エステル2章19節〜4章17節「もしかすると、この時のためであるかも知れない」

2012年5月6日

エステル記はシンデレラ・ストーリーのような成功物語ではありません。また、女性の心の中には、しばしば、「いつか白馬に乗った王子様が現れて自分を救い出してくれる」というシンデレラ症候群のようなものがあるとも言われますが、そのような願望を満たす物語でもありません。

エステルは父母を失いながら、模範的なユダヤ人であるモルデカイに育てられた女性です。彼女が異教徒の王のそばめの一人として突然召し出された時、彼女は自分のすべての夢を失ったと思ったことでしょう。彼女が王妃として抜擢された時も、彼女は自分の愛するユダヤ人の交わりから永遠に引き離されてしまうと思ったかもしれません。だからこそ、彼女はモルデカイとのコミュニケーションを取り続けることに必死になっていました。

そして、ユダヤ人絶滅計画が明らかになった時、モルデカイは、「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このときのためであるかもしれない」と言います。そして、エステルは自分の命をかけて、同胞を救うために大胆な行動に出ます。そして、その際、何よりも同胞の祈りを求めました。

私たちの人生も、自分の期待とは異なる方向へと進まざるを得ないことがあります。しかし、神の時が来ると、自分が今ここに置かれているのは、「もしかしたら、この時のためであるかもしれない」という使命感を持つことができることでしょう。

自分が使命を探す以前に、使命があなたを探しているということに気づく者は幸いです。

1.「しかし、モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった」

2章19節は解釈が困難ですが、18節の王妃とされたことを祝う「エステルの宴会」の一環で「娘たちが二度目に集められたとき」、モルデカイにも立場が与えられ、「王の門のところにすわっていた」という意味だと思われます。「王の門」とは、王のさばきが宣告される政治の場です。エステルは機会を生かすことに長けていました。

ただ同時に、「エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、まだ自分の生まれをも……民族をも明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていた時と同じように、彼の言いつけに従っていた」(2:20)と10節と同じ趣旨の記述が繰り返されます。

モルデカイはユダヤ人であることを明らかにしていた(3:4)ので、彼女の出生が明らかになるのは時間の問題だったのでしょうが、彼女はとにかくモルデカイの言うとおりにしていました。

そのような中で、「そのころ、モルデカイが王の門のところにすわっていると、入口を守っていた王のふたりの宦官ビグタンとテレシュが怒って、アハシュエロス王を殺そうとしていた」(2:21)と記されます。王はギリシャ攻撃でまさかの手痛い敗北を喫していましたので、王の権威が揺らいでいました。そのことがこのようなクーデター計画として現れたのでしょう。

しかし、同じように「王の門」での働きを与えられていたモルデカイはこの計略を事前に察知し、「これを王妃エステルに知らせ」ることができました。そして、「エステルはこれをモルデカイの名で王に告げた」というのです。

王宮に入れられたエステルが自分の出生を隠しながら、ユダヤ人であるモルデカイに役人としての立場を与え、連絡を取り合うことができたということ自体が不思議です。この書には、神の名が一度も記されていませんが、読者は、このような不思議の背後に、神の導きがあったことを読み取ることができたことでしょう。

そして、モルデカイの手柄によって反乱の事実が王に取り次がれ、「このことが追及されて、その事実が明らかになったので、彼らふたりは木にかけられた。このことは王の前で年代記の書に記録された」(2:23)というのです。

ただ、不条理にも、このことで報酬を受けたのはモルデカイではなく、ユダヤ人の仇敵でした。そのことが、「この出来事の後、アハシュエロス王は、アガグ人ハメダタの子ハマンを重んじ、彼を昇進させて、その席を、彼とともにいるすべての首長たちの上に置いた」(3:1)と記されます。

アガグ人とはアマレク人の王アガグの子孫だと思われます。アマレク人はモーセがイスラエルの民を荒野で導いた最初のときに襲いかかってきた民で、主ご自身が、「アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない」(申命記25:19)と命じていたイスラエルの仇敵です。

主は、サウルを王位につけたときに、アマレクの聖絶を命じましたが、サウルはその命令を忠実には執行しませんでした。そのため、サウルは神から退けられることになります。それでも、そのときアガグはサムエルの手によって「ずたずたに切られ」(Ⅰサムエル15:33)、これ以来、その子孫は、イスラエルの民を憎み続けていました。

そして、その子孫であるハマンが、何とユダヤ人モルデカイの手柄を契機に、総理大臣になってしまったのです。

一方、先に述べたように、モルデカイはサウル王の父キシュの子孫でした(2:5)。ですから彼にとってもアガグ人というのは、自分の祖先を没落に導くきっかけとなった仇敵です。彼はこの展開に非常に心を痛めたことでしょう。

しかも、王は家来たち全員にハマンにひざをかがめ、ひれ伏すように命じていたというのです。それは王が、彼に権威を持たせ、それによって国をまとめようと考えたからだと思われます。王命がなければ弱小民族であるアマレク人の子孫に対してペルシャ帝国の重臣たちがひざをかがめるなどということはありえなかったことでしょう。

しかし、「モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった」(3:2)というのです。聖書のどこにも、この世の権力者の前にひざまずくことは偶像礼拝になるなどとは書いていませんが、サウル一族の子孫であるモルデカイにとって、神が聖絶を命じられたはずのアマレクの子孫の前にひざまずくなどということは愚かな行為と思えたことでしょう。

彼は、ダニエルの三人の友人たちが、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝まずに、燃える炉の中に投げ入れられ、神によって奇跡的に救い出されたという例を思い起こしながら(ダニエル3:6)、ハマンの前にひざまずかないことこそが神への忠誠を表すことだと信じ、王命を拒否し続けたのではないでしょうか。

彼の信仰のすばらしさとは、偶像礼拝と紛らわしい行為を拒否したということよりも、自分にどれほど不都合なことが起きようとも、神は自分を守ってくださるということに信頼し続けたということにあります。彼は神の摂理を信じていたのです。

2.「王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を、根絶やしにしようとした」

それに対し、「王の門のところにいる王の家来たちはモルデカイに」、「あなたはなぜ、王の命令にそむくのか」と、「毎日……言った」という事態にまで至りますが、彼は「耳を貸」しませんでした(3:3,4)。ただ、彼らは、それがモルデカイの信仰のゆえであると理解し、それをハマンに告げます。

それを聞いたハマンは「憤りに満たされ」(3:5)ますが、「モルデカイひとりに手を下すことだけで満足しなかった」ばかりか、何と、「王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を、根絶やしにしよう」と計画したというのです(3:5、6)。

そして、ハマンはその日取りを「くじ」で決め、それは約一年後の「第十二の月、すなわちアダルの月」になりました(3:7)。この「くじ」(プル)ということばが後のプリムの祭りの語源になっています。

しかも、ハマンはアハシュエロス王に、ユダヤ人という民族名を敢えて隠しながら、「あなたの王国のすべての州にいる諸民族の間に、散らされて離れ離れになっている一つの民族がいます。彼らの法令は、どの民族のものとも違っていて、彼らは王の法令を守っていません」という濡れ衣を着せます(3:8)。

王命にそむいたのはモルデカイ一人ですが、それをユダヤ人全体の罪かのように結び付け、「彼らをそのままにさせておくことは、王のためになりません。もしも王さま、よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください」と言ったばかりか、「私はその仕事をする者たちに銀一万タラントを量って渡します。そうして、それを王の金庫に納めさせましょう」と、その働きのために自分の財産すべてを使い果たしてもよいというような覚悟を示します(3:8,9)。

銀一万タラントというのは375トンもの銀という途方もない金額を意味します。当時のペルシャ王の年収の三分の二に相当するという調査もあります。彼はその多額のお金を用いて人々を動かし、それによってユダヤ人を滅ぼし、彼らの財産を「王の金庫に納めさせ」ると約束したのです。

このとき、ペルシャ帝国はギリシャとの戦いによる敗北で国家財政が危機的な状況になっていたことでしょうから、ハマンの提案は王にとっても都合の良いものに聞こえたことでしょう。

その後、王はハマンに、「その銀はあなたに授けよう。また、その民族もあなたの好きなようにしなさい」と言いましたが、これは表面的には、その多額の銀は、ハマンではなく王の金庫から拠出すると言っているように聞こえますが、「その民族も好きなようにしなさい」と言っているところからすると、王は、すべてのことをハマンにまかせ、ユダヤ人から奪った財産もハマンの手に任せるという意味を込めたのだと思います。

王もハマンの言うとおりにして、恩を売ろうとしています。ハマンも王も、自分の権力を誇示するためにひとつの民族を滅ぼそうとしています。

そして、ハマンが自分の思いのままに書いた「王命」には、「第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに、若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪え」と、各民族のことばで記され(3:12,13)、「王の指輪で印が押され」ていました(3:12)。

アマレク人の王家の子孫であるハマンは、自分の民族にとっての敵を、一挙に滅ぼしつくそうとしたのです。

それにしても、アハシュエロス王は、これによってユダヤ人にどのような悲劇が起きるかなどということを知ろうともしなかったということは、何とも驚きです。ギリシャとの戦いにまさかの敗北を喫してしまうだけの愚かな王であったということが、このことを通しても明らかになります。

そして、3章15節では、「この法令はシュシャンの城でも発布された。このとき、王とハマンは酒をくみかわしていたが、シュシャンの町は混乱に陥った」と描かれています。

4章の最初ではモルデカイが「なされたすべてのことを知った」と描かれます。彼は王とハマンの間になされた会話を詳細に聞くことができました。

それに対する彼の反応が、「すると、モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら町の真ん中に出て行き、王の門の前まで来た」と記されます。

そして、このモルデカイと同じ反応が、ペルシャのどの州においても起こったことが、「王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人のうちに大きな悲しみと、断食と、泣き声と、嘆きとが起こり、多くの者は荒布を着て灰の上にすわった」(4:3)と記されます。

モルデカイは神に信頼していたからこそ、王命に逆らってでもハマンに対してひざをかがめようとはしませんでした。多くの人々は、「それなら、この状況になってもパニックに陥らないはずでは……」と思います。しかし、神に向かって必死に泣き叫ぶというのも信頼の現れということができましょう。

ヤコブの手紙4章7-10節には、「悪魔に立ち向かいなさい」と記されながら、意外にも、「苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」と記されています。

実は、強がることこそ、不信仰の現れなのです。

3.「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」

ただし王宮の中にいたエステルはその事情を知ることができなかったので、「モルデカイに着物を送って、それを着させ、荒布を脱がせようとした」と記されます(4:4)。しかし、当然ながら、彼はそれを受け取りませんでした。

彼の決意の固さには何か理由があることを知ったエステルは、「王の宦官のひとりで、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ」、事情を確かめさせました(4:5)。

ハタクが「王の門の前の町の広場にいるモルデカイのところに出て行った」(4:6)ところ、「モルデカイは自分の身に起こったことを全部……告げ」ましたが、そこには「ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に納めると約束した正確な金額」のことまで記されていました(4:7)。それは、ハマンが私財を投げ打ってでもユダヤ人を絶滅しようとしたという強い意志の現れでした。

そればかりか、「モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し」ました。モルデカイは、不思議にも王宮内部の会話の内容から法令の文書の写しまで手にしていました。彼はユダヤ人として他の人と異なった生き方を貫いていましたが、王宮の中には彼に好意を抱いて、助けようとする人々がいたことを示しています。

しかも、彼はここで、王の宦官にすべてのことを打ち明けるというリスクを冒しています。日ごろから、人との信頼関係を築くとともに、どこかで人を大胆に信頼するということも必要です。

そして、モルデカイはこの宦官を通してエステルに対して、「王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように」と「言いつけ」ました。2章20節では、エステルは王宮に入っても、「モルデカイの言いつけに従っていた」からです。

ところがこの時は、エステルはすぐに言いつけに従う代わりに、自分の置かれている危機的な事情を伝えます。それは、「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭に入り、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があるということを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません」(4:11)ということでした。

王の寵愛を受けているはずのエステルに三十日間もお呼びがかかっていないということは、王の気持ちが離れ始めているという意味かも知れません。しかも、もしエステルがユダヤ人であるということが王の耳に入って、王の不興を買っているという推測も成り立つかもしれません。

とにかく、ユダヤ人絶滅の命令は、客観的には、明らかにペルシャ帝国の王の明確な意思として、帝国のすべての支配地に伝えられているのです。

そのときにユダヤ人としての自分が王に命令を翻すように願うなどと言うことは、不可能なばかりか、無謀な自滅行為になると思われました。とにかく、モルデカイの命令にすなおに従い続けていたエステルが、自分の不安を訴えたというのは、極めて自然なことだったと言えましょう。

それに対するモルデカイの返答は、極めて厳しく、「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう」(4:13,14)というもので、沈黙を守ることが彼女の破滅につながるという警告を伝えました。

これはまさに、「進むも地獄、退くも地獄」という状況を示した上で、どうせ死ぬ危険があるなら、自分の命を同胞のために捨てる覚悟を持つことを強く迫ったものです。

ただし彼は最後に、「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」と付け加えました(4:14)。これはこの書で最も愛されている表現です

モルデカイは、そこに神の明確な摂理を認めているのでしょうが、それをエステルに押し付ける代わりに、「もしかすると……かもしれない」と、解釈の余地を残しながら、彼女の主体的な判断にゆだねようとしています。

なぜなら、彼女が単にモルデカイのロボットのように動くのであれば、彼女の心が王を動かすことなどできないとわかっているからです。彼女が王妃として破格の扱いを受けることができたのは、彼女が誰よりも、王の心に寄り添うことができたからではないでしょうか。彼女は同胞のためばかりか、それが王のためにもなるということを確信して初めて、彼女の執り成しは効果を発揮することができます。

「もしかすると、この時のためであるかもしれない」という告白は、多くの場合、「私は何でこんなひどい目に会わなければならないのか……」という、神の御手が見えない悩みと葛藤の時期を通して初めて生まれることばです。

あまりにも簡単に神の導きや摂理を確信することは、ひょっとしたら、自分をロボットに引き下げることかもしれません。

私たちは自分の悩みを神に訴えながら、時間をかけて、神の摂理を知る必要があるのではないでしょうか。なぜなら、八方ふさがりの状況を開くためには、何よりも私たちの主体的な、断固とした意志が必要だからです。

そして、エステルはモルデカイにその断固した意志を、「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります」(4:16)と言いながら「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と断言します。

彼女は、死の覚悟を決めましたが、何よりも大切なのは、王の心が変えられることにあります。人が人の心を変えることなど、不可能に近いことです。まさに神が王の心に働きかけてくださらない限り、この状況は変えられることがありません。それで、彼女は首都に住むすべてのユダヤ人に、三日三晩断食するように求めました。

その結果が、「そこで、モルデカイは出て行って、エステルが彼に命じたとおりにした」(4:17)と記されます。まさにペルシャ帝国の首都に住むユダヤ人は三日三晩、断食の祈りをささげたのです。

しばしば、神のみこころとか神のご計画は、何があっても実現すると信じることが、私たちの祈りの生活を怠慢にする場合があります。しかし、私たちが断食をして祈りに専心するという行為自体が、神のみこころの成就であるということを決して忘れてはなりません。なぜなら、世界の堕落とは、人が神を礼拝しなくなったことであり、この世界の救いとは、人々が神を礼拝し、神に向かって祈ることに他ならないからです。

たとえば、私たちは今、美しい教会堂を建てようとしています。神はそれを可能にしてくださると信頼して、前に進もう押しています。しかし、教会堂は何のためにあるのでしょう。それは、何よりもイエスご自身が、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(マルコ11:17)と言われたことにあります。

つまり、教会堂は祈りの家として建てられるのですから、その建設のプロセスの中に、私たちの必死の祈りがなければ、たましいのない建物になってしまうということです。

エステル記のテーマは、神の摂理、隠れた神の導きということにありますが、そこで断食の祈りが強調されているということを私たちは決して忘れてはなりません。

神はアブラハムを召したとき、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3)と約束されました。モルデカイはユダヤ人絶滅計画が明らかになった時、このみことばにすがるようにして、必死に神に訴えたのではないでしょうか。そのことが「大声でひどくわめき叫びながら」と記されているのだと思われます。

また、エステルは首都に住むユダヤ人たちに三日三晩の断食を求めました。彼らは、神の救いを信じていたからこそ、大胆に祈ったのです。

一方、神は、ユダヤ人の敵ハマンの悪だくみをぎりぎりまで止めないことによって、イスラエルの民をのろい続けたアマレク人を自滅へと導いておられます。現在もサタンとその勢力は猛威を振るい、神の救いが遠く感じられることがあるかもしれません。

しかし、神のさばきは、高ぶる者を高ぶるままにして、自滅させることとして現されます。

一方、神の民は、そのような中で、祈ることしかできないという無力感に苛まれるでしょう。しかし、それこそ、神のみこころ、祈りの共同体が成長する契機でもあるのです。物事が思い通りに進まない中で、自分に対する神のご計画を知ることができる人は、本当に幸いです。