2011年2月5日
キリスト教会では、時に、神のさばきを語り、罪の自覚を強く促した上で、赦しの喜びを告げようとしますが、それは人を委縮させる方向に働きます。しかも、恐怖心によって人を支配するのは、人を奴隷状態に留めることに他なりません。
しばしば、「あの人は、罪の自覚が足りないから、救いが分からない」と言われることがあり、それは確かに間違ってはいないのですが、それよりも切実なのは、生きることへの不安や心の奥底にある無力感、主体性のない奴隷根性ではないでしょうか。それは旧約に描かれたイスラエルの民の課題でもありました。
ここに記される祈りは、時間的には旧約の時代のほとんど最後の記録で、もっとも新約の時代に近いものです。ここには旧約聖書の要約が記されています。そして、それは「神の真実を思い起こす」というひとことで表現できます。
箴言には「人の望むものは、(人の)変わらぬ愛である」(19:22)と記されていますが、「変わらぬ愛」とは、ヘブル語の最も美しいことばのひとつ、「ヘセッド」です。これは、「失敗しない愛」「真実の愛」「忠実さ」とも訳すことができます。人が心の底で求めているのは、そのような真実な愛であり、聖書はそのような神の愛の物語なのです。
1.「あなたは正しい方だからです」
「その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった」(9:1)とは、仮庵の祭りが終わった直後に、自分たちの過去の罪を告白する集会を持ったという意味です。これは通常のリズムの逆です。レビ記23章では、現在の9~10月にあたるこの月の十日が「贖罪の日」で(27節)、その日に、断食をして全国民が悔い改めの祈りをささげました。
しかしこのときは、城壁の再建を心から喜び、ヨシュア以来の盛大な仮庵の祭りを祝い、豊かな祝宴の時を持ちました。この断食の集会は、それに続くものです。これはイスラエルの歴史の転換点でしたから、主の導きを心から喜んだ上で、真剣な悔い改めに導かれるというのは極めて合理的です。
そこで、「すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した」(9:2)とは、エズラ9,10章にあった記事の連続です。外国人の妻をめとった者は、彼女たちと縁を切り、神の民としての自覚を深める必要がありました。
そして、「彼らはその所に立ったままで、昼の四分の一は、彼らの神、主(ヤハウェ)の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主(ヤハウェ)を礼拝した」(9:3)とありますが、彼らは一日の半分を主との交わりのために用いました。いけにえをささげることよりも、みことばの朗読を聞き、罪の告白に多くの時間を費やすというのは、捕囚期以降の神の民の礼拝生活の核心になりました。
それから「ヨシュア、バニ、カデミエル、シェバヌヤ、シェレベヤ」など八人のレビ人は、「レビ人の台の上に立ち上がり」、「彼らの神、主(ヤハウェ)への賛美をリードしました」(9:4、5)。
そしてその賛美の核心は、「ただ、あなただけが主(ヤハウェ)です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります」(9:6)というもので、神がアブラハム以来の神の民をどのように導いてくださったかを振り返って、それを思い起こすことでした。
すべての始まりは、神がアブラハムを選んで、「カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の地を、彼と彼の子孫に与えるとの契約を彼と結び、あなたの約束を果たされました」(9:8)という点にあります。そのことは創世記15章に記されていますが、その約束がダビデ、ソロモンの時代に成就しました。
その理由を、「あなたは正しい方だからです」と述べますが、これこそ聖書のストーリーの核心、「神の真実」を表現したものです。
なお、6節の初めと、8節の終わりでは、ヘブル語の「あなた」という人称代名詞に注目が集まるように記されています。「あなただけが主(ヤハウェ)・・・あなたは正しい方」ということばの重さを味わってみましょう。
2.「四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われた」
そして、それに至るプロセスで、これも創世記15章に記されている通り、神はアブラハムの子孫をエジプトの地で増やし、その上でエジプトから導き出しました。
その際、主は、「パロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行われ」(9:10)、「彼らの前で海を分け」、「昼間は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らにその行くべき道を照らされました」(9:11、12)。
そればかりか、何よりも主は、「シナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことの律法、良きおきてと命令を彼らにお与えになりました」(9:13)。
シナイ律法は、人に罪を知らすための「おきて」である前に、イスラエルの民を神の民として整えるために神からの最高の贈り物でした。なぜなら、その中心は何よりも、主の「聖なる安息を彼らに教え」ることにあったからです(9:14)。多くの人々は、安息日律法こそ、主からの最高の恵みの教えであることを忘れてはいないでしょうか。
自分の労働がすべての富の源泉となると思う人は、権力や富の奴隷となる可能性があります。それで、主は、不思議にも、ご自身の恵みこそがすべての源であることを、働くことができない荒野の旅路を通して教えてくださいました。
そのことが、「彼らが飢えたときには、天からパンを彼らに与え、彼らが渇いたときには、岩から水を出し、こうして、彼らに与えると誓われたその地を所有するために進んで行くよう彼らに命じられました」(9:15)と記されています。
ところが、不思議にも、「彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行われた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました」(9:17)というのです。イスラエルの民は、自由な民となるように召されたその始まりにおいて、目に見えない神を愛し、安息日を守るという主体的な生き方よりも、考えること自体を停止する奴隷に状態に戻ることを望んだというのです。
第二次大戦時にドイツ人をマインドコントロールする先頭に立ったナチス・ドイツの宣伝大臣だったゲッペルスは、「民衆は上品に支配されること以外なにも望まない」と豪語しましたが、残念ながら多くの人は、明日何が起こるかわからない新しい冒険に踏み出すよりも、何も考えなくてもパンが与えられる奴隷のような状態を待ち望んでいる面があります。
イスラエルの民が行った最も大きな罪は、「自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ』と言って、ひどい侮辱を加えた」ことでした(9:18)。
しかしその時でさえ、主は、「大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました」(9:19)というのです。
ただ、その際、誤解してはならないのは、主が彼らに示されたのは、その日その日の導きであって、一年後、二年後の計画ではありませんでした。それは私たちにも言えます。それはヘンリ・ナウエンが、「今から一年、十年、二十年後に、私たちはどこにいるかを知らない。しかし、わかっていることは、人間は苦しむものであり、その苦しみを分かち合うことにより前進することができるということである」と言っている通りです。
このときレビ人たちは、主のみわざを、「あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜り、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした」(9:20、21)と表現しますが、これは申命記8章2-4節に由来します。
そして、イエスは荒野で悪魔から石をパンに変えるようにとの誘惑を受けたときに、この箇所から、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)と言われました。
主は、彼らの信仰を成長させるために、試練とパンをセットで与えてくださいました。私たちの人生でも、振り返って見ると、試練とパンはセットで与えられていたのではないでしょうか。しかし、私たちはしばしば待つことができず、目先の現実に不満ばかり言います。これこそ、奴隷根性です。
3.「あなたは、情け深く、あわれみ深い神であられますから」
主は、彼らの信仰を養った上で、目に見える地上の王との戦いに導き、それに勝利を与え、約束の地を占領することができるようにされました。これらすべてのことをまとめて、「あなたは彼らの子孫を空の星のようにふやし、彼らの先祖たちに、入って行って所有せよ、と言われた地に、彼らを導き入れられました」(9:23)と告白されます。
その上で、ダビデ、ソロモンの時代の繁栄に至る祝福が、「こうして、彼らは城壁のある町々と、肥えた土地を攻め取り、あらゆる良い物の満ちた家、掘り井戸、ぶどう畑、オリーブ畑、および果樹をたくさん手に入れました。それで、彼らは食べて、満腹し、肥え太って、あなたの大いなる恵みを楽しみました」(9:25)と振り返られます。
しかし、彼らは、豊かさの中で神を忘れてしまいました。残念ながら、人は、そのような中で、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」(申命記8:17)と言うようになってしまいました。そればかりか、「彼らは反抗的で、あなたに反逆し、あなたの律法をうしろに投げ捨て、あなたに立ち返らせようとして彼らを戒めたあなたの預言者たちを殺し、ひどい侮辱を加え」るというようなことをしました(9:26)。
27,28節には、主が彼らの不従順にさばきを下し、彼らが苦しみの中で、主に叫び求めると、主はあわれんで救い出してくださったという物語が描かれており、これは士帥の時代から、ダビデの時代までのすべてを指すと思われます。
その様子が、「しかし、ひと息つくと、彼らはまた・・悪事を行い・・あなたは彼らを敵の手にゆだねられ・・彼らが立ち返って、あなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ・・彼らを救い出されました」(28節)と記されます。なお、ダビデは非道なことをしましたが、自分の罪を嘆き、悔い改めるということにおいて、神に誰よりも喜ばれた王でした。
しかし、ソロモン以降の王の時代においては、イスラエルの悔い改めはいつも不徹底な状態になりました。そのことが29節では、「あなたは彼らを戒めて、彼らをあなたの律法に立ち返らせようとされましたが・・・肩を怒らして、うなじをこわくし、聞き入れようとはしませんでした」と描かれます。
それに対する主の対応が、30節では、「それでも、あなたは何年も彼らを忍び、あなたの預言者たちを通して、あなたの霊によって彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けませんでした」と描かれた上で、それに対する主のさばきが、「それであなたは、彼らを国々の民の手に渡されました」(9:30)と描かれます。これは最終的に、アッシリヤによって北王国イスラエルが滅ぼされ、南王国ユダがバビロンによって滅ぼされて行くということを指します。
信仰の落とし穴に、「安価な恵み」ということばがあります。それは、「神は最終的には赦してくださる」という確信のもとに、罪を犯すことに心を痛めなくなることです。しかし、それこそ最大の悲惨です。カエルを水に入れて時間をかけて水を徐々に熱くして行くと、痛みを感じることなくゆでガエルになるという話がありますが、罪の痛みを感じなくなった者に、罪の赦しのメッセ―ジは響かなくなります。その人は、生活が完全に破たんしない限り、自分の愚かさを実感することはできません。
神は良心の麻痺した者を悔い改めに導くためには、その人をどん底の苦しみにまで、速やかに落とす必要がありました。
そして、31節の終わりでは再びヘブル語の「あなた」という人称代名詞を用いながら、「しかし、あなたは大いなるあわれみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは、情け深く、あわれみ深い神であられますから」と言いながら、6節以降の歴史の振り返りを閉じます。
神は、イスラエルの国を滅ぼすことによって、ユダヤ人を神の民として整えられました。皮肉にも、ユダヤ人はこのバビロン捕囚という苦しみを経ることによって初めて「神の真実」に目覚め、現代まで続く神の民としてのアイデンティティーを持つようになりました。
4.「ご覧ください。私たちは今、奴隷です」
その上で、彼らの祈りが、「私たちの神、契約と恵みを守られる、大いなる、力強い、恐るべき神よ。アッシリヤの王たちの時代から今日まで、私たちと私たちの王たち、私たちのつかさ、祭司、預言者たち、また、私たちの先祖と、あなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さい事とみなさないでください」(9:32)と記されます。これは、自分たちは十分にさばきを受けたので、再び回復させてくださいという懇願です。
そして、33節では8節と同じように、「あなたは正しかった」と告白しながら、「あなたは誠実をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです。私たちの王たち、つかさたち、祭司たち、先祖たちは・・・広くて肥えた土地のうちにありながら、あなたに仕えず・・悪い行いから、立ち返りもしませんでした」(9:33-35)と、バビロン捕囚が正当なさばきであったことを認める告白します。
そして、36節では再び、自分たちの悩みを訴えながら、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りと、その良い物を食べるようにされたこの地で、ご覧ください、私たちは奴隷です」と、「奴隷」ということばを強調しながら、神にある真の救いを求めます。
彼らはこのとき、ペルシャの王のもとで束の間の平和と繁栄を享受し、エルサレム神殿も城壁も再建することができましたが、彼らの立場は、王の心次第ひとつで変わる不安定なものです。実際、その後も、ギリシャ、ローマなどの異教徒の王に支配され続けることになります。
そのことを思いながら、彼らは自分たちの祈りを、「私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられました・・・彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります」と閉じます(37節)。
イエスの時代の人々が望んでいたことは、この「奴隷」状態から救い出されることでした。ただ、彼らは確かに自由を求めていましたが、目に見えるローマ帝国の支配を打ち破っても、次の地上の王国は必ず次の奴隷状態を生み出します。奴隷根性のままの人間は、目先の恐怖にばかり反応するからです。
しかし、主の救いは、「死の力」を滅ぼすことによって、この世の王国の暴力による支配を無力化することでした。ヘブル書の著者は、神の御子が人となり十字架にかかられた意味を次のように語っています。「これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(2:14,15)。
5.「こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである」
これらの祈りに同意した者たちが、「これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した」(9:38)と描かれます。
そして、10章では、印を押した者のリストが、祭司、レビ人、民のかしらたちの順番に記されながら、28,29節では、「このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また、国々の民と縁を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は・・・主(ヤハウェ)のすべての命令、その定めとおきてを守り行うための、のろいと誓いとに加わった」と記されます。これは子供までも含む盟約でした(8:2参照)。
「のろいと誓い」とは契約の当事者が「二つに断ち切られた子牛の間を通る」(エレミヤ34:18)ことで、契約を破った者への「のろい」が警告されることを指します。ユダ王国滅亡の直前、ゼデキヤ王は主に立ち返ってヘブル人の奴隷を解放すると一度は約束しましたが、政治状況が一時的に好転すると、約束を反故にしました。
その無節操な王に「のろい」が下されました。彼はバビロンの王に捕えられ、目の前で子供たちが虐殺された後、目をつぶされ、青銅の足かせにつながれてバビロンに連行されました(同39:6,7)。奴隷根性に支配された王の結末でした。
そして、彼らが結んだ盟約の内容が30節から記されます。
それは、第一に、「私たちの娘をこの地の民たちにとつがせず、また、彼らの娘を私たちの息子にめとらない」というもので、エズラ記9,10章の再確認でした。
第二は、「たとい、この地の民たちが安息日に・・いろいろな穀物を売りに持って来ても・・彼らから買わない」(10:31)というもので、安息日律法に関わるものでした。異教徒との取引を考える時に、このような約束を実行することには大きな覚悟が要りますが、これを守らなければ安息日律法がなし崩し的に破られることになります。
第三は、「私たちは七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない」(10:31)というものでした。土地の休息はレビ記25章に記されますが、これを通して土地の真の所有者は主であることが告白されるとともに、土地は生産力を回復しました。これは現在のサバティカルの習慣に通じます。
また、申命記15章では、七年に一度、同胞に対する負債を免除するという規定がありました。七年に一度は、同胞同士の借金が棒引きにされ、奴隷も解放され、新たな出発ができるはずでした。これは貧富の格差が広がることへの大きな歯止めになりました。
第四は律法には記されていない盟約で、「神の宮の礼拝のために、毎年シェケルの三分の一をささげるとの命令を自分たちで定めた」(10:32)というものでした。これは神殿礼拝をより豊かなものにするためにそれぞれが犠牲を払うという約束でした。
現代の私たちの礼拝においても、それぞれが犠牲を払うという互いの約束が必要です。神の民の共同体の改革は礼拝の改革から始まりました。毎回、奴隷のように、決められたことをこなし続けるというのではなく、礼拝を豊かにするために、主体的に互いに犠牲を払うという約束が求められています。
第五は、「祭壇の上で燃やすたきぎのささげ物」(10:34)に関しての約束でした。これは祭壇の火を燃やし続けるために、誰かの命令に従うというより、担当者が自ら進んで、くじびきで当番を決めるというものでした。
第六は初穂のささげものに関しての約束でした(10:35)。私たちも収穫の初穂を、当然の報酬と見る前に主に感謝して献げるという思いが大切です。そして、それは子供の誕生や家畜の初子にまで適用されました(10:36)。
第七は十分の一を主のものとするという約束です。なお、「私たちの土地の十分の一はレビ人たちのものとした」(10:37)とは、土地の収穫の十分の一をレビ人のものとし、その収穫作業自体をレビ人に任せるという意味です。そして、レビ人は受け取ったものの十分の一を、さらに神の宮に携え上るように命じられました。
そして、それらの結論として、「こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである」(10:39)と記されます。収穫の十分の一は、神殿で奉仕をする人々の手に渡り、奉仕者の十分の一が神殿に直接ささげられました。このシステムが機能するとき、礼拝は常に祝福され、主への礼拝を中心として神の民が祝福を受けることができました。
ネヘミヤの改革のもとで、彼らが改めて律法を読み、それを実生活に適用するために約束したことは、現代の私たちにも多くの示唆を与えるものではないでしょうか。そこには民の主体的な応答が認められます。
神は、反抗的で恩知らずなイスラエルの民を、忍耐をもって導きました。神は彼らに、神を恐れることを教えるために、様々な試練を与えました。しかし、彼らはそれを通して、神の真実に応答する責任を自覚できるようになりました。そして、私たちは、自分の信仰心によってというよりは、神の真実によって、救われるのです。
信仰の成長とは、神の真実に関して霊の目が開かれて行くことに他なりません。そのとき人は、目先の恐怖に反応する生き方から、不安定な状況のただ中で神の救いを待つという心の自由を持つことができます。
なお、律法の核心は、何よりも、安息日の教えにあります。それは人間を、富や権力の奴隷にしないための教えでした。そして、隣人愛の核心とは、何よりも、人を力で脅して動かそうとしないことです。七年に一度、奴隷を解放し、借金を棒引きにするということが実践されていたとしたら、イスラエルは地上の楽園になっていたことでしょう。