2012年3月11日
昨年の東日本大震災以来、日本では絆という言葉に代表されるような糸偏のことばが好まれています。日本は、団結力によって難局を乗り切るなどという国民意識の高揚も見られます。そのような中で、ふと、そこに息苦しさを感じる人もいます。なぜなら、はずれた見方をする人は排除されがちだからです。そして、人間関係を何よりも大切にする意識こそが、原発の安全神話を作り、想定外の危機への対処を怠るという構造を作ってきたと思われるからです。
それでも、海外に行くと、同じ日本人というだけで安心できるような、日本人固有の価値観が厳然と存在することを感じることがあります。そして、日本ではすべての生きとし生ける物に神々の御霊が宿っているという汎神論的な見方が支配的です。そのような発想は、危なさとともに、安心感の源ともなっているように思えます。
それに対し、キリスト教の価値観は、絶対的な基準が神によって設定され、すべての人間は終わりの日にさばきを受け、イエス・キリストを信じない者は、自分の罪の刑罰を負って地獄に落とされ、イエスを救い主として信じる者のみが、罪を赦されて天国に引き上げてもらえると説明されがちです。そこでは、神の領域である天と、罪人が住む地上とは隔絶しており、十字架だけが天と地をつなぐ架け橋になると言われます。
そこでの救いとは、この混乱に満ちた世界から天国に招きいれられることです。ただそれでは、救いは人間の心がけしだいになるという点で、新約の福音の画期性が隠されてしまいます。しかも、その場合、異教徒が支配するこの世界は神のさばきのためだけに残されているということになりかねません。
しかし、そのようにこの世界を軽蔑するような見方をする信仰者と汎神論的な見方をする異教徒のどちらがこの社会に影響力を発揮できるかと言えば、明らかに異教徒でしょう。
昨年以来、ふと、神を信じていない人々の善意が身に染みる機会が多くなってきました。そして、信仰者であっても、不信者であっても、あまり変わりはないのであれば、「神を信じて何になるのか・・」というささやきが聞こえるようになってきました。信仰が、良い人間になるための道であるとするなら、その問いは当然のことと言えましょう。
イエスは私たちに、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8:34)と言われました。それは、人々から尊敬される生き方というよりは、この世の人々が忌み嫌う生き方とも言えましょう。しかし、十字架の後には復活があります。そして、この復活のゆえに、神の救いは人間の心の限界を超えることができるのです。私たちのうちには、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が住んでいるのです(ローマ8:11)。
御霊とはすべてを可能にする創造主ご自身です。私たちはキリストの御霊によって自分を超えることができます。だからこそ、忌み嫌われる十字架をさえ担うことができるのです。
そして、それを体験するきっかけは、地震や津波に現れるようなこの世のうめきに合わせて、神の御前でうめくことです。そのとき私たちの内側で御霊ご自身がともにうめき、そこに圧倒的な神の力が働きます。神ご自身が私たちの心を動かしてくださる、これこそ新約の福音です。
1.「ご覧ください。私たちは今、奴隷です」
エルサレム神殿がバビロン帝国に破壊されたのは紀元前586年、ペルシャがバビロンを滅ぼしユダヤ人の帰還を許したのはそれから約50年後の紀元前538年、エルサレム神殿の再建はその約20年後の紀元前516年のことでした。ネヘミヤの時代はそのさらに70年後のことです。そして、この時代にこそ、現代のユダヤ人の出発点があり、その問題は最近まで続きました。彼らはそのときからいつも大国の支配下で翻弄され続けてきたからです。
ネヘミヤはこの書の1章8,9節で、申命記28章64節、30章1-5節を要約しながら、神がイスラエルの民に、「あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る」と約束されたことを、敢えて、「思い起こして(覚えて)ください」と訴えます。
そこには、神の命令を軽蔑したものを諸国に散らすというさばきと同時に、神に立ち返り、神にへりくだった者たちを約束の地に戻すという約束が記されていました。そこでは、神の命令を再び守り行うなら、という条件が記されていました。それは先の律法の原点に立ち返ることを意味します。過去に守ることをできなかった命令を再び守るということは決して容易なことではありません。
イエスの時代のユダヤ人の律法学者の中には、もしすべてのイスラエルの民がたった一日でも律法を守ることができていたなら、来るべき世界(神の国)は始まっていたであろうに、と宣言する人がいたとのことです。
ネヘミヤも同じような気持ちを抱きながら、イスラエルの民が外国の支配から自由にされることを望んでいたのではないでしょうか。ユダヤ人のエルサレム帰還から90年余りも進んでいなかったエルサレム城壁の再建工事が、ネヘミヤのリーダーシップで、たった52日間で完成した後、ユダヤ人たちは、ヨシュアに導かれて約束の地に入ってきて初めてとも言われる盛大な仮庵の祭りを祝いました。
そしてその後、祭司やレビ人たちはイスラエルの民全体の悔い改めの祈りを導きましたが、その結論として、主に向かって、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です・・・私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが・・・彼らは私たちの身体と・・家畜を思い通り支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります」(9:36,37)と訴えながら、神がイスラエルの民を外国の支配から解放し、平和と喜びと栄光に満ちた新しい神の国に入れてくれるようにと嘆願しました。
その上でイスラエルの民は堅い盟約を結びましたが、その内容は10章30-39節に記されていました。それは、第一に異教徒である外国人と婚姻関係を結ばないこと、第二は、安息日に異教徒との商取引をしないこと、第三は、「七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない」(10:31)ということ、第四は「神の宮の礼拝のため」のささげもののこと、第五は、「祭壇の上で燃やすたきぎのささげ物」(10:34)に関しての約束、第六は初穂のささげものに関しての約束(10:35)、第七は十分の一を主のものとするという約束です。収穫の十分の一は、神殿で奉仕をする人々の手に渡り、奉仕者の十分の一が神殿に直接ささげられました。このシステムが機能するとき、礼拝は常に祝福され、主への礼拝を中心として神の民が祝福を受けることができました。
2.「レビ人たちを集め、もとの持ち場に戻らせた」
ところが、13章では、ネヘミヤが一時的にエルサレムを離れてペルシャの王宮に戻っている間に、とんでもないことが起きたと記されています。そのことがまず、「これより以前、私たちの神の宮の部屋を任されていた祭司エルヤシブは、トビヤと親しい関係にあった」(13:4)と記されます。
アモン人を治めていた役人のトビヤはネヘミヤの仇敵でしたが、彼はユダヤ人の指導者たちと裏で結びついて、裏からネヘミヤの改革運動を妨害し続けていました。そして、ネヘミヤが一時的にペルシャに帰っている間にエルヤシブは、ユダヤ人の敵である「トビヤのために大きな部屋を一つあてがった」(13:5)というのです。しかも彼はネヘミヤに協力して城壁再建を率先して行ったユダヤの大祭司でした(3:1、13:28)。
そして、「その部屋にはかつて、穀物のささげ物、乳香、器物、および、レビ人や歌うたいや門衛たちのために定められていた穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、および祭司のための奉納物が保管されていた」と説明されます。つまり、礼拝を守る最高責任者が、10章の36-39節に記されていた非常に大切な宝物倉の部屋の一つをユダヤ人にとっての最大の敵のトビヤのために明け渡していたというのです。
それが起きたのは、ネヘミヤが、「バビロンの王アルタシャスタの三十二年に、王のところに行き、その後しばらくたって、王にいとまを請い、エルサレムに帰って来た」(13:6、7)という合間を縫ってのことでした。この大祭司はネヘミヤがもうエルサレムには戻ってこないと思い込み、敵に便宜を図ることによってエルサレムを守ることができると思ったのかもしれません。また、彼は、ネヘミヤが貧しいイスラエルの民に味方して、上流階級の人々に大きな犠牲を強いたことに反発していたのかもしれません。
しかし、ネヘミヤは意外に早くエルサレム再び戻ってきて、「エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づい」て(13;7)、「トビヤ家の器具類を全部、その部屋から外へ投げ出し、命じて、その部屋をきよめさせ・・神の宮の器物を、穀物のささげ物や乳香といっしょに、再びそこに納め」させたというのです(13:8、9)。
実は、その宝物倉の大きな機能のひとつに、神殿内の様々な仕事をするレビ人や歌うたちの生活を支えるための民からの十分の一のささげものを保管し、レビ人たちに分配するということがありました。その部屋がユダヤ人の敵に使われてしまっていたので、「仕事をするレビ人と歌うたいたちが、(生活に困り)それぞれ自分の農地に逃げ去った」ということになりました(13:10)。
それでネヘミヤは代表者たちに、「どうして神の宮が見捨てられているのか」と詰問し、「レビ人たちを集め、もとの持ち場に戻らせ」ました(13:11)。それと同時に、「ユダの人々はみな、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一を宝物倉に持って来た」ということが再び実現しました(13:12)。そして、ネヘミヤは信頼できる人に、「宝物倉を管理させ」、祭司やレビ人への「分け前を分配する」ようにさせました。
このような働きの後に、ネヘミヤは、「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください」(13:14)と祈っています。
これはネヘミヤが城壁再建工事の間、驚くほど大量の食糧を私財を投じて用意し、また総督としての手当ても要求をしなかったという記述の後に、「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください」(5:19)と祈ったことと基本的に同じです。彼は自分の神だけを見上げて、これらの大きな犠牲を払って行動していました。
しばしば、何の報いも求めずに働くことが美徳とされますが、「自己満足・・」ということばがあるように、基本的に人は何かを達成すること自体に喜びを見いだします。要は、自分で自分の褒めることを求めているのか、それとも神の評価を求めているのかという違いではないでしょうか。
案外、「私は何の報いも求めずに頑張っています」という人が、人を振り回し。結果的に、はた迷惑な行動を取っているなどということがあります。
正義感の前に、人は沈黙せざるを得ません。しかし、大切なのは、人の正義が実現されることよりも神の正義が実現されることです。しかも、ネヘミヤは、イスラエルの真の回復を願っていました。そして、そのためには、イスラエル全体が律法を守ることに熱心になる必要があると思われました。
彼は、個人的な報いを求めているようでありながら、いつも、神がイスラエルの民全体にあわれみを注いでくださることを待ち望んでいたのです。
3.「あなたがたはなぜ、このような悪事を働いて安息日を汚しているのか」
ネヘミヤはさらに、「ユダのうちで安息日に・・ろばに荷物を負わせている者・・ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなど、あらゆる品物を積んで、安息日にエルサレムに運び込んでいる者を見つけ・・・食物を売ったその日、彼らをとがめ」ました(13:15)。
「また、そこに住んでいたツロの人々も、魚や、いろいろな商品を運んで来て、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた」というのです(13:16)。そこでネヘミヤは、「ユダのおもだった人たちを詰問して」、「あなたがたはなぜ、このような悪事を働いて安息日を汚しているのか」と言いました(13:17)。
そして、かつてエルサレムがバビロンによって廃墟とされた理由を、「あなたがたの先祖も、このようなことをしたので、私たちの神はこのすべてのわざわいを、私たちとこの町の上に送られたではないか」(13:18)と詰問しながら、「それなのに、あなたがたは安息日を汚して、イスラエルに下る怒りを加えている」と彼らを断罪しました。
エレミヤ17章19-27節では、「安息日をきよく保つこと」が何よりもイスラエル王家の継続と繁栄の基となると語られると同時に、安息日を汚すことが国の滅亡につながると警告されていました。しかし、エレミヤの時代の人々は、安息日を守ることよりも、目先の利益や外交によって、国の繁栄や安全を保とうとしていました。
それで、ネヘミヤは、強制力によって安息日を守らせようと、「安息日の前、エルサレムの門に夕やみが迫ると・・とびらをしめさせ、安息日が済むまでは開いてはならないと命じ・・・若い者の幾人かを門の見張りに立て、安息日に荷物が持ち込まれないようにし」ました(13:19)。
その結果、最初は、「それで、商人や、あらゆる品物を売る者たちは、一度か二度エルサレムの外で夜を過ごした」(13:20)という事態が生じましたが、それに対して彼は、「再びそうするなら、私はあなたがたに手を下す」と厳しく警告し、「その時から、彼らはもう、安息日には来なくなった」ということになりました(13:21)。
そして彼は、「レビ人に命じて、身をきよめさせ、安息日をきよく保つために、門の守りにつかせ」、その後で、先ほどと同じ趣旨の祈りを、「私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください」とささげます(13:22)。これも彼が自分自身の祝福を求める以上に、イスラエルが真に神の国として復興することを望んだ言葉です。
4.「あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。」
その上でネヘミヤはまた、「そのころまた、私はアシュドデ人、アモン人、モアブ人の女をめとっているユダヤ人たちのいるのに気がついた」(13: 23)と記します。これも、かつて堅く誓った盟約を破る行為でした。エズラの宗教改革の中心は異教徒との結婚を断固として排除することにありましたが、数十年もたたないうちに、また同じスキャンダルが起きてしまったのです。
しかも、そこでは、「彼らの子どもの半分はアシュドデのことばを話し、あるいは、それぞれ他の国語を話して、ユダヤのことばがわからなかった」(13:24)という事態にまで至ってしまいました。それは当時、聖書の教えを聞くことも、神に向かって祈ることもできない、信仰を捨てたことと同じ意味でした。
そこで、ネヘミヤは再び、「彼らを詰問し」ます。このことばが三度目ですが、ここでは「のろい、そのうちの数人を打ち、その毛を引き抜き、彼らを神にかけて誓わせ」るということまでして、「あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない」と厳しく迫りました(13:25)。
そしてその理由を、「イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行っていることを聞き流しにできようか」(13:26、27)と説明しました。
そして再び、トビヤに便宜を図った大祭司エルヤシブのスキャンダルが、その孫のひとりがトビヤと並んでユダヤ人の敵となっていた「ホロン人サヌバラテの婿」となっていたと記されます。イスラエルの復興を願っているときに、大祭司がエルサレム城壁の再建を徹底的に妨害し続けたトビヤとサヌバラテと通じ合っていたというのは、何とも恐ろしいことです。ネヘミヤは断固として、この大祭司の孫をエルサレムから追い出しました(13:28)。
なお、エルヤシブはかつてネヘミヤの呼びかけにすぐに呼応して、城壁再建のために動き出した人でもありました(3:1)。人の心は何と変わりやすいことでしょう。これでは、ネヘミヤの改革は、まるでもぐらたたきのようなことになってしまいます。
ひとつの問題を解決したと思って安心していたら、その背後で次の問題の種が育ち、より大きな問題に育ってゆきました。残念ながら、ネヘミヤからイエスの時代に至る450年余りはそのようなことの繰り返しでした。
そのような中でネヘミヤは、「私の神。どうか・・・思い出してください」と祈りながら、「彼らは祭司職を汚し、祭司やレビ人たちの契約を汚したからです」(13:29)と訴えます。彼の落胆は、驚くほど深かったことでしょう。彼は、改革における人間の力の限界を、ひしひしと感じていました。そして、必死に神のさばきを求めたのです。
なお、彼は自分の働きを、「私はすべての異教的なものから彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めの規程を定め、定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規程も定めた」(13:30、31)と述べます。
それは総督としてできる最大限のことでしたが、彼は、それもやがて民の不従順によってないがしろにされることを予感していたのではないでしょうか。彼は大祭司の裏切りに耐えながら、改革を進めていました。
彼は深い孤独を味わっていたのではないでしょうか。そのような中で、神ご自身からの慰めを求めました。その祈りが、この章で四度目の「覚えてください」ということばとともに、「私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください」と祈られます。
ネヘミヤの改革は、一進一退を繰り返します。それは旧約の限界を示すものでもあります。人々は非常に熱心に神に立ち返ります。しかし、その傍らで、大祭司自らが、その信仰の復興を台無しにするようなことをします。そして、民の熱意も急速に冷めてゆきます。そのような中でネヘミヤはますます強権的に、人々に律法を守らせるような動きをします。これは、後のパリサイ主義に結びつく面があります。
彼は、イスラエル全体が主の律法を熱心に守ることによって、神のあわれみに訴えることができると考えていました。その祈りが、「どうか・・・覚えてください」ということばとして繰り返されます。彼はイスラエルに神の国が実現することを待ち望んで改革運動を勧めました。
彼のそのような祈りを真の意味で実現したのがイエス・キリストです。ネヘミヤはイスラエルの総督という絶対的な政治権力を持つ立場で改革を行いましたが、イエスは社会的には何の資格もない者でありながら、父なる神の全面的な委託を受けて、神のみわざを行い、人々を神の国へと招き入れました。
それは上からの改革ではなく、人々の心の底に神への愛と人への愛を生み出し、この世界を根本から変革する神の働きでした。この世と調和するのでもなく、この世をさばくのでもなく、この世の痛みやうめきを担いながら、神のみわざに身をゆだねました。
イエスはそのために私たちのすべての罪を負って十字架にかかりましたが、神は三日目にこの方を死人の中からよみがえらせました。私たちも十字架を負うことによって、復活への道を歩むことができます。
ただ現実には、そこで私たちは自分の不信仰と無力さに悩みます。しかし、そのような者に、神はご自身の御霊を与えてくださいました。それはイエスの御霊でもあります。私たちは自分の情熱や仕組みを作ることによって神の国を実現するのではなく、御霊によって神の国の民とされ、そして、この社会に神の国を広げてゆくのです。
この社会の矛盾を上から見下ろすのではなく、社会の矛盾のただ中に入って、そこでうめきながら、神のみわざを待ち望むのです。人間の限界を超えたことを創造主である御霊は可能にしてくださいます。それこそ真の新約の福音です。