主よ、あわれんでください……

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2011年春号より

この大震災を巡って、ある人は、人間の傲慢に対する神のさばきと言い、ある人は、日本に福音が広がるチャンスと言い、また、日常生活のすべてが神の恵みだとわかったと言います。私も礼拝説教のたびに、何かの解釈をしています。しかし、ただ、おろおろと、「主よ。あわれんでください……」と泣きながら祈る、そんな姿こそが、信仰の原点なのではないかと、ふと思いました。

確かに、主は、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない……わたしは他に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう」(申命記32:39) と言っておられます。創造主を忘れ、自分の知恵と力を誇る人間たちに神がさばきを下されるということは、確かに聖書に記されている大切な真理です。しかし、その神が、私たちのそのような忘恩の罪のためにイエス・キリストを遣わしてくださったということこそ、私たちが知るべき福音の核心です。

今回の震災で最も多くの犠牲者を出したのが石巻市です(石巻市の死者、行方不明者は確認分だけで5、000人を超え、今回の大震災被害者の五分の一近くを占めます)。その高台に、私の友人の金谷政勇先生が牧会する保守バプテスト同盟いしのみなと教会があります。彼は4月のニュースレターに次のように書いておられます。

「壊滅的なダメージを受けた石巻市沿岸部、そして隣町の女川では、私どもが特に重荷をもってトラクトを蒔き続けたところでした。いつか実がなるように、どこかで魂の渇きが起こされるようにと願いつつも、蒔いたところが完全に破壊され尽くされてしまったのです。女川町などは、平地から高さ14、5メートルくらいの地にあった住宅や商店などが、津波にほとんど飲み尽くされてしまいました。まったく跡形も無くです。

どうしてこんなことが起きたのか、わからないことだらけです。ただわかっていることは、父なる神がさばきのためにこのような大災害を起こされたのではないということです。これだけは確かです。被災された方々の悲しみを、主なる神が一番よく理解されているという以上に、主イエスが被災者と共に悲痛を味わっておられるということです。

愛する者を失った悲しみに暮れる人々と、すべてを失って困窮し、明日が見えずにいる人々と共に、主イエスは今そこにおられ、人では負いきれない重荷を担ってくださるため、被災の地におられることを。そのため主は、御体なる教会をお用いになり、日々新たにキリストのいのちを注いでくださっているのです。被災した人々に仕えるために」

ただ、その金谷先生が諸教会に出された支援物資配給の活動報告に、「私どもの教会は人数も少なく、今までの震災での活動は、私と家内、春休み中の娘たちで仕分けをしたり、支援物資を運んだりしておりました。そういう人手が足りない中で、近隣の……教会や東京の……教会が10名のボランティアを派遣してくださり、ドロ出し、廃棄処分などの奉仕に大きな協力をしてくださいました……」と記されていました。

ただでさえ小さな群れの中で、三家族が避難所暮らしをされ、また有力な信徒の方が別の地方に転居せざるを得なくなるなどということがあると、まさに、教会で奉仕ができるのは牧師の家族だけということになりかねません。それにも関わらず、近隣の教会や東京からのボランティアを受け入れ、近隣の被災地の清掃作業に黙々と協力しておられるという姿に、ただただ感動するばかりです。

金谷先生は、「主イエスが被災者と共に悲痛を味わっておられる」と書いておられますが、それが目に見える形で現れるのは、まさに彼自身が被災地のヘドロ掃除をしている姿に現されるものです。また、彼は、「主イエスは今そこにおられ、人では負いきれない重荷を担ってくださるため、被災の地におられる……」と書いておられますが、これは、負いきれない重荷を担おうとして初めてわかることではないでしょうか……。

この教会の多くの方々が、震災により仕事を失い、また県外退避をせざるを得なくなっています。すると、このような震災を通して、キリストの愛を伝えることができたとしても、どのようにこの教会がその地で活動を続けることができるのでしょう。このままでは、教会は牧師給を出すこともできなくなってしまいます。すると、いっしょに被災者支援をやっていたという金谷先生の可愛いお嬢さんたちは学校に通い続けることもできなくなる恐れだってあります。

この大震災をめぐって今も、評論家的なことばかりを話している自分を恥じ入るばかりです。ただ、おろおろしながら、「主よ、あわれんでください……」と祈るばかりです。