2012年4月29日
シェークスピアの名作「ロミオとジュリエット」の最初の場面で、ジュリエットはロミオに聞かれているとも知らずに、「おお、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの・・」と問いかけながら、ロミオがモンタギュー家を捨てるなら、私もキャピュレット家を捨てるという趣旨のことを言ってしまいます。両家は激しい敵対関係にあったからです。しかし、ふたりが死によってひとつとなった時に、両家の和解が導かれました。
私たちの愛は、人と人とを結びつける力になっているでしょうか。義務感に駆られた愛ではなく、愛を深めるための問いかけが必要ではないでしょうか。
それにしても、私たちの人生には、様々なつまずきの種が横たわっています。神はエデンの園に最初の人間のアダムとエバを置いて、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました(創世記2:16,17)。
自由学園の創立者羽仁もと子氏は、このときふたりが神に向かって、「どうして・・」と、愛を持って問いかけていたら、それは神への祈りとして受け入れられ、現在の人類が体験している様々な悲劇は避けられたのではないかと語っています。
このとき彼らは、「私どもに何でも豊かにたまわる神様、どうしてこの美しい実だけを惜しんでおいでになるのでしょう。私どもをこれほどに愛してくださる神様、食べて悪いものならば、なぜこの実を、みにくい色や形に作ってくださらなかったのでしょう・・・」と問いかけるべきであった、そして、神はその祈りを待っておられて、そこから彼らは神との対話の中で神の恵みの豊かさを喜ぶことができたはずではないかと記しています。
1.モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許した?
「イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたもみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである」(10:1、2)と記されていますが、そこには当時の政治状況が反映されています。
かつて、バプテスマのヨハネの首が当時の支配者ヘロデ・アンテパスによってはねられた理由が6章17節以降に記されていました。ヨハネはヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です」と言い張ったために捕えられたのでした。ヘロデもヘロデヤもそれぞれの妻と夫を捨てて、結婚しましたが、それは明らかに神の教えに背くことでした。しかし、王家の怨念の歴史の中で育った王妃ヘロデヤは、自分の恨みをヨハネにぶつけました。彼は酒宴の余興の延長で殺されてしまいます。
つまり、当時、離婚問題に関して議論することは、支配者たちの恨みを買って、殺される恐れがあるほどに微妙な問題だったのです。
それに対して、イエスはそのような政治問題に振り回されることがないように、彼らの質問に直接答える代わりに、反対に彼らに質問をして、「モーセはあなたがたに、何と命じていますか」(10:3)と尋ねました。
それに対し、彼らは「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました」(10:4)と言いましたが、これは申命記24章1-4節を指しています。
そこでは、「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し・・去らせ・・た場合」(24:1,3)という長い文章が記されています。イエスの時代の律法学者は、そこでの「何か恥ずべきことを発見した」という意味を巡って様々な議論をしていました。
保守的なシャンマイ派はそれを、妻が浮気をして具体的に他の男性と性的な関係を持った場合に限ると解釈し、「(イスラエルの歴史上最も有名な悪女)イゼベルに匹敵するほどにひどい妻であっても、姦淫の罪以外の理由で離婚することは許されない」と言っていました。
それに対し、ヒレル派は、たとえば、「妻が、夫の食事を台無しにしたり、道で他の男と話したり、夫の親の悪口を言ったり、隣の家に聞こえる声でわめいた場合」には、夫は妻を合法的に離縁できるなどと具体的に解釈しました。
そして、当時はヒレル派の解釈の方が優勢であったように思われます。なぜなら、その直後の時代に最も影響力を持ったラビ・アキバなどに至っては、「それまでの妻より自分にふさわしい女性と出会った場合には離婚状を渡してもよい」と言ったほどだからです。
なおイエスは、マタイ5章31,32節では、「誰であっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです」と述べていますが、その趣旨は何よりも、離婚を正当化すること自体を非難する趣旨であり、シャンマイ派を擁護したわけではありません。
しかし、イエスはこのとき律法学者の論争に立ち入ることなく、「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです」(10:5)と、このことばが記された原点に立ち返るようにと勧めました。
新改訳第三版での翻訳にも明らかなように、この規程の目的は、夫が妻を去らせ、彼女が「ほかの人の妻となり、・・」、その後ひとりになった場合、「再び自分の妻としてめとることはできない」(24:4)と、再婚した元妻との再再婚に歯止めをかけることにありました。
つまり、些細な理由で離縁しておきながら、「恋しくなった・・」などと気まぐれを起こす男に、女性が振り回されることがないようにとの神の配慮だったと解釈できます。ところが、女性を守るためだったはずの規定が、女性を虐げる根拠にされてしまいました。イエスはそれを正そうとされたのです。
イエスの時代には、モーセの律法をもとに、日常生活を規定する具体的な細かい「言い伝え」が作られていましたが、それらは皮肉にも、人々の生活を縛り、また守れない人を排除する基準になっていました。
イエスは、それに対し、この律法が与えられた原点である「神のあわれみ」に人々を立ち返らせようとしました。私たちの間でも、本来、人を生かし合うための教えだったはずのものが、互いを裁き、排除しあう規程になる危険があります。
なお、本来の離婚状の意味は、日本の「三行半(みくだりはん)」とも通じますが、その中心は、再婚許可状ということにありました。先週のエステル記にも通じますが、たとえば、権力者や裕福な人は、数多くの妻やそばめを持つことができました。しかし、一度でも夫と関係を持った女性は、どんなに夫から無視され続けても、その家から離れることは許されません。たった一度、男性の気まぐれで一夜を共にしただけで、その女性は一生涯、家の中に閉じ込められるということだってあったのです。
富と権力を持つ男は、そのプライドのゆえに、一度でも自分と関係をもった女性が他の男性に好意を持ってしまうということ自体を許すことができないかもしれません。そのようなときに再婚許可状の規定があることで、男性はそのような女性を自由にすることを前向きに考える契機になります。
つまり、モーセの規定の本来の目的は、すでに破綻した結婚関係から女性を解放することにありました。たとえば、自動車会社は運転手が事故を起こさないようにと車を設計します。しかし、どんな立派な車にも事故が起きることはあります。その時の被害を最小限に抑えるのが設計者の責任です。
この規定はそのためにありました。それなのにパリサイ人たちは、みこころにかなった交通事故とは何なのかというような議論をしていたと言えましょう。
2.それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となる
そしてイエスは、モーセの教えの中でも最も古い創世記に立ち返って、「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです」(10:6)と言われました。創世記1章27節には、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」と記されています。
当時、「神のかたち」ということばは、国王に限って適用されることばでしたが、聖書は男ばかりか女をも「神のかたち」として見たのです。
ところで、主(ヤハウェ)は、「人が、ひとりでいるのは良くない・・・ふさわしい助け手を造ろう」(2:18)と言われ、女を、人の「あばら骨」から造られました。
「助け手」ということばは、神を指す場合もありますし、また「あばら骨」という素材は、「土」よりも上等とも言えますから、ここに、女が男に劣っているという響きを読み取る必要はありません。
その後男は、女を見て「私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう」(2:23)と言いました。女は、ヘブル語で「イシャー」と呼ばれ、男「イーシュ」の女性形という響きがあります。
つまり、男は女を同じ「神のかたち」に創造された尊い存在の女性形、自分と同じ骨と肉を持つかけがえのないパートナーとして喜んだのです。
そして、その上で、「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2:24)と記されます。これは、すべての夫婦関係は、この初めの男と女の創造の原点に立ち帰るという意味です。聖書は、夫婦関係を親子関係に優先します。人間の始まりは、一組の夫婦だったからです。
実際、多くの夫婦関係の亀裂は、親離れができていないことから始まっています。今も、「自分の家に嫁を迎える」という発想で結婚する人がいますが、神は三千数百年前の人に向かって既に、結婚とは、ふたりでまったく新しい家庭を築くことだと説いているのです。
しかも、「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」(2:25)と記されますが、これこそ、エデンの園での平和のシンボル的表現です。彼らは、互いの欠けを補い合う関係にありましたから、互いに自分の弱さを隠す必要がまったくありませんでした。
そして、私たちが心の底からあこがれているべきはずの「新しいエルサレム」も、それぞれの存在をありのままで喜び合い、尊敬し合える場所です。人間の歴史は、調和に満ちた一組の夫婦から始まり、愛の交わりが全世界を満たすときに完成するのです。
なお、人は、個体として完全に創造されたというのではなく、「土の器」(Ⅱコリント4:7)に過ぎない者であり、息を吹き込んでくださった主に見守っていただくことなしにこの地を治めることはできない者なのです。
また人は「ひとりでいるのは良くない」者として創造されています。しかも、人以外のすべての被造物は、「助け手」にはなり得ません。
ですから、結婚に限らず、人は、互いに愛し合い、助け合う者として創造されたことを忘れてはなりません。
そして、イエスはこのとき、このような創世記の原点に立ち返って、「それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとり(一体、one flesh)なのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と言われました(10:7-9)。
最後のことばは、キリスト教の結婚式ではふたりの誓約の後に司式者が宣言することばでもありますが、これはある意味で恐ろしいことばです。
なぜなら、離婚は、創造の秩序に反する、神への反逆であるということを意味するからです。
しかし、そうは言っても、世の中には今も昔も、悲惨な夫婦関係は数多くあります。暴力ばかりを振う男から女性を保護する施設が必要な場合もありますし、ギャンブル依存の男の借金を背負わされる女性もいます。最近はその逆もあるかもしれませんが・・・。結婚関係を保つことが人を破滅に追いやる例だってあります。
それでイエスの弟子たちはイエスのことばに驚き、離婚はどんな場合でも罪になるのかということを再度確かめようとしました。
そのことが、「家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた」(10:10)と描かれています。
それに対するイエスの答えは、さらに厳しいもので、「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです」(10:11、12)と表現されます。
なお、マタイによる並行記事では、不貞以外の理由で妻を離別し、別の女を妻とする者は姦淫を犯すことになると記されています(19:9)。「不貞」は、本来、離婚の理由以前に、死刑に価する罪と見られていましたから、イエスはこれによって、離婚を原則的に禁じたと解釈することもできます。
皮肉にも、マタイではこのイエスの言葉に対して、弟子たちは、「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」(マタイ19:10)と言ったと記されています。つまり、イエスの結婚観は、イエスの弟子たちにとっても不可能なチャレンジと映ったのです。
ただし、イエスは当時のパリサイ人や律法学者たちが考えたような意味の戒律を私たちに課そうとしているわけではありません。離婚は明らかに神に対する反抗であり、罪です。しかし、それは決して赦されない罪ではありません。自分を正当化せずに赦しを乞うことこそ信仰の基本です。
私たちは神のあわれみと赦しなしには、一日たりとも生きられない存在です。パリサイ人たちは自分を正当化することにおいて天才的で、それによって、ある種の離婚を、合法的なものとして正当化しましたが、その結果、女性の立場がますます悪くされてしまったのです。
聖書の教えを戒律としてとらえること自体がすでに堕落です。しかし、同時に私たちは、聖書の教えを努力目標のようなものに引き下げて、神の赦しを、すべて当然なこと、私たちにとっての既得権益のように考えてはなりません。
イエスはここで確かに、神が聖定された結婚関係に人々を立ち返らせたのです。イエスはこれによって、一夫多妻を排除し、女性の社会的地位を男性と同じレベルに引き上げました。このことばは社会に革命的な変化をもたらしました。
ですから、イエスのことばは新しい戒律と理解しても、また努力目標に引き下げてもなりません。
3.神のようになり、善悪を知る
ところで、自己正当化こそ、罪の基本であるということは創世記の堕落の記事に明らかです。蛇はエデンの園で女を誘惑した時、「それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と甘い約束をしました(創世記3:5)。
これは完全な嘘ではありません。神ご自身が、「見よ。人はわれわれの一人のようになり、善悪を知るようになった」(3:22)と認めておられるのですから・・・。
では実際に何が起こったのでしょう。それは、直接的には、互いの裸を恥じることがなかった者が、互いの裸を恥じる者となったということ(3:7)、つまり、エデンの園での調和が失われたということではないでしょうか。
かつては、彼らは、互いの弱さ知ることが、互いに助け合うというきっかけになりましたが、今は、「弱みを見せたら、つけ込まれる・・」というような関係になってしまいました。
アダムは、「私は罪を犯したので、恐れて、隠れました・・」と言ったわけではありません。自分の弱さがあらわになっていることに恐怖を感じているのです。
主(ヤハウェ)は、彼らのすべての行動を見ておられましたが、そよ風の吹く夕方まで待たれた上で、「あなたは・・食べたのか?」と事実のみを尋ねられました。それは、人が自分の犯した罪を認めて、自分の方から告白する機会を与えるためでした。
ところが、人は、自分の罪を認める代わりに、「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・」と、女に責任転嫁をしたばかりか、その創造主である神を非難しました(3:11,12)。そして、同じように、女も、罪を認めようとはせずに、「蛇が私を惑わしたのです」と責任転嫁します(3:13)。
「責任」は、英語でResponsibilityと表現されますが、これはResponse(応答)するability(能力)を意味します。これこそ、「神のかたち」の基本です。ところが、人は、神の問いかけに正面から答える代わりに、自分を「無力な被害者」に仕立て上げてしまいました。
神は、過ちを犯すことも自分の弱さも恥じる必要もない方ですが、皮肉にも、神のようになった人間は、それによって自分の過ちも弱さも認めることができなくなったのです。
「神のようになり、善悪を知る」とは、自分を世界の中心、善悪の基準にして、まわりを非難する生き方の始まりでした。そこにおいて、最初に創造された男と女は、エデンの園における、「神のかたち」として調和を、自分から失ってしまいました。
そして、自分を正当化して争うようになったアダムとエバの関係から最初に生まれたカインは最初の殺人者になってしまいました。この世の悲惨は、すべて一組の夫婦関係の亀裂から始まっているのです。
私たちが罪人であることは、何よりも結婚関係を通して明らかになるのではないでしょうか。
このように、人は、「神のかたち」に創造されたのに、それに満足し、それを享受する代わりに、自分で「神のようになり、(自分を基準として)善悪を知る」ようになって、その祝福を失ってしまいました。それは何よりも夫婦関係、家族関係に顕にされました。
それに対し、キリストは、神の御子として、永遠に「神の御姿である方」でありながら、敢えてご自身から「仕える者の姿を取り」、何と「十字架の死にまでも従われ」るほどに、父なる神に従順をまっとうされました。つまり、アダムとその子孫たちと正反対の生き方がキリストに見られるのです。
ただ、多くの人は、そこに祝福があることを知らずに、今も、人を押しのけてでも人の上に立とうと競争を続けています。しかし、人より有能になり、人より豊かになり、そして、人よりも美しくなることで、人は平安になれるでしょうか。そこではかえって心の渇きが加速されるだけです。
もちろん、それは、私たちが自分に与えられた様々な資質や能力を成長させ、生かすことが悪いという意味ではありません。謙遜と才能を埋もれさせることはまったく別のことです。
そこで問われているのは、アダムに習って自分を神のようにするのか、キリストに習って、神と人とに仕える生き方を選ぶのかという選択です。
しかも、人の目には敗北としか見えなかったキリストの十字架こそ、勝利の始まりでした。なぜなら、「それゆえ神は、この方を高くあげて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:9)とある通りです。
そして、私たちも、地上の死の現実を超えて、復活のキリストの栄光のからだと同じ姿にまで変えていただくことができるのです(ピリピ3:21)。
私たちはキリストにあって、失うことを恐れる必要はありません。もし、夫と妻が、互いにすべてを与えることができるなら、そこには理想的な家庭が生まれるでしょう。夫婦が互いに愛し合っているなら、子供も愛するということを学びながら育つことができます。そこに祝福の連鎖が始まるのです。
人の堕落は何よりも夫婦関係に現れ、反対に神の祝福は、何よりも夫婦関係に顕れます。そして、家庭を基礎に、すべての人間関係が築かれます。なお、これは決して結婚の勧めではありません。今も昔も、独身者であるほうがよりよく神に奉仕できるという場合もあります。
大切なのは、結婚か独身かということよりも、今ここで、神を喜びながら生きるということです。独身状態に不満を覚える人は、結婚してもその結婚に不満を覚えることでしょう。独身を楽しむ人は結婚をも楽しむことができます。
私たちの生活は、毎日が神の恵みの中にあります。最初の夫婦関係が壊れたのは、エデンの園の恵みを感謝する代わりにサタンに刺激された欲望に身を任せたためでした。
ある米国の精神分析医の方の結婚の司式をさせていただいたとき、私が、「離婚は神への神に対する反逆です」という感じのことを言ったところ、「そんな言い方では、問題は解決しないのでは・・・」とたしなめられてしまいました。なぜなら彼は、「結婚関係を保つのは義務である。私は責任を果たすために、自分の感情を抑えて、この嫌な人と共に暮らし続けるのだ・・」という感じの信仰者の悩みを聞いていたからです。
律法学者もイエスの弟子たちも、離婚は罪なのか、それとも状況によっては許されるのか・・・という次元で議論をしていました。しかし、イエスは彼らの視点を、神による人間の創造という原点に立ち返らせるとともに、十字架をも忍ぶというご自分の生き方を通して、人と人との和解への道を示してくださいました。
神との関係においても、人との関係においても、大切なのは、不満や恨みを押し隠して、義務を全うするという生き方よりも、愛を込めた対話を通して、互いを理解し合うことです。それはエデンの園から始まっているべき生き方でした。
聖書の教えの中心は、神との対話に生きることです。そして、人と人との関係においても、義務を果たすことよりも対話をこそ第一にして生きるべきでしょう。