2012年2月19日
信仰と富との関係は微妙です。神を信じればお金持ちになれるという短絡的なご利益信仰は危ないですが、でも反対に、信仰者はお金のことを考える必要はないという発想は、もっと危険です。それはイエスが強く非難したパリサイ人の偽善になります。お金が偶像になるのは、それが私たちの日々の生活にとって何よりも大切であるからです。
今から百年余り前にマックス・ウエバーというドイツの社会学者が、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本を記して、ルターやカルヴァンに始まった聖書信仰を受け入れた地方や国々では近代資本主義の発展が際立っていたということを明らかにして、その分析は今も多くの学者から認められています。
ヨーロッパ南部のカトリック教徒の中には、「うまいものを食べて暮らしたいが、それができねば、いっそのこと寝て暮らそう」という発想があるのに対して、北部のプロテスタント諸国では、永遠のいのちを約束された者として、仕事を通して神の栄光を現すという理念が強く、世俗の楽しみのためにお金を儲けるのではなく、営利追求自体が職業倫理として肯定されたという趣旨のことを語っています。
たとえば、金銭にはそれ自体に繁殖力と結実力があります。そして、お金は、お金の使い方の上手な人、また、信用力のある人のもとに集まる傾向があります。約束を守ることができない人の所にはお金は集まってきません。初期の資本主義においては、強欲な人であるよりは誠実な人がお金持ちになることができたのかもしれません。少なくとも、信頼されない人は、他の人のお金を預かることも、仕事を任せてもらうこともできません。明確な職業倫理がなければ資本主義は発展しえなかったのです。
たとえば、日本では株式取引はあまり尊敬されませんが、少なくとも私が十年間その職場にいながら、録音もない電話の約束が反故にされた記憶はありません。ある株式を買っていただいて、直後に株価が下がっても、約束通りのお金が期日には振り込まれました。口約束を守ることができないような人は、そもそも、取引に参加する資格がないと見られました。
ところが、私は神学校に入って、約束を守ることができない神学生が多いことに驚きました。レポートの期日を平気で破る人がいました。それでいて、社会批判だけは一人前にできるのです。自分が貧しいのは、社会が悪いからというより、信用力がないことの証しかもしれないという謙遜さも必要でしょう。
ただし、社会の構造が歪んでいることの結果として、強欲な人がお金持ちになり、貧しい人がますます貧しくなるということもあります。現在は確かに、強欲資本主義と呼ばれるようなお金の暴走の現実があります。しかし、お金の暴力とその結末のことは黙示録17,18章に明確に描かれています。
そして、この背後にはダニエル12章3節の「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」というみことばがあります。あなたの誠実さは、神によって報いられます。一方、卑劣さで栄えた者は滅ぼされるのです。
1.「獣を拝む者が受ける刻印」
黙示録は、未来のことを描いているという見方が多くありますが、これはいつの時代にも、極めて現実的な警告の書ではないでしょうか。たとえば、第二次世界大戦の間の日本の教会はほぼ例外なく天皇を現人神とし神社参拝に参加しましたが、日本占領下の朝鮮半島では多くの信仰者がこれに抵抗を見せました。
そのような中で、朝鮮半島のキリスト教のミッションスクールでは、「警察は神社参拝に出てこない生徒を調査し、彼らを学校から退学させるとともに、彼らの父を職場から首切りし、もし商業を営む者は、それを中止させて生活に脅迫を加えた」ということが実際に行われました。これはまさに、黙示録13章16,17節のことが行われたということです。つまり、「獣の像を拝まない者」(神社参拝拒絶者)は経済活動から排除され、「その刻印(偶像礼拝者の印)・・を持っている者以外は、誰も買うことも売ることもできないようにした」というのは、文字通り現実に起きたことだったのです。
日本の教会は、そのような中で、わざわざ朝鮮半島にまで出かけていって、神社は宗教ではないと説き伏せていました。
しかし、矢内原忠雄氏は黙示録に励まされて妥協することなく、「自分たちの戦いの意味も、事の起こりも終わりも、こうして示されております。あとは忍耐する事と、信仰することだけなのです。これはそんなに難しいことではない。苦しくないことではありませんが、難しいことではない」と大胆に語っています。
矢内原氏の筋の通った信仰の姿勢は、戦後多くの人々の尊敬を集め、東京大学総長に抜擢されます。彼はその頃の苦しみを振り返りながら、「獣」(国家権力)は猛威を振るった。しかし、それはまことに『一年と二年と半年の間』(12:14)であった。過ぎ去った今、往時をかえりみれば、ひと時の悪夢である。而して我に帰れば、神の勝利に対する賛美と神の恩恵に対する感謝のみが我が心に沸き起こる。しかしながら、サタンは未だまったく滅ぼされたのではない。『七つのラッパ』(黙示録8-11章)は終わったけれど、やがてまた新しき審判の連環として『七つの鉢』(同16章以降)が始まるであろう。その時、キリストに対する操守を全うして己が永遠の生命を失わぬよう、今の中にヨハネの幻影の教うる意味を心して学んでおかなければならないのである」と記しています。
そして矢内原氏の懸念こそ、現代の課題です。
なお黙示録には、「七つの封印」「七つのラッパ」「七つの鉢」に、恐ろしい災いが描かれますが、これらはすべて、あくまでも神から小羊イエスに託されたさばきとして描かれていることです。それはイスラエルの出エジプトの際の「十の災い」と同じく、私たちを「新しい天と新しい地」に招き入れるための通過点に過ぎません。
2.『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』
そして、現代の教会が直面しているサタンの誘惑とは、17、18章に描かれる「大淫婦」、「大バビロン」ではないでしょうか。ヨハネは、「ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた」(17:3、4)という幻を見ました。
「七つの頭」とは、「七つの山」(17:9)のことですが、これはローマ市が七つの丘の上に立っているからだと言われます。ローマ帝国の支配下の安定の下で、ヨーロッパからアフリカ北部、中東がひとつの市場のようになり、自由な交易が発展しましたが、それに伴って、商人たちが大きな力を持ち、政治権力さえもお金で左右される事態が生まれました。
これは現代のグローバル市場経済の先駆けのようなものです。そして、現代、その流れはインターネットの普及とともに世界に広がっています。物もお金も、民族や国語の相違を超えて取引され、富裕な人は、もう国境や文化の枠を越えて活動しています。そして、貧富の格差はどんどん広がり、政治もお金に左右されます。しかも、多国籍企業には、国の規制も効果がないばかりか、本社移転がないように国がご機嫌をとらなければならないほどです。
そのような中では、ひとりひとりの価値が、「どれだけお金を稼ぐことができるか」という基準によって図られるようになります。そして、お金にたましいを売ってしまった「銭(ぜに)ゲバ」のような人が力を持ってしまいます。
そして、この「大淫婦」の姿が、「その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』という名であった。そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た」(17:5、6)と描かれます。
これは、グローバリゼージョンの波の中で、誠実な仕事をしている信仰者たちが時代の変化に乗り遅れ、職を失って血を流すような事態を指しています。お金持ちは、自分が育ててもいない会社を買収し、自分に忠誠を誓わない社員を辞めさせることだってできるのです。
ところが、そのような中で、不思議な展開も起きます。それが、「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります」(17:15、16)という記述です。
いつの世にも、お金に支配された権力は、やがて貧しい大衆の支持を取り付けた新しい権力者によって滅ぼされてきました。つまり、暴力の支配が富の支配を打ち砕くということがあるのです。富と暴力は、どこかでぶつかり合い、自滅してゆきます。私たちは、その背後に、傲慢な者をさばく、目に見えない神のご支配を見ることができます。
そして、この大淫婦があっけなく滅びさるときに、「彼女から富を得ていた商人たちは・・・泣き悲しんで」、「わざわいが来た。わざわいが来た。麻布、紫布、緋布を着て、金、宝石、真珠を飾りにしていた大きな都よ。あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった」と言います(18:16,17)。
また、「すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たちも、遠く離れて立っていて、彼女が焼かれる煙を見て・・頭にちりをかぶって、泣き悲しみ、『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは』と叫んで言う」と描かれます(18:18、19)。これはこの大淫婦により頼んでいた多くの小金持ちの嘆きを表現した姿です。
日本でも、この二十年間のうちにバブルがはじける姿を二度も体験しました。そのたびごとに、安易に金儲けに走っていた人たちが、大損をし、嘆きに沈んで行きました。
ただし、「お金は大事だよ・・」と言われることも真実です。最近は、「市場原理主義」などと、市場経済が軽蔑されるような論調も聞かれますが、人類は、自由市場経済にまさる効率的な資源の配分と商品の分配システムを発見することはできていません。
今から250年近く前の英国で、アダム・スミスが「国富論」という書を記し、その発想は今も多くの人々に示唆を与え続けています。そこで彼は、自由な市場経済のもとでは、ひとりひとりが自分自身の利益を追求することによって、結果的に社会全体の利益をもたらす一方で、公共の利益のために仕事をするなどと気取っている人々が、社会全体の大きな利益をもたらしたなどという例を見たことがない、自由市場の中では、まじめに利潤追求を考えている人が、(神の)見えない手に導かれて、結果的に社会全体の資源配分が効率化されると言っています。
権力は時とともに必ず腐敗します。人民を自由にするはずの共産主義が、どれほど多くの人々を死に追いやり、環境破壊をもたらしたかを見れば、市場原理を軽蔑することの危険性がよくわかります。
お金も市場経済も、本当に役に立つからこそ、偶像になってしまうのです。知らないうちに、人も自分も、その価値を市場原理で計ってしまうようになるというのが、大バビロンの誘惑です。そのとき、人はお金の奴隷になっているのです。
お金は使うものであって、お金にあなたの人生の方向を決めさせては決してなりません。これは、教会にも言えることです。お金があれば教会堂もすぐに建ちます。しかし、その会堂建設のための予算が一人歩きするときに、教会は堕落を始めます。「新しい天と新しい地」のビジョンがお金の影にかすんではなりません。
3.「新しいエルサレム・・・が天から下ってくる」
なお、このようにこの世の富の力は、あっけなく自滅しますが、信仰者を迫害するこの世の権力はどうなるのでしょう。その鍵のことばが、「ハルマゲドン」です。しばしば、これは誤って、『人類最終戦争』などと解釈されますが、果たしてそうでしょうか?
黙示録16章12-16節を見ると、「竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て・・・全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである・・・こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた」と記されます。これは私たちにとって恐怖ではなく、サタンの勢力の断末魔のもがきに過ぎません。
そして、ハルマゲドンの戦いの結末は、19章11-21節に描かれています。そこでは、再臨のイエスが、「白い馬」に乗って現れ、「義をもってさばきをし、戦いをされる」とまず記されます(19:11)。しかも、「その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれ」ます(19:13)。そして、その方の、「着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた」というのです(19:16)。
その上で、戦いの結末があまりにもあっけなく、「私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた」と描かれます(19:19、20)。
つまり、信者がこの世の権力者と戦いを交えることはないのです。戦いは、キリストの御口から出ている「鋭い剣」によって(19:15)、一瞬のうちに勝敗がつきます。私たちに求められているのは、「神のことば」と言われるキリストから目を離さず、偶像礼拝の圧力に屈しないということだけです。
その上で、黙示録20章では、サタンが捕らえられ、「千年の間縛られる」(20:2)と記されます。そしてこのとき、偶像礼拝の圧力に屈しなかった信仰者は「生き返って、キリストとともに千年の間王となった」(20:4)と描かれます。これはしばしば、千年王国と呼ばれます。これは「エデンの園」で人間を誘惑した悪魔、「古い蛇」(20:2)を最終的に滅ぼすための過程にあることです。
これは、神が、古い蛇をも支配し、この地に平和を実現することができるということのシンボルです。この意味は、「神は・・世を愛された」(ヨハネ3:16)という点にあります。神はこの目に見える世界を愛しておられるからこそ、すべてを新しくする前に、この地に平和を実現してくださるのです。
しかも、黙示録には、サタンによる大迫害の中で信仰者が耐え忍ぶべき期間が、「四十二か月」(11:2、13:5)「千二百六十日」(11:3、12:6)、「一時と二時と半時の間」(12:14)と記されていますが、これはすべて「三年半」という期間に相当します。
つまり、苦しみは三年半で終わり、平和と喜びは千年間も続くという対比がここに強調されているのです。ですから矢内原氏も、戦時下の苦しみは、「ひと時の悪夢であった」と語りながら、黙示録によって、そのような時期はすぐに終わると確信でき、耐えることができたと告白しているのです。
その上で、20章11、12節では、すべての「死んだ人々」が、神の法廷、「大きな白い御座」の前に立たされ、「行いに応じてさばかれた」と記されます。これは最後の審判のときですが、これは信者に対するさばきではありません。これはあくまで、「いのちの書に名が記されていない者」に対するさばきであると繰り返されています(20:12,15)。信仰者が立たされるのは、私たちのために死んでくださった「キリストのさばきの座」であり、そこでは、キリストのために労苦しながらこの地上で報われなかった働きに対する「報いを受ける」のです(Ⅱコリント5:10)。
しかも、先にあった、獣を拝み、偶像礼拝の刻印を押されるのは、「いのちの書に・・名の書き記されていない者」であると記されています(13:8)。つまり、信仰を守り通すのも、すべて、神の一方的なあわれみによる「選び」によるのです。
そして、私たちの人生のゴールのことが、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た・・・『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(21:1-4)と美しく描かれています。
興味深いのは、私たちが天に上るというのではなく、「新しいエルサレム・・・が天から下ってくる」と記されている点です。つまり、私たちに求められていることは、天国に引き上げられることを憧れながら、現実逃避的な生き方をすることではなく、神がこの地を変えてくださることを待ち望みながら、今、置かれている場所で、黙々と目の前の課題に取り組み、いつでもどこでも、主を仰ぎ、主を礼拝し続けることなのです。
黙示録を概観してわかることは、私たちはこの世で、富と権力の誘惑にさらされながら生きるということです。神の祝福とは、私たちを様々な災いや試練に会わせないことではなく、それらを通して成長させてくださることにあります。
どちらにしても、気楽な人生を神に期待しても無駄です。私たちは十字架にかかられたキリストの御跡を従うように召されています。数多くの涙が流され、悲しみ、叫び、苦しみがあります。しかし、ほんとうに辛い時期は、ほんの一瞬に過ぎません。それよりも、多くの信仰者にとって最も永続的な困難は、富の誘惑に抵抗し続けることではないでしょうか。そこに霊的な戦いの中心があります。「大バビロン」の誘惑は目の前にいつもあります。
ですからイエスは、「あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません・・神の国とその義とを第一に求めなさい」と言われました(マタイ6:24,33)。しかも、「神の国を求める(原文:捜す)」ということを具体的に実践することの中心をイエスは、「空の鳥を見なさい」、また「野のゆりを観察しなさい」というふたつで表現されました。これはお金のかからない神の国の楽しみ方です。
しかも、私たちが迫害に耐えることができるのは、「いのちの書に名が記されている」ことの結果に過ぎません。つまり、信仰の鍛錬の中心とは、自分の心と体を苦しめながら抵抗力をつけてゆくというようなことではなく、神の恵みのひとつひとつを思い起こし続けることなのです。苦しみはどちらにしても、必ずやってきます。そのとき、恵みの体験が、何よりも、苦しみに耐える力の源泉となるのです。
Courageousという映画のことを聞きました。そこである会社に採用されたばかりの男性が上司から不正を行なうように求められる場面があり、命令に従って不正を行なうなら、昇進・昇給が待っていると上司に言われてしまいます。その男性は貧しく、それはやっと得られた職でしたので(しかも神様の導きで得られた職だと思っていました)、それを失いたくはありませんでした。失ったら家族をがっかりさせるのは分かっていたからです。
しかし、それでも、彼は正直であることを選びました。彼は、職を失う覚悟を決め、その結果(Consequence)を引き受けようとしました。ところが、その結果(Outcome)は意外なものでした。彼は反対に昇進・昇給をもらうことができたのです。なぜなら、その上司は、正直な部下を求めていて、実はこれはテストだったからです。上司は、「おめでとう、私が求めていたのは君のような正直な男だ。ぜひ君にこのポジションについてもらいたい」と言ったとのことです。
私たちは日々の仕事の中で、因果関係が明確と思えることにきちんと向き合う必要があります。仕事をさぼると結果がでないというのは当然のConsequence(成り行き)です。しかし、まじめにやったからと言って結果(Outcome)が見えるとは限りません。時には、誠実に働いた成果(Outcome)を人に奪われることだってあり得ます。
しかし、神の前に誠実に生きるとは、ときにそれが自分に損になるとわかっていても、その結果(Consequence)を引き受けるという覚悟を決めることです。なぜなら、そこには必ず、永遠の観点から見た別の結果(Consequence)もあるからです。それは、「誠実さこそが、神に喜ばれる」ということです。
そして、神は最終的には、あなたの誠実さに報いてくださいます。短期的にはその結果(Outcome)が見えるのは映画の世界かもしれません。しかし、「信仰」ということばは、ヘブル語でもギリシャ語でも、「真実」という意味が基本にあります。信仰とは、神の真実に応答する私たちの真実です。「アーメン」とは、「これは真実です」という意味です。
黙示録のテーマは、不条理に満ちた世界で、神の真実に信頼して歩むということです。大バビロンへの警戒心から、この世の経済活動や富を否定的に見すぎてはなりません。お金を軽く見る人は、結局、周りの人々にとてつもない迷惑をかけることになります。
神は、あなたの誠実さに必ず報いてくださいます。確かに、強欲資本主義などと言われる現実があります。だからといって、この世の経済活動が神から離れたものだと見てはなりません。近代資本主義は、神の眼差しを意識した誠実な人々によって築かれてきたという面も決して否定できない事実です。神の前に誠実な仕事を続けましょう。