マルコ9章30〜50節「神の国を今から生きる」

2012年3月18日

多くのクリスチャンの心の中に、「イエス様を信じて、良い人間になって、天国に入れてもらおう・・」という思いがあるかもしれません。しかし、そこでの天国とは、しばしば「極楽」の言い換えに過ぎないのではないでしょうか・・・

聖書は、「新しい天と新しい地」を待ち望むことを勧めています。それは、この世の様々な矛盾が解決された平和に満ちた世界です。労苦が無駄にならない世界です。生きることが楽しく、私たちの個性や独創性が自由に発揮される世界です。「人と自分を比べてばかり・・・」という比較地獄はもう存在しません。

そして、クリスチャンとして生きるとは、そのような神の国の価値観を、今、ここから生きるとういことです。それこそが神の国の平和を証するという生き方です。私たちは知らないうちに、神の国をこの世の論理の延長でとらえたり、また反対に、この世から逃避する場所と理解していないでしょうか。神の国は逃げ場でも、この世の価値観の延長の世界でもありません。

1.「道々、だれが一番偉いかと論じ合っていた」

「さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」(9:30)とは、ピリポ・カイザリヤでのペテロの信仰告白、ヘルモン山でのキリストの変貌、山を下ってからの引きつけを起こしていた少年の癒しの後のことですが、イエスはこのときガリラヤでの宣教活動を終えて、十字架にかかるためにエルサレムに上ろうとしていました。

その際、「イエスは、人に知られたくないと思われた」と不思議なことが書いてあります。イエスはそれまで驚くほど多くの人々の病を癒し、悪霊を追い出し、神の国の福音を宣べ伝えていましたが、これからは、そのような幅広い活動に終止符を打ち、エルサレムに向かうことと、弟子たちにご自身のことを明かすことに集中しておられたからです。

そして、イエスは弟子たちに向かって二回目の受難予告をするという意味で、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたというのです。「引き渡される」ということばに、神のご主権の中で人々の支配下に置かれるという意味が込められています。それは人間的には、人々をつまずかせる弱さのしるしです。これに関して、後にパウロは、「確かに、(キリストは)弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなた方に対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」(Ⅱコリント13:4)と記しています。

ところが、「弟子たちは、このみことばが理解できなかった」(9:32)ばかりか、「イエスに尋ねるのを恐れて」いました。人は自分にとって不都合な真実からはなるべく目をそらしていたいと思うものです。しかし、いやなことから目を背け、現実を直視することができないような信仰は、知らないうちにこの世の力に流されてしまうのです。

一方、彼らはカペナウムに着く間、イエスの受難予告とはかけ離れたことを話し合っていました。それでイエスは、「家に入った後、弟子たち」に、「道で何を論じ合っていたのですか」(9:33)と尋ねられました。その際、彼らは自分たちが話し合っていたことを恥じて「黙っていた」というのです。それは彼らが、「道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたから」でした(9:34)。

私たちから見ると、イエスがご自身の受難を予告しておられるときに、どうしてそのような愚かな議論ができるのかと不思議に思いますが、その時代に生きていたら同じような関心を持ったことでしょう。なぜなら、イエスのメッセージの中心は、「時が満ち、神の国は近くなった」(1:15)というものでしたが、それは弟子たちにとってダビデ王国が再興されることが間近に迫っていることとしか思えなかったからです。

この約200年近く前に、エルサレム神殿がギリシャ人の王によって汚された時、ユダ・マカベオスをリーダーとする独立運動が起こり、ユダヤは一時的な独立を勝ち取りました。そして、当時の人々は、メシヤ(救い主)が現れたとき、今度こそ永遠に続くダビデ王国が実現すると期待していました。

イエスがご自身の受難を予告した時、彼らにはたぶん、ユダ・マカベオスのときと同じような厳しい戦いがローマ軍との間に起きるということとして聞こえたのでしょう。ですから、彼らはイエスの話を聞きながら、かえって独立戦争への勝利のイメージを膨らませ、新しい神の国において、イエスを頂点とする政権が誕生した時に、誰が右大臣、左大臣になることができるかと真面目に考えていたのです。

しかし、イエスが神の国は近くなったと言われたことばは、最新の英語訳では、「the time is fulfilled, and the kingdom of God is at hand」(時は満ちた。そして、神の国はすぐ間近にある)と訳されています。つまり、神の国は、イエスとともに実現し始めたという意味なのです。イエスが病を癒し、悪霊を追い出されたのは、預言された神の国が今ここに実現したということを示すことでした。

今も、世界には不条理が満ちています。しかし、イエスに対するハレルヤコーラスはすでに天において響き渡っています。キリストの支配はすでに始まっているのです。ただ、それは弟子たちが期待したような目に見えるダビデ王国ではありませんでした。

ただし、それは世にいう天国というようなものでもありません。神の国は最終的には、この地に完成します。それは、小羊が狼とともに宿り、乳飲み子がコブラと戯れるような、弱肉強食などがない、真の平和が完成する世界です(イザヤ11章,65章)。

2.「だれでも人の先に立ちたいと思うなら・・・」

とにかく、イエスは彼らの身勝手な会話を強く非難する代わりに、そこに「おすわりになり、十二弟子を呼んで」、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら」と彼らの気持ちを受け止めたうえで、不思議にも、「みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(9:35)と言われました。

本来なら、「神の国」を実現するために自分の願望など捨てなさい、「人の先に立ちたい・・」などというさもしい根性を持ってはいけないと諭すべきところを、そのような望みを否定することなく、それを達成する逆方向の道を示されたのです。

考えてみたら競争意識を否定したら、ほとんどの運動競技は成り立たなくなります。マラソンに参加する人が、人より先になりたいと思わなければ競争になりません。一番になりたいと思わなければサッカーも野球も見ていて楽しむこともできません。

ただし、それはこの地の価値観です。そして、弟子たちの問題は、この地の価値観を神の国に持ち込んだことにあります。神の国にはこの世と逆の価値観があり、しんがりがトップになり、仕える者が偉い人という逆説があるのです。

それから、イエスは、この神の国の逆説を目に見える形で示すために、「ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて」(9:36)、彼らに、「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(9:37)と言われました。

ここでは「受け入れる」ということばを四回繰り返しながら、幼児を受け入れることはイエスを受け入れること、イエスを受け入れることは父なる神を受け入れることという関係を明らかにされました。このことばは、客人を歓迎しもてなすことを意味します。

人は、自分に益をもたらす者を懸命にもてなします。ところがイエスは、何の見返りも期待できない幼児を「もてなす」ことを命じたのです。お年寄りは仕事ができなくなっても、それまで生きて来られた実績がありますが、幼子は自分の価値をまだ証明できていない、未熟な存在と見られていました。

しかも、幼児はしばしば、まわりの空気を読むことができずに、静寂を破ってしまいます。ですから弟子たちですら、イエスの説教の場から子供を退けようとしました。また多くの教会も大人だけで礼拝を守ろうとしました。しかし、では、この弟子たちを含め、大人たちはイエスの話を、本当に理解できていたのでしょうか?

また、当時の人々は数多くの子供を産みましたが、生まれてきた子供を捨てるようなことは残念ながら珍しくはありませんでした。それに対し、キリスト教会はこのイエスのことばを受けて、捨てられた幼子を次から次と受け入れ、教会の交わりの中で育ててきました。イエスが「幼子」を受け入れるようにと勧めたことばは、心身の障害を持った方を受け入れる、生産活動に貢献できない人を受け入れるということばとほとんど同じ意味があります。

そればかりか、イエスを受け入れることは、イエスを遣わされた父なる神を受け入れることだと言われました。それは、後に、イエスが犯罪人として捕らえられたときに弟子たちができなかったことです。自分の身に危険をもたらす人を、「主」として認め続けることは、決して容易なことではありません。

ルカ9章48節では、イエスは「あなたがたすべての中で一番小さい者一番偉いのです」と言われました。私たちは、無意識にも、「私とお付き合いすることはあなたの益となり・・」とか、「私を採用することはあなたの会社にとって得です・・」とアピールする思いがあるものです。しかし、イエスは、子供のように、誇るものを何も持たないものこそが、「一番偉い」と言われたのです。

私の中には、「あなたは重要な存在です」と言ってもらいたい思いがあります。それで自分の有能さを証明しようと頑張っています。しかし、イエスは、この世的に能力の劣った「小さい者」にこそ、最も大きな存在の意味があると言われたのです。それは、子供が、直感的に、自分が人の助けなしには一瞬たりとも生きてゆけないことを知っているからです。

子供はストレートに助けを求め、身体全体で満足を表してくれます。子供は何よりも、大人に「誇り」を与え、比較地獄の中で緊張している心を和らげてくれるのではないでしょうか。その意味で、彼らの無力さや弱さこそが、最高の贈り物になり得るのです。

反対に、見るからに立派な人の傍にいると、緊張し、劣等感に苛まれるという体験がないでしょうか。イエスに敵対したパイサイ人などはその典型で、神に対してさえも自分の信仰深さを誇っていました。しかし、神が私たちに何よりも望んでおられることは、私たちが自分の無力さを認め、幼児が親のふところに飛び込む姿に習うことではないでしょうか。

3.「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」

その後、ヨハネがイエスに「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました」と言いましたが(9:38)、それに対してイエスは、「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」と言われました(9:39、40)。

なお、「私たちの仲間ではないので」ということばは、多くの英語訳で、because he was not following us.と訳されるように、「私たちに従って来ないので」と訳した方が正確です。弟子たちにしたら、イエスに従うことなく、良いとこ取りしているように思えたのでしょう。

しかし、その悪霊を追い出していた人は、イエスの弟子には従わなかったかもしれませんが、イエスに従おうという気がまったくなかったのでしょうか。この少し前にイエスの弟子たちは引きつけを起こしていた少年から悪霊を追い出すことに失敗しています。それなのに、この人は、悪霊追い出しができたというのです。これはこの人が、イエスがどのような方かを知っていたことを示唆します。つまり、この人は、これからイエスの弟子になろうと願っている人である可能性があるのです。

ところが弟子たちは自分たちの基準で、「お前はまだイエスの弟子を名乗る資格がない・・」と退けたのです。イエスの弟子となるとは、何かの作法を身に着けることではなく、イエスをより深く知ることで、より多くの犠牲を払ってでも従いたいと思うようになることです。

世の中には、私たちの信仰の枠にはまらないまでも、キリストに好意を持っている人は数多くいます。そのときに、彼らの信仰を非難するのではなく、「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」と言える寛容さが必要ではないでしょうか。

そればかりか、イエスは、「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです」(9:41)と言われました。

これはたとえば、あなたの家族や友人が、あなたの信仰生活を応援してくれているときに適用できることばです。そのようなときには堂々と手伝ってもらえばよいのです。神がアブラハムを召したとき、神は彼に、「あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3)と言われました。あなたを祝福してくれる人を、神が祝福してくださるというのは、まさに信仰の基本中の基本なのです。

私たちは人を助けることによってばかりか、助けてもらうことによってさえ、神の祝福を取り次ぐことができるのです。

一方、イエスはその反対に、「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」(9:42)と言われました。これは、周りの人が、せっかくイエスにすがろうとしてきたときに、それを邪魔をすることへの警告です。

特にこれは当時のパリサイ人に適用できます。彼らは自分たちの信仰の枠によってイエスが救い主であることを徹底的に否定しました。

私たちは自分が人の期待を裏切った時に、人につまずきを与えてしまったのではないかと気遣いますが、私たちは自分で自分を律することができないからこそイエスを求めているのです。ですから、人の期待を裏切ってしまったこと自体を恐れる必要はありません。「それでもあなたはクリスチャンなの・・・」と言われたら、「はい、私はあなたの期待を裏切るような弱い者だからこそ、イエスにすがっているのです」と答えれば、それこそが証しになります。

しかし、「私はイエスを信じてこんなに立派になれました!」などと自慢しながら、それが見せかけである場合には、あなたは人につまずきを与えています。偽善に満ちた嘘の信仰ほど恐ろしいものはありません。

4.「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら・・・」

その上でイエスは43節から48節までを印象的なレトリックを用いて一気に話されたのだと思います。じっくりと耳を傾けてみましょう。

「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」

なお、ここで「いのちに入る」ということばは、「神の国に入る」とも言いかえられながら、燃えるゲヘナに投げ込まれることと対比されています。これは確かに、死後、神のさばきを受けて、天国と地獄に分けられるとも理解できますが、「いのちにはいる」とか「神の国に入る」ということばは、死後のことという前に、今ここですでに実現し初め、完成に向かっていることです。

いのち」とは、何よりも、今ここでの父なる神と御子イエス・キリストとの交わりに中にあります。そして、ゲヘナとは、神を礼拝することを拒絶した者の行く場所です(イザヤ66:24)。つまり、これは善人は天国に、悪人は地獄にという枠で理解すべき教えではありません。

実際、「つまずかせる」ということばは、「罪を犯させる」というよりは、「邪魔をする」という意味が中心にあります。つまり、「私の手が、万引きに走らせるから」とか、「私の手が暴力に駆り立てるから」などというよりは、先に「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにつまずきを与える」とあったように、私たちの手や足や目が、私たちがイエスを信じることの障害になるのなら、それを捨てるようにという勧めであることがわかります。

これは罪を犯すと天国に入れてもらえずに地獄に落とされるという話ではありません。かえって、立派すぎる手や足や目が、人を傲慢にし、神を忘れさせる可能性があります。

申命記8章17、18節では、あながの生活が祝福された時、「『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい」と警告されていました。反対に罪の誘惑に負けやすいあなたの手や目は、あなたを謙遜にして、イエスのもとに導く原動力にもなり得るのです。

たとえば、三世紀の初めにキリスト教哲学者として名声を博したオリゲネスという人がいます。彼は様々な厳しい迫害に耐えた人で、性の誘惑に抗するために自分で自分の男性器を切り取った言われるほどの強い意志の人ですが、しかし、彼はあまりにも心が自由になりすぎて、聖書の教えと新プラトン主義の教えを混ぜ物にして、死後数百年たって、偽りの教えを広めた教師として公に断罪されます。彼は、誘惑の種を自分でなくすことで、自分の弱さにうめきながら、ひたすらイエスにすがるという信仰の基本から外れてしまったのではないでしょうか。霊的に傲慢になりすぎたのではないでしょうか。これも、イエスが批判したパリサイ人の問題と言えましょう。

そしてイエスは最後に、「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい」(9:49、50)と言われました。

火によって塩けをつけられるとは、私たちの信仰が試練によって純化されることを指しています。弟子たちはこの世の延長としての神の国の実現を求め、神の国の中にこの世の優劣の基準を入れました。しかし、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。つまり、この世的な成功者、強い者ではなく、「私はイエス様なしには生きては行けません」という人こそが、神の国で最も喜ばれる人なのです。

そして、そのように生きる時に、私たちは塩けを保ち、互いに許しあい、和合して、平和のうちに生きることができます。しかし、強がる人は互いに競争ばかりして、そこに争いを作り出してしまいます。神の国のいのちとは互いに愛し合う生き方です。

この世の人々から尊敬される立派な人間になろうとすることよりも、神と隣人の支えがなければ一瞬たりとも生きることができないことを心から自覚することこそが信仰の基本です。それこそが、幼子のようになるということです。

N.T.Wrightという英国の神学者は、この箇所に戦いのイメージを見るように勧めています。イエスはエルサレムにおける戦いに向かっています。弟子たちはそれをこの世の戦いの延長で理解し、互いに競い合っていました。しかし、イエスの戦いは、十字架というこの世的な意味では敗北のしるしを通して罪と死の力に勝利することでした。当時のユダヤ人はローマ帝国との無謀な戦に戦いに向かって行きましたが、後のイエスの弟子たちは互いに愛し合うことにおいて犠牲を厭いませんでした。

戦いには犠牲が伴います。自分や仲間のいのちを救うためには、自分の大切な手や足や目を犠牲にする必要があるかもしれません。私たちはキリストを信じる生き方を、悩みや葛藤のない心の平安を達成する道と誤解していないでしょうか。しかし、私たちは新しい天と新しい地」を実現しようとする神の戦いの中に招き入れられたのです。

ただしそれはこの世的な力の戦いではありません。この世の優劣の基準ではなく、互いに仕えあう神の民の共同体としての勝利です。ですから、今日の最後のことばは「互いに和合して暮らしなさい」と記されています。戦いにおいては敵が誰か、味方は誰かを見極める必要があります。

昨年の東日本大震災以来、日本は戦いのただ中にあります。それは目に見えない放射能との戦いでもあります。瓦礫処理を巡っての戦いでもあります。

福島の方々は、ある意味で東京に電力を供給するために犠牲になられました。私たちも何らかの犠牲を払う必要がありましょう。

私たちが向かう「新しい天と新しい地」は、戦いを避けて到達する世界ではなく、戦いを経て招き入れられる世界です。

神の民の共同体として成長して行くためにも戦いがあります。戦いには犠牲が伴います。あなたは何を犠牲にしようとしているでしょうか。神の国は、今既に始まり、完成に向かっています。それを先取りしながら、神の国の論理を証しする生き方を目指したいものです。