マルコ5章1〜20節「現代的な悪霊支配に目を開く」

2011年8月14日

「原子力発電の安全神話はどのように作られたか・・」という観点からのインタビュー番組を見ました。国策としての原発推進が決まった後は、原発の危険性を指摘する声をあげる人が出ても、誰の目にもわかる形でその人をあらゆる手段を使って苛め抜き、「原子力村」という「村社会」の統一見解を作って行ったということです。

そのため、今回のような大規模な災害への対応が、「想定外・・・」の名の下に、真の意味ではできてはいませんでした。

このような神話形成の方法は、日本が太平洋戦争に突入する中でも用いられました。米国と戦っても勝てる確率が低いことは明らかだったのに、戦局が不利になったときの和解交渉策は一切講じられないばかりか、負けの可能性を公言する人がいたら徹底的に苛め抜き、その人を人身御供のようにして異論を封じ込め、日本必勝の神話を作り上げました。その結果、戦争を主導した政府自体が、皮肉にも世論に圧される形で戦争をやめるという選択肢を失い、原爆投下を招くという破滅に突き進んで行きました。

日本が体験したふたつの放射能被害の背後に、同じ構図を見ることができます。そして、そこに私たちは現代的な悪霊支配の現実を見ることができます。

昔から悪霊の働きというと、ある個人の人格を破壊するということばかりが注目されます。しかし、それは一つの見せしめによって、周りの人すべてを萎縮させるサタンの罠とも言えましょう。「触らぬ神にたたりなし」ということわざがあるように、ある一人の人が徹底的に苛め抜かれるのを見ると、多くの人は見て見ぬふりをするようになります。それによって、社会全体が、真に見るべきもの、恐れるべき方から目を閉ざし、滅びに向かいます。

現代の悪霊の働きは、真に恐れるべきことを見えなくし、目先の迫害を永遠の苦しみのように見せて人を脅すこと、また、真の神を恐れさす代わりに目先の災いを恐れさせ、みなが手を取り合って「燃えるゲヘナ」に向かうように導くことではないでしょうか。

日本では未だに多くの人々が、イエスを信じることで自分の身に災いが降りかかるという恐れに囚われています。悪霊は、今も、自分の存在を隠しながら、人々がイエスに従うことの邪魔をし続けています。

1.「この人は墓場に住みついて・・・石で自分のからだを傷つけていた」

イエスと弟子たちはガリラヤ湖の東岸のゲラサ人の地に着きます。彼らはまことの神を知らない異邦人でした。そして、「イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた」(5:2)と記されていますが、これは、「迎えた」というより、単に、「出会った」と訳した方が良いと思われます。日本語の「迎える」には歓迎のようなニュアンスがありますが、この文章は、続く3-7節全体をまとめて描いたもので、この悪霊につかれた人のイエスとの出会いの様子は、6,7節で改めて詳しく描かれているからです。

要するに、この箇所は、異教世界を支配する悪霊の親玉的存在と、救い主イエスとの「劇的な遭遇」を記したものと言えましょう。

この「汚れた霊につかれた人」の状態が、「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」(5:3-5)と描かれます。

悪霊は神のかたちとしての生き方を破壊する方向に人を向かわせます。彼は何よりも、生きている人々との交わりから離れた「墓場に住み着いて」いました。人間は、生きている人との交わりに召されています。しかし、彼は死者との交わりの中に生きていました。

たとえば、日本の昔の家屋には「仏間」という部屋がありました。それは家の中で最も環境の良い空間でした。そこで先祖の位牌に手を合わせることが、家族としてのまとまりの基礎となっていたからです。北海道で本州からの移民が家を建て始めた時、寒冷地だからこそ家族の生活空間である居間(リビングルーム)は、最も日当たりの良い所に置くはずだと思いますが、彼らは戦後まもなくまでは、そのように家を建てはしませんでした。家の中で最も心地よい空間は、仏間のためにとって置かれ、家族の生活の場は寒く暗い空間になっていることがほとんどでした。

もちろん、先祖のことを思い起こすことは大切なことですが、日本ではしばしば、それが行き過ぎてしまい、亡くなった方を拝むことが、生きている人の生活全体を支配するということがありました。

仏教式で葬式をあげてしまったら、その後の初七日から四十九日、その他、定期的な礼拝のスケジュールがお寺の論理で決まってしまいます。きちんと亡くなった方を弔わないと、何かの「たたり」が起きるのではないかという恐れに囚われながら、目の前の現実の生活が疎かになるというのは、墓場に住みついたこの人と意外に共通点があるのかもしれません。

また、「鎖をもってしても、彼をつないでおくことはできなかった・・・それで、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」という状態は、現代の、アルコールや薬物、ギャンブル依存症に囚われた人に似ているのかもしれません。自分も他人も、その驚くべき衝動の力をコントロールできません。そして、孤独の中で叫び続け、自滅に向かっています。ある友人が、詩篇23篇の現代版にした逆説詩を送ってくれました。

『私は私の羊飼い。私は乏しいことだらけです。

私は、よろめきながらショッピングセンターをはしごし、

精神科医をドクターショッピングしていますが、いこいを見いだすことはできません。

殺虫剤の残留毒性から送電線の電磁波まで私はあらゆるわざわいを恐れます。

それを防ごうとして、私の言動はだんだん母に似てきました。
週に一度のスタッフ会に出れば、私は敵に囲まれ、

家に帰れば、金魚までが私に顔をしかめ、

まことに、私のいのちの日の限り、みじめさと不幸とが、私を追ってくるでしょう。

私はいつまでも、自己不信のうちに寂しく住まいましょう。』

「精神科医をドクターショッピング・・・」などという表現には、違和感を覚えますが、自分が人生の主人となることの悲劇を描こうとしているという点では、非常に興味深い詩です。多くの人々はそれを知らずに、この世での平安やいやしを真剣に追い求めながら、皮肉にも、ますます心の渇きを激しくし、自滅に向かっています。

サタンは、この墓場に住む人のように、ある特定の人に狙いを定め、その人を人身御供のようにして、徹底的にその人の人生を破壊し、その上で、そのまわりの人々をも「底知れぬ恐れ」で支配します。その際、たとえば、「あの人は、仏壇に手を合わせなかったから、たたりが来た」とか、「あの人は、ご先祖をないがしろにしたから、自分の身を滅ぼしている・・・」などと、その悲惨な中におかれた人を軽蔑させながら、まことの創造主以外の存在を恐れるように心を支配してゆきます

多くの日本人は、偶像礼拝と結びついた様々なしきたりや、所属する集団から村八分にされることを恐れながら、自分の身を守ることに汲々としながら臆病の中に生きています。

そして一方では、満たされない心を、この世の快楽で満たそうとして、ますます心の渇きを激しくしてゆきます。

数年前にベストセラーになった本に、「母が重くてたまらないー墓守(はかもり)娘の嘆き」というのがあります。ある女性が、田舎の母親の呪縛から逃れるように、東京の出版社に就職し、それなりの仕事を任され、外国人の恋人もでき、母親の様々な介入もうまくかわせるようになった33歳のとき、祖父の法事で久しぶりに実家に帰りました。穏やかに法要を終えて東京に帰ろうとしたそのとき、母が耳元でささやきます。「もう何も言わないからね、ただ、私たちが死んだら墓守りは頼んだよ」と・・・。

多くの日本人は、どんなに親から自由に生きていても、このことばには勝つことができないようです。そこから、「墓守娘の嘆き」というタイトルが生まれています。

汚れた霊に人格を破壊され墓場に住み着いていた人と、墓守の呪縛から逃れられないこの女性とは、住む世界がまったく違うように思えますが、意外に共通点も多いのかも知れません。墓に住む人と墓守娘の両方とも、生ける神や生きている人との交わりよりも、墓場に縛られて生きているという点では同じだからです。

一方、すべての日本的なしきたりから自由に、自分の心の赴くままに生きている人の心も、先の現代版逆説詩篇23篇にあったように、なんとも言えない空虚感に生きているという点ではまったく同じです。

2.イエスの前にひれ伏し、懇願するしかなかった悪霊レギオン

ところが、驚くべきことが起こります。この「墓場に住みついている」人の側から、「イエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで」、「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください」と言ったというのです(5:6、7)。

その理由が、「それは、イエスが、『汚れた霊よ。この人から出て行け』と言われたからである」とありますが、厳密には、「言い続けていたからである」と訳した方が良いと思われます。イエスのみわざの中心に「悪霊追い出し」がありましたが、この人を支配していた悪霊は、イエスのその圧倒的な力を知っていたからこそ、機先を制するように、イエスにすがって行ったのです。

つまり、悪霊は、誰よりもイエスの権威と力を知っていたからこそ、逃げようがないと駆け寄り、あわれみを恋うしかないと恐れたのです。イエスの弟子たちは、「いったいこの方はどういう方なのだろう」(4:41)と問いかけていましたが、皮肉にも悪霊こそが、この方を「いと高き神の子」(5:7)であると認めていたというのです。

この人は、「足かせや鎖やでつながれ」(5:4)るほどに危険な存在になっていましたが、悪霊の力は、「鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまった」ほどに強力でした。

そして、主が悪霊の名を尋ねると、「レギオン」という名が出てきますが、それは、ローマの軍団の単位で、六千人もの兵士から構成される大集団でした(日本語では「師団」)。

その上で、この悪霊は、「自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した」というのです。ルカでは、「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った」(ルカ8:31)と描かれます。悪霊どもはイエスの権威に抵抗できなかったので、自分たちが最終的に、「火と硫黄との池に投げ込まれる」(黙示20:10)ことを恐れながら、なお、この目に見える世界にとどまり続けることができるようにと必死に懇願したのです。

ただ、そこで、「ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった」(5:11)という記述とともに、悪霊どもはイエスに、「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください」と懇願したという不思議なことが記されます(5:12)。

それに対して、イエスが許されたので、「汚れた霊どもは出て行って豚に乗り移った。すると二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖になだれ落ちて、湖におぼれてしまった」(5:13)のでした。

なお、当時の神の民にとって、豚は汚れた動物の代名詞のような存在でしたから、豚の死は問題とは見られませんでした。しかし、豚の飼い主の異邦人たちはこのことに驚き、イエスの前から逃げ出しました彼らは、悪霊よりも強いイエスを恐れたのです。

そこに、悪霊どもの狙いがあったと言えないでしょうか。彼らは、自分たちがこの人の中から立ち去らざるを得ないことを知っていたからこそ、イエスもこの地に残ることができなくなる状況を生み出そうとしたのです。

今も、悪霊は生きて働いています。このときの悪霊の力は、二千匹の豚を駆り立て、湖におぼれさす力として現れましたが、現代の日本では、悪霊は自分の存在を隠しながら、人々が自滅に向かうようにと駆り立てています。かつての日本は、みながそろって、最初は中国、そして、後には米国や英国との無謀な戦争へと突き進んでゆきました。軍部の横暴が戦争を作り出したという面が何よりも強くはありますが、当時の日本人の多くが幻想に囚われ、戦争に飛び込んで行きました。政治家たちは、世論の圧倒的な声に動かされたという面もあります。

そして今も、多くの日本人は、自分たちがどこに向かっているのかを知らないまま、また意識しようともしないまま、時間を忘れて目の前の仕事に熱中しています。

ドイツやフランスであれば、「残業をする必要があるぐらいなら、雇用を増やそう・・・」という方向に社会全体が動こうとしますが、日本ではワーク・シェアリングという発想がなかなか定着しません。政治家から一般の民衆まで、長期的な視点を持てないまま、目の前の問題に夢中になっています。

日本人の中には、集団が同じ方向に向かって走ることを良しとする風潮があります。私は二十五年ほど前に六年余りのドイツ滞在から戻って、はじめて東京のラッシュ・アワーを体験したとき、黒い髪で黒っぽいスーツを着た集団が地下鉄へと我先にと走って下る姿を見て、二千匹の豚が一目散に湖になだれ落ちる様子とだぶって見えました。

そのときは、「だからこそ、ひとりでも多くの人に福音を宣べ伝えなければ・・」と熱くなることができたのですが、最近は、自分もその日本のカルチャーの中にどっぷりつかってしまっているような気がしています。

悪霊は今も、この日本の文化の中に深く忍び込んで、人々を動かし続けています。そして、悪霊は、確かに人を悲惨に陥れ、滅びに追いやる力を持っています。しかし、私たちはイエスの御名によって、その力に打ち勝つことができます。

今も悪霊は生きて働いていますが、彼らはキリスト者を脅しはできても、支配はできないのです。悪霊のひそかな働きを理解することは本当に大切ですが、それにおびえる必要は全くありません。

大切なのはいつでもどこでもイエスに目を向けることです。私たちがイエスの生涯に思いを向け、イエスの生涯を黙想し続けるとき、私たちの発想も行動も、しだいに日本の集団主義から自由にされてゆくことができるのではないでしょうか。

3.「あなたの家・・家族のところに帰り、主が・・・どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」

その後の展開が、非常に詳しく、「豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた人々は何事が起こったのかと見にやって来た。そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた」(5:14-16)と描かれますが、残念ながら、それでイエスを主と告白する代わりに、「すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った」(5:17)という、極めて残念な展開となりました。これこそ、悪霊が期待した展開ではないでしょうか。

ゲラサの人々は、この悲惨な人の救いよりも、豚を失ったことの方に目が向いました。それとも彼らは、悪霊をことばひとつで従えるイエスを、悪霊の親分と見たのでしょうか。

とにかく、彼らは、レギオンに憑かれた人を見て悪霊におびえ、また、悪霊を追い出したイエスを見て、なお、さらにおびえました。共通するのは、自分たちの身に損害がもたらされることを避けようとする思いだけで、真理を求める心などはありません。

今も、多くの日本人は、心の奥底で、ただ漠然と「たたり」を恐れ、偶像を拝み続けます。それは、暴力団のご機嫌をとりながら、見せかけの平和を守ろうとする生き方と同じです。ただし、もっと悪いのは、彼らは、自分たちが悪霊の脅しに屈しているのを知らないことです。

それにしても、イエスの登場は、このゲラサの地でのように、見せかけの平和を壊しました。しかし、それは、名医が、「がんと分かるのが怖いから、検査を受けない・・」というような臆病な人に現実を直面させるのと同じです。一時的な、外科手術を過ぎた後には、希望に満ちた人生が待っています。イエスは、私たちを、怯えて生きる人生から、問題に直面する勇気を持つ者へと変えてくださいます。

そして、その後のことが、「それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った」(5:18)と描かれます。悪霊を追い出してもらった人が、お供を願ったのは、人の救いよりも豚の損失に目が向かう冷たい人々から離れたかったからではないでしょうか。

それに対し、主は、意外にも、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」(5:19)と命じました。

そして、その結果が、「彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた」(5:20)と描かれます。

ゲラサの人々にとってイエスはまぶし過ぎたのかもしれません。しかし、自分たちの仲間の証しには耳を傾けられます。それは、乞食が、隣の乞食に、どこに行ったら恵んでもらえるかを教えるようなものです。互いに乞食だから通じ合うことばや感覚があります。

イエスは、罪人の仲間になるために、神であるのに人となってくださいましたが、それでもなお届くことができない人たちがいたのです。そして、あなたにも、あなたにしか届くことができない人々があり、あなたはその方に福音を分かち合うように召されているのではないでしょうか。

神の国の福音は、大上段から真理を示すというよりも、何の資格もない、欠けだらけの人の人生を通して、伝えられて行くのです。

イエスがこの人の中に起こしてくださった変化は、その人を悪霊の支配から解放するばかりか、その人が、自分よりも豚を気にかける冷たい人々のただ中に住み、福音を告げるようになるということでした。つまり、誰の役にも立たなかった人が、その人でなければできないという働きを見いだしたのです。

しかも、悪霊は一人の人格を破壊することでゲラサの人々を怯えさせ、その地域全体を支配していましたが、イエスは反対に、この一人を悪霊の支配から解放することで、この地域全体の人を悪霊の恐怖支配から救い出そうとされたのではないでしょうか。

それにしても、悪霊の支配するこの異教の地の伝道を、イエスがこの生まれ変わったばかりの一人の人に託すというのは、何とも不思議なことです。この人は、何の学問的な知識も、弁舌能力も、見栄えもなかったことでしょう。彼が持っているのは、たったひとつのイエスとの出会いという証しだけです。悪霊たちは、豚に乗り移った後、自分たちの姿を隠しながらも、イエスがこの地を立ち去ったことを喜んでいたことでしょう。しかし、悪霊たちは、このひとりのひ弱な人の証しは押しとどめることはできませんでした。

そして、やがてイエスは、ユダヤ人の宗教指導者たちの陰謀によって、十字架にかけられ、殺されます。悪霊たちはそれを大喜びしたことでしょう。しかし、それこそ彼らの敗北の始まりでした。イエスは三日目に死人の中からよみがえられたからです。しかも、イエスはご自分の福音を、イエスの前から一度は逃げ去った臆病な弟子たちに委ねました。悪霊たちはその影響力を軽視していたことでしょう。

しかし、イエスの復活の証は、何よりも、この世で軽蔑された弱い人々を通して効果的に表されたのです。それは、臆病で無力な人たちであるからこそ、そこに働く神の力の偉大さが際立って見えるからです。

悪霊の支配は、私たちの想像を超えた形で、無力化されます。使徒パウロには、すばらしい霊的な体験の後、「高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」。それを彼は、「私を打つための、サタンの使い」と呼んで、それが取り去られるようにと主に懇願しました。

しかし、そのとき主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました(Ⅱコリント12:9)。