムとユダ両方にとっての父ですが、神はエフライムに対するご自身のさばきをユダへの警告として予め知らせながら、ユダにも同じことが起こり得ると語っておられます。
そして神は、ヤコブの生き方の問題を振り返りながら、「彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った。彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はベテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた」(3,4節)と描きます。
ヤコブという名には、「押しのける者」という意味が込められています(創世記27:36)。彼は御使いに対してさえも戦いの姿勢で臨みました。しかし、彼が自分の弱さを率直に認め、神にすがる姿勢を見せたとき、祝福を受けることができました。
エフライムはヤコブの生き方を受け継ぎ、自分の要求ばかりを訴え、それを押し通そうとしてきました。それがベテル(神の家)を、ベテ・アベン(悪の家)に変えるような偶像礼拝に結びつきましたが、本来、「ベテル」とは、ヤコブがまったく一人ぼっちで絶望的な旅をしたときに神が一方的な恵みを示してくださった、神のあわれみの原点だったのです。
ヤコブは長い格闘の人生の旅を経たのちに、この信仰の原点に立ち返り、神のあわれみの約束に信頼して生きるということの意味を知ったのでした。
それを前提に神はエフライムに向かってご自身のことを、「主(ヤハウェ)は万軍の神。その呼び名は主(ヤハウェ)」と、ご自身のことを紹介しながら、「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め」と語りかけておられます(5,6節)。
しばしば、多くの人々は、「神に動いていただくにはどうしたらよいか・・・」というような自己中心的な信仰の姿勢を持ちがちですが、何よりも大切なのは、神の絶対的な主権と力を認め、神が好まれる「誠実」と「公義(さばき)」を第一とし、神のときを待ち続けることなのです。
4.「私は自分のために財産を得た。私のすべての勤労の実は・・・」
12章7節の「商人」ということばは新改訳の脚注にあるように、原文で「カナン」と記されています。これはエフライムの商人が忌まわしい堕落のゆえに滅びに定められていたカナンの原住民のような状態、「手に欺きのはかりを持ち、しいたげることを好む」と言う状態に堕落していたことを示すものです。
実際、エフライムは、「しかし、私は富む者となった。私は自分のために財産を得た。私のすべての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない」(12:8)と、自分の正当性を主張します。
この原文は理解が困難で新共同訳などは、「この財産がすべての罪と悪とで積み上げられたとはだれも気づくまい」とまったく逆の訳をしています。なお英語で最も信頼できるESVはin all my labors they cannot find in me iniquity or sin.と訳しています。
どちらにしても、自分の正当性を主張するということの中に「欺き」が隠されていると解釈できましょう。心にやましさを持つ人は、自分を正当化します。
それに対して、主は、「しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主(ヤハウェ)である。わたしは例祭の日のように、再びあなたを天幕に住ませよう」(12:9)と言われます。これはエフライムを再び荒野のテント生活に落とすというさばきを意味します。
続けて、主は、「わたしは預言者たちに語り、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示そう」(12:10)と言われますが、これは神が繰り返し預言者たちを通して彼らの罪とその結果を警告し続けるという意味です。
11節で、「まことに、ギルアデは不法そのもの、ただ、むなしい者にすぎなかった」とあるのは、ヨルダン川東岸で最も肥沃な地が、偶像礼拝の場となったという現実です。
また、「彼らはギルガルで牛にいけにえをささげた。彼らの祭壇も、畑のうねの石くれの山のようになる」とありますが、ギルガルはヨシュアに導かれた民がヨルダン川を渡って記念碑を建てた場所であり、同時に最初の王サウルが不従順のゆえに退けられた場所です。
「石くれの山」という原文はガリームとなっており、ギルアデ、ギルガル、ガリームのごろ合わせが見られます。彼らの偶像礼拝に対する神のさばきが警告されていると言えましょう。
12章12節は、ヤコブが父と兄を欺いて「(パダン)アラムの野に逃げて行き」、そこで、「妻をめとるために働いた。彼は妻をめとるために羊の番をした」という中で、神がイスラエルを一方的に祝福し、12部族のもとを築いてくださったという主の恵みが振り返られ、13節ではモーセのことが振り返られながら、「主(ヤハウェ)はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた」と描かれます。これも神の一方的なあわれみの記録です。
ところが、ヤコブの子孫の中で最も良い地を相続したエフライムは、おごり高ぶって、「主の激しい怒りを引き起こし」ました(12:14)。それに対して、「主は、その血の報いを彼に下し、彼のそしりに仕返しをする」というのです。神のあわれみを軽く見る者には、それにふさわしいさばきがくだるというのです。
ダンテは名門の家に生まれながら、権力闘争に巻き込まれ、いわれのない罪によってフィレンツェの町を永久追放になります。そこで彼は、そのような身勝手な生き方の影響を受ける人々に、地獄や煉獄の様子をまざまざと描いて警告するようにと導かれます。ダンテはそのために敢えて、自分を地獄の門をくぐった者として描きます。
そこには、「一切の希望を捨てよ。我が門を過ぎる者」と描かれていました。ただし、彼がその恐ろしい道を進むことができたのは、若くして亡くなった恋人ベアトリーチェが彼に地獄の旅の同伴者を送ってくれたからというのです。
ダンテはベアトリーチェに対する愛のゆえに、地獄と煉獄を見ながら、天国へと入って行くことができました。そして、天国とは、ベアトリーチェが想像を絶する輝きに満ちた美しい姿に変えられている場所でした。
愛こそは、絶望の門をくぐり抜ける力です。そして、聖書が描く「新しいエルサレム」とは、愛の交わりが完成する場所です。
私たちの場合は、イエスへの愛のゆえに、必要ならばこの世の地獄への門を敢えてくぐり抜けてでも前に進むことができます。私たちはこの世界で様々な罪の誘惑を受けながら生きます。
「あの世」以前に「この世」に地獄があると思える悲惨を味わう人もいます。私たちは試練の中で、とんでもない失敗を犯し、また罪を犯してしまうこともあることでしょう。
しかし、イエスはそんな私たち一人一人の罪を負って十字架にかかってくださいました。
私たちのどんな罪も赦されます。私たちは地獄の門の上を超えて新しいエルサレムに達することができます。ただ、そこで私たちに何よりも求められていることは、イエスの愛に応答するということです。私たちはときに、自業自得で苦しむようなことがあります。
しかしそのとき、神は私たちを軽蔑する代わりに、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と言っておられることを、決して忘れてはなりません。
「主は人の子らをただ苦しめ悩まそうとは思っておられない」(哀歌3:33)とあるように、主は苦しむ私たちを見て、「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」と語っておられます。
この主の愛に対して私たちのなすべき応答が、6章初めで、「さあ、主(ヤハウェ)に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる(復活させる)。(それは私たちが、御前に生きるためだ)」と描かれます。
これは聖書で最も古い復活の記事であると言われました。神に立ち返るのに遅すぎることはありません。私たちがどのような苦しみに会っても、そこには私たちをキリストにある復活に招き入れてくださる主のあわれみがあるのです。