マルコ10章13〜31節「誰が神の国に入れていただけるのか」

2012年5月13日

イエスは山上の説教で、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6:24)。しかし、このイエスのみことばほど理解し難い、腹に落ちにくいことばはありません。旧約聖書で意味する「祝福」とは、豊かさや力を持つこと、子どもが増えることを意味しましたし、イエスの教えはそれと矛盾するものではないはずだからです。

お金も、地位も能力も大切です。今回の箇所の最後でもイエスはご自身に従う者への豊かな報酬を約束しておられます。イエスのお話は逆説的です。富も力も、手段に過ぎません。それを目的としてしまうとき、人生で最も大切なものを忘れるからでしょう。

1.「神の国は、このような者たちのものです」

「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった」(10:13)とありますが、弟子たちの反応にも一理あります。イエスはこのときパリサイたちと、「結婚」に関する重要な議論をしていたからです。

しかも、「子どもたち」は、自分で来たのではなく、「人々が子供たちを・・連れて来た」のです。彼らはイエスに自分の子を祝福して欲しかったのでしょうが、場の空気を読んでいません。ところが、イエスがこのときの弟子の対応に対して、何と、「それをご覧になり、憤った」(14節)というのです。

そしてイエスは、弟子たちに向かって、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と言われました(14節)。

「神の国」とは、神ご自身が「王」としてご自分の民を守ってくださるという世界です。ただ、当時の人々は、失われたダビデ王国の再興を願っており、そこに入れていただくためにはローマ帝国の支配に屈しない命がけの覚悟が必要だと思われていました。

ところが、イエスは、自分の意思でイエスに近づこうとしたわけでもない幼子たちを指して、「神の国はこのような者たちのもの」と言われたのです。

私たちの常識でも、「神の国は、信じる者だけが入ることができる」と言われますが、主は、「神の国」は、大人に連れられなければイエスに近づくことができないような「幼子」のためのものだと言われました。

イエスは続いて、「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」(15節)と、子どもの姿勢に習うようにと勧められました。

子どもが大人に勝っている点は何でしょう?それは何よりも、与えられたものを素直に受け止めるということではないでしょうか。

しかも、子どもは、どんな厳しい環境の中にも、喜びを発見する天才です。子どもは柔道でいう「受身」の天才かもしれません。信仰の醍醐味は、自分を受動的な者として神に積極的に差し出すという、「能動的受動性」にあります

そしてその後のことが、「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」(16節)と記されます。子供たちは喜んでイエスに抱かれたことでしょう。また、イエスも喜んで彼らの上に手を置いて祝福されました。そこに見られるのはまさに神の国の祝福の情景と言えないでしょうか。

当時の大人たちは神の国」を実現しようと命をかけて頑張っていました。一方、子供たちは大人たちに連れて来られるままにイエスのふところに飛び込み、まさにそこで神の国に入れていただいたのです。今も、神の国は、私たちの目の前にあります

ただ、これは知性や主体性を否定するような勧めとして誤解される可能性もありますが、パウロは後に、「知性」を用いて教えることの大切さを強調しながら、「物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし、考え方においてはおとなになりなさい」と言いました(Ⅰコリント14:19,20)。

私たちが成長するのは良いことですが、それで見失ってしまうこともあります。ですからこれは、当時の宗教指導者たちを意識したアイロニーであり、逆説なのです。

彼らは、聖書を良く学び、神学の議論がよくできましたが、「木を見て、森を見ず」のような状態の人で、聖書の中心テーマを誤解したばかりか、まったく逆のことを自分で教えていました。

2.ある役人が、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるか」と尋ねたことの矛盾

「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた」(17節)とありますが、ルカはこの人を「役人」と描いています(新共同訳でもフランシスコ会訳でも「議員」と訳している)。彼はまるで若い時のパウロのような立場だったと思われます。

そして、この人は、「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。「尊い」とは、本来、「良い」とか「立派な」というような広い意味のことばです。そして、質問の中心は、「永遠のいのち」を「自分のものとして受ける」ために「何をする」べきかというものです。

「永遠のいのちを受ける」とは、「神の国に入る」(24節)とほぼ同じ意味で、永遠に生き続けることより、永遠の祝福を今から保障されることを意味しました。彼はこの地上でも既に地位を富も、すべてを勝ち得ていましたが、聖書に預言された「神の国」に入れていただけるという「救いの確信」がなかったのでしょう。

これは、先にイエスが、「神の国は、このような者たちのもの」と、大人に連れて来られた幼児たち指し示したのと正反対の考え方です。マタイでもルカでも、この金持ちの青年の話と幼子を受け入れる話はセットになっています。

それに対してイエスは、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」という不思議な答えをします(18節)。それはこの人の目を、ご自分ではなく、天の父なる神に目を向けさせることにありました。

そして、イエスは、「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え』」(19節)とごく当たり前のことを言われました。

これは、この人が、イエスに何か目新しい教えとか秘訣を求めていることに対して、神の教えは、すべての人に十分に明らかになっているということを印象付けることばでもありました。

彼の問題は、このような質問をすることで、神は最も大切な教えを、意地悪にも人々の目から隠している方であるかのように思っていたということではないでしょうか。

しかし、モーセは、律法の締めくくりとして、「この命令は、遠くかけ離れたものでも・・天にあるのでも・・海のかなたにあるものでもない・・・みことばは、あなたがこれを行うように、ごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたのこころにある」(申命記30:11-14私訳)と言っていたのです。

ところが彼は、そのようなイエスの意図に気づくことなく、 「先生。私はそのようなことはみな、小さい時から守っております」(20節)と答えてしまいます。彼は、律法を守ってきたという自負がありながら、なお、「永遠のいのち」を「受けている」という確信がなかったのです。この人が、「イエスに走りよって、御前にひざまずいて」(17節)尋ねたというほど切羽詰っていたのは、「自分の良い行い」と引き換えに、「永遠のいのち」を受け取るという発想に生きていたからではないでしょうか。

いつも何かを獲得するという姿勢の中で見失ってしまうものがあります。私たちは自意識過剰になりがちです。しかし、神のみことばにただ、受動的に心を開き、神の語りかけに感動しているとき、そこに「神の国」は実現しています。この神との生きた親密な交わりこそ「永遠のいのちです。

ところが彼は、聖なる神のみおしえを、「そのようなことはみな」と呼び、恵みではなく、常識かのように受け取っていました。

それに対し、「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われ」(21節)たと、イエスのあわれみの姿勢がまず何よりも強調されています。しかし、イエスのことばは驚くほど厳しいもので、「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい」という途方もない命令でした。

これはイエスがこの人の罪を思い知らせてやろうと敢えて意地悪を言ったわけではありません。

まず第一に、イエスはこの際、敢えて、「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります」と付け加えておられます。それは、彼の目を、地上のことから、天に向けさせる意味がありました。

「天」とは、天国のことではなく、目に見えない神のご支配を指したことばで、彼の目を、地上的な保障ではなく、神の保障に向けさせるという意味がありました。

しかもイエスは、「そのうえで、わたしについて来なさい」と、彼をご自分の弟子として招いておられます。これは主が、ペテロやヨハネやマタイを招いたときと同じことばです。彼らもすべてを捨てて従っています。

この人は、イエスの御前にひざまずいて教えを請うだけの思いがあったのですから、それは不可能ではありませんでした。

ところが、「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである」(22節)と、彼の葛藤に満ちた反応がリアルに描かれています。

たぶん、彼がペテロのような貧しい漁師であったなら、またマタイのように人々から軽蔑されていた取税人であったなら、すべてを捨ててイエスの招きに応じるのはより易しかったことでしょう。しかし、彼の場合には失うものが多すぎました。

マザー・テレサは、「富は、悪ではなく、不幸である・・・富は人の気前のよさをなくし、心を閉ざし、窒息させてしまうからです」と言っていました。

3億円の宝くじが当たった人の実話のテレビドラマがあったそうです。そこで、ほとんど大金を急に得た人は、後に悲惨な人生を歩むようになるという統計が明らかにされていました。

誰もが自分は大丈夫だと思います。しかし、人は弱いのです。無駄なものを買う、金額に鈍感になる、欲が出てくる、人が寄ってくる、人から騙される、ほとんど破滅の道に進んで行くとのことです。3億円あってもいつの間にかなくなります。

いくら得たかではなく、人にどれだけ与えることができたかを大切にしなければなりません。パウロは「貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っている」(Ⅱコリント6:10)と言っています。

ただし、貧乏も確かに辛いものです。貧乏に苦労した若い牧師が、次のような詩を書いています。

「貧乏はつらいもの 貧乏は人を縛りつけます 貧乏は人を変えます 性格までねじ曲げてしまいます

貧乏が 『貧乏神』と呼ばれるゆえんは それなのでしょうか

貧乏は 愛する人ができれば こたえます 病気をするとこたえます 子供ができれば身にしみてこたえます

貧乏に負けてしまう人もいる つらかったことでしょう 貧乏のつらさは経験者でないとわからない

(でも) 貧乏をしていると 人の心が見えてくる ものの声が聞こえてきます

貧乏をして 見えないものが見えてきた それまで知りえなかった すばらしいものが 見えてきた

貧乏が 『貧乏神』と呼ばれるゆえんは それなのでしょうか 」

感動的なのは、彼がここで、貧乏の辛さを語りながら、それを通して、「見えないものが見えてきた」と語っている点です。

これはお金の問題に限りません。私たちのうちにある、自分の「知恵」に対する「誇り」なども同じです。「自分には知恵がある、能力がある・・」という人は危ない面を抱えています。イエスに必死に尋ねてきた青年は、お金も、能力も、知恵も、地位もあり過ぎて、それに囚われてしまい、神の恵みの世界が見えなかったのです。

残念ながら、富に囚われて自滅するというのは、サルが罠にはまるのに似ています。入口の狭い透明の器にバナナを入れてサルに見せると、サルはすぐに手を入れてバナナを取ろうとします。しかし、手を握ったままでは器の入り口から手を出すことができません。

サルは焦りますが、手を放すということに考えが及びません。それでサルはバナナを握ったまま、捕えられてしまいます。サタンは同じような罠を人間に仕掛けてはいないでしょうか。

3.「人にはできないことが、神にはできるのです」

その後、「イエスは、見回して、弟子たちに言われた」とありますが、イエスご自身もこの人の応答の姿にしばし呆然となり、周りを見回した上で、弟子たちに神の国についての真理を分かち合ったということだと思われます。

イエスはまず、「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」(23節)と言われました。それはこの人の応答から生まれた嘆きの言葉と言えましょう。そして、「弟子たちは、イエスのことばに驚いた」というのです。

それでイエスは重ねて、弟子たちに向かって、「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(24,25節)と言われました。これは、「優秀な人は・・」、「人から尊敬されている立派な人は・・・」、「成功している人は・・」などと言い変えても良いことばです。

自分の力で人生を切り開いてきたという自負がある人は、しばしば、「すべてが恵みである」ということが分かりません。パウロは自分の知恵を誇っている人に対し、「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と厳しく迫っています。

たとえば、人の外見も知能指数も腕力も、大部分が既に生まれながら決まっているのではないでしょうか。それは、まさに「もらったもの」であって、誇るべきものではありません。それは神からの賜物です。私たちが問われていることは、それをどのように用いたかということです。

イエスは、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48)と言われました。ここから、フランス語の格言、noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)が生まれます。これは「貴族の責任(義務)」とも訳しえることば、日本語では「武士道」と訳すこともできましょう。

たとえば、第一次世界大戦のとき、イギリスでは貴族の子弟の戦死者が非常に多かったと言われます。また、アメリカでは、裕福な人が何のボランティア活動もしていなければ白い目で見られるような風潮があります。それは、より豊かに与えられているほど、より厳しく責任が問われるということの実例です。

ところが、残念なことに、人はしばしば、それを逆転して考えます。それは、「私が豊かで能力があるのは、神から特別に愛され、重く見られているしるしであって、私のいのちの価値は一般の人々よりもずっと重い。だから、人が私に仕えてくれるのは当然だ・・・」という特権意識です。

この青年は、貧しい人々をどのように見ていたのでしょう。イエスは彼の中に、「ノブレス・オブリージュ」を忘れた特権意識を見たのかもしれません。とにかく、彼は富も地位も手にした上で、「永遠のいのち」さえ、自分の手で掴み取ろうとしていました

彼は確かにこの世の成功者、努力家でしょうが、そこに罠があります。自分で成功を掴み取って来たと自負する人は、かえって、自分の願望に縛られてしまい、手放すことができなくなるからです。

ところで、イエスのことばを聞いた「弟子たちは、ますます驚いて互いに」、「それでは、だれが救われることができるのだろうか」、と言い合ったというのです(26節)。それは、彼らも、誤った特権意識に捉えられていたからです。彼らは、「裕福であるのは、神から特別に愛される理由があったからであって、そのような人こそ、誰よりも神の国に近い」と考えていたからです。しかし、現実は、自分が豊かで、才能があり、自分の力で成功を掴み取ることができると自負する人は、神の必要を感じなくなってしまうのです。

イスラエルは、約束の地に入って、生活に困らなくなったとたん、偶像礼拝に走りましたカナンの宗教は、楽しいことばかりを約束してくれたからです。

それに対して、「イエスは、彼らをじっと見て」、その上で、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」と言われました(27節)。

その代表例はパウロです。彼は、自分の罪に悩んだあげく、救いを求めたのではありません。彼はクリスチャンを迫害することに情熱を傾けて、ダマスコに行く途上で、「突然、天からの光が彼を巡り照らし」、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたからこそ、イエスを信じることができたのです(使徒9:3,4)。

彼は、自分で求めたのではなく、一方的に捉えられました。ただしそれは、福音のためにいのちをかけて働くためという、ノブレス・オブリージュへの招きでした。

確かにパウロは特別でしょうが、しばしば、頭が良いと思われる人に限って、信仰に導かれるきっかけは単純なものであるという場合が非常に多くあります。昔から最も多いのは、恋愛が入信のきっかけになるというものです。

自分に自信がある人は、恋愛でもしないと自分から自由になれないからでしょう。また、そうでなくても、神は、優秀な人であればあるほど、適度な試練を与えて、その高慢を打ち砕いてくださるということがあります。

私たちはすべて、パウロと同じように、神に選ばれて、天地万物の創造主である神の子どもという貴族的な立場が与えられました。それは特権意識を味わうためではなく、「貴族としての責任」(ノブレス・オブリージュ)を果たすためです。

しかしこのときペテロは、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」と言い始めました(28節)。何と無神経で愚かな応答でしょう。彼はたまたま、この役人より、富も地位も、聖書知識も少なかったからこそ、イエスの招きに従うことができただけなのに、それがまるで自分の功績かのように誇っているからです。

しかも、マタイの記録によると、このときペテロは、「私たちは何がいただけるのでしょうか」と(19:27)と、露骨に報酬を期待していたのです。彼も、金持ちの青年と、まったく同じ発想の中に生きていたことが明らかです。

ところがイエスは、それを叱責する代わりに、「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子を、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます」(29,30節)と言われました。

イエスはここで、天国で実現するはずの豊かな祝福を約束したのではなく、この世で実現する祝福のことを苦しみとセットで保障してくださいました。その上で、この世界が造り替えられた後の時代においての祝福までも約束してくださいました。

人は、所詮、何かの報いなしには働くことができないほど自己中心な思いにとらわれているのが現実だからです。そして、弟子たちの前には試練が待っており、自分の愚かさや弱さのゆえにつまずいてしまいます。それは、目に見えない神よりも、目に見える人を恐れてしまうからです。

だれの人生にも、挫折はつきものです。そのときに、支えになるのは、神が私たちの苦労に、正当な報いを与えてくださるという保障です。

ただ、それに加えてイエスは、「しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」(31節)と言われました。

それは、イエスに従うことにおいて、この世的な競争の発想から自由なるためのことばでした。

イエスは禁欲主義を教えたのではありません。イエスは私たちが富や力の奴隷になることを何よりも警告されたのです。この金持ちの役人がその後、どうなったかは分かりません。しかし、ここにパウロの姿を見ることもできるのではないでしょうか。

ひょっとしたら、この人も、後に、復活のイエスに出会い、パウロのような働きができたかもしれません。しかし、そのたびごとに、彼は、イエスが自分にきっぱりと財産を捨てて従うように勧めてくれたことに、イエスの深い配慮を感じて感謝したことでしょう。

イエスはこの青年を冷たく追い返したのではありません。この青年をいつくしんでくださったのです。表面的な拒絶の背後に、イエスのあわれみに満ちた招きが見られます

聖歌582番の歌詞は、そのまま読むと、あまりにも過激な内容です。そんなこと心から歌うことは無理だと感じます。しかし、この歌詞が、スコットランド民謡「アニー・ローリー」のメロデイーに載せて歌われるとき、それが無理ではなく感じられます。

もともとの歌詞は、「アニー・ローリー」という女性への恋いの歌です。その歌詞の最後は、「ダーク・ブルーの瞳の、かわいいアニー・ローリーのためなら僕は死んでもかまわない」というものです。

恋する人のためにいのちをささげることができるなら、どうして、どんな富や地位や名誉にもまさって魅力的なイエスのために、すべてを捨てることができないことがありましょう。そんな恋い心を持って、この曲を味わってみましょう。