2012年1月8日
16世紀の甲斐の大名の武田信玄のことばに、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」ということばがあり、これが1961年に作られた民謡歌曲では、「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」と歌われています。信玄は強固な城を築くよりも家臣たちとの心の繋がりこそが最大の防御になると信じました。そして、徳川家康は信玄に敗北することを通してそれらの原則を学び、それが徳川幕府の長期政権へと結びつきます。
ただ、目に見える城壁が不必要だったわけではありません。人心が乱れるとき城は必要になります。その備えができていなかったことが武田家滅亡に結びつきました。
信玄の二千年前に生きたネヘミヤは、エルサレム城壁の再建と並行して、共同体を建てあげることに心を傾けました。なぜなら、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちの間には貧富の格差が広がり、神の民の敵たちは、何よりも指導者ネヘミヤとユダヤ人貴族の間に不信の種を蒔くことに必死になっていたからです。
今、私たちは教会堂建設に向けて動き出していますが、その際に注意すべきことがあります。
1.民とその妻たちの抗議とネヘミヤの対応
5章初めで、バビロン捕囚から帰還してエルサレムとその周辺に住んでいる貧しい民の訴えが、「ときに、民とその妻たちは、その同胞のユダヤ人たちに対して強い抗議の声をあげた」と記されますが、特に、「妻たち」とあるのは、夫たちが自分から進んで城壁の修理のために身をささげ、夜になっても服を脱がず、投槍を手にして休み、また投槍を手にしながら荷物を運ぶというような過酷な働きを続けていたからでしょう。妻たちはそれを理解しつつも、子供たちに与える食べ物が日に日に不足してくる様子を見て、不安なり、豊かな人々に抗議の声を挙げました。
現代の教会でも、自分の伴侶が仕事ばかりか教会奉仕にも忙しくしている中で、もっと家庭を顧みてほしいという訴えがなされることがありますが、当時の悲惨は想像を超えていました。飢饉がのために飢え死にする恐れさえあると思われていました。
ここに記されてはいませんが、彼女たちの中には、「こんな大変なときに、なぜネヘミヤは城壁再建をそれほど急ぐのか・・・」という、声にならない不満が募っていた可能性があります。
第一の訴えは、「このききんに際し、穀物を手に入れるために、私たちの畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない」(5:3)というものでした。これは、子供たちに食べさせるために、土地や家を抵当に穀物を借りる必要があったということです。
出エジプト記22章では、同胞の貧しい者に金を貸すときに、隣人の着る物を質に取るようなことをしてはならないと記されていましたが(25-27節)、捕囚から約束の地に帰ってきた者が、ようやく取り戻した相続地を借金の抵当として同胞に差し出す必要があるなどということは、あってはならないことでした。
また、5章4,5節では、ペルシャ王に支払う税金のための借金の抵当として同胞に土地を差し出してしまった者たちが、今度は、穀物を手に入れるために息子や娘たちを奴隷に売らなければならないと訴えます。
その際、「私たちの肉は私たちの兄弟の肉と同じであり、私たちの子どもも彼らの子どもと同じなのだ」と、同じ神の民に対する借金のために奴隷にされる不条理を問題にします。なお、ネヘミヤはペルシャ王から派遣された総督でしたから、ここには、彼に対する不満の気持ちも込められていました。
ただし、律法では外国人を奴隷にすることは認められていましたが、同胞を奴隷にすることは堅く禁じられていました(レビ記25:39-46)。
イスラエルではかつての王政のもとでは、貧富の格差が広がり、同胞間で利息や抵当をとってお金を貸すことは日常茶飯事になってしまっていました。神がイスラエル王国を滅ぼした理由の一つは、神の国としてこの世に模範を示すはずの国で恐ろしい不正がまかり通っていたからです。
ところが、バビロン捕囚から帰って来た人々は再び、昔の過ちを繰り返し、この世の経済原理でお金の貸し借りを行い、貧富の格差を広げていました。彼らは熱い理想を抱いてエルサレムに帰って来たはずなのに、約90年が経過した時点で昔と同じようになっていました。そこに城壁再建プロジェクトが急に始まったのですから、民と妻たちの抗議が激しくなったのだと思われます。
ネヘミヤは「彼らの不平と、これらのことばを聞いて、非常に怒った」(5:6)というのですが、その怒りは、このように同胞が互いを苦しめ合っていることに対してのものでした。
ただし、彼はまず「私は十分考えたうえで」(5:7)とありますが、これは直訳的には「私の心を治めたうえで」と訳すこともできることばで、怒りの感情に振り回される代わりに、自分の心の王として自分の感情を治めたという意味が込められています。感情を爆発させてしまっては、かえって反発を招くことがあるからです。
そして、彼は、「おもだった者たちや代表者たちを非難して」「あなたがたはみな、自分の兄弟たちに、担保を取って金を貸している」と、彼らの行為が律法に反していると言いました。
その際、ネヘミヤは彼らに対しての「大集会を開いて」、彼が自分の資産を用いて、異邦人からできるだけ多くのユダヤ人の奴隷を買い戻して自由人にしてきたのに、ユダヤ人の金持ちたちがそのまったく逆に「自分の兄弟たちを売ろうとしている」と非難しました(5:8)。それに対し「彼らは黙ってしまい、一言も言いだせなかった」と記されています。彼らにはネヘミヤの言葉が口先だけのきれいごとではないことが分かったからです。
2.貧富の格差を縮め、民の負担を軽減しながら、城壁再建への力を結集する
なおネヘミヤは彼らに向かって、「私たちの神を恐れながら歩むべきではないか」(5:9)と言って、律法の原点に立ち返るようにと訴えました。その上で、「私も、私の親類の者も・・彼らに金や穀物を貸してやったが、私たちはその負債を帳消しにしよう」(5:10)とネヘミヤが率先して負債を帳消しにすると言いました。
申命記15章には「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない」と記され、50年に一度はヨベルの年として、借金を帳消しにするばかりか、その人の土地がなくなっていても、自分の本来の所有地に戻ることができると保障されていましたが、ここでネヘミヤは自分の債務者に同じようなヨベルの年の恩恵を施すと約束しました。ネヘミヤはそのようにする必要はありませんでしたが、他のユダヤ人の模範となるためにより大きな犠牲を払うと約束しました。
その上で、11節は原文では、「だから、あなたがたも、きょう、彼らに返してやりなさい」と記した上で、その対象をまず、借金の抵当としていた「畑、ぶどう畑、オリーブ畑、家」としました。そればかりか、「それにまた、あなたがたが彼らに貸していた金や、穀物、新しいぶどう酒、油などの利子」の返却を勧めました。
彼は借金の帳消しではなく、借金の利息の返却を求めたのです。ここでの「利子」とは原文では「百分の一」と記され、月々の金利が1%、年利では12%の金利の部分を指しています。申命記23章19,20節などでは、「利息を、あなたの同胞から取ってはならない。外国人から利息を取っても良いが・・・」と記されているからです。
ちなみに、イスラム教世界ではこの原則は今も生きています。ただ、彼らはお金を貸す代わりに、商取引の際の名義上の主体となって手数料として徴収したり、また、共同出資という形での投資をしてその収益を得たりという方法を取ることによって資金を運用を行っています。ただ、利子所得の禁止という道徳的な歯止めがあるために、アメリカのように金融取引ばかりが独り歩きするようなことにはならないと言われます。
この勧めに対して、彼らはすぐに、「私たちは返します。彼らから何も要求しません」(5:12)と応答したというのです。それに対してネヘミヤは、「祭司たちを呼び、彼らにこの約束を実行する誓いを立てさせ」たばかりか、自分の「すそを振って」、「この約束を果たさない者を、ひとり残らず、神がこのように、その家とその勤労の実とから振り落としてくださいますように・・」と警告を与えたというのです(5:13)。
それに対し全集団は、「アーメン」と言って、「主(ヤハウェ)をほめたたえ」「こうして、民はこの約束を実行した」と描かれます。
そればかりか、ネヘミヤは「私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった」(5:14)と自分の行動を記します。彼の願いはあくまでもエルサレム城壁を再建することでしたから、それ以上の負担を決してかけないと決めていたのでしょう。
一方、「私の前任の総督たちは民の負担を重くし・・若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった」と自分の行動の背後に、神への恐れがあったと述べます。
引き続き彼は、「私はこの城壁の工事に専念し、私たちは農地を買わなかった。私に仕える若い者たちはみな、工事に集まっていた」(5:16)と記します。
そしてその時の食事の様子が、「ユダヤ人の代表者たち百五十人と、私たちの回りの国々から来る者が、私の食卓についていた。それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭、鶏が私の負担で料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した」(5:18英語のESV訳のprepared at my expenseを参照)と描かれ、すべての料理の彼の負担で出したという面を強調しています。それは民の労働意欲を高めるためでした。
そればかりか、「それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった」(5:18)と、避けられないこととは言え、城壁再建工事自体が民にとっての大きな負担となっていることを十分に理解し、民の負担を少しでも軽くしようと気配りをしていたことを強調します。
たぶん、彼はペルシャ王宮で献酌官として勤めている間に、将来のエルサレム城壁再建のことを覚えてお金を貯めていたのだと思われます。彼はすべての行動を、城壁再建に向けて律していました。
そして、彼は最後に、「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください」(5:19)とまとめました。彼は自分の神だけを見上げて、これらの大きな犠牲を払って行動していました。
3.神の民の分裂を引き起こそうとする敵の策略
6章では城壁の「破れ口は残されていない」という状態になり、あとは「門にとびらを取りつけ」るだけというときになって、サマリヤの支配者サヌバラテとアラブ人ゲシェムがネヘミヤをおびき出そうとしました。彼は四度にわたってその誘いを断りましたが、五度目にサヌバラテは、「一通の開封した手紙」を届けました(6:5)。そこには、「諸国民の間に言いふらされ・・・ているが、あなたとユダヤ人たちは反逆をたくらんでおり、そのために、あなたは城壁を建て直している。このうわさによれば、あなたは彼らの王になろうとしている」(6:6)と書いてありました。
これは、ネヘミヤがペルシャ帝国からの独立を画策しているといううわさに関するもので、それを否定できなければペルシャ王の攻撃があるという看過できない脅しでした。
しかし、彼は慌てることなく、「あなたが言っているようなことはされていない。あなたはそのことを自分でかってに考え出したのだ」(6:8)と返事しました。なぜなら、彼は全能の神の導きのもとで、ペルシャ王アルタシャスタとの信頼関係を築いているという自負があったからだと思われます。
ユダヤ人の敵たちは、城壁再建をペルシャ帝国への反逆行為であると宣伝し、それがユダヤ人の間にも広まって、ユダヤ人たちが「気力を失って工事をやめ、中止する」ことを期待していました(6:9)。なぜなら、ネヘミヤに確信があっても、ユダヤ人たちが疑いを持ってしまえば工事は中断してしまうからです。
それで再びネヘミヤは、主に向かって「ああ、今、私を力づけてください」と簡潔な祈りをささげます。ネヘミヤは何かあるたびに瞬時の祈りをささげています。これこそネヘミヤが主に用いられた秘訣と言えましょう。
そのような中で、ネヘミヤは預言者シェマヤの家を訪ねますが、「彼は引きこもって」いました。これはエルサレムが敵に包囲されていることを象徴的に示した行為かもしれません。そこでシェマヤは預言のことばとして、「私たちは、神の宮、本堂の中で会い、本堂の戸を閉じておこう。彼らがあなたを殺しにやって来るからだ。きっと夜分にあなたを殺しにやって来る」と告げます(6:10)。
ヘブル語原文では、括弧内のことばが預言の言葉とわかるように改行されています。それに対してネヘミヤは、まず、自分は指導者として、「私のような者が逃げてよいものか」と応答します(6:11)。指導者が逃げの姿勢を取るなら集団は総崩れになるからです。
それと同時に、「私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。私は入って行かない」と答えます。これは祭司でない自分が神の宮の本堂に入ってしまえば、神のさばきを受けるという神を恐れる態度の表明です。
その上でネヘミヤは、シェマヤを「遣わしたのは、神ではない」とその偽りを見抜きます(6:12)。なぜなら、主はご自身の律法に反する預言を伝えさせないからです。そして、「彼がこの預言を私に伝えたのは、トビヤとサヌバラテが彼を買収したからである」という敵の策略を見抜きます。トビヤはアモン人を治める役人ではありましたが、ユダヤ人であり、ユダヤ人の祭司や預言者の一族と結びつきがあったからだと思われます。
そして、ネヘミヤは、「彼が買収されたのは、私が恐れ、言われるとおりにして、私が罪を犯すようにするためであり、彼らの悪口の種とし、私をそしるためであった」と敵の策略を解説します(6:13)。ユダヤ人の敵たちはネヘミヤとユダヤ人貴族との間に不信の種を蒔こうとしていました。
先にネヘミヤは彼らに経済的な犠牲を強いるようなことを、大集会を開いて有無を言わせずに決めましたが、それに対する反発があり、敵はその緊張関係を刺激したのかもしれません。いつの時代にも、改革案で既得権益を失う者は陰に隠れて、指導者の足を掬うような計略を謀る傾向があります。
その上で、14節では再びネヘミヤの祈りが記されますが、この書き出しは原文では「覚えてください」です。それは1章8節、5章19節でも同じでした。それは神の正しいさばきを訴える願いです。
そして、その祈りの内容は、「トビヤやサヌバラテのあのしわざと、また、私を恐れさせようとした女預言者ノアデヤや、その他の預言者たちのしわざを忘れないでください」というものでした。女預言者ノアデアが何をしたかは記されていませんが、これは、シェマヤが買収されて偽りの預言をしたと同じようなことが、このときに重ねて起きたということを示唆します。
神の都エルサレムの再建のためにあらゆる犠牲を厭わずに労苦している指導者が、既得権益を守ろうとする人々によって抹殺されようとしています。このような悲惨は、神に従おうとする者が繰り返し味わってきたことでもありました。
ですから、詩篇43篇1節にも、「神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助けだしてください」という祈りがあります。そこでは、神のさばきを願うことと、自分の救いを願うことは、しばしば表裏一体とされています。
4.城壁の完成とトビヤの執拗な混乱作戦
「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した」(6:15)というのは感動的な記述です。アルルの月とはユダヤ歴で第六番目の月で、現在の8,9月を指します。ネヘミヤがアルタシャスタ王に城壁再建を願い出たのはニサンの月、当時のユダヤ暦の第一の月、現在の3,4月でしたから(2:1)、城壁はペルシャ王に願い出てから半年以内に完成したことになります。しかも、それは再建工事が始まってから52日目のことでした。ユダヤ人が90年前にエルサレムに戻っていたことを思えば、これは驚くべき進み方です。
それは神がネヘミヤを立てると同時に、すべてのことを背後で導いておられたからです。それはネヘミヤの不屈の意志と強力なリーダーシップによるものでもありますが、主役は神ご自身でした。ネヘミヤ自身が誰よりもそれを理解していました。
そして、そのことを彼は、「私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである」(6:16)と述べています。
ただ、そのような中で、トビヤとユダヤ人貴族との関係が、「また、そのころ、ユダのおもだった人々は、トビヤのところにひんぱんに手紙を送っており、トビヤも彼らに返事をしていた。それは、トビヤがアラフの子シェカヌヤの婿であり、また、トビヤの子ヨハナンもベレクヤの子メシュラムの娘を妻にめとっていたので、彼と誓いを立てていた者がユダの中に大ぜいいたからである」(6:17、18)と描かれます。
アラフという名はエズラ記2章5節にバビロン捕囚からの最初の帰還者のリストに出てくる名門で、トビヤはその族長の家系の娘婿となっていたというのです。なお、トビヤの子の名ヨハナンは新約ではヨハネと発音されユダヤ人として一般的な名前でした。7章61,62節ではトビヤ族は「先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを証明することができなかった」というリストに入っています。トビヤの家系は、エルサレムへの帰還者の第一陣に中にありながら、冷たい目で見られ、ユダヤ人の貴族たちと縁を結びながらも、ユダヤ人の敵となってしまったのかもしれません。
そして、彼と縁を結んだユダヤ人たちはネヘミヤの前で「トビヤの善行を語り」ながら、裏ではネヘミヤのことばを「彼に伝え」、それに応じて、トビヤはネヘミヤを「おどそうと、たびたび手紙を送って来た」という不健全な関係が続いていました(6:19)。13章ではトビヤが城壁再建後もエルサレムの祭司たちに影響力を発揮していたことが描かれています。
そして、最後に、城壁完成直後の様子が、「城壁が再建され、私がとびらを取りつけたとき、門衛と、歌うたいと、レビ人が任命された。私は、兄弟ハナニと、この城のつかさハナヌヤとに、エルサレムを治めるように命じた。これは、ハナヌヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからである」(7:1、2)と描かれます。
ハナニとは、1章2節では、ペルシャの王宮に仕えていたネヘミヤに最初にエルサレムの悲惨を伝えた人でした。ハナニはそれ以来、ずっとネヘミヤを支え続けてきたのでしょう。またハナヌヤについては「誠実な人」で「神を恐れていた」と記されています。ネヘミヤはエルサレムの指導体制をこれによって固めたのでしょう。
そして、最後に、当時のエルサレムの様子が「この町は広々としていて大きかったが、そのうちの住民は少なく、家もまだ十分に建てられていなかった」(7:4)と描かれます。城壁の再建が遅れていたため町は成長していませんでした。しかし、これからはいよいよ新たな発展を望むことができます。
城壁の再建工事が進む中で、隠れていた社会の矛盾があらわになってきました。ネヘミヤは城壁再建工事を急ぎながらもユダヤ人貴族に立ち向かい、律法の原則に立ち返って貧しい者たちに「情け」をかける政策を実行しました。
それに対し敵は、ユダヤ人の指導者の間を引き裂こうと様々な策略を謀ってきました。何人もの貴族たちが敵によって買収され、ネヘミヤを退ける動きに加担しました。ネヘミヤはそれらの内部の敵に対して、「仇」という恨みで対処する代わりに、すべての問題を神に祈り、神のさばきにゆだねて行きました。
武田信玄のことばをネヘミヤ記によって再解釈することは、現代の教会に有益です。信玄の死から十年後に武田家は滅亡します。徳川家康は武田家の家臣を裏切らせ味方にします。それに怒った勝頼は長篠の合戦で無謀な戦いを仕掛け有能な家来を数多く失います。その後、織田信長が武田家の家臣を次々と買収し、寝返らせます。勝頼はその時になって堅固な城を築こうと大増税を行います。それに家臣がまた反発し、武田家は内部分裂します。
ネヘミヤは人の心の変わりやすさをよく知っていたからこそ、エルサレム城壁の再建を急ぎました。しかし、彼はそれと並行して、貧しい民の不満に耳を傾け、共同体を建て上げることに注意を向けました。城壁を築くことと共同体を建て上げることは車の両輪のようなものでした。
その際、彼は、「仇」という「恨み」の力の危険に何よりも神への祈りで対処しました。「情けは味方、仇は敵」という原則は、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」(ローマ12:19)という聖書の原則を知って初めて可能になります。多くの家庭や職場でも恨みが蔓延し、内側から崩れてゆきます。逆説的ですが、神のさばきを求める祈りこそが、平和の礎となります。