立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年春号より
キリストの復活は私たちの日々の生活に決定的な意味を持っています。ただ、それを自覚することは意外に少ないのかもしれません。少し立ち止まって、ともに思い巡らしてみましょう。
イエスの復活は、たしかに、十字架による罪の赦しが有効であったことの何よりのしるしではあります。しかし、イエスの復活は、それよりはるかに大きな意味を持っています。主の復活こそ、日々の生活に真の生きる力を与える原点でもあります。以下はローマ人への手紙8章9-11節の私訳です。
「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられるからです。なぜなら、キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではあり得ないからです。キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」
復活の主の御霊が、あなたを生かしてくださいます。そして、「永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」における祝福に満ちたいのちの喜びを今この時から味わうことができるという意味です。
イスラエルの民が神に反抗して、神の「のろい」を受けたときの状況は、「あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。あなたが……家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない……地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでもしいたげられ、踏みにじられるだけである」(申命記28:29-33)
これは、簡単に言うと、「すべての労苦がむだになる」という世界です。神に反抗して幸せになろうと思っても、結局、このような悲しみとむなしさに支配されることにあります。生きている者すべてを支配する「死」の現実こそが、それを象徴的に表しています。
しかし、私たちはキリストにあって、「死からいのちに移っている」(ヨハネ5:24) のです。それは、「のろい」から「祝福」の世界に移されているという意味でもあります。それは、キリストの復活によって実現しました。キリストにあって生きるとは、そのような祝福の中に生かされているという意味です。
そして、そこから生まれた新約のメッセージの核心は次のように表現されます。
「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(コリント15:57、58)
もちろん、私たちがこの世界で生きている時、一時的に、自分の労苦がむだになってしまうように思える時があります。なぜなら、この世界はまだ、エデンの園の外、つまり、労苦がむだになる世界だからです。世の人々はその現実におびえ、「騙されないように……」、「損をしないように……」と、いつも自分を守ることに夢中になってしまいます。それが行き過ぎて、人を裏切ってでも自分の権利を守ろうとする人々が出てきます。
しかし、私たちの「いのち」は、すでに三位一体の神の愛に守られています。もうおびえる必要はありません。人との約束を破ってでも自分の身を守ろうなどと思う必要もありません。
「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っている」というのは、キリスト者にとっての最大の常識です。この常識を知らない人は、復活のいのちの恵みを味わうことなく生きている人です。
復活の主が、御霊によって私たちのうちに住んでいてくださいます。ですから、私たちが主に祈りつつするすべての働き、この世の職場の論理でなされなければならない仕事、葛藤を味わいながら子育てをすること、お料理を作り、家を美しく保つこと、それらすべての日常的な営みが、主にあっての労苦とされています。要は、そこに主への祈りが伴っているかどうかです。
主に祈りつつ、主の導きを求めてなすすべての働きは、主にあっての労苦です。そして、その労苦はむだになりません。ときがきたら必ず、豊かな実を結びます。もちろん、それはこの地上の生涯の間には見られないこともあるかもしれません。しかし、私たちはすでに、「死からいのちに移っている」のですから、自分の働きを永遠の観点から見直すことができます。この世は、すぐに目に見える結果を求めますが、それこそが人々の人間性を貧しくしている原理です。
キリストの復活によって、新しい時代は既に始まっています。それを思いながら、日々を過ごしましよう。