マルコ6章45〜56節「わたしだ。恐れることはない」

2011年11月6日

私たちは奇跡に包まれて生きています。宇宙の広がり自体が驚異です。研究が進めば進むほど、わかっていなかった世界が増えてゆきます。また私たちの身体や、脳細胞自体が不思議です。なぜ心臓が休みなく動き続け、また、なぜこの脳にはこれほどの想像力があるのでしょう。科学の発展にしたがって、未知の分野は急速な勢いで増えています。それからしたら、アヒルが水の上を歩くように泳ぐことなど何の不思議でもありませんが、ましてイエスが湖の上を歩いたからと言って何の不思議がありましょう。これを理解できないのは、この宇宙の創造の神秘や人間の身体の神秘を、心から味わってはいないからではないでしょうか。

イエスが、「わたしだ。恐れることはない」と言われたとき、そこにどれだけ大きな意味が込められていたことでしょう。それを心から味わうとき、私たちは目に見える状況に惑わされずに、この世の暗闇や困難に向かってゆく勇気を持つことができます。

私たちはイエスが救い主であるということをあまりにも精神的な次元に矮小化して捉えてはいないでしょうか。

1.「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり」

「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた」(6:45)とありますが、ベツサイダという町は、ヨルダン川の両岸に広がっていたという解釈があります。とにかく、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませることによって、群集と引き離し、その後、ご自身で群集を解散させました。

イエスは人々の必要に答えるとともに、ご自分と弟子たちがそれぞれ、神の御前に静まることができるという時を大切にしておられました。どちらにしても、イエスはその場の状況をすべて支配しておられたのです。

なお、6章7-13節では、イエスが十二人の弟子たちに「汚れた霊を追い出す権威」(6:7)を授け、近隣の村々に派遣したことが描かれていました。彼らは帰ってきて、喜びのうちに「自分たちのしたこと、教えたこと」を「報告」しました(6:30)。その後、イエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われ、「そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った」とありますが、これはルカによれば、「ベツサイダ」という町の近くで(9:10)、ガリラヤ湖の北岸の町カペナウムから東に四キロぐらい、ヨルダン川を渡った地でした。そこで五千人の給食の奇跡が行われました。

とにかく、イエスは伝道旅行から帰ってきた弟子たちを休ませてあげたかったのですが、多くの群集が弟子たちについて来たためにそれができませんでした。そこでここでは、イエスが強いて弟子たちを舟に乗り込ませたということになったのだと思われます。

一方、イエスは、「それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた」(6:46)と記されます。1章35節でも、イエスはカペナウムのペテロの家において夜遅くまで、人々の必要に答えておられた翌朝のことが、「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(1:35)と記されています。

この世では、自分で判断し自分の力で行動できる人が尊敬されますが、イエスは父なる神との交わりなしには何もできないかのように、祈りの時間を大切にしておられました。私たちも忙しければ忙しいほど、祈りの時間を大切にする必要があります。

ヨハネの福音書の並行箇所では、「イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」(6:15)と記されています。

続けてここでは、 「夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた」(6:47)と描かれますが、弟子たちはガリラヤ湖の北岸沿いを少しだけ舟で移動するつもりが、湖の真ん中にまで流されたのだと思われます。なぜなら、夜になると風は山側から湖面に向かって吹いてくるからです。

「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」(6:48)とありますが、確かに私たちと同じ肉体を持ったイエスが「湖の上を歩いた」というのはどうして可能になったのかは分かりませんが、ことばひとつで光を創造することに比べたら、ごく簡単なことと言えましょう。

なお、「通り過ぎる」とは、弟子たちを捨て置いて過ぎ去ってゆくというのではなく、彼らのそばを過ぎ行くことによって神の栄光を現されるという意味です。かつてモーセは心が頑ななイスラエルの民を約束の地に導くという働きの困難さのゆえ、主(ヤハウェ)に向かって、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」と願ったとき、主がモーセを岩の裂け目に入れて、ご自身の御手で彼を覆いながら彼の前の通り過ぎ、ご自身の栄光を現してくださいました。その際、「主(ヤハウェ)は彼の前を通り過ぎるとき」、「主(ヤハウェ)は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとあわれみに富み・・・」とご自身のことを明かされました(出エジ33:17-34:7)。

そして、人となられた神の御子のことが、「この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と描かれたのは、モーセにご自身を現された方が、イエスにおいてご自身を現されたことを示しています。

とにかく、イエスはここで、弟子たちが「向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧に」なったからこそ、ご自身の真の姿を、彼らの前を通り過ぎることによって明らかにしたのだと思われます。

なお、Ⅰ列王記19章では、疲労困憊し欝状態になって洞穴に潜んでいたエリヤに向かって、主は、「外に出て、山の上で主(ヤハウェ)の前に立て。見よ。主(ヤハウェ)が通り過ぎるから」(11節私訳)と言われました。その直後、激しい大風、地震、火がそれぞれに通り過ぎましたが、それらの中に「主(ヤハウェ)はおられなかった」と描かれ、火の後に「かすかな細い声があった」(12節)と記されますが、これは厳密には、「優しい沈黙の声(a sound of silence)があった」と訳した方が良いと思われます。主はエリヤを圧倒するような栄光によってではなく、「沈黙の声」として洞穴に隠れるエリヤの前を、優しく「通り過ぎて」くださったのです。

そして、同じようにここでイエスは、神の栄光を私たちと同じひ弱な肉体を通して現そうと、敢えて湖の上を歩いて彼らの前を「通り過ぎ」ようとされたのです。ここには、私たちと同じ肉体を持つ主が、神の御手に支えられながら、強風に荒れる湖の上を静かに優しく歩いておられる姿を通して、神の栄光が現されています。

つまり、ここでの神の栄光は、エリヤのときと同じように、弟子たちを圧倒する大風や地震や火としてではなく、荒れ狂う水の上を歩くという静けさとして現されたのです。コントロール不能になった舟と、イエスの静かな歩みの対比が生き生きと描かれています。イエスは、私たちが向かい風に翻弄され、前進できなくなって困っているときに、優しく私たちのそばに近づき、私たちを支えてくださる方なのです。

2.「しっかりしなさい(安心しなさい)。わたしだ。恐れることはない」

「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた」(6:49)というのです。それは、「みなイエスを見ておびえてしまったから」でした(6:50)。弟子たちがおびえたのも無理がありません。しかし、イエスは、「すぐに彼らに話しかけ」て、「しっかりしなさい(安心しなさい)。わたしだ。恐れることはない」と言われました。

「わたしだ」ということばは、ギリシャ語で、「エゴー・エイミー」と記され、「わたしはある」と訳すことができます。かつて主はモーセに対してご自身の名を「わたしは、『わたしはある』という者である」と紹介されながら、「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」(出エジ3:14)と話すようにと告げるようにと命じられました。これは英語訳(ESV)では次のように訳されています。 God said to Moses, “I AM WHO I AM.” And he said, “Say this to the people of Israel, ‘I AM has sent me to you.’. なお興味深いことに、ユダヤ協会英語訳では原文を残しながら次のように訳しています。 And God said to Moses, “Ehyeh-Asher-Ehyeh.” He continued, “Thus shall you say to the Israelites, ‘Ehyeh sent me to you.'” そして、ヘブル語のEhyeh、「わたしはある」ということばはギリシャ語で「エゴー・エイミー」と記されています。つまり、このことばは、イエスがご自分は父なる神と一体の方であることを表現したことばとも解釈できるのです。

それとともに、このことばには、「わたしはあなたとともにいる」という思いも込められています。出エジプト記3章では、モーセがイスラエルの民の指導者として遣わされることに困惑していたときに、主はご自身の名、ヤハウェの意味を説明しながら、モーセがイスラエルの民に向かって、「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ヤハウェが、私をあなたがたのところに遣わされた」というように命じられています。

そして、モーセが自分の口も舌も重いことを訴えたとき、主は、「わたしがあなたの口とともにあって、あなたがたの言うべきことを教えよう」(4:12)と言われました。

主のお名前には、「わたしはある」という意味がこめられています。そして、イエスも「このわたしが今、目の前にいるではないか」と、優しく語りかけてくださいました。かつて湖の嵐をたったひとことで静めてくださったイエスが弟子たちとともにいるのですから、もう何の心配もありません。そして、実際、イエスが「舟に乗り込まれると、風がやんだ」(6:51)と記されています。

つまり、イエスが文字通り弟子たちといっしょになったとき、不安材料がなくなったのです。そして、その後のことが、「彼らの心中の驚きは非常なものであった」と描かれます。そして、「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」(6:52)とは、彼らが五千人のパンの給食の奇跡からイエスの力をもっと理解してもよかったはずであるという思いが込められています。

イエスが真の救い主であり、全世界の王であるならば、彼にとって制御不可能なことはありません。今日最初に読んだ詩篇8篇では、「あなたは御手のわざの数々を彼に治めさせようと、すべてのものを彼の足の下に置かれました」(6節私訳)と記されていました。そして、イエスが湖の上を歩いたことはまさに、天地万物の創造主が、神の被造物である湖をご自身が遣わした救い主の「足の下に置いた」ということの何よりの証しになったのです。

イエスが真の救い主であるなら、かつてモーセがイスラエルの民を導いたときと同じように、神はイエスを通して目の前の海を二つに分け、また天からパンを降らせて人々を養うことができるのが当然です。このときイエスは、天からパンを降らす代わりに五つのパンと二匹の魚から五千人の群集を養い、また、湖を二つに分ける代わりに、水の上を歩いて弟子たちに近づき、強い風を静め、舟を目的地に向けてくださいました。

神のみわざは毎回、ユニークで同じ繰り返しはありませんが、そこに生きている原則はいつも同じです。主にとって弟子とご自分の間に、強い風に荒れ狂う海があることは何の障害にもなりません。主の行く手を阻むものはなにもありません。そして、主が遠く離れておられると感じられることがあっても、主はすぐに私たちのすぐそばに来ることができるのです。

ところで、マタイ14章28節以降の記事によると、ペテロはこのとき、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と大胆なことを願いました。そこで、イエスは「来なさい」と言われたので、「ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った」と、ペテロも水の上を歩いた様子が描かれます。

先の詩篇8篇には、神が人間を創造されたときの計画が記されていましたが、ペテロも神によって、「すべてのものを足の下に置く」ことができるように創造されたのですから、これは、ペテロが本来の神のかたちに戻ったことを意味すると解釈しても良いかもしれません。

そこまでは良かったのですが、「ところが」、ペテロは「風を見て、こわくなり、沈みかけたので」、「主よ。助けてください」と、叫びだしたというのです。ペテロはイエスだけを見ていたときには、水の上を歩くことができました。しかし、風を見てしまったときに恐怖に襲われ、恐怖の結果として、沈んだと描かれていることです。

それに対して、「イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで」、その上で、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言われました。ペテロが叱責を受けたのは、彼がイエスから目を離して、風を見てしまって恐れに圧倒されたことです。

なお、ここで、「信仰が薄い」という意味は、信念を貫くとか揺るがない心を持つとかいう以前に、目の前の現象に心が奪われて、神を見失ってしまうことに他なりません。

3.「さわった人々はみな、いやされた」

「彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ」(6:53)とありますが、ゲネサレの地とはカペナウムより少し西南にあるガリラヤ湖畔です。これは、舟が当初の予定よりもずっと南に流されたことを示しています。

そのとき、「彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た」(6:54、55)というのです。イエスの名はこのあたり一帯に知れ渡っていました。

その後のことが、「イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた」(6:56)と記されています。そこにはイエスの到来が、多くの人々に感動と喜びをもたらしたことが描かれています。それこそ、神の国が実現したしるしでした。

「さわった人々はみな、いやされた」ということばに、12年間長血をわずらっていた女性のいやしの出来事(5:25-29)が、みんなに言い広められ、人々がそのまねをしている様子が示唆されています。

ここにはイエスが群集の切実な心の叫びに応答してくださることが強調されています。一人一人が自分自身の必要または身近な病人の必要しか見えていません。彼らはある意味で、ご利益だけを求めているような人々です。しかし、イエスは彼らの心の姿勢を問うことなく、すべての人をいやしてくださいました。

多くの人々は、神はとっても忙しいので、こんな自分の小さな願いには関心がないに違いないと勝手に思い込んで、主に叫ぶことを忘れています。また主に祈っても、七十億人の中のたったひとりの声など、届きはしないなどと思っている人がいます。

しかし、神は宇宙の果てまでを支配しておられるとともに、私たちの身体の隅々の細胞の動きも知っておられます。神には忙しすぎるということはありません。そのことがここに明らかにされています。

ただそれでも残念なのは、かつての五千人の給食の際は、イエスは「多くの群集をご覧になって、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろ教えられた」(6:34)と記されていたのに、ここでは何の教えをする間もなかったのだと思われます。

病は癒されても、ふたたびどんな人でもまた病になって、やがて死んでゆきます。病のいやしよりも大切なことがあるということを彼らは悟ろうとはしていなかったのかもしれません。

イエスはこの世の嵐の中で怯えている私たちに近づき、ご自身の栄光を垣間見せてくださいます。イエスが、「わたしだ。恐れることはない」と言われることばは、まさに天地万物の創造主としてのことばです。飢えた者にはパンを与え、病を癒し、嵐を静め、気力のない者には気力を与えてくださる全能の主であるとともに私たちに寄り添ってくださる慰め主です。

そして、そのイエスの神としての力は、私たちが自分の無力さに打ちひしがれているときにわかります。パウロはその不思議を次のように語っています。それを、心から味わってみましょう。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、 
人に知られないようでも、よく知られ、
死にそうでも、見よ、生きており、     
罰せられているようであっても、殺されず、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、
貧しいようでも、多くの人を富ませ、
何も持たないようでも、すべてのものを持っています (Ⅱコリント6:8-10)。

最後にマザーテレサがカルカッタの孤児院の壁に書き留めたと言われる次のことばを味わってみましょう。すべては、「わたしはある」と言われる方の御前で起こっていることです。ペテロがただイエスを見ていたときは水の上を歩くことができました。しかし、風を見たとたん、恐くなって沈みだしました。私たちも、目に見える結果や状況によって、自分のなすべきことを簡単に変えるような、無節操な生き方にならないように注意したいものです。

私たちの働きはすべてキリストに向けて、神の栄光のためになされるべきものなのですから。そして、イエスはあなたの労苦を喜び、あなたが困難を覚えているとき、その身近に来て助け、その労苦の無駄にせず、その実を見させてくださいます。私たちの目の前にどんな障害や邪魔があっても、主が近づいて来られるのを阻むものは何もありません。

1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。 
   それでもなお、人を赦しなさい。  
   People are often unreasonable, irrational, and self-centered. 
   Forgive them anyway. 

2. あなたが人に親切にするなら、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。 
   それでもなお、親切でありなさい。 
   If you are kind, people may accuse you of selfish, ulterior motives. 
   Be kind anyway. 

3. あなたが成功するなら、うその友達と本物の敵を得ることになる。
   それでもなお、成功しなさい。  
   If you are successful, you will win some unfaithful friends and some genuine enemies. 
   Succeed anyway. 

4. あなたが正直で誠実なら、人はあなたを騙そうとするかもしれない。 
   それでもなお、正直で誠実でありなさい。 
   If you are honest and sincere, people may deceive you. 
   Be honest and sincere anyway 

5. 何年もかけて創造してきたものが、一夜にして崩れさるかもしれない。 
   それでもなお、創造しなさい。 
   What you spend years creating, others could destroy overnight. 
   Create anyway. 

6. あなたが平安と幸せを見出すなら、人のねたみを買うかもしれない。 
   それでもなお、幸せでありなさい。 
   If you find serenity and happiness, some may be jealous. 
   Be happy anyway. 

7. あなたが今日した良い行いは、しばしばすぐに忘れられるでしょう。
   それでもなお、良いことをしなさい。 
   The good you do today, will often be forgotten. 
   Do good anyway. 

8. あなたが持っている最高のものを与えても、なお十分になることはないでしょう。
   それでも最高のものを与えなさい。 
   Give the best you have, and it will never be enough. 
   Give your best anyway. 

9. 結局のところ、それはあなたと神との間のことなのです。 
   あなたと他の人との間のことであったことは、一度もなかったのです。 
   In the final analysis, it is between you and God. 
   It was never between you and them anyway.