すべての国は、内側から滅びると言われます。日本が第二次大戦の始めた無謀さも確かに問題なのですが、誰も目にも敗北が明らかになりながら、戦争を終結させる指導力が日本の政治になかったということが、東京大空襲ばかりか二度の原爆投下を招いた原因とも言えましょう。誰のために政治権力を与えられているかを忘れた指導者が国を治めていた悲劇です。
そして、同じことは昨年の原発事故でも明らかになりました。組織が硬直化し、自分たちの組織を守ること自体が優先され、真の危機が見過ごされていました。国民を守ることよりも、自分たちの権益を守ることが優先されるということが、国が滅亡するときに共通して起こります。
イエスの時代のユダヤ人たちは自分たちの独立国を作ることを憧れてきました。しかし、かつて繁栄を極めたダビデ王国はふたつの王国に分裂し、互いの足の引っ張り合いによって滅びました。
その後、ペルシャ、ギリシャの支配下で細々と自治権を与えられ、ユダ・マカベオスによる独立運動によって築かれたハスモン王朝も、内部分裂によってローマ帝国の支配に屈しました。
そして、イエスの時代のヘロデ王朝も、内部分裂のあげくに愚かな独立闘争に走り、滅びました。地上の神の国を実現するはずが、みにくい権力闘争によって自滅したのです。
1.「ある人がぶどう園を造って……それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」
当時の宗教指導者たちは、自分に都合の悪い人を巧妙に排除する方策ばかりを考えて、ものの本質を見ることを忘れていました。今ここで、真に問われていることが何なのかを見ることができない人は、本当に惨めです。
12章最初で「それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた」と記されますが、イエスはまず宗教指導者たちに向けて語り出しました。なぜなら、聖書知識があっても、神から委ねられた責任を自覚しない者は教師にふさわしくないからです。
イエスはそこで、「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」(1節) と言われますが、この背後にイザヤ5章の記事があります。
そこで神はまず最初に、「エルサレムの住民とユダの人よ……わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか」(イザヤ5:3、4) と問いかけておられます。
つまり、ぶどう園の主人が、ぶどうの収穫のために必要なすべてのことを備えたので、その収穫の分け前はすべて主人に属するものであり、農夫たちには定められた賃金以上のものを受け取る権利はないということが、このイエスのたとえの前提にあるのです。事実、ここでは、ぶどう園の主人の働きが簡潔ながらも、ひとつひとつ描写されています。
また、ここで「それを農夫たちに貸して」とは、父なる神がイスラエルの民に約束の地の管理を任せたこと、「旅に出かけた」とは、神がしばらくの間、沈黙していたことを指すと思われます。
かつて神は、イスラエルの民のために、約束の地の真ん中にエルサレム神殿を与えてくださいましたが、それは神が彼らの真ん中に住んでくださるというしるしでした。ところが、彼らの心はしだいに自分たちの神から離れてしまい、特に宗教指導者たちは、エルサレム神殿を利用して私腹を肥やすようになって行きました。今も、昔も、宗教は金儲けの最も効率的な手段になりえるからです。
彼らの心が神から離れたとき、神も彼らから離れて行かれました。彼らが外国の軍隊によって苦しめられたのは、神が無力だったからではなく、主の栄光がエルサレム神殿から離れてしまった結果でした。
ただし、それでも神は、イスラエルの民を見捨てることなく、忍耐をもって多くの預言者を遣わし、イスラエルの民に語り続けてくださいました。
そのことがここでは、ぶどう園の主人が、「季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした」と描かれます (2節)。これは神が、人間を働かせ、その労働の果実を獲る必要があるという意味ではありません。神は飢えることなどないからです。
これは、何よりも、イスラエルの民とその指導者たちに、主ご自身から委ねられた責任を自覚させるという目的のためでした。彼らは、世界に対して、神の栄光とあわれみを証しするために神によって選ばれた神の民だったからです。
人生には喜びよりも苦しみの方がはるかに多いと言われますが、そんな人生を人は、何のために生きる必要があるのでしょう。
その答えを使徒パウロは、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません」(ローマ14:7) と言っています。これはすべての人に適用できることばです。
人はみな、誰かのために生き、誰かのために死ぬのです。それは、家族のため、共同体のため、国のためかもしれません。現代の日本人はその使命感を忘れてはいないでしょうか。その結果、自殺が広がる一方で、その場限りの快楽を求める刹那的な生き方が生まれます。
それはイスラエルでも同じでした。彼らは、ぶどうを主人に渡す代わりに、ぶどう酒を心行くまで飲みたいと願いました。彼らは約束の地という理想的な環境を手にしたとたん、それを可能にしてくださった神を忘れて、自分の快楽のためだけに生きるようになってしまったのです。
米国の投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻した理由を、「それは強欲の故である」と言い放った人がいます。真のロマンを忘れた仕事は必ず行き詰まります。富は使命を果たすことへの報酬であることを忘れてはなりません。ここでも、「ぶどう園の収穫」は、ぶどう園の主人のものであり、農夫たちはその管理を任されている者に過ぎませんでした。
これは、基本的に私たちのすべての仕事に適用できる原則です。私たちは数え切れないほどの恵みによって生かされています。土地も空気も水もすべて神の賜物です。仕事も神によって与えられたものであり、私たちは神に対して説明責任を負っています。
そのことが先のローマ人への手紙では、「こういうわけですから、私たちはおのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります」(14:12) と記されています。ところが、多くの人々は、それを忘れて自分のためだけに生きようとして、自分を管理する方を心の中で消し去ろうとします。
2.「私の息子なら、敬ってくれるだろう」
「ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した」(3節) とは、たとえば、イスラエルの民が最初の預言者エリヤにとった態度です。彼の努力は何の実も結ばないように見えました。ただ彼は、多くの迫害は受けながらも、生きたまま神のみもとに引き上げられました。
ところが、その後、イスラルの状況は悪くなるばかりでした。彼らはますます神を忘れ、神が遣わした預言者を迫害しました。そのことが、「そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた」(4節) と描かれます。
預言者イザヤなどは、エルサレムがアッシリヤの軍隊に包囲されたとき、ヒゼキヤ王に対して決定的な影響力を発揮することができましたが、伝承によると、その後の王マナセのもとで、のこ引きの刑によって殉教しました。
また預言者エレミヤなどは、「嘆きの預言者」と呼ばれるほどに、その生涯は苦しみに満ちていました。
ぶどう園の主人は、この段階で農夫たちを追い出してもよかったはずですが、なおも別のしもべを遣わします。それに対し、「彼らは、これも殺してしまった」というのです (5節)。
そればかりか、「続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした」と、主人の忍耐と期待が次々に裏切られる様子が描かれています。
これは最後の預言者、バプテスマのヨハネに至るプロセスを指していると思われます。当時の民衆はヨハネを預言者として信じていましたから、イエスのこのことばの意味をよく理解できたことでしょう。
それにしてもぶどう園の主人は、ご自身の力を隠して、しもべに託した「ことば」だけで彼らを悔い改めさせようとします。
そして最後に、ルカは、「ぶどう園の主人」が、「どうしたものか」と思案した様子を描いています (20:13)。そして、ここでは、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった」と、息子を最後の切り札として送る様子が記されています。
その際、主人は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と思ったというのです。
ところが、「その農夫たちは」、そのことを恐れるどころか、「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ」と、話し合ったというのです。彼らは、主人が軍隊を送ってこないことを、主人はすでに死んでしまったしるしと解釈しました。
そして、相続者のいない土地は、そこに住んでいる者の所有とされるという法律がありましたから、彼らはあと取り息子を殺すことで、ぶどう園を手に入れようと思いました。農夫の姿は、当時の宗教指導者たちがエルサレム神殿を利用して利得を得ていたことを示しています。
その後のことが、「そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた」(8節) と描かれますが、これは神の御子であるイエスが、エルサレムの城壁の外で十字架にかけられて殺されることを示しています。
このたとえはイエスご自身の十字架を早める効果がありました。これを聞いた宗教指導者たちは、イエスが自分を神から遣わされたあと取り息子に例えていることがわかったはずです。彼らにとっては許しがたい神への冒涜と思えたことでしょう。彼らはこれを聞いたことで、イエスへの殺意を正当化できました。
しかし同時にこれは、イエスの十字架と復活の後、彼らを悔い改めに導くためのものでもありました。彼らは、自分たちが神から遣わされたひとり子を殺害したことの報いがどれほど大きなさばきになることを思い起こし、神に赦しを請うこともできたはずです。少なくとも、このたとえを聞いた民衆の一部は、この意味を理解して、キリストの弟子となったことでしょう。
この世の不条理がなくならないのは、神が忍耐をもって、みことばによって人々の心を変えようと、さばきを遅らせておられるためです。そのことをペテロは後に、「主は……あなた方に対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むのを望んでおられるのです……主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ3:9、15) と記しました。
しかし、主の忍耐のゆえに、主をあなどってはなりません。主は、時がきたら、私たちひとりひとりが誰のために、誰への説明責任を意識して生きてきたかを問われるからです。
預言書の解説をまとめながら、改めて、「主 (ヤハウェ) は王である」(詩篇96:10) というみことばこそ、その核心であるとわかりました。主は、世界の歴史を導いておられます。ですから、ペルシャやギリシャやローマ帝国の支配下にあっても、それらの大帝国からの独立運動をすることよりも、その枠組みの中で生きることこそ、主のみこころでした。
ユダヤ人にとっての英雄、ユダ・マカベオスは武力でギリシャの王を圧倒しましたが、それこそユダヤ人の悲劇の始まりとなりました。
日本の場合は、ロシヤとの戦いに勝利したことが、その後の悲劇の始まりとなりました。なぜなら、自分を東アジアの盟主だと思うほど傲慢になったからです。
しかし、日露戦争に勝利できたのは、ロンドンの銀行団やユダヤ人資本家から莫大な借金をして戦費を調達できたからです。日本政府は彼らの前に非常に謙遜でした。しかし、第二次大戦のときの戦費の調達の一部は、中国人にアヘンを栽培させ、それを中国人に買わせることによってなされました。それがアジアの盟主の素顔でした。
また、原発事故を起こした東京電力は、自分たちはすべてを掌握していると思い込み、警告に耳を傾けなくなっていました。つまり、すべての悲劇は、自分の知恵や力の限界を忘れ、自分が王であると傲慢になったことから始まっています。
聖書が語る罪とは、人々の期待に沿う立派な行いができないことや、自己管理能力が弱きことなどではなく、真の王である方を忘れ、自分が王になってしまうことです。
預言者が繰り返し語っていることは、他国に負けない国力をつけることなどではなく、真の王である神に立ち返ることでした。自分が一人で生きているように思うことこそ、罪の根本なのです。
3.「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」
イエスは、ここでこの話を聞いてきた宗教指導者たちに向かって、「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう」(9節) と問いかけます。
人々は、「この後、どうなるのだろう……」と考えたことでしょう。その上で主は、ぶどう園の主人が「戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」(9節) と言いました。それは、この約束の地からイスラエルの民が追い出され、別の民族がその地に住むようになるという意味でした。
その上でイエスは、「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか」と言われながら、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」と言われました (12:10、11)。これは詩篇118編からの引用です。
家を建てる者たちは、自分の計画に合った石を捜し出しますが、多くの場合、枠にはまりやすく、組み合わせやすい石を探し、規格外の石は捨てます。
私たちの社会でも、枠にはまらない人間は見捨てられます。しかし、主は、そのような石をご自身の働きの「礎の石」として豊かに用いてくださるというのです。
なぜなら、枠にはまりやすい人は、周りに合わせることばかりを優先して、主だけを見上げることはできないからです。そのような人からは、社会を変えるような働きは生まれません。
同時にそこにはイザヤ8章の記事が背景にあります。そこでは、「万軍の主 (ヤハウェ) 、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ」(13節) と記されていますが、私たちはどの方を「恐れ」とするかが問われています。
「そうすれば、この方が聖所となられる」とはイエスご自身が神殿となられるという事を指し示しています。それと同時に、「しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる」(14、15節) と記されています。
残念ながら、「人はうわべを見る」(Ⅰサムエル16:7) とあるように、それまでイエスに将来の希望を託していた民衆たちは、数日後、ローマの兵隊に無力に捕らえられている姿を見てつまずき、「十字架につけろ!」と大合唱してしまいました。イスラエルの民にとって、ローマ帝国の前に無力な救い主などありえなかったからです。
しかし、主は、意外な形でご自身の力を現しておられました。イエスは人々から罵られ、嘲られ、ひとりぼっちになる道をご自分から選ばれました。人は何よりも、孤独を恐れます。たとえば、人が生きる力を弱めているときに何よりも必要なのは、その弱さに寄り添ってくれる人です。
また、反対に、寄り添ってくれる人がいれば、人は強くなることができます。イエスの強さとは、何よりも孤独に耐えることができたことにあります。
ただし、誰もイエスのように孤独に耐えることができる人はいません。私たちはその点で、しばしば、大きな間違いを犯します。心が弱っている人に向かって、イエスの孤独に倣うように勧めることは心の暴力になります。
それにしても、弱い人は、人の前で強がります。しかし、真に強い人は、強がる必要はありません。自分の弱さだって自由に表すことができます。実は、神に支えられていることを自覚している者こそが、軽蔑されることを恐れずに、自分の弱さを現すことができるのです。
しかし、当時の人々は、イエスが神の御子であられるからこそ、すべての地上的な栄誉を捨てることができたという逆説を理解できませんでした。
イエスの表面的な弱さの背後に、途方もない強さが隠されていました。イエスは人々の期待という枠をはるかに超えた「礎の石」であられたのです。
ルカは、イエスが続けて、「この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです」(ルカ20:18) と言われたことを記しています。これは、イエスに信頼する者は救われるという一方で、ご自身を救い主として認めないものは、自滅するということを語ったものです。
このイエスのことばから約40年近く経過した後に、エルサレムはローマ帝国の軍隊によって滅ぼされ、ユダヤ人はその後、約二千年間近くにわたって国を失うという形で実現しました。
そこには、目に見える権力者よりも神から遣わされた「礎の石」としてのイエス・キリストをこそ恐れなければならないという意味が込められています。
地上のすべての王国は、次から次と滅びてゆきました。しかし、イエス・キリストの王国は、二千年前にパレスチナの片隅で始まり、今も世界中に広がり続けています。
あなたの周りに百年以上にわたって活力を保ち、繁栄を続けているような会社があるでしょうか。しかし、イエス・キリストの教会は今も活力を保ち成長を続けています。
なお、このイエスのことばの背景には、ダニエル2章で記されているバビロン帝国の大王であるネブカデネザルが見た夢のことがあります。そこではバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国などの歴代の巨大帝国のことが描かれていますが、最後の帝国には鉄の強さと粘度のもろさとが共存しており、一見、強いように見えてもその実態は、団結力のない国です。それが「一つの石」によって「打ち砕かれ、絶滅する」というのです (2:44、45)。
これは当時の現実としては、祭司たちとヘロデの勢力の結びつきのようなものです。昔から敵の敵は味方であるというように、彼らは理念を共有しているのではなく、共通の敵であるイエスの前に結びついているに過ぎません。
それは現代の日本の政治状況であるとともに、私たちの周りにある現実です。鉄のように強い権力があったとしても、それは粘土と混ざっています。しかし、鉄と粘土が融合することがないように、この地上の権力はすべて、とてつもないもろさを抱えています。
キリストによって結びついている共同体に勝つことができる権力は存在しません。かえって、キリストに敵対する権力は、一時的な繁栄を誇っているように見えても、あっけなく消え去ってゆくのです。
ところで、最後に、「彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った」(12節) と記されています。
ここで興味深いのは、「やはり群衆を恐れた」という記述です。宗教指導者たちはイエスが自分たちを非難しているということを理解し、怒りに燃やされながらも、民衆を恐れてイエスに手出しをすることができません。
彼らは口先では、神への信仰のためならいのちをも捨てるべきだと説いていました。しかし、自分の身に関しては、少しの危険をも避けていたいと願うばかりでした。彼らは人の目ばかりを意識して、真に恐れるべき方から目をそらしていました。
この世の権力機構などは、鉄と粘土の組み合わせのように、驚くほどに脆いものです。イエスは当時の宗教指導者たちから見捨てられた石です。しかし、それこそが、神の国の「礎の石」でした。それは私たちにも適用できることです。
この世の評価や力を恐れて生きる者は、強いように見えても驚くほど脆い存在です。私たちは今、経済的に驚くほど不透明な時代に生きています。しかし、そのようなときこそ、この世の評価を恐れず、主の目をだけを意識して、孤独に耐えるような生き方が求められています。
人を人とも思わない傲慢な生き方も問題ですが、人に合わせることばかりを優先するような生き方はもっと問題です。塩気を失ってしまっては信仰の意味がありません。
なお、教会はキリストのからだとして、キリストのご支配のもと、この世界を治めるために置かれています。教会もひとつの組織体として、かつてのユダヤ人国家が世界への責任を忘れて自分の国の存亡ばかりを考えたように、自己保存本能が働く時があります。
私たちは地の塩、世界の光として、この世界に対する責任を果たすために召されています。教会が何のために存在するかという原点は、常に問い返す必要があります。
そして、私たちは何よりも、自分たちは王ではなく、真の王である方と、王のしもべたちによって支えられているということを決して忘れてはなりません。どの地域教会もひとりで立っているのではなく、協力関係の中で立たせてもらっているのです。