2012年8月12日
人が自分の利害を超えたことで熱心な働きをしていると、周りの人の中には、ときに、「あの人には隠された動機があるに違いない・・・」などと邪推する人が出てきます。それどころか、「あの人はあの地位を得ようとして・・」などと、勝手に危機感を募らせ、権力闘争を仕掛け、足を引っ張ってくる人がいます。なぜなら、人に裏切られ続けた人は、人の善意を信頼できず、すべてを損得勘定でしか見られないからです。
そして、そのような不安に駆りたてられている人は、自分の身を守るために、人の手柄を横取りすることさえ平気でします。そのようなことはキリストの教会でも起きることがあります。なぜなら、教会にはしばしば、人間関係で傷つき、不安感でいっぱいな人が集うことがあるからです。しかも、教会ではすべてを正当化できるような建前が先行して、問題を複雑にすることがあります。
しかし、ちょっと冷静になって考えればわかることですが、恩を仇で返すような行為とか、目的のためには手段を選ばないなどという生き方が、いつまでもまかり通ることなどあり得ません。神は盲目な方ではないからです。
それにしても、私たちは自分がそのようなことでの被害者となったときには、「怒りで夜も眠られない」などということが起きます。そのようなときに、「仕返しをしてやりたい」と思うのは、自然な人間の感情です。
しかし、その感情に身を任せると、あなたはすぐに、まわりを不幸にする加害者に変わってしまいます。そこで信仰者に求められていることは、その怒りの感情を、神に差し出し、神の公平なさばきを期待して、自分に関しては、置かれた場で、誠実を貫く生き方を全うするということです。
そのことが、今日のテーマ、「地に住み、誠実を養え」という勧めです。
1.「悪を行う者に対して熱くなるな」
詩篇37篇は多くの聖書では40の節に分けられていますが、節の区分けはずっと後の時代につけられたもので、それには霊感された意味はありません。これは本来のヘブル語聖書では、22の段落に分けられ、その頭の文字は、ヘブル語のアルファベットの順番になっております。
たとえば、初めの段落はアル・ティトゥハール(熱くなるな)ということばのヘブル語のアレフから始まり、次の段落は、3節のブター・ブ・ヤハウェ(信頼せよ。主に)ということばのベートから始まり、第三の段落は5節の、グゥオール・アル・ヤハウェ(委ねよ。主に)ということばのギンメルから始まります。第四の段落は7節のドゥーム・ル・ヤハウェ(静まれ。主に)ということばのデレクから始まります。
そして、それぞれの段落は、一部の例外を除き、基本的に四行の詩から成り立っており、それぞれの段落ごとに意味のまとまりがあります。これは、人々がこの詩を暗唱するのを楽にするという意味があったのかもしれません。
とにかく、この詩は、しばしば1-11節までが愛唱されることが多くありますが、全体として精巧な組み合わせになっており、その全体の流れを見たうえで、3-7節などの意味を深く味わうべきでしょう。
最初のことばを、私は、「悪を行う者に対して熱くなるな」と訳しましたが、新改訳では、「腹を立てるな」と訳されています。しかし、狡猾な人の行動に腹を立てなくなったら、「神のかたち」としての人間をやめてしまうことになりはしないでしょうか。これは、「燃やす」ということばの再起動詞形で、「自分を燃やす」ことを諌めたものです。
私たちは怒りの感情を自分の中にたくわえ、自分で怒りの炎に油をかけ続けるというようなことがあります。「腹を立ててはならない」と思う一方で、「この不条理に腹を立てずにいられようか・・」と、自問自答しながら、怒りの火を激しく燃やすことがあります。
怒りの感情はつねにはけ口を求めていますが、それをため込むと、胃や腸に穴を空けるばかりか、自分の顔を暗くし、まわりに不機嫌をばらまくことになりかねません。すると、人々を自分の回りから退け、怒りはますます増幅してしまいます。
怒りは、自分で抑えるべき悪い感情ではなく、主に訴えてゆくべき人間としての自然な感情です。そのことが8節では、「怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな」と勧められています。
詩篇の中には、怒りの感情を主にストレートに訴えるものが数多くあります(代表例は詩篇94篇、109篇)。それこそが、「怒りを手放し、憤りを捨てる」道です。あなたの怒りの感情を優しく受け止めてくれる人こそ真の友であり、カウンセラーですが、私たちにとっては、主イエスこそが私たちの友、私たちのカウンセラーであられます。
私たちは、「悪を行う者に対して熱くなる」ことによって、また、「不正を行なう者」がその狡猾さによって目的を達成してゆく姿に「ねたみ」の感情を燃やすことによって、周りの人々まで傷つけてしまうことがあります。
人の不正によって自分が一時的に傷つくのは避けられませんが、それによって、自分の心と身体を傷つけ、周囲の人々にまで被害を広げるなどということがあってはなりません。怒りの感情を自分で「燃え立たせる」ことは非常に危険なことです。
私たちが悪人に腹を立てるのは、彼らが、目的のためには手段を選ばないような強引さによって、富を増し加え、権力を握るようなことがあるからです。だれしも、「正直者がバカを見る」ような世の中はあってはならないと思います。
それに対して、この詩篇は、彼らは「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」(2節)と断言します。彼らの成功はごく一時的なものに過ぎません。そのことは10節、20節、35,36節でも同じように繰り返されます。
「あのように邪悪な人間をのさばらせては、世の中のためにならない。私が思い知らせてやらなければ・・・」などと計画を練っているうちに、そのような悪人は自滅してしまいます。
そのことが、「悪者はいなくなる」(10節)、「彼らは消えうせる」(20節)、「彼はもういない」(36節)などという表現で、そのことが繰り返されています。
人が不正な行為によって繁栄を享受しているように見えるとき、私たちはそれに怒りやねたみを燃やしたくなります。また、ひどい目に合わされたときには、それを同じ手段を使って、人に復讐したいと思うのが人情です。
しかし、それこそサタンを喜ばせることに他なりません。サタンは悪が広がって行く様子を何よりも喜んでいます。
2.「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」
そして3節では、それと正反対の行動が、「主(ヤハウェ)に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実を養え」と勧められます。「地に住み」とは、その場から逃避することや、天国への憧れを信仰の目標にする代わりに、今ここでの自分の生活の場を、主が与えてくださった場として積極的に受け止めることです。
しかも「誠実を養え」の「養う」とは羊を「飼う」というときの、羊を守り、世話をして育てるという意味の言葉です。「誠実」とは「真実」とも訳される言葉で、周りの状況に関係なく、主の前に正しいと思えることを黙々と実行できる心の在り方です。
私たちはそのような自分の誠実さを自分で見守り、羊を飼うようにはぐくみ育てる必要があります。
このことが4節では別の観点から、「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と記されています。
私たちは何かの成果や結果を生み出すことを喜びとしがちですが、期待した結果がいつも出てくるとは限りません。サッカーの試合のように、意外な展開が待っていることが多くあります。
そのときに、すべての働きを、主に対する奉仕として受け止め、主との交わりのうちにすべての働きを成し遂げることができるなら、何と幸せなことでしょう。しかも、「主を喜ぶ」ことは、いつでもどこでもできることなのです。
私は何をやってもうまく行かない時に、「イエスは私の喜び」と言う讃美歌が心の奥底に迫ってきたことがあります。私はイエスご自身ではなく、イエスがもたらしてくれる目に見える何かを求めていました。
しかし、その曲を通して、イエスご自身を思い起こすことの中に喜びがあるということが不思議に心に迫ってきたのです。
そしてここでは、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と約束されていますが、それは自分の期待通りにものごとが運ぶということではなく、私たちの心の底にある真の願いを神はご存じで、神はそれをかなえてくださるという意味です。
多くの人々は、自分の心の奥底にある真の願いを知ってはいません。それは神と人、人と人との間に生まれる愛の交わりではないでしょうか。神はあなたの誠実さに応えて、それをかなえてくださいます。
たとえば、私は冒頭に言ったような人の裏切りのようなものを体験したことがあります。それによって深く傷つきました。しかし、それを通して、より一層、詩篇の祈りの世界が身近になりました。私は傷つかなければ、詩篇の本を書くなどということを思いもしませんでした。家内は、「あなたは、あの傷のおかげで詩篇の本を書け、そこから新しい世界が広がったのね・・」と言ってくれます。
そして、それと同時に、それを通して、心の友の輪が広がりました。彼らは、少なくとも、私が損得計算を超えた誠実さを大切にしていたということをわかってくれた人々です。
それを前提に、5,6節は、人間的な計算を超えた私たちの心の誠実さを神は見ていてくださることの恵みが、「あなたの道を主(ヤハウェ)にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように輝かしてくださる。あなたのさばき(正義)を真昼のように・・・」と記されます。
「あなたの義」とは、人々が認めてくれないあなたの心の真実、「あなたのさばき」とは、あなたが心の底で望んでいる神の正しいさばき、神のご支配の現実です。
つまり、人があなたを誤解し、非難するようなことがあったとしても、神はあなたの心の内側の真実を正しく評価してくださって、それに豊かに報いてくださるのです。
ですから、私たちは、一時的に、自分の誠実さが通じなくても、へこたれる必要はありません。いつでもどこでも、「誠実」を養い育てることが大切なのです。
3.「主(ヤハウェ)の前に静まり、忍んで主を待て」
そして7節では、「主(ヤハウェ)の前に静まり、忍んで主を待て」と勧められています。物事が思い通りに進まない時に何よりも大切なのは、「主の前に静まる」ということです。
しかも、そこで求められていることは、すぐに、主からの答えや慰めが来ることを期待することではなく、何の変化も起きず、何も見えないなかで、なお黙って、主の答えを待ち続けるということです。先のことが見えない中で、主の答えを待つということが、「忍んで待つ」という一つの動詞として記されています。
しかも、そこでは、狡猾に振る舞っている人が、良い結果を出しているように見えることがあります。それによって私たちの心が動揺します。
たとえば、「教会に行って、主を礼拝しても、何も変わりはいなかった。一方、神の事なんか忘れて、自分のことばかりを考えて、気ままに生きている人が、結構、うまく生きている・・自分はとんでもない無駄なことに力を使っていたのではないか・・・」と思うことがあるかもしれません。
そのようなときにこそ、「その道で栄え、悪意を遂げる人に対して熱くなるな。怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな。それはただ悪への道だ。なぜなら、悪を行なう者は断ち切られるからだ。主(ヤハウェ)を待ち望む者、彼らは地を受け継ぐ」(8-11節)というみことばを心から味わってみるべきでしょう。
神は最終的に、私たちの誠実さに豊かに報いてくださいます。そして、その報いは、多くの場合、この地において既に与えられます。
カール・マルクスは、「宗教は、なやめるもののため息、非常な世界の情であるとともに、無精神の状態の精神でもある。それは人民のアヘンである。人民の幻想的な幸せとしての宗教を廃棄することは、人民の現実的な幸せを要求することである」と言いましたが、聖書の信仰は、決して、幻想的な幸せを提供することによって、この世の不条理を忘れさせ、この世の不条理を変えようとする気力を失わせる麻薬ではありません。
神に信頼する者が、既に、この世において真に幸せであることは多くの現実を持って証明できます。そのことはたとえば、16節では、「正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる」と記されています。
実際、大きな家に住みながら家族が互いに憎み合い、いっしょに食事もできないという例は数多くあります。しかし、昔は、六畳一間に両親と三人の子供が一緒に暮らして、笑い声が絶えないという家庭もありました。
この詩篇では、「悪者が断ち切られる」ということばと、「正しい者が地を受け継ぐ」という対比が繰り返し表現されます。
それはたとえば、22節では、「まことに主に祝福された者は地を受け継ぐ。しかし、主にのろわれた者は断ち切られる」と端的に記されています。
また、その同じ意味の表現が27-29節でも際立っており、そこでは、「悪を離れ、善を行なえ。するとあなたは永遠の住まいを得る。なぜなら、主(ヤハウェ)はさばき(正義)を愛し、ご自分の聖徒(契約の者)を見捨てられないからだ。彼らは永遠に守られる。しかし、悪者どもの子孫は断ち切られる。正しい者は地を受け継ぎ、いつまでもそこに住みつく」と記されております。
ところで、ダビデは自分の体験として、25節では、「若かった時も、年老いた今も、私は見たことがない。正しい者が見捨てられ、その子孫がパンを乞うのを」と記していますが、歴史を見ると、正しい者が見捨てられるということは数えきれないほど起きています。そして、無実の罪を負わされた者の子孫が飢え死にするということもありました。
しかし、私たちはイエス・キリストの十字架と復活を見る時に、すべての大逆転を知ることができます。イエスはまさに何の罪のない方なのに、神と人から見捨てられた状況になりました。そして、イエスご自身も、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
しかし、神はこの方を三日目によみがえらせてくださいました。見捨てられたと思った体験は、永遠の祝福の始まりとなったのです。
4.「完全な人に目を留め、まっすぐな人を見よ。」
37、38節では、「完全な人に目を留め、まっすぐな人を見よ。平和(シャローム)の人には将来がある。しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの将来は断ち切られる」と記されていますが、この「完全な人」とは、イエス・キリストを預言的に指すことばでもあります。
私たちは自分の誠実さが報われないことに苛立ちを覚えます。しかし、イエスは誰よりも誠実な方であられたのに、のろいのシンボルとしての十字架にかけられました。しかし、神はイエスの誠実さに豊かに報い、死の中からよみがえらされたばかりか、ご自分の右の座にまで引き上げてくださいました。
イエスの十字架は、神との平和、人と人との平和を作り出すための不思議な神のご計画でした。イエスこそは「平和の人」でした。そして、私たちもイエスに習って、平和の人として生きるように召されています。
しかも、私たちはイエスを見る時に、「平和の人には将来がある」という希望に生きることができるようになります。
それにしても、私たちは自分を見る時に、完全とは程遠い状態にあると思わざるを得ません。18節などでは、「主(ヤハウェ)は完全な者の日々を知っておられ、彼らの受け継ぐものは永遠に残る」と記されていますが、それでは自分のようなものは、主に知っていただくことはできないと思ってしまいがちです。
しかし、ヘブル語の「完全」とは、罪のない完璧さを指すことばではなく、神のみ前にささげるいけにえとしての基準に達しているという意味です。
私たちはすでに、イエスの十字架によって罪が赦され、神に受け入れられている存在です。ですから、この「完全」ということばは、十字架を通してみるときに、「正直」と再解釈することができます。
神は自分の罪深さを正直に認め、自分を正当化しない人をこそ「完全な人」として受け入れてくださるのです。
そして、この詩篇で繰り返されている「正しい人」というのも同じです。パリサイ人は、社会的にはまさに正しい人の代表者でした。しかし、イエスの目からは、彼らは偽善者の代表であり、神の前に義と認められない人たちでした。それは、彼らが本当の意味で、神の救いを心から慕い求めていなかったからです。
彼らは自分の正義が自分を幸せにすると思っていましたが、信仰の基本とは、自分の欠けを認めて神にすがることに他なりません。
39,40節では、それを前提に、「正しい者の救いは、主(ヤハウェ)から来る。主こそ苦難の時の彼らのとりで。主(ヤハウェ)は彼らを助け、解き放たれる。悪者どもから解き放ち、救われる。それは、彼らが主に身を避けるからだ」と記されます。
「救い」は、自分で獲得するものではなく、「主(ヤハウェ)から来る」ものです。私たちにできることは、「主に身を避ける」ということです。どこかで、私たちは「救い」を、功績に対する報酬と見てはいないでしょうか。
ところで、イエスはご自分の弟子たちに山上の説教で不思議な逆説を語られました。そこで主は、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」(マタイ5:5)と言われましたが、それこそこの詩篇の要約とも言えましょう。
そこでの「柔和な者」とは、悪者が自分の狡猾さで手に入れた権力を行使して、自分の地上の富を増し加えているような状態と対照的な生き方です。
しかし、イエスは、自分の我を張らないような柔和な人こそが、地を受け継ぐと言われました。それはこの世の論理とは逆です。それは、神が私たちの誠実さを見ておられるからです。
そして、イエスに従う者が「地を受け継ぐ」という約束は、黙示録20章では、「千年王国」として成就すると描かれています。この目に見える現在の世界では、誠実さが報われず、非業の死を遂げざるを得ないことがありますが、神は私たちを死の中からよみがえらせ、この地上の平和の世界に住まわせてくださいます。
神はこの地を愛し、私たちをこの地を受け継ぐものとしてくださったということの最終的な世界が、千年王国として実現されるのです。
もちろん、私たちは、人から不当な仕打ちを受けたときは自分の誠実さを、自信を持って訴えるようなこともありますが、静かになって自分のすべての歩みを振り返るときに、自分の不誠実さを恥じ入らざるを得ないことがあります。
しかし、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」(マタイ5:3)と言われました。神の前に完全な人とは、自分の不完全さを正直に認め、神にすがる人です。自分の足りなさを知っている人は、神のあわれみがなければ自分は神の前に立つことができないと知って、神にすがります。そのような人こそが、神の目には誰よりもかわいい子ではないでしょうか。
それは、しばしば、親の目には、できの悪い子ほど可愛く映るのと同じです。私たちは、この世的な「正しさ」とか「完全さ」の枠を超えて、この詩篇を味わう必要があります。
私たちはこの世ではいつでもどこでも、人の評価が気になります。しかし、「地に住み、誠実を養え」と言われるときの「誠実さ」とは、人が評価するものではありません。
イエスが「心の貧しい者は幸いです」と言われたように、自分の不誠実を認めながら、なお、主のあわれみを乞い、少しでも、より誠実にさせていただこうと、成長を願い続けることが何よりも大切です。
人の評価ではなく、神の眼差しを意識しながら生きることこそが、「誠実を養う」ことの基本です。そして、神はそのような謙遜な誠実さに豊かに報いてくださいます。この世の損得勘定や人の評価を超えて、神の眼差しのみを意識して、この詩篇37編全体を心から味わってみましょう。
特に、人に裏切られと感じ、自分の将来に失望している人は、この詩篇を繰り返し、声に出して味わうべきでしょう。
全体を通して読むときに、不思議な慰めと希望が生まれます。これこそ、山上の説教の背後にあったイエスの愛唱詩篇ではないでしょうか。そして、これこそ、すべての信仰者にとっての最高の慰めと希望の歌です。
ダビデによる 悪を行う者に対して熱くなるな(自分を燃やすな)。 (1) 不正を行なう者をねたむな。 彼らは草のようにたちまちしおれ、 (2) 青草のように枯れるのだ。 主(ヤハウェ)に信頼し、善を行なえ。 (3) 地に住み、誠実(真実)を養え(守り育てよ)。 主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。 (4) 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 あなたの道を主(ヤハウェ)にゆだねよ。 (5) 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 主はあなたの義を光のように輝かしてくださる。 (6) あなたのさばき(正義)を真昼のように・・・。 主(ヤハウェ)の前に静まり、 (7) 忍んで主を待て。 その道で栄え、 悪意を遂げる人に対して熱くなるな(自分を燃やすな)。 怒りを手放し、憤りを捨てよ。 (8) 熱くなるな(自分を燃やすな)。それはただ悪への道だ。 なぜなら、悪を行なう者は断ち切られるからだ。 (9) 主(ヤハウェ)を待ち望む者、彼らは地を受け継ぐ。 ただ少しの間に、悪者はいなくなる。 (10) 彼の居所を調べても、もういない。 しかし、貧しい者は地を受け継ぐ。 (11) また、豊かな平和(シャローム)をおのれの喜びとする。 悪者は正しい者に陰謀を巡らし、 (12) 歯ぎしりして彼に向かう。 主(アドナイ)は悪者を笑われる。 (13) 彼の日が迫っているのをご覧になるから。 悪者どもは剣を抜き、弓を張った。 (14) 貧しい者、乏しい者を倒し、 まっすぐな道の者を殺そうとする。 彼らの剣は自分の心臓を貫き、弓は折られる。 (15) 正しい者の持つわずかなものは、 (16) 多くの悪者の豊かさにまさる。 なぜなら、悪者の腕は折られるが、 (17) 主(ヤハウェ)は正しい者を支えられるからだ。 主(ヤハウェ)は完全(正直)な者の日々を知っておられ、(18) 彼らの受け継ぐものは永遠に残る。 彼らはわざわいの時にも恥を見ず、 (19) 飢饉のときにも満ち足りる。 まことに、悪者は滅びる。 (20) 主(ヤハウェ)の敵は、牧場の輝きのようだ。 彼らは消えうせる。 煙となって消えうせる。 悪者は、借りるが返さない。 (21) 正しい者は情け深く、人に施す。 まことに主に祝福された者は地を受け継ぐ。 (22) しかし、主にのろわれた者は断ち切られる。 人の歩みは主(ヤハウェ)によって確かにされる。 (23) 主はその人の道を喜ばれる。 たとい倒れても、逆さになることはない。 (24) 主(ヤハウェ)がその手を支えておられるからだ。 若かった時も、年老いた今も、私は見たことがない。 (25) 正しい者が見捨てられ、その子孫がパンを乞うのを。 その人はいつでも情け深く、人に貸す。 (26) その子孫も祝福される。 悪を離れ、善を行なえ。 (27) するとあなたは永遠の住まいを得る。 なぜなら、主(ヤハウェ)はさばき(正義)を愛し、 (28) ご自分の聖徒(契約の者)を見捨てられないからだ。 彼らは永遠に守られる。 しかし、悪者どもの子孫は断ち切られる。 正しい者は地を受け継ぎ、 (29) いつまでもそこに住みつく。 正しい者の口は知恵を語り、 (30) その舌は、さばき(正義)を告げる。 その心には神のみ教えがあり、 (31) その歩みはよろけない。 悪者は正しい者をつけねらい、 (32) 彼を殺そうとする。 主(ヤハウェ)は、彼をその者の手の中に捨て置かず、 (33) さばきのとき、彼は罪に定められない。 主(ヤハウェ)を待ち望め。その道を守れ。 (34) そうすれば、主はあなたを高く上げて、 地を受け継がせてくださる。 あなたは悪者が断ち切られるのを見る。 私は悪者の横暴を見た。 (35) 彼は野生の木のように生い茂った。 しかし、彼は過ぎ去った。見よ、彼はもういない。 (36) 彼を探したが、見つからなかった。 完全(正直)な人に目を留め、まっすぐな人を見よ。 (37) 平和(シャローム)の人には将来がある。 しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。 (38) 悪者どもの将来は断ち切られる。 正しい者の救いは、主(ヤハウェ)から来る。 (39) 主こそ苦難の時の彼らのとりで。 主(ヤハウェ)は彼らを助け、解き放たれる。 (40) 悪者どもから解き放ち、救われる。 それは、彼らが主に身を避けるからだ。