ダニエル1章〜2章「寄留者としてこの世に生きる」

2011年4月10日

福島第一原子力発電所から約5㎞の所に、東北地方の福音的な教会の中で非常に高い評価を受けていた福島第一聖書バプテスト教会があります。佐藤彰先生を中心に約50名の方が、現在、奥多摩福音の家での避難所生活をしておられます。子供たちが奥多摩の小学校に通い始め、日常生活のリズムが戻りつつあり、先日の礼拝には近郊に避難している方を含め80人近くが集まったとのことです。

ただ、先の見通しがなく、佐藤先生は自分たちの時計の秒針は3月11日午後2時46分で止まったままだと記しています。東北地方で津波に流された町でも復興の動きが急ピッチで進んでいますが、彼らには自分たちの家にも教会にも帰る目処がまったく立っていません。彼らは人の支えによってしか生きることができません。そのような中で、「ありがたい。ありがたい。」が口癖になっています。日々の食べ物、住まい、衣服のすべてが贈り物によって成り立っています。

そして、今から、2,616年前のエルサレムでその前途を有望視されていた少年が、突然、バビロン軍に連行され、文化も宗教も違う現在のイラクの地に住まわされました。ダニエルにとっても自分の時は、紀元前605年で止まったままと思えたことでしょう。しかし、自分のすべての望みが絶たれた彼に、神は最も鮮やかに、その後の世界の歴史の推移を見させてくださいました。神の支えなしに一瞬たりとも生きられないという環境の中でこそ、見せていただけるビジョンがあったのです。

1.「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた」

「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王 ネブカデネザル がエルサレムに来て、これを包囲した」(1:1) とは、エルサレムが滅ぼされる約20年前の紀元前605年の第一バビロン捕囚のことを指します。このときバビロンの王はエルサレム神殿の宝物とともに、イスラエル人の王族か貴族の子の中から数人の少年を選んで連れて来させました。

そして、「その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした」(1:4、5) と記されます。

その上で、「彼らのうちには、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいた」(1:6) とその由緒ある名が記されます。それぞれ、「神は私のさばき主」「主はあわれみ深い」「誰が神のようであろう」「主は私の助け」という意味が込められていますが、「宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた」(1:7) というのです。

それぞれの意味は、「ベル神の妻、王を守りたまえ」「月の神、アクを恐れる」「誰がアクのようであろうか」「ネボ神の家臣」という偶像の神々にちなんだ名前です。

彼らにとって、これは自分のアイデンティティーを奪われる耐え難い屈辱でしたが、それを受け入れざるを得ませんでした。なぜなら、バビロンの王は、ぞれぞれの民族の誇りを捨てさせ、彼らを徹底的にバビロン文化の中に取り込もうとしていたからです。彼らは、この命令に逆らうことは許されませんでした。

しかし、そこで彼らは、自分たちの信仰を守り通すために、可能な抵抗を試み、「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った」(1:8) というのです。レビ記には、神の民が食べてはならないものが細かく規定されていました。とくに豚肉を食べないとか、牛肉でも完全に血を抜く必要があるという規定は、異邦人とユダヤ人を明確に区別させる力を持っていました。

しかし、ここで、「王の飲むぶどう酒」までが「身を汚す」ものとして描かれているのは、レビ記に基づくものではありません。これはたぶん、王と同じ食事にあずかるということが、自分たちを異教の王の家族の一員とするという意味が込められていたからだと思われます。これは、異教徒の目から見たら、途方もない特権ですが、それがかえって、彼らを徹底的に王に依存した存在とし、自分たちがイスラエルの神の民であることを忘れさせることになります。

これは、現代的に言えば、会社という家族の一員とされ、力を持った上司の徹底的な子分とされるということに似ているかもしれません。日本の会社の家族主義は、しばしば、私たちの信仰を無力化させる方向に働きます。

そこで、「神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられ」(1:9) ました。その結果、「宦官の長」は問答無用で彼らを従わせる代わりに、自分の不安を、「私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう」(1:10) と正直に打ち明けます。

それに対し、ダニエルは彼の立場を理解した上で、彼が受け入れることができる条件として、「どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませ……そのようにして……見比べて」(1:12、13) という提案をします。

それに対し、「世話役は彼らのこの申し出を聞き入れ……彼らをためし」(1:14) てみました。その結果、「十日の終わりになると、彼らの顔色は……どの少年よりも良く、からだも肥えていた。そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした」(1:15、16) という、両方の立場が生かされる方向が見えました。

これは、日本の職場や家庭にも適用できる原則です。私たちはどこかで、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1) という命令と、「あなたがたは、(主によって)代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23) という命令の狭間で悩むことがあります。ダニエルが異教的な名前をつけられることに服従せざるを得なかったように、私たちも、自分の大切なプライドを捨ててまで組織の命令に従わざるを得ないことがあるかもしれません。

しかし、これを以上譲ってしまうと、神との関係が壊されてしまうという限界に来る場合があります。そのとき、ダニエルの対処が参考になります。彼は、自分の信仰的な立場を優しく表現しながら、同時に、世話役が本当に恐れていることは何なのかを聞き出すことができました。

これはたとえば、自分が信仰の原則を貫こうとするときに、上司や夫がどのような不安を持つのかということに配慮することを意味します。あなたの上司は多くの場合、その上の上司の評価を恐れています。中間管理職の立場は非常に微妙です。もし、あなたがその気持ちが理解できるようになったら、上司との関係はずっとスムースに行くことでしょう。

相手の立場になって考えることを大切にしてゆくと、おのずと、私たちの信仰の立場をも尊重していただける方策が見えてくるものです。人は、しばしば、恐れにとらわれて、上司にすら攻撃的な態度で自己主張することがありますが、それは長期的にはマイナスにしかなりません。ダニエルが偶像礼拝の文化の中で、しなやかに自分の信仰を守った姿に習いたいものです。

そして、ダニエルはこの宦官の長の顔を立てることができました。その様子が、「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた……王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった」(1:17-20) と描かれます。

ダニエルたちは、自分たちの神への忠誠を保ちながら、異教の文学や知恵を徹底的に学びました。異教の文化を学ぶことは決して、私たちの信仰の障害にはなりません。ほとんどの場合、かえって聖書の教えのすばらしさに目が開かれる結果になります。

たとえば、私の生家は浄土真宗で、大学時代は親鸞の教えに親しみを覚えましたが、それはイエスを救い主として信じるための導入となりました。また、神学校時代には古事記を学びましたが、それによって創世記の記事のすばらしさにかえって目が開かれました。

私たちは、日本人の心の奥底に根付いている文化を学ぶ必要があります。それを軽蔑するのではなく、理解できるなら、異教を信じる日本人との協力関係がうまく行くようになります。

2.「彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い……」

「ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。そこで王は、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた」(2:1、2) とありますが、当時は、王が見る夢は、その国の行く末に決定的な意味を持つことがありました。

しかも、ネブカデネザルの治世の第二年をどのように計算するかは様々な可能性がありますが、これはまだ、ダニエルたちが三年間の訓練期間が終わってない時期だと思われます。

ですから、ここでダニエルたちはまだ王の前に呼ばれてはいません。王はカルデヤ人の学者たちに夢の解き明かしを命じます。そこで彼らの会話が2章4節から始まりますが、ここから7章の終わりまではヘブル語ではなく、当時の国際語のアラム語で記されています。

彼らは、「王よ。永遠に生きられますように。どうぞその夢をしもべたちにお話しください。そうすれば、私たちはその解き明かしをいたしましょう」(2:4)と言います。それに対し王は、まず、彼の見た夢が何であるかを知らせるようにという無理難題を押し付けます。それは、王が自分の見た夢を忘れてしまったのか、それとも、呪法師、呪文師たちが、王の気に入るような解釈を適当に言うことを懸念したからなのかはわかりません。

とにかく、王は、この夢が自分の気に入るようにではなく、正確に解釈される必要があるという切迫感を感じていました。それでまず、夢が何かを告げることができなければ彼らの「手足を切り離させ……家を滅ぼしてごみの山とする」(2:5)と宣言したのです。

それに対し、「カルデヤ人たちは王の前に」出ながら、「この地上には、王の言われることを示すことのできる者はひとりもありません……肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません」と必死に訴えます (2:10、11)。彼らの言い分はもっともであり、それによって、この夢の解き明かしは真の神によってしかできないことが明らかになります。

それに対し、「王は怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた」(2:12)というのです。王の怒りは不合理とも思えますが、王はこれを国家の存亡がかかっているととらえ、この緊急のときに自分の身を守るための弁明ばかりをする御用学者などは百害あって一理なしと思えたのでしょう。王の懸念ももっともで、彼らの心の奥底の自己保身の動機を見抜いていたと言えましょう。

ただ、「この命令が発せられたので、知者たちは殺されることになった。また人々はダニエルとその同僚をも捜して殺そうとした」(2:13)という不条理なことが起きようとしていました。ダニエルはまだ独立した学者と見られていなかったので、先輩の学者たちとともに殺されそうになったのでしょう。

これに対し、「そのとき、ダニエルは、バビロンの知者たちを殺すために出て来た王の侍従長アルヨクに、知恵と思慮とをもって応待した」(2:14) と記されます。自分の身に危険が及んでいるときにも、何よりも大切なのは、悪い知らせ自体に反応する前に、それを知らせた人の身になって問いかけるということです。

ダニエルは、王も、王の侍従長も批判することにならないように配慮しつつ、冷静に、「どうしてそんなにきびしい命令が王から出たのでしょうか」(2:15) と尋ねます。

ことの次第を聞いたダニエルは、大胆にも、直接に、「王のところに行き、王にその解き明かしをするため、しばらくの時を与えてくれるように願」います(2:16)。彼が自分の身の安全ではなく、真に王の夢を解き明かそうといのちをかけていることは、取り次いだ侍従長にも、王自身にも通じました。自分の命を捨てる覚悟を持った人の思いは、人の心に届くからです。

その後、「ダニエルは自分の家に帰り、彼の同僚のハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせ」(2:17) ます。問題を共有し、信仰の友とともに祈るためです。

そして、「彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った」のですが、「そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示され」(2:19) ます。それに対し、「ダニエルは天の神をほめたたえ」ますが、これを通して、この夢が解き明かされるのは、徹底的に神のあわれみによるということが明確にされます。

彼は、「知恵と力は神のもの」と告白し、「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す」と神の知恵と力をたたえながら、その上で、「あなたは私に知恵と力とを賜い」と感謝をささげています。

私たちも何かの洞察が与えられたとき、同じように神をたたえるべきではないでしょうか。

それからダニエルは、「アルヨクのもとに行き」、まず、「バビロンの知者たちを滅ぼしてはなりません」と最初に言います。彼は何と、自分の競争相手になり得る異教の学者の身の安全を第一に求めます。

その上で、「私を王の前に連れて行ってください。私が王に解き明かしを示します」と彼の立場をわきまえた言い方をします (2:24)。

そしてアルヨクも、「ユダからの捕虜の中に、王に解き明かしのできるひとりの男を見つけました」(2:25) と、ダニエルの知恵に信頼しながら、同時に、そこに彼を見出した自分の功績もやんわりとアピールすることができました。

ダニエルは王に向かって、夢の解き明かしは、自分の知恵ではなく、すべてがイスラエルの神のみわざであるということを何よりも強調しながら、「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです」(2:27、28) と述べます。

しかも、ダニエルは、「王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが」と言いながら、この夢は、王自身の問いかけから始まっていることを強調します。これは、まさに王の心に寄り添った言い方ですが、それによってかえって、「秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです」という神の圧倒的なみわざに目が向けられ、「この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです」と、すべてが王の必要に答えるためであると、控えめな言い方をします。

3.「一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いた」

いよいよ夢の内容が、「王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。

その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました」(2:31-35) と正確に描写されます。

そして、その解き明かしが、2章37-45節に記されますが、その書き出しは、「天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。あなたはあの金の頭です」というものです。つまり、ネブカデネザルは自分の知恵と力によって世界の支配者になったのではなく、すべてが「天の神」からの賜物であるというのです。

その上で、四つの王国の現れのことが鮮やかに啓示されます。しばしば、これらの王国が何を指すかばかりが注目されます。一般的な解釈は、第一の王国がバビロン帝国、第二の王国がペルシャ帝国、第三の王国がアレキサンダー大王によって建てられたギリシャ帝国、第四の王国がローマ帝国であり、その時代に救い主が現れるというもので、そのように説明されると七章の四頭の獣のまぼろしと一致して、その後の世界の歴史が見事に預言されたものとして大きな感動を呼びます。

ただし、それによって夢の中心テーマが見失われてはなりません。ここには、バビロンがペルシャに滅ぼされ、ペルシャがギリシャに滅ぼされ、ギリシャがローマに滅ぼされるという王国の興亡が描かれているのではなく、四つの国すべてが、ひとつの石によって、打ち砕かれると記されています。

事実、夢では「一つの石が人手によらずに切り出され……鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕け」(2:34、35) と記され、その解き明かしでも、「一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いた」(2:45)と強調されています。

しかも、この夢は、ネブカデネザルが、「この後、何が起こるのかと思い巡らした」ことに対する神からの啓示として示されているのです。しかし、この王がなぜ、ギリシャ帝国やローマ帝国の様子を知る必要があるというのでしょう。彼が知る必要のあるのは、自分の国を滅ぼすペルシャ帝国のことで十分ではないでしょうか。

しかし、この夢ではどこにも、バビロン帝国を滅ぼす国が現れるとは記されず、ただ、「あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります」(2:39) と言われているに過ぎないのです。決して、自然淘汰のように、次から次と、より優れた国が現れて、劣った国を滅ぼしてゆくというようには描かれていません。それどころか、ここでは、歴史の流れとともに、金、銀、青銅、鉄、粘土と価値が劣ってゆくと描かれています。

ところで、第四の王国は、鉄と粘土が人間の種によって交じり合うと記されていますが (2:41-43)、これはローマ帝国が様々な異なった文化を持つ国々をまとめることで未曾有の世界帝国となることを指しています。それは現代の多国籍企業の原点であり、人間の知恵による組織化の成功の模範のようなものです。しかし、「鉄と粘土が交じり合わないように」(2:43)、その結束力は弱く、それは「一つの石」によって簡単に崩されます。

それに対して、「一つの石」から始まるキリストの王国は、鉄の強さによってではなく、ひとりひとりの心のうちに働く御霊の力によって、地道な愛の交わりを作り出し、世界に広がってゆくというのです。

つまり、ネブカデネザルにこの夢が示されたのは、彼が恐れるべきは、より強い国、より優秀な指導者が現れることではなく、すべてを一度に滅ぼすことができる、「一つの石」であるということなのです。これは神がご自身の民、イスラエルのために遣わす救い主を指しています。

多くの人々は、自分の競争者の台頭を恐れています。自分の仕事がより優秀な人によって奪われることを恐れています。しかし、歴史は決して、優秀な者が劣った者を淘汰するという流れでは進むわけではありません。

私たちが真に恐れるべき方は、すべての王国、すべての人を支配する「天の神」であり、私たちが望みをおくべきなのは、目に見える地上の王国ではなく、「一つの石」から生まれる永遠の国のことなのです。それは私たちにとってはイエス・キリストご自身が王として支配される「神の国」のことです。

この後、「ネブカデネザル王はひれ伏してダニエルに礼をし」「まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ」と、ダニエルの神こそ真の神であると認めます (2:46、47)。そして、「王は、ダニエルを高い位につけ、彼に多くのすばらしい贈り物を与えて、彼にバビロン全州を治めさせ、また、バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官とした。王は、ダニエルの願いによって、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに、バビロン州の事務をつかさどらせた」(2:48、49) という驚くべき展開が見られます。

これは、ヨセフ物語よりはるかにスケールが大きなものです。なぜなら、この直後エルサレムを滅ぼすのがネブカデネザル王であり、彼を支える知者たちを治めていたのは、エルサレムの貴族の息子たちだというのですから。

つまり、エルサレムを滅ぼすのは、ネブカデネザル王である前に、「王を廃し、王を立て、知者には知恵を……授けられる」天の神ご自身であるということなのです。

私たちはこの世の出来事をあまりにも人間的な観点から見てはいないでしょうか。私たちが唯一恐れるべき方は、「天の神」です。その天の神こそが、この世のすべてを、また、この地の動き自体を支配しておられるのです。

私たちは、しばしば、「なぜ、このような悲惨な地震が起き、猛烈な津波が起きたのか……」と疑問を持ちます。しかし、それ以前に、私たちは、「なぜ、地球の自転が一定速度で保たれ、水と空気が与えられ、四季の繰り返しがあり、大隕石も落ちてこず、洪水が日本を飲み込むことがないのか……」と問いかけるべきではないでしょうか。

停電になって電気のありがたさが改めてわかるように、私たちは大災害にあって始めて、この地球を創造し守っておられる神の恵みに気がつくのではないでしょうか。

すべては当たり前ではないのです。というより、当たり前のことがどれだけの大きな恵みなのかを忘れてはいけません。人間の知恵と力がこの世界を保っているというわけではないのです。