私たちの周りには有能で影響力のある人々が数多くいます。また、神を知らない人々の中にも、クリスチャンよりもはるかに信頼できそうな人格者がいくらでもいます。その中で私たちは、自分がまわりの世界に「地の塩、世の光」として何らかの影響力を発揮できることを願います。
しかし、クリスチャンであるとは、世の人々を感心させられるような何かができるという以前に、何よりも、いつでもどこでも、イエスの御名によって、父なる神にお祈りしながら生きる者であるということ、また、この世の人々の評価の声ではなく、父なる神の愛の語りかけを聞きながら生きるということです。
私たちがいくらこの世の政治を批判しても、それによって政治が変わることはほとんどありません。私たちはこの世では驚くほど、ちっぽけな存在です。しかし、天地万物の創造主を「私の父」と呼ぶことができるという点で、この世に対して影響力を発揮することができます。この世の権力者たちは、いつも力比べをしながら競争していますが、私たちはこの世の基準を超えた神の視点から、自分の存在の尊さを覚えることができるからです。
1.「そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた」
「ペルシヤの王クロスの第三年」(10:1) とは紀元前537年のことです。エズラ記の冒頭に記されているように、主はクロス王の第一年に彼の霊を奮い立たせ、エルサレム神殿の再建の命令を出させ、かつてバビロンの王ネブカデネザルがエルサレムから運んできた神殿の用具をイスラエルの民に返させました。ユダ族とベニヤミン族、レビ人たちの総勢約五万人がエルサレムに戻ることができました。
しかし、高齢になっているダニエルをはじめ多くのユダヤ人はなおペルシャにとどまり続けていました。そして、ここで、「ベルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された」とありますが、ダニエルにこのような名を与えたのはバビロンの王ネブカデネザルで、そのときからすでに七十年近い年月が経過していました。
10章から12章は、ダニエルに与えられた最後のまとまった「幻」でした。それは、「大きないくさ」に関することで、ダニエルはそれを理解していたというのです。
まず最初に、「ダニエル」は、「三週間の喪に服していた」(10:2) のですが、これは当初の予定通りに進まないエルサレム神殿の再建のために必死に祈っていたのだと思われます。
そして、「第一の月の二十四日」(10:4) とは、過ぎ越しの祭りが同月の十四日、その後、種なしパンの祭りが一週間続く、その直後の日を指します。この日、当時のペルシャの首都スーサの西側の大河ティグリスの岸辺でダニエルは不思議な出会いを体験します。
彼が「目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人」がいました。彼は大祭司のように「亜麻布の衣を着」、「腰には……金の帯を締め」ていました。「そのからだは緑柱石のよう」に内側から光を発し、「その顔はいなずまのよう」にまぶしく、「その目は燃えるたいまつのよう」に明るく光り、「その腕と足は、みがき上げた青銅のよう」に美しく、「そのことばの声は群集の声のよう」に響きました (10:5、6)。この神々しい姿は、御使いのひとりと紹介するにしては大きすぎる存在であることを示します。
それを見たダニエルは、恐怖のあまり、「うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った……そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた」というのですが、「ちょうどそのとき、一つの手が」、彼に「触れ」、その「ひざと手をゆさぶ」りながら、「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ」と語りかけます (10:8-10)。
つまり、ダニエルは神に愛されている者として、特別な啓示を、あわれみによって知らされようとしているのです。
彼はダニエルに、「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ」と言いながら、不思議にも、この来訪が遅れた理由を、「ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来た」(10:12-14) と敢えて説明します。「ペルシャの君」とはペルシャ帝国の守護天使のような存在だと思われ、それに対し、ミカエルはイスラエルの守護天使のような存在なのだと思われます。
それにしても、ダニエルに現れたこの人は、ペルシャの守護天使によって三週間も足止めを食らったというのです。それがなかったらダニエルは三週間も喪に服する必要がありませんでした。
ここで興味深いのは、天における霊的な戦いが明かされているということです。それを前提にパウロは、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(6:10-12) と記しました。
私たちがこの霊的な現実を前提としてこの世の力と戦うなら、私たちの戦いの手段は、この世的な力に対し力で対抗するのではなく、みことばと祈りしかないことが極めて明らかになります。
イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39) と言われましたが、これは、当時の人々が、「目には目で、歯には歯で」という被害者感情に配慮した裁判規定にかかわる聖書の教えを、「力には力で……」という復讐を正当化する教えに曲解して適用したことを戒めるためのものでした。
イエスの時代はローマ帝国がエルサレムを約束の地を支配していましたが、ユダヤ人の過激派はゲリラ戦法によってローマ軍をかく乱し、武力闘争によるイスラエルの解放を画策していました。これは現代のパレスチナ・ゲリラがイスラエル正規軍に対して戦っているのと真逆の構図です。
それに対してイエスは、そのような武力闘争がかえってイスラエルの民の首を自分で絞めることになるということを言われたのです。
ダニエル書の中心テーマは、大帝国を起こし、滅亡させるのは神の主権に属することであるということです。このことは黙示録12章で、地上の苦難の背後にある、天における神の御使いとサタンの使いとの戦いの様子が啓示されています。それなのに、この世の戦いを地上的な次元でだけ見るから、復讐が復讐の連鎖を生むという泥沼の戦いが演じられてしまうことになります。
私たちもダニエルの姿勢に習い、大きな問題を前にして、人間的な方策に頼って解決しようとあせる前に、ただ喪に服し、「ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった」(10:3) という姿勢で、祈りに専念することこそが大切なのです。祈りこそすべての始まりです。
そしてこれはきわめて現実的な対処法です。たとえば、あなたのマンションの隣人がやくざのような人で騒音を出していたとしたら、自分で怒鳴り込みに行くようなことをする代わりに、管理人に対処するように迫るのではないでしょうか。問題の根本が天の領域にあることを、この地上の原理で解決しようとする発想は愚かなことです。
2.「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから」
この不思議な方がダニエルに 「このようなことを語っている間」、彼は「うつむいていて、何も言えなかった」のですが、「ちょうどそのとき、人の姿をとった者」が、彼の「くちびるに触れた」というのです (10:15、16)。これは、ダニエルがこの幻に圧倒され、口をきけなくなっている中で、再び力を受けたということを示しています。
事実ダニエルは、「わが主よ。この幻によって、私は苦痛に襲われ、力を失いました」と言いながら、その理由を、「わが主のしもべが、どうしてわが主と話せましょう。私には、もはや、力もうせてしまい、息も残っていないのです」(10:16、17) と説明します。
それに対し、「人間のように見える者」が、再びダニエルに「触れ……力づけ」ながら、その恐れに寄り添うようにして、「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」(10:18、19) と励まします。
これを聞いたダニエルは、「奮い立って」、「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから」と応答することができます。
私たちが天における霊的な戦いの現実に向き合うには神からの力が必要なのです。
私たちはみな、自分の存在はこの地で大きな意味や影響力を持っているという幻想の中に生きている面があります。人は、自分の本当の姿を見せられたら正気ではいられないという面があります。
だから、人は、たとえ自分がいてもいなくても良いような存在で、人に迷惑ばかりをかけているという現実があったとしても、それを認める代わりに、自分の存在はあまりにも大きいので、人から嫌がらせを受けているという被害妄想に逃げ込むという心理が働くことがあります。
ダニエルはしかし、今、自分のちっぽけさ徹底的に知らされながらも、同時に、自分に対して主ご自身が特別に御使いを送って、語りかけてくださるということに力を受けているのです。
私たちは、みな、自分のちっぽけさを正面から認めるためには、神からの愛の語りかけを聞く必要があります。たとえば、私の中には、「人の役に立っていたい、それによって自分の存在意義を認めてもらいたい」という思いがあります。そのため、しばしば、「あなたのしていることは、余計なお世話だ!」という感じの反応をされると深く傷つきます。
しかし、私たちは人と人との間に起こっている現実をきちんと直視できる必要があります。しばしば、母親が過保護で子供の自立を妨げているということが指摘されます。母親にとって、自分が精魂こめてやっていることが、かえって子供の成長の妨げになっているなどという現実は、普通の神経では受け入れがたいことです。
しかし、母親自身に、自分は神に愛されているという自覚があれば、自分の過保護を認める勇気が生まれることでしょう。
そこで、彼はダニエルに、「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く」と告げます。ダニエルはこのとき誠心誠意、異教徒の王であるペルシャ王クロスに仕えています。そして、ペルシャ王クロスはユダヤ人の約束の地への帰還を許し、エルサレム神殿を再建する後ろ盾になってくれています。まさにペルシャ帝国はイスラエルを救う神の器であるように思えます。
それなのに、この神の使いは、今、ペルシャの守護天使を敵として、戦うために帰ってゆくというのです。それなら、ダニエルは、神の御使いが敵とみなした国に仕えているという矛盾に突き当たります。
神の使いはその矛盾を説明もしようとせずに、続けて起こることを、「私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る」(10:20) と、今まで誰も注目しなかったギリシャの勢力が台頭することを預言します。
その上で、「しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない」(10:21) と言います。これは、ペルシャ帝国に対しても、また、ギリシャ帝国に対しても、真に力を発揮することができるのは、このダニエルにみことばを伝えた御使いとイスラエルの大天使ミカエルだけだというのです。
それならば、私たちはそれらの地上の王国に、人間的な力をもって対抗しようとするなどが無意味であることは自ずと明らかになります。
そして、この御使いは少し前のことを思い起こすように、「私はメディヤ人ダリヨスの元年に、彼を強くし、彼を力づけるために立ち上がった」(11:1) と語ります。これは、バビロンを滅ぼし、ペルシャ帝国を立ててイスラエルの民の帰還を許したのは確かに、神ご自身の働きであったからです。
私たちはたとえばペルシャは良い国、バビロンは悪い国、あの人は良い人、この人は悪い人、などのような区分けをしたがりますが、神はご自身のご計画を勧めるためにどんな人、どんな国でも用いることができます。
ペルシャの国教はゾロアスター教であったと言われますが、エルサレム神殿の再建を命じたクロスは決してイスラエルの神ヤハウェを礼拝する者ではなく、基本は、エジプト支配への道を安定させるためにユダヤ人に恩を売ろうとしたという政治的な動機があったと思われます。神は天にあって、そのような人間的な動機を用いながらご自身の計画を進めておられるのです。
しかし、ペルシャも、エジプトを完全に支配するようになって傲慢になったとき、その傲慢さのゆえに滅亡に向かいます。
そのことを、この御使いが、「今、私は、あなたに真理を示す。見よ。なお三人の王がペルシヤに起こり、第四の者は、ほかのだれよりも、はるかに富む者となる。この者がその富によって強力になったとき、すべてのものを扇動してギリシヤの国に立ち向かわせる」(11:2) と記されます。
ペルシャがギリシャに攻撃をしかけるのは第三代目の王ダリヨスであると見られていますが、このあたりの歴史はまだ不明の部分が多くあります。なお、ペルシャによるギリシャ攻撃は紀元前500年から479年まで続きますが、四代目の王とされるクセルクセスのときにサラミス会戦(紀元前480年)で徹底的な敗北を喫します。
そして、その後、時代を経て、紀元前333年にイッソスの戦いでギリシャのアレキサンダー大王がペルシャ軍を徹底的に打ち破ります。そのことが、「ひとりの勇敢な王が起こり、大きな権力をもって治め、思いのままにふるまう」(11:39)と記されています。そして、そのことは何度もダニエルに示されてきたことでもありました。
なお、イエスの少し後の時代に生きたユダヤ人の歴史家ヨセフスは、アレキサンダー大王は、エルサレム入城のときに真っ先にエルサレム神殿の大祭司の前でひざまずいたと記録しています。それは、その大祭司の服を着た者があらかじめ夢の中で王に現れたおかげで、彼は躊躇なくペルシャと戦うことができたからとのことです。
そして、王はその後、「ペルシャ人の帝国をひとりのギリシャ人が粉砕する、とはっきり記されたダニエル書を示されると、自分こそその人物であると信じ、喜んだ」とのことです (ユダヤ古代史11:337)。
3.「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる」
アレキサンダー大王以降のことが、「しかし、彼が起こったとき、その国は破れ、天の四方に向けて分割される。それは彼の子孫のものにはならず、また、彼が支配したほどの権力もなく、彼の国は根こぎにされて、その子孫以外のものとなる。南の王が強くなる。しかし、その将軍のひとりが彼よりも強くなり、彼の権力よりも大きな権力をもって治める」(11:4、5) と記されます。
これは四つに別れた国の中で最初、最も強かったのはプトレマイオス朝エジプトで最初、そこに身を寄せていたセレウコスがシリヤで国を開き、エジプトに対抗できるようになる様子が描かれています。
そして、その後の南と北の王国の間の和睦や戦いの様子が、11章6-12節に記されます。ここには、実際に歴史の中で起こったことが詳しく説明されています。そこではどちらかというと南の王国の勢力が北の王国を圧倒している様子が描かれています。
興味深いのは、プトレマイオス朝の二代目の王のときに、王命によって、旧約聖書がヘブル語からギリシャ語に翻訳され、それは七十人訳と呼ばれるようになります。エジプトがアレキサンダー大王の将軍の一人によって治められるようになった結果として聖書のギリシャ語訳が実現したというのは、まさにギリシャ人が支配するエジプトの勢力が強くなっていることが神によって豊かに用いられたということです。
そして、11章13節から19節では北のセレウコス朝シリアの優勢が描かれます。
とくに、「北の王が来て塁を築き、城壁のある町を攻め取ると、南の軍勢は立ち向かうことができず、精兵たちも対抗する力がない。そのようにして、これを攻めて来る者は、思うままにふるまう。彼に立ち向かう者はいない。彼は麗しい国にとどまり、彼の手で絶滅しようとする。彼は自分の国の総力をあげて攻め入ろうと決意し、まず相手と和睦をし、娘のひとりを与えて、その国を滅ぼそうとする。しかし、そのことは成功せず、彼のためにもならない」(11:15-17) は、アンティオコス大王によるエジプト攻略とその手段としてのエルサレム支配、そして、戦いが思い通りに行かないと、自分の娘クレオパトラ一世を嫁がせて(歴史上有名なのは正式にはクレオパトラ七世と呼ばれ、紀元前51-30年にエジプトの女王として君臨した人です)一時的な和解を図り、娘を通してエジプトへの影響力を発揮しようとしますが、娘がエジプトに味方したためにその計画が頓挫するという様子が描かれます。
ヨセフスによると、このときクレオパトラがユダヤを持参金としてエジプトに嫁いだため、エルサレムは二つの国に税金を納めざるを得なくなります。
11章21節からは8章23節以降に描かれていたアンティオコス・エピファネスの横暴な振る舞いが改めて詳しく描かれます。特に11章30節の、「キティムの船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者たちを重く取り立てるようになる。彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える」とは、エピファネスがせっかくエジプトを屈服させながらも、キティム(ローマ)の警告に屈して、その支配をあきらめ、帰国の途中に、腹いせとしてエルサレム神殿を汚すということを預言したものと思われます。
そしてその際、「民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる」(11:33) と、多くの殉教の血が流されながら、人々の信仰を励ます様子が示唆されています。
その上で、11章40-45節は南の国と北の国の最終戦争の様子が描かれています。これは歴史上にすでに起こったこととは異なる展開で、まさに「終わりの時」の戦いです。
そして、12章1節では、「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる」と、イスラエルの大天使ミカエルが立ち上がって、大きな苦難の後に、神の民に対する救いの計画が成就するということが記されます。
ユダヤ人たちはこの書に励まされながらアンティオコス・エピファネスの武力支配に対抗したのかもしれませんが、実際には、この書において、そのような武力闘争は決して勧められていません。
ユダ・マカベオスに導かれたユダヤ人の独立運動は確かに成功しますが、その後は権力闘争に明け暮れ、ローマの介入を招き、最終的にはローマ帝国への独立運動を加速させて、二千年間に渡って国を失うという悲劇を招きました。
しかし、ダニエルに示されたことは、最終的な勝利は、人間ではなく大天使ミカエル自身によってもたらされるということでした。
11章の大半を占めるシリヤとエジプト間の戦いは、まさにこの書で詳しく預言されたとおりの展開を見せました。そして、その時々にユダヤ人は大国の狭間で振り回されているようでありながら、その間に、旧約聖書の七十人訳の完成などという新約への道筋がエジプトの王によって可能になったのです。
彼らはそれを通して、イスラエルの神がエジプトやシリヤをも支配しておられることを悟ることができたはずなのです。そこで彼らは、かつてのように、両方の国のご機嫌を取り、面従腹背の国際政治によって自分の立場を守ろうとする代わりに、イスラエルの神、主のみを見上げて、大国の権力闘争の狭間にあっても、神の民としての誇りを守ることができたはずなのです。
これは私たちの日常生活にも適用できます。どの組織にも権力闘争がありますが、その中で私たちはふたりの親分のご機嫌を取りながら自分の立場を守ろうとするのではなく、そのはるか上においてすべてのことを支配しておられる唯一の創造主をのみ礼拝し、その方のみを恐れて、自分のいのちを全うすることができるのです。
詩篇46篇では、圧倒的な敵の前に右往左往し、人間的な対策ばかりに熱くなっている人に、主は、「静まれ。そして、知れ。『わたしこそ神。国々の上におり、地のはるか上に在る』」(46:10私訳) と語りかけておられます。
神はこの地を支配しておられます。どれほど不条理なことが起きても、そこには神の御手があります。ダニエルの預言は、将来の出来事を予測することに意味があるのではありません。私たちはどこかで、この時代の流れを予測できるような賢さを求めますが、それよりもはるかに大切なことは、今ここで、自分に与えられた勤めを誠実に全うするということです。
あなたに権威をふるうことができる人は、非常に危ないところに立っています。彼らの明日はわかりません。そのような人にすがりながら自分の立場を守ろうとするのではなく、この世界のすべてを最終的に支配しておられる方との交わりのうちに日々を生きることこそが、神が私たちに与えてくださった最高の知恵です。
イエスも、「空の鳥を見なさい……あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか……だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい(原文「捜しなさい」)。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日、その日に、十分あります」(マタイ6:33、34) と言われました。