約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年冬号より

霊性神学の分野で有名なユージン・ピーターソン氏は、詩篇120-134篇の「都上りの歌」の解説書の表題に、無神論哲学者ニーチェのことばを用いました。それは、“A Long Obedience in the Same Direction(長期にわたる同一方向への服従)”というものです。ニーチェは、キリスト教は弱者の道徳であり、負け犬の遠吠えのような態度を肯定し、人間に本来与えられている「生きる力」を減らし、愚民化する方向に働いていると非難しました。ピーターソン氏は、現代のクリスチャンが、しばしば、身近な解決策ばかりを求め、結果を待つ忍耐心が欠けてゆく傾向にあることに心を痛め、ニーチェの警告にも耳を傾ける必要を感じたのだと思われます。ニーチェは、「無事安泰を願うとは、人間の没落を望むことであり……苦悩の、大いなる苦悩の訓練 ― ただ、この訓練のみが人間のすべての成長を創り出した」と言いました。

聖書、特に旧約聖書に親しんでゆくときに、私たちはニーチェの批判が全く的外れなことに気づきますが、しかし、同時に、現代の多くの信仰者が無意識のうちにもインスタントな信仰を求め、人間としての健全な成長を求めなくなっているような気がします。たとえば私自身もメッセージをしながら、「そのままで良いんですね……ホッとしました」などという感想をいただくことがあると、複雑な思いになることがあります。なぜなら、私は常に、「そのままの姿で、イエス様に従う」という「服従」を説いているつもりだからです。もちろん、それは盲従ではなく、自分の心の声に優しく耳を傾けながらの自由な歩みではありますが……

たとえば、多くの人は、「神にゆだねる」ということを「最善をあきらめる」という意味に誤解することがあります。しかし、「神のみこころならば、道が開かれるはずだ……」などと言いながら、期待した結果が出なければすぐに努力をあきらめて、「みこころではなかった……」などというのは、まさにニーチェが危惧した「弱者の道徳」になりかねません。

聖書に登場する人物、アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、サムエル、ダビデ、エレミヤなど、どの人が、「祈ると、すぐに期待通りの結果が得られた」などということがあるでしょう。みんな、遠回りしながら、苦悩しながら、神との交わりを深めて行った人々です。ヘブル書の著者は、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です……霊の父は、私たちの益のために、私たちをご自身の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(10:36、12:10) と記しています。つまり、神のみこころに沿った歩みとは、次々と道が開かれることなどではなく、多くの場合、苦悩の中で、示された目標をあきらめることなく、忍耐を尽くし続けることなのです。神は私たちのうちに「キリストが形造られる」ことを願っておられますが (ガラテヤ4:19)。そのために必要なのは、“A Long Obedience in the Same Direction(長期にわたる同一方向への服従)”、つまり、忍耐してイエスに従うことなのです。

物事が期待通りに運ばないとき、「神のみこころは違う方向では……」などと疑う前に、今ここで明らかな主のみこころ、神を賛美し、感謝し、罪を告白し、世界、教会、隣人のために祈るということを実践すべきでしょう。何事でもインスタントな解決が求められる現代社会において、忍耐しながら真の神のみこころの実現を慕い求める者となりましょう。