ダニエル9章「苦難が続く中での希望」

2011年7月24日

今から三十年近く前、私はドイツ銀行が集めてくれた一般投資家を前に、日本株投資の魅力を熱く語っていました。実際、そのとき日本株に投資したドイツ人は、通貨と株価の相乗効果でその後の五年余りのうちに少なくとも投資資産を三、四倍に増やすことができました。しかし、この教会が始まって間もなく、日本経済の成長は止まり、現在の株価も最高値の四分の一近くのままです。

私たちは聖書を誤りなき神のことばと信じる福音的な教会ですが、しばしば、聖書解釈が時代の影響を受けてきました。その反省が、昨年、南アフリカで開かれた第三回ローザンヌ会議で確認されました。

多くのキリスト教会は、右肩上がりの株価のような、繁栄の神学の影響を受けていました。クリスチャン人口がアジアやアフリカで爆発的に増加しましたが、それが自由で公正な社会の実現には結びつきませんでした。実際、アメリカでも南アフリカでも、しばしば、福音的な教会は人種差別を擁護する勢力としてさえ機能していました。それは、教会がこの世からの分離を何よりも強調してきたことと切り離せません。

そして、そのような保守的な教会の神学は、ダニエル書9章の解釈に特徴がありました。それはイエスの時代のユダヤ人たちの解釈の影響を受けたものです。イエスの時代にもこの箇所は愛読され、それはローマ帝国からの独立運動に結びついていました。しかし、イエスはそれに対して目の前の問題をなくすることを目指す代わりに、目の前の苦しみを担ってゆく「十字架の神学」を示されたのです。

今、世界中の多くの福音的な教会が自分たちの神学を振り返ろうとしています。そして、その鍵は、何よりもダニエル書の解釈にあります。それにしてもダニエル9章には聖書の歴史の全体像が記されています。ともにこの書から神のみこころを探りましょう。

1.「主 (ヤハウェ) はそのわざわいの見張りをしておられ……」

「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年」(9:1) とは5章30、31節に記されていたバビロン帝国滅亡の年、紀元前539/538年を指すと思われます。

そして、このとき、ダニエルは「預言者エレミヤにあった主 (ヤハウェ) のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った」というのですが、エレミヤ書では、「この国は全部、廃墟となって……バビロンの王に七十年仕える」(25:11)、また「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだー主 (ヤハウェ) の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:10、11) と約束されています。

つまり、ダニエルはエレミヤの預言によって、これからのイスラエルに大きな希望を見出すことができたからこそ、真剣に神に祈ったのだと思われます。

そこでダニエルは、イスラエルの民を代表して、自分たちの罪を告白します (9:5、6)。そして、同時の常識では、エルサレム神殿の崩壊は、主 (ヤハウェ) の無力さ、主の不面目を周囲の国々に現すことになりますから、そのことを意識しながら、彼は、「主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので・・・不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです」(9:7-9) と告白します。ここでは、民の不面目と、主の「正義」と「あわれみと赦し」が対比されます。

つまり、「主の正義」とは、罪に対するさばきと同時に、「主のあわれみと赦し」として現されるというのです。

その上でダニエルは、彼らの罪の根本を、「主 (ヤハウェ) の御声を聴かなかった」(9:10) こととして描きます。ここで、「律法に従って歩む」という動詞は不定詞で、聴くという主動詞を修飾するものです。私たちは誰でも、自分の心で納得したことは進んで実行できますから、具体的な行動よりも大切なのは、主の御声を真心から聴き、その背後にある神の愛を知るということです。

敢えて言えば、「トーラー」を「律法」と訳すこと自体が問題かもしれません。「トーラー」の中心的な意味は「教え」ですが、その背後には、「主 (ヤハウェ) があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれ」(申命記7:7) という神の一方的な愛があります。イスラエルの罪の根本とは、この神の愛の語りかけを軽蔑したことにあるのです。

たとえば、多くの専業主婦の方々は、夫が高い給与を稼いでくるよりも、夫が自分の話に真剣に耳を傾けてくれることを願っていると言われます。神への愛の始まりは、神に高価ないけにえをささげることよりも、神のみことばに真剣に耳を傾けることです。そのとき、行動は必然的に伴ってきます。

しかも、主のさばきに関しては、「律法を破り、御声に聴くことを拒絶した」(私訳) イスラエルの民に対し、「神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが……ふりかかりました……神は……みことばを、成就されたのです」(9:11、12) と、描かれています。

神は、ご自身の愛を語るとともに、神の愛を軽蔑する者が、どのようになるかということを繰り返し警告しておられました。それが特に、レビ記26章や申命記28章15節以降に、驚くほど生々しく描かれていました。それらは「のろいの誓い」(申命記29:12、14、20、21) とも呼ばれます。そして、イスラエル王国が滅亡したのは、まさにこれらのみことばの成就だったのです。

神は怒りの感情にまかせてイスラエルをさばいたというよりは、「哀れみに胸を熱くしながら」、その「のろいの誓い」を成就させざるを得なかったのです。さばきの背後にある神の熱い思いを忘れてはなりません。

ダニエルは続けて、「このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは……あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした」(9:13) と当時のイスラエルの民の問題を描いています。

わざわいが、神の御手の中で起こっているのなら、それからの回復も神によってのみ可能になるということを彼らは信じ、真剣に祈るべきだったのに、そうしてこなかったというのです。

そして、そのことをここでは、「主 (ヤハウェ) はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました」(9:14) という不思議な表現で描かれます。

エルサレムを滅ぼしたのは、実際には、バビロン帝国の軍隊です。しかし、神はこのわざわいをもたらすバビロン軍の「見張り」をしておられました。それは、神は、バビロン軍を止めようと思えば止めることができたという意味です。その意味で、これは神のさばきであると言われるのです。

2.「あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているから……」

そして、今、ダニエルは、エルサレムの復興を願って、「主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム……からおさめてください……ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください」(9:16-18) と驚くほど大胆に神にすがっています。

そして、そのように必死に祈っているときに、8章16節にも登場した御使い「ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき」(9:21)、そして、「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た……あなたは、神に愛されている人だからだ」(9:22) と告げます。

先にもダニエルは御使いガブリエルからの知らせによって、「病気になったまま……驚きすくんでいた」(8:27) という状態になりましたが、このときも、ガブリエルの幻は彼を深い悲しみに陥れるものでした。

神の愛は、地上での安楽な生活を保障するものというよりは、厳しい現実に直面するための生きる力となるものです。エレミヤの預言だけを見ると、七十年の苦しみのあとに、栄光に満ちた時代が実現すると思いますが、そのように歴史は動かないということを御使いは知らせに来たのです。

モーセの預言とエルサレムの滅亡の間には、罪と罰という因果関係を確かに認めることができます。そこから、わざわいは、罪に対する神の罰であるという見方が生まれます。イエスの時代の人々もその見方で凝り固まっていました。

イエスの弟子たちも、生まれつきの盲人を見たとき、イエスに向かって、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と尋ねましたが、イエスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と不思議な答えを言われ、その上で、この盲人の目を不思議な方法で癒してくださいました。それによって、神の栄光が現されました。

イエスは、わざわいの原因を説明するのではなく、わざわいを通して神の栄光が現されるということを言われたのです。

実は、エルサレムの陥落とバビロン捕囚も、イスラエルの罪に対する神のさばきという以前に、「みことばの成就」、神の栄光の現れという点では同じなのです。そして、それはエレミヤ預言でも同じです。

ダニエルが、「主 (ヤハウェ) はわざわいの見張りをしておられ」と言った時、神はわざわいを止めることができると告白していたのです。

罪に対する罰という考え方は、原因結果ですべてを説明するという論理につながります。そこでは、実は、神は原因結果の背後に隠されてしまいます。しかし、聖書の神は、ご自身のことを、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39) と紹介しておられます。神は、この世の因果律を越えて、すべてのわざわいを支配しておられるのです。

ですから、大切なことは、わざわいの原因をさぐり、その原因を正すことよりも、神の救いを求めて祈ることです。実際、ダニエルは、「主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください」(9:19) と大胆に祈りながら、その根拠を、「私たちは深く反省していますから……」などと、自分たちの信仰に結びつけるのではなく、「あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです」(9:19) と、イスラエルの民を救い、エルサレムを回復することこそが神ご自身の栄光につながると祈っています。私たちは苦しみの中で、自分の心に目を向ける前に、ただ神に目を向け、すがるべきなのです。

3.「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている」

ガブリエルはまず、「あなたの民……聖なる都については、七十週が定められている」(9:24) と言いますが、「七十週」は原文では、「七(複数形sevens)を七十」(NIV訳Seventy ‘sevens’)と記されています。

レビ記では、ヨベルの年の始まりが、「七年の七倍」(25:8) と表現され、それは49年を意味していましたが、これはそのヨベルの年の十倍の時を意味します。ダニエルはエレミヤ預言の七十年が終わったので、これからは祝福の時代がやってくると期待したのに、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐため」という、神の救いのご計画が完成するまでに、なお、「七の七十倍」の時が、必要だと告げられてしまいました。

これはダニエルにとってはショックでした。レビ記26章には、神のさばきを受けながら、なお、神のことばに心を開かないなら「七倍の懲らしめ」が来ると警告されていましたが、ダニエルはそれを思ったかもしれません。

また、イエスは「七度を七十倍するまで」赦すということで (18:22) と、これを無限の意味で用いました。

黙示録では大バビロンの滅亡は終わりの日のハルマゲドンの戦いと結びついています。多くの人は、バビロン捕囚は七十年で終わったと思っていますが、ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配と、バビロン捕囚のような状態は続いていったのです。

そして、この「七の七十」は三つに区分されます。第一は、「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週」です。これは先の「七年の七倍」というヨベルの年に相当します。

「油注がれた者」というのは、「救い主」という以前に、民のリーダーが立てられること、つまり、エルサレムでの礼拝と政治が正常化するということが、すべての借財がゼロになり、最初の秩序が回復されるという意味で民の解放を告げるヨベルの年として実現することになります。しかし、それで問題は解決するわけではありませんでした。

その後、「また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される」(9:25) とありますが、これは、その数字に象徴的な意味のない「七年の六十二倍」で、この期間にはエルサレムの再建は進みますが、苦難は続きます。これは、あまり意味づけのしようもない、だらだらとした年月が過ぎることを意味すると思われます。

しかし、その後に、「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない」という悲劇の時代が訪れます。これは、ダニエル8章に記されていた「常供のささげ物は取り上げられ」(8:11) というのと同じことを意味すると思われます。これは、神の民が徹底的に苦しめられる時期を指します。

それに続いて、「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」(9:26、27) と記されます。

これはしばしば、七年間の大患難の時期と言われ、その中でも特に、「半週」、つまり、三年半が「いけにえとささげものをやめさせる」という信仰の大迫害の時期を指すことになります。

ただし、「一週」とは厳密には、「ひとつの七」と記され七十分の一という短期間を、また「半週」も、苦しみの期間が限定的であることを指します。

ただ、「荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」と、この神に反対する勢力が権力を完全に掌握したと思われる直後に、その権力が神によって滅ぼされると描かれます。

4.イエスの時代の人々のダニエル書解釈、キリスト教原理主義者のダニエル書解釈

イエスの少し後の時代のヨセフスは、この預言が、ギリシャの王アンティオコス・エピファネスが紀元前167年にエルサレム神殿を荒らし、いけにえが三年間、差し止められ、その後、ユダ・マカベオスのもとで神殿がきよめられたことをさすと述べながら、同時に、「ダニエルはまた同じ仕方で、ローマ人の帝国について、すなわち彼らの手によるエルサレムの陥落と神殿荒廃について書き記した」(ユダヤ古代誌10:276) と述べています。

そして、イエスの時代のユダヤ人たちは、このダニエルの預言を根拠に、エルサレム神殿が一時的にローマ軍によって占拠されるようなことがあっても、神は最終的な勝利を与えてくださると信じて、ローマ軍に対する独立運動を激化させ、結果的に、紀元七十年にエルサレム神殿が廃墟とされてから今に至るまで、神殿を永遠に失っているのです。

ところで、七週と六十二週とを合わせると69週(483年)になりますが、前世紀の保守的なアメリカの学者たちは、ネヘミヤ2章に記されているエルサレム城壁の再建をペルシャ王アルタシャスタが命じた年の紀元前445年から、イエスの十字架の年までが、一年を360日と計算すると丁度483年になると言います。そして、キリストの十字架こそが「油そそがれた者が絶たれた」ことを現すと言います。

そして、最後の「一週」、七年が、イスラエルの民のために、エルサレム神殿が再建された後に、一時的に崩壊し、その後、完成されるという時期として残されており、その前に、クリスチャンはこの大患難の時期の前に天に引き上げられると言います。

そして、1948年のイスラエル国家の再建こそ、この終わりの時代への入り口を示していると言います。そして、このような神学を信じていたのがアメリカのブッシュ前大統領を支えていたグループで、キリスト教原理主義とも呼ばれることがあります。そして、彼らは一方的にイスラエル国家を支持し、イスラム原理主義との対立関係を深めてしまいがちです。

5.イエスはダニエル書をどのように解釈したか

しかし、地上の神殿は「本物の模型にすぎない」(ヘブル9:24) と言われるように、イエスはご自身の十字架と復活で本物の神殿を完成されました。ですから、キリスト教原理主義者が目に見えるエルサレム神殿の再建を預言の成就として期待することは正しい聖書解釈だとは思われません。

イエスご自身もこの書を未来予告としてよりは、目の前の弟子たちへの行動の指針と励ましとして引用されました。そこではまず、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つのを見たならば……ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」(マタイ24:15、16) と言われます。

これは、エルサレム神殿がローマ軍によって汚されるようなことがあっても、決して戦おうとしてはならないばかりか、反対に、速やかに神殿から離れることを勧めたものです。

続けてイエスは、「そのときには……いままでかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある……もし、その日数が少なくされなかったなら、ひとりとして救われる者はいないことでしょう。しかし、選ばれた者のためにその日数は少なくされます」(同24:21、22) と、苦難の日数が短くされるので、戦う代わりに忍耐して救いを待つようにと勧めました。

そして、「これらの苦難に続いて太陽は暗くなり……天の万象は揺り動かされます。そのとき……地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(同24:29、30) と、世界の終わりと思われるときにこそ、キリストの栄光が現されるときであると言われました。

そして、イエスは、「これらのことが起こり始めたら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」(ルカ21:28) と言われました。これは、苦難が激しくなるのは、救いの完成が近づいているしるしであるという意味で、これこそダニエル書のテーマです。

実際、ダニエルの友人が偶像を拝むことを拒否して燃える炉の中に投げ入れられなければ、イスラエルを滅ぼした王ネブカデネザルがその神をあがめるようにはなりませんでした。またダニエルがライオンの穴に投げ込まれなければ、ダニエルを救う神の栄光は現されませんでした。バビロンがエルサレムを破壊しなければ、ユダヤ人を救う神の栄光は現されませんでした。クリスチャンが迫害されなければ、死をも恐れない復活信仰は表されませんでした。神の民の苦難こそは、神の栄光の現れのときなのです。

つまり、イエスが示したダニエル書の正しい解釈とは、神の勝利を確信して敵と戦うことではなく、神が苦しみのときを短くしてくださることを信じて、苦しみにひたすら耐えることなのです。神の民を迫害する圧倒的な神の敵が勝利したと思えた瞬間、その神に敵対する勢力は神ご自身によってさばかれるからです。

この世の権力が私たちを迫害するのを神が許しておられるのは、神の力がこの世の権力を徹底的に圧倒していることを示すためです。

私たちを津波や大地震が襲うことがあるのは、そのような苦難を通して、神の栄光が現されるためです。

もし、私たちが、苦難を神のさばきととらえるなら、そこには、互いを非難するさばきあいが生まれるのではないでしょうか。しかし、それを神の栄光を現す機会と理解するなら、そこに苦難をともにする者どうしの愛が生まれます。

ダニエルは七十年間の終わりに神の大いなる祝福の時代が来ると期待していましたが、それに対し、御使いは救いの完成までには、新たな七の七十倍の時が必要であることを示しました。これは私たちの人生に当てはめることができます。イスラエルの民が自業自得で七十年間のバビロン捕囚の苦しみを通ったと同じように、私たちも自業自得で苦しむことがあります。そして、そこで私たちも神の前に悔い改め、神の救いを慕い求めました。そして、あなたはキリストの十字架によって「救われた」と宣言されます。

しかし、ふと現実を見ると何も変わっていないように思えることがあります。そこで、「七十週」の時間のことが示されます。最初の七週の人生の建て直しの期間を終えても、なお多くの問題が残っています。そこに劇的な成長の見えない六十二週が続きます。

そして、長い信仰生活の後、突然、とんでもない苦難に会うことがあります。しかし、その期間は、七十分の一またはその半分という短期間で終わります。

その苦難に耐えているとき、神は突然、劇的な救いを実現してくださいます。そして、この最後の苦難は、罪への罰ではなく、この世の悪に対する神の劇的な勝利の宣言のときなのです。

私たちは、この最終的な救いの完成のことを思いながら、「約束された方は真実である」ことを思い、「しっかりと希望を告白」しながら、「互いに勧めあって、愛と善行を促すように注意し合う」ことができるのです (ヘブル10:23、24)。

バビロンに捕囚とされたダニエルに、神の民はバビロン滅亡後も、次々と起こる大帝国の下で苦しみ、その後で、最終的な救いを受けると示されました。それは人間の期待を一見裏切るような、神の救いのご計画なのです。