2011年7月3日
福島原発5kmに立つ福島第一バプテスト教会から避難民をリードして来られた佐藤彰先生が、今回、自分たちが流浪の教会にならざるを得なくなったことをとおして、初めて、イザヤ43章1-4節が本当に心の底に落ちてきたと言っておられました。
彼は当然ながら、何度もそこを読み、またその箇所からメッセージをしてきましたが、本当の意味ではわかっていなかったように思うと言っておられました。そこには、次のように記されています(私訳)。
だが、今、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。 ―ヤコブよ。あなたを創造された方が、イスラエルよ。あなたを形造った方が。― 『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだから。あなたの名をわたしは呼んだ。 あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにいる。 川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。 わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している。 だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする。 恐れるな。わたしがあなたとともにいるから。
残念ながら、私たちはごく平凡な生活の中では、神が私たちとともにおられるということの意味を心の底から味わうということができません。その意味で、私たちには適度に、人生の海の嵐に遭遇する必要があるのではないでしょうか。
福島第一原発で作業しておられる方のご家族が、佐藤先生の一行とともに奥多摩に避難して来ました。夫は、家族のことを思いながら、仕事をやめることも考えておられましたが、家族が教会の輪の中にいるから、その過酷な職場にも安心して行けると思えるようになりました。
そしてこの教会は、何人ものそのような方々を、このイザヤ書のみことばを朗読しながら、涙を流しつつ、被爆の大きな危険をはらむ作業場に送り出しておられます。
原発に関しては様々な意見がありますが、現在の放射能漏れを防ぐためには、身の危険を侵してでも現場で作業する人が必要だということだけは明らかです。
私たちの人生に必要な知恵は、人生を襲う嵐を避けることよりも、嵐の中でも、落ち着いて、なすべき責職場にも任を果たすという勇気ではないでしょうか。それこそ信仰です。
1.「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった」
ガリラヤ湖は南北21km、東西13kmの広さで、ヨルダン渓谷に位置し、湖面は海抜-210mの低さにあり、回りを海に囲まれた美しく豊かな湖です。ただ、この特殊な地形のため、夜になると突風が陸から海に向けて吹くことがありました。
イエスはその日、西の湖畔で「おびただしい数の群集に」に向かって、「湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ」ながら、「たとえ」をもって話され、その後、身近な弟子たちにだけその意味を解き明かしておられました。
「その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに」、「さあ、向こう岸へ渡ろう」(4:35)と言われます。
そして、「そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした」(4:36)と描かれますが、「舟に乗っておられるままで」という表現は、4章1節の「舟に乗り、そこに腰をおろされ」ながらお話しされた、その延長のままということを指しているのだと思われます。
4章10節では、「イエスだけになったとき」とありますが、これはそのときのことではなく、後の日のことを指しているのだと思われます。とにかく、イエスはその日、ずっと、舟に腰掛けたままで、たとえをもって、印象的でありながら意味のわからないお話をし続けておられたのではないかと思われます。イエスがどれだけお疲れになったかは、想像にあまりあることです。
なお、ここでは、「他の舟(複数)もイエスについて行った」とありますから、ひとつの舟だけに、弟子たちが乗り切れなかったことは明らかです。
1986年にガリラヤ湖の西北岸の昔のマグダラの町のあたりで、イエスの時代のものと思われる舟が発見され、世界的な話題になりました。それは長さ8.2m、幅2.3m、高さ1.3mという大きさのもので、多くの学者が、これはイエスの時代の漁師たちが用いていた舟と同じものではないかと推測しています。
そのような中で、この舟を襲った危険のことが、「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった」(4:37)と描かれます。ところが、そのとき、「イエスだけは、とも(船尾)のほうで、枕をして眠っておられた」(4:38)というのです。
ここではわざわざ、「枕をして」と記されていますが、これは単なる、居眠りではなく、イエスが意図的に、熟睡しようとしておられたことを示しています。これは別に、ご自分の安心感を弟子たちに模範として示そうとされたというより、私たちと同じ弱い肉体を持っていることの生理的な必要から出ていたことと思われます。
しかし、それにしても、舟が波をかぶって、水浸しになっているのに、敢えて眠り続けることができるというのは不思議です。そこには深い安心感が見られます。
たとえば、私は、旅行に行くと眠ることがなかなかできません。ところが、床屋さんに行くと、不思議に眠ることができます。自分でも不思議なほどです。それはたぶん、心の底に、「ここでは眠っても大丈夫」というプログラムができているのかもしれません。
同じようにイエスは、どんな大波が襲おうとも、この舟は沈むことなどありえないという安心感を持っておられたのだと思います。
ところが、そのとき、生まれながらガリラヤ湖に親しんできている漁師のペテロをはじめとする弟子たちが、あわてふためいて、「イエスを起こし」たばかりか、「先生(ヘブル語では『ラビ』)」と呼びかけながら、「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」(4:38)と訴えます。
これは厳密には、「私たちが滅びて行くのがあなたには気にならないのですか」と訳すことができます。普通うならば、漁師である弟子たちの方が、イエスを気づかってしかるべきなのに、彼らはパニックのあまり、イエスの無関心を責めることばを語ったというのです。
それほどまでに、イエスの眠っている表情には、安心感が満ちていたということではないでしょうか。
それにしても、ここに弟子たちの信仰が見られます。彼らは、イエスが何かができることを期待しているからこそ、自分たちが経験したこともないような嵐に襲われ、何にもできないと思う中で、このような発言をしたとも言えましょう。
私たちは、人生が制御できないと思うと、不安で眠られなくなります。しかし、イエスにとって、この嵐は制御不能ではありませんでした。主は、父なる神との深い交わりの中で安心しておられたからです。
私たちも、眠りにつく前に、「主よ。この夜、私をお守りください。この身体、たましい、すべてのものをあなたの御手にゆだねます・・悪い敵が私を害しませんように」と祈ることができます。
そして、イエスは、この嵐も父なる神の愛の御手のなかで起こっていることを知っておられました。それをイエスは別の機会に弟子たちに向かって、「そんな(安っぽい)雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と言われました。
2.「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」
そして、そのときイエスは起き上がってすぐに、「風をしかりつけ」、湖に向かって、「黙れ、静まれ」とお命じになられました。これは、「落ち着け。沈黙しろ」とも訳すことができることばです。
これはまるで、騒いでいる子供をたったひとことで黙らせることができる教師の権威あることばのようです。すると何と、「風はやみ、大なぎになった」というのです(4:39)。
なお、「しかる」とは、親が子供をしかるとか、悪霊を厳しく「責める」というようなときのことばです。それは、イエスのことばに「光があれ」と言って、光を創造された創造主の権威があったことを示します。
その上でイエスは彼らに、「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」(4:40)と言われます。これは、「何と臆病なことか。まだ確信がないのか?」とも訳すことができます。それは、彼らが、イエスも父なる神をも、本当には知っていなかったからです。
タイタニックは沈まない船と言われていましたが、映画の中で、「鉄は沈む・・」と言われていたのが印象的でした。確かにどんな舟でも沈む可能性があります。しかし、この舟には神の御子イエスがいっしょに乗っているのです。それが沈むのを、父なる神が許すはずはありません。
そして、弟子たちはこのことを通して、「彼らは大きな恐怖に包まれ」、そして、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と、「互いに言った」というのです(4:41)。これは、イエスが単なる律法の教師(ラビ)ではなく、「風も水も、お命じになれば従」わせる権威者だと知ったという意味です。
彼らが、もし、イエスがどのような方であるかを本当に知っていたとしたら、イエスをどんな嵐よりも恐れたことでしょう。そして、真にイエスの権威を恐れていたとしたら、イエスが乗っている舟が沈むことはないという確信を持つことができたに違いありません。
私たちは真に恐れるべき方を恐れない結果として、恐れなくてもよいことを恐れてしまうのです。
私たちの回りにも、様々な不安な材料があります。何よりも怖いのは、自然よりも、人間かもしれません。それは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」(エレミヤ17:9)とある通りです。
しかし、イエスが、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものよりも、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われたように、真に恐るべき方は、神おひとりです。
神への恐れを、「畏敬」と言い換えたほうが良いという意見もありますが、ヘブル語でもギリシャ語でも、人への「恐れ」と神への「恐れ」を区別するような言葉使いはありません。
多くの人は、真に恐れるべき方を恐れないことの結果として、恐れなくても良いことを恐れるようになります。それは心理的な現実でもあろうかと思います。
たとえば、大きな戦争の恐怖にあるときには、人は小さな心配のことは忘れます。それと同じように、私たちを滅ぼす力を持つ神を真に恐れることは、人への恐れをなくする力になります。
ただし、神は、ご自身にすがってくる者を退けることは決してないというのが、聖書全体を通して知らされている私たちの確信でもあります。
しかも、私たちの傍らには、私たちのためにいのちを捨て、よみがえられたイエスがいてくださいます。主がともにおられるのですから、どんな人生の嵐に直面しようとも、私たちは恐れる必要はないのです。
「恐れてはならない」のではなく、主にすがる者は、この世の恐れに惑わされる必要がないという意味です。
3.人生の海の嵐の中での平安
この記事で興味深いのは、イエスがともにおられながら、プロの漁師の目にも、舟が沈没寸前になってしまったということです。しばしば、多くの人がこの世を超越した神のような存在を礼拝する理由に、「罰が当たるのが怖いから・・・」というのがあります。しかし、もし、「どんなに誠実に礼拝生活を守っていても、あなたの人生には、必ず何らかの災いが起きる・・・」と言われたら、どうでしょう・・・。
そんな中で、「神を信じて、何になるのか・・・」と思う人もいるかも知れません。ただし、地震や津波や放射能漏れは、善人も悪人も問わずに襲ってくることがあります。そのとき、神を信じていなくて、どうして、誠実に生きようとする気力が湧いてくるのかと、私は反対に思います。
イエスが現れる六百年前、エルサレム神殿がバビロンの軍隊によって徹底的につぶされ、その高価な器具が運び出されたときに、ユダヤ人は心から救い主を待ち望むようになりました。彼らは、「メシヤ(救い主)のおられるところ、不幸はない」と期待するようになりました。
ところが、現れた救い主は、十字架にかけられて殺されたのです。しかし、その方は三日目に死人の中から復活しました。苦しみをなくする代わりに、それを正面から引き受けた上で、奇想天外な脱出の道を開かれたのです。
それ以来、イエスの弟子たちは、「メシヤのおられるところ、不幸はない」という代わりに、「痛み苦しみのあるところに、メシヤはおられる」と言うようになりました。
2001年のスイスでのセミナーの最後に、チューリッヒの教会でシャガールのステンドグラスを見ながら黙想したときに、ユダヤ人が自分たちの苦しみの歴史をどのように見ているかが少しわかった気がしました。シャガールはユダヤ人として、常に、ナチス・ドイツによって六百万人もの同胞が虐殺されたことに心を向けていました。
彼が描いた五つのステンドグラスには、イスラエルの悲劇と同時に、「新しい天と新しい地」への栄光に満ちた希望の両面が鮮やかに描かれていました。
左端のステンドグラスは、下から上に鮮やかな赤で天に昇るエリヤの火の車からエルサレム崩壊の様子とエレミヤの嘆きが描かれていました。それは、血の色で、人間の罪の悲惨さを表します。それを見ただけで、私の心には何とも言えない不安と悲しみが迫ってきました。
一方、右端の窓には、最上部に十戒を受けるモーセが記され、そこから新天新地の預言を受けるイザヤまでの歴史がブルーで描かれています。この窓の下に座るとき、最初の赤い窓にこの青い窓が映って見えます。
それは、地上のどんな悲劇も、すでに聖書に書いてある預言の成就の一部分であることを示します。神は最後まで私たちの歴史の支配者であられます。そして、私たちはイスラエルの歴史に自分の人生を重ねて見ることができます。
左から二番目の窓にも、鮮やかなブルーでヤコブの生涯のふたつの出来事だけが描かれていました。ヤコブは兄のエサウを出し抜いて祝福を奪い取りいのちを狙われ、ひとり寂しく旅に出ます。彼が旅の途中で石を枕に寝ているとき、天から地に向けてはしごが立てられ御使いが上り下りしているのが見えました(創世記28:10-19)。
シャガールはリラックスして夢を見ているヤコブを御使いがはしごを上り下りする様子を窓いっぱいに描きました。神はこのときヤコブの傍らに立ちながら、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:15)という保障を与えてくださいました。これこそすべてのクリスチャンにとっての確信の基本です。
その窓の真ん中には、それから二十年たって郷里に帰る途中、ヤボクの渡しで御使いと格闘し祝福されるヤコブの姿が描かれていました。それは、ヤコブが格闘というより、抱擁されている姿でした。この窓の色は、私の心の奥底に優しさに満ちた慰めとして迫ってきました。ヤコブの生涯に自分の生涯が重なって見えます。
そのセミナーで、改めて、寂しさと不安に駆り立てられている自分の姿が際立って見えました。しかし、先行きが見えないと思う中でも、「天の門」が開かれ神の祝福が取り次がれ続けています。そして、傷つき必死にすがりつこうとしている自分が神の御手であたたかく包まれています。
これは、私たちが理性を超えた腹の底で体験するものです。
右から二番目の窓は、ダビデ王国が、「新しいエルサレム」、また、「新しい天と新しい地」として完成する姿が描かれています(黙示録21章)。ガラスの色は、黄色ですが、後ろから透き通って入ってくる光によって、栄光に輝く金色に見えます。それを見るとき、私たちの人生とこの世界が、まさに、栄光に輝く完成に向かっているとの確かな希望が心の底に迫って来ます。
私たちの地上の生涯にはいろんなことが起きますが、すべてのことが益に変えられ、目の前には喜びの賛美に満ちた世界が広がると約束されています。
私たちは自分の人生を、この世だけで終結させるわけではありません。どんなに成功に満ちた人生を歩んでいるような人でも、恥と苦痛に満ちた人生の最後を遂げるという人がいます。しかし、反対に、波乱万丈の人生を歩みながら、「私はやるべきことをやった。あとは神の御顔を仰ぎ見るときを待つのみだ」と平安に満たされて人生を閉じられる人のどちらがよいでしょう。
最後に、真ん中の窓の地の色は、落ち着いた希望を表す明るいグリーンでした。そこには、十字架の上にかかりながらそこから浮きあがっている復活のキリストが、私たちを高いところから慈しんで見ておられるように描かれています。それは、十字架と復活を同時に描くという画期的な絵です。
それは、私たちの生涯も、苦難と栄光がセットになっているということを語っています。まさに、「私たちはキリストとともに栄光を受けるために苦難をともにする」(ローマ8:17)とある通りです。
私たちはこの世の不条理を嘆きますが、神の御子の十字架こそ、最大の不条理です。しかし、それこそが神の勝利でした。私は、この十字架と復活のキリストを仰ぎ見ながら、神ご自身がこの世界の痛みを担い、私たちに生きる力を与えてくださるという真理が心の底に迫ってきました。
私たちの人生は、生れ落ちたときから私たちのコントロールの外にあります。そんな中で、自分の過去を、生まれ育った親や環境を恨みながら暗い人生を送る人がいます。一方、恵まれた環境に育ったことを自分の功績であるかのように誇りながら人の痛みに鈍感な人がいます。どちらのタイプもこの世をますます住みにくくします。
しかし、私たちが自分の人生を、上記の五つの窓の光を通して見るときに、自分自身が神の愛に包まれていることを確信し、他の人を愛とあわれみの眼差しをもって見ることができるのではないかと思わされました。実は、これこそ、そのセミナーの結論でした。言われてみれば何も新しいことはありません。
しかし、私たちの問題は、頭で理解していることが人生の実感となっていないことです。私自身、不安を持った自分自身が、神の愛の御手に抱擁されているということを、理屈では分かっていましたが、腹の底に落ちてくるという実感を味わうことができずにいました。しかし、そのきっかけをそのセミナーで受け取ることができたように思います。ヤコブ自身も一生かかってようやく理解した霊的な事実です。
シャガールは神に抱擁されるヤコブを繰り返し描いていますが、それを彼自身も心の底で体験し、それがこのステンドグラスになったのだと思わされました。
たったひとことで、嵐を静めることができる方が、あなたの人生の同伴者となってくださいました。何という恵みでしょう。イエスがともに歩んでくださるからこそ、私たちは人生の海の嵐のただ中に漕ぎ出すことができます。
父なる神と御子イエスは私たちひとりひとりに、「恐れるな。わたしがあなたとともにいるから。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ41:10)と仰せられます。
多くの人は、しばしば、恐れに囚われるあまり、語るべきことを語れず、なすべきことをなすことができません。自分の小さな世界の平安を求めるのではなく、神が私たちに期待しておられる人生を堂々と歩んで見ましょう。小さな損得勘定に囚われると、神が約束しておられる向こう岸にある大きな祝福を逃すことになりかねません。
ある人がユダヤ人のラビに、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じることができるのですか」と聞いたところ、ラビは長い沈黙の後、聞き取れないほど小さな声で、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じないでいられるのですか」と反対に聞いたとのことです。
どちらにしても、この世には常に、痛みや悲しみが尽きることはありませんが、それを神はともに担ってくださるからです。