2011年5月22日
先日、NHKスペシャルで、「虐待カウンセリング~作家 柳美里・500日の記録~」というのが報道されました。非常に赤裸々なことを描いてくださった勇気に感謝しますが、機能不全家族における負の連鎖に圧倒される思いを持たれた方も多いことでしょう。
彼女は「死にたい、」と思うとき、「その思いの強さに、怖くなって、呼吸が浅くも深くもならないように、主の祈りを唱える(ただし、祈りの言葉抜きで)」と書いています。彼女はカトリック教会で求道生活をしておられるようです。
実は、聖書の創世記のテーマのひとつも、機能不全家族に対する神の取り扱いの記事と見ることができましょう。そして、イエスが十二弟子を選ばれたことの中にも同じようなテーマが感じられます。少なくとも、彼らはエリート集団とは程遠い存在です。そこには最初イスカリオテのユダさえもいました。しかし、イエスはそんな欠けだらけの交わりを基礎に初代教会を建て上げられました。
そして、私たちも神の家族の中に招き入れられるために召されました。肉の家族関係を通して人が傷つくのと同じように、神の家族でも傷つく人が出てきますが、その真ん中にイエスがおられます。そこは傷を通してイエスの救いを見る場とされているのです。
1.「大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た」
イエスは安息日にユダヤの会堂で片手のなえた人を癒しました。これによって、イエスは当時の宗教指導者たちから、安息日律法の破壊者として決定的に憎まれることになりました。なぜなら、当時の人々は安息日を守ることこそが、神のあわれみを受けてダビデ王国を再建できるための道だと固く信じていたからです。
そのような中で、「それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれ」(3:7)ました。イエスはしばしば、大きな話題になる奇跡的な癒しのみわざの後で、人目を避けるように「退かれ」ます。それは、イエスの働きの目的は、論争を引き起こすことでも、ご自身の御力を宣伝することでもなく、ひとりひとりとの人格的な出会いをすることだったからです。
ただ、「すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た」(3:8)とあるように、驚くほど多くの人々が広い地域から集まってきました。
イエスはこのときガリラヤにいたのですが、エルサレムを中心としたユダヤ地方と、その南のイドマヤまた、ヨルダン川の東側やガリラヤより北の海沿いの地方のツロやシドンなどという異邦人の地からも人々がイエスのみもとにきたというのです。
それで、「イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである」(3:9)とあるように、イエスはわざわざ小舟を用意させ、その上から陸に向かって語るという舞台を用意しなかればならないほど多くの人々が集まってきました。
なお、日中は、湖から陸に向かって風が吹くため、イエスの声は遠くにいる人々まで届いたことでしょう。集まってきた人々は病の癒しを求めていましたが、イエスは何よりも福音を語ることを願っておられたのではないでしょうか。病が癒されてもそれは一時的な慰めに過ぎません。彼らの多くは、また病にかかり、やがてすべての人が例外なく肉体的な死を迎えざるを得ません。大切なのは、目に見えない神との個人的な関係ができることです。
「永遠のいのち」とは、何よりも、「新しい天と新しい地」に実現する神との親密な交わりが、今、このときから始まることを意味しているからです。
また、そこには悪霊に取り付かれた人々も多く集まってきましたが、「汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し」、「あなたこそ神の子です」と叫ぶという不思議な現象が起きました(3:11)。イエスがどのような方であるかは、誰よりも悪霊が一番よく知っていましたが、彼らはイエスを恐れているからこそ、イエスのあわれみを請うような意味で、「あなたこそ神の子です」という告白をしたのだと思われます。
なお、人を名づけるということの中に、その人を自分の理解できる範疇に納めるという意味も込められていますが、悪霊たちはイエスを「神の子」と呼ぶことによって、イエスを自分たちの理解可能な存在へと引き下げる狙いがあったとも理解できます。つまり、悪霊の告白の中には、イエスのへの恐れとともに、主ご自身を想定内の存在へと納めると言う意味があったのだと思います。
それに対して、「イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた」(3:12)とありますが、それは極めて当然のことです。イエスは悪霊のペースでご自分のことが証しされることを望みはしませんでした。彼らはただでさえ混雑をしているところにさらに人を集め、混乱を生み出そうとしていたと思われるからです。
2.「イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた」
「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た」(3:13)とありますが、ここでは、「ご自身のお望みになる者たち」ということばが印象的です。
ルカ6章12,13節では、「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた・・夜明けになって・・十二人を選び・・使徒という名をつけられた」(12,13節)とありますが、イエスはご自身の働きを委ねる弟子たちを特別に育てるために、その選択に関し徹夜で神に真剣に祈る必要がありました。
人間的に考えると、彼らは初代教会の指導者になるべき器でしたが、イエスの選択の基準は、現代のように、本人の意思とか人々の推薦ではなく、父なる神のみこころとイエスご自身のご意思によりました。そこには、私たちのあらゆる常識を超えた神の基準がありました。
続けて、「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(3:14、15)と記されますが、「身近に置く」ということは、キリストの弟子を育てる際のキーワードです。それはたとえば徒弟制度で弟子が師匠の真似をしながら育つということに似ているかもしれませんが、根本的に異なることは、人間に過ぎない者は誰もイエスのようにはなれないということです。
ただし、身近にいた人はイエスの祈りの姿を見ることができました。そして、イエスご自身も、弟子たちに向かって、御父とご自身との特別な愛の交わりの中に彼らを招き入れるということを強調していました。その際、その神秘は、「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子(のような者)たちに現す」ということでした(マタイ11:25)。
確かにイエスは彼らを通して神のことばを告げ知らせようとしましたが、敢えて、それまでみことばの訓練を受けていない「幼子のような者」を使徒として選びました。当時の学者たちの解釈という先入観が入りすぎるとイエスの話をすなおに受け取れないからではないでしょうか。
それと同時に、彼らには何と「悪霊を追い出す権威」までもお授けになりました。悪霊は人間の力で追い出すことはできませんから、これは彼らに聖霊を授けたということを意味します。
これらすべてにおいて、使徒を選んだ基準は、この世が評価する能力の基準とは大きく異なることが明らかです。
しかも興味深いことに、弟子の筆頭であるペテロの本来の名は「シモン」ですが、それはイスラエル中で最も貧しい部族「シメオン」に由来します。一方、裏切り者「ユダ」はダビデを生んだ最も豊かな部族です。十二使徒の名の順位ではこの栄誉が逆さまになっています。
事実、ユダを区別する「イスカリオテ」とは「ケリオテ出身の」という意味だと思われ、これはヨシュアの時代からあるユダの最南端の町々の一つでした(ヨシュア15:25)。つまり、使徒の中でユダだけが、ガリラヤ出身の田舎者ではなく、伝統のある地の出身者でした。しかも彼は、弟子の集団全体の会計係を担当し、エルサレムの祭司長とも交渉できる有能な人物であったようです。
一方、ペテロは、貧しい教育しか受けていないガリラヤ湖の漁師で、情熱はあっても、いざとなったら三度イエスを知らないと言うような者でした。
しかし、貧しいペテロは成長し、有能なユダは堕落します。より幼子に近い方が成長できたのです。
マルコの書き方にその後の彼らの成長を示唆する表現があります。「シモンにはペテロという名をつけ」(3:16)という中に、イエスご自身が彼を不動の岩のような者に成長させようとする断固とした意思を見ることができます。
また、次に、「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた」(3:17)とありますが、彼らはペテロとともに特別にイエスの身近においていただくことになります。ヤコブは誰よりも先に殉教の死を遂げ(使徒12:2)、ヨハネは誰よりも長生きします。ヨハネは後に、愛の使徒と呼ばれますが、本来の性格は短気で癇癪もちだったようです。それが彼らのふたりを「雷の子」と呼んだことに現れています。
イエスが彼らをそのように呼ばれたということの中に、そのような性格を矯正しようとする前に、愛し受け入れようとする思いを見ることができるのではないでしょうか。ちなみに彼らの母はサロメと呼ばれイエスの母マリヤと姉妹であったと推測されます。イエスは最初からご自身の身近にいた人を使徒として選ぼうとされたのです。
アンデレはペテロの兄弟であり、イエスの最初の四人の弟子はみなガリラヤの漁師で、家族どうして互いをよく知っていたと思われます。ちなみにイエスはご自分のもっとも身近なところに地縁血縁で結びつく者たちを配されたのは実に不思議なことです。
ピリポもペテロやアンデレと同じ町の出身で、バルトロマイはナタナエルとも呼ばれ、このふたりは友人関係にありました。
そして、マタイはカペナウムの取税人です。トマスは懐疑主義者、アルパヨの子ヤコブは父の名がマタイと同じですから兄弟だったかもしれません。
タダイはルカでは「ヤコブの子ユダ」と記され、ユダの手紙の著者かもしれません。
「熱心党員シモン」とは独立運動に加担していた人だと思われます。
そして、最後が、イスカリオテのユダで、「このユダが、イエスを裏切ったのである」(3:19)と敢えて記されます。
ところで、ルカでは彼らのことが「十二使徒」と描かれ、「イスラエルの十二部族」に対応するものとして描かれています(ルカ22:30)。そこには、新しい神の民の創造という意図があったのではないでしょうか。イスラエルの十二部族が、機能不全家族から生まれ、兄弟同士の争いを通して神の民として整えられて行ったように、イエスは最初から明らかに問題を起こしそうな人を使徒として選ばれました。
イエスは将来の有能なリーダーを選ぶというより、神の家族としての核となる人々として選ばれたのです。家族であるなら、その中心に地縁、血縁が濃い人がいるのはうなずけます。
それにしても、「イスカリオテのユダ」を使徒とすることには大きな躊躇があったのではないでしょうか。イエスはそのことで苦しみながら、神のみこころを求め、徹夜で祈る必要があったのかもしれません。
しかし、この地上のどのような人の集まりにも、必ず、「はずれ者」のような人がいるのが現実です。その意味で、イエスは、どこにでもありそうな共同体を敢えて作ろうとしたのではないでしょうか。
それを通して、イエスは、将来の弟子の共同体にも、理想とはかけ離れた現実が必ずあるということを示唆し、同時に、はずれ者をぎりぎりまで許容する共同体こそが、イエスの弟子集団であることを示そうとしておられるのではないでしょうか。
3.「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」
「イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった」(3:20)とありますが、そこで不思議なことが記されます。
それは、「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た」ということですが、その理由が、「『気が狂ったのだ』と言う人たちがいたからである」と記されています(3:21)。少なくともイエスの肉の兄弟たちはイエスが正気を失っているという噂を真に受けてここに来ていたというのです。
そして、それと並行するように、「また、エルサレムから下って来た律法学者たちも」、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言ったということが描かれています(3:22)。これは、まさに、信じたいという心のない人には、信じないためのあらゆる理屈が成り立つことの実例でしょう。しかし、それにしても彼らのことばは余りにも実質のないもので、イエスはそれを指摘します。
イエスは、興味深いたとえをもって話されます。それは、「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます」(3:23-26)というものです。
彼らは「サタンの国」を甘く見過ぎています。サタンが仲間割れするぐらいなら自滅するだけで、悪霊追い出しなど必要なかったはずです。イエスは「サタンの国」を圧倒する、「神の国」をこの世界に実現しようとしておられたのです。
そのことをイエスは、「確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです」(3:27)というたとえで話します。
ここで、「強い人」とはサタンで、「強い人を縛り上げる」とは、イエスがサタンの支配を砕くことです。
事実、主が、「弟子たちに」「悪霊を追い出す権威を持たせる」(3:15)ことができたのは、イエスがサタンにすでに勝利しておられたからなのです。
その上でイエスは、厳かな事実を告げられました。それが、「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」(3:28、29)というおことばです。
つまり、イエスは、律法学者たちがイエスの働きを「悪霊どものかしらによって」のものだと言ったことは、「神をけがした」こと以上に、「聖霊をけがす」罪にあたると言われたのです。
事実、ここでは、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言ったことが、イエスや父なる神を冒涜したというよりも、聖霊を汚したことになると説明されているのです(3:30)。
ところでエルサレム神殿の大祭司は後に、イエスを、神を冒涜した者として死罪に値すると言いました。当時の律法学者は、「神をけがすことを言う」ことは、決して赦されないと言っていましたが、イエスはここで、「どんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます」と言っています。これこそが革命的な宣言です。
しかし、これとセットに、「聖霊をけがす」ことの問題が指摘されているのは、ここの律法学者のたちの態度に見られるように、あらゆる屁理屈を使ってでも、イエスのみわざを認めようとしない心の頑なさを指摘しての表現です。これは、神の赦しの御手を払いのけることだからです。これは、今にも溺れそうな人が、自分に差し出された救命具を、差し出した人が気に食わないといって、払いのけるようなこと同じことです。
神はイエスをサタンの力をくだき、悪霊を追い出す救い主として遣わされましたが、それを悪霊どものかしらによると言う者は、まさに、自分の意思でサタンの支配下に留まり続けようと願っていることでもあります。その人は、悪霊に打ち勝つ聖霊の働きを拒絶することで、自分から進んで悪霊の支配下に入ってしまっているのです。
多くの人々は、悪霊の働きをあまりにも表面的に見ています。人が何かのわざわいに会うとか、正気を失うとかは悪霊の働きとは限りません。
しかし、イエスの救いを断固として退ける者は、確かに悪霊の支配下に置かれていると言えましょう。なぜなら、「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)と記されているからです。
4.「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」
「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた」(3:31)とあるのは、先の21節の記述につながるものです。イエスの兄弟たちは、律法学者のようにイエスを悪霊につかれた者としては見てはいませんでしたが、正気を失った者として見ていたからこそ、イエスを呼び寄せようとしたのだと思われます。
それにしても、イエスの母マリヤは当時の女性の常として、成人した息子たちの意見に従わざるを得なかったのだと思われます。イエスは当時の宗教的常識を次々と否定するような言動をとりましたが、イエスの兄弟たちはそれが理解できず、深い戸惑いを覚えたことでしょうが、まだ聖霊を冒涜する罪を犯してはいません。
そして、イエスを囲んでいた「大ぜいの人」たちは、イエスの親族たちのことばを聞いて、ごく自然に、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言ったのでしょうが、それに対し、イエスは何と、「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか」(3:33)と親族の心配を助長するような発言をします。イエスの親族はますますイエスが正気を失っていると思ったのではないでしょうか。
そこでイエスは、なお続けて、「自分の回りにすわっている人たちを見回して」、「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(3:34、35)と言われました。イエスはご自分の話に真剣に耳を傾け、ご自分に従ってきている弟子たちやその母たちなどを含めて、ご自身の「兄弟、姉妹、母」と呼ばれました。ですから、ここで「神のみこころを行う」とは、何よりも、イエスのみことばに真剣に耳を傾ける人を指しています。
反対に、この世の常識的な評価に左右されてイエスが正気を失っていると判断した兄弟はイエスの家族とは言えない存在となっているというのです。イエスは後に、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37,38)と驚くべきことを言われました。
私たちもどこかで、信仰のゆえに肉の家族と衝突することがあるかもしれません。しかし、そのような厳しい所を通して初めて、肉の家族も神のみことばを真剣に聞くという道が開かれるのです。事実、イエスの兄弟たちは、イエスの十字架と復活の後に、弟子となりました。
彼らはイエスの拒絶を体験することによって初めて、真の意味でイエスの兄弟となることができたのです。イエスの拒絶の背後には、常にイエスの招きがあります。
イエスは神の家族を作るための核として十二弟子を選ばれました。イエスの救いの目的は、共同体を形作ることにあります。イエスは個人を召したのではなく、神の家族を召しだそうとしておられるのです。
イエスの招きへの応答は、個人個人に対するものです。しかし、それは神の家族を形成するための召しであるということを決して忘れてはなりません。
家族はどこでも面倒なものです。しかし、それを通して私たちは成長できるのです。
柳美里は、家族の隠された歴史と押し殺していた自分の心の傷に正面から向き合い、その痛みの記憶に圧倒されながらカトリック教会のミサに出席し、そこで味わった気持ちを、「わたしはだれかに丸ごと承認してほしかった。そのだれかが神しかいないのであれば、神でもいい、わたしのすべてを捧げる」と記しています。彼女がそうできることを祈ります。
私たちは目に見えない神に丸ごと受け入れられるという霊的体験を経た上で、目に見える神の家族の交わりに入る必要があります。そうでなければ、抱いた期待と教会の現実のギャップに悩むことになるからです。
ただし、神の家族にも様々な問題が満ちていますが、キリストを中心とした交わりには不思議ないやしの力があります。肉の家族から受けた傷が、新たな神の家族の中で、ゆっくり、じっくり、少しずつ癒されて行くのです。
ただし、目に見える教会の交わりにおける人との比較の中で、「赦されない罪」とは何かを誤解してはいけません。キルケゴールは「死に至る病」という書で、「人間の最大の悲惨は、罪よりもいっそう大きい悲惨は、キリストにつまずいて、そのつまずきのうちにとどまっていることである」と述べています。
「聖霊をけがす罪」とは、何か決定的に人の道に反する罪を犯すということではなく、キリストの赦しを拒絶することです。自分で自分を義と認めようとするのではなく、罪人のためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストの義にすがることこそ神のみこころです。