2010年12月19日
「約束」という漢字には、目印を付け、木を束ねて縛るという意味が込められています。つまり、「約束」には互いを束縛する取り決めを忘れないようにするという意味があります。そして、これはヘブル語の「契約」ということばでも同じです。当時、契約を結ぶ儀式には、「のろい」の警告と「祝福」の約束が付随していました。
人は基本的に束縛されることを嫌いますが、たとえば、結婚はいろんな意味で束縛しあうことです。そして、子供が生まれれば子供に束縛されます。しかも、その束縛から逃げようとすると、家庭が壊れ、子供も傷つきます。しかし、どんなに困難な中でも、互いの約束を守り通そうとするときそこに祝福が生まれます。つまり、契約に伴う「祝福」と「のろい」は身近な関係でも確認できることでもあるのです。
神はイスラエルの民と契約を結びましたが、彼らは神を裏切りました。その結果、彼らに「のろい」が実現しました。しかし、神はその豊かな哀れみのゆえに、彼らをその「のろい」の束縛から救い出すためにご自身の御子を遣わしてくださいました。イエスを救い主と信じる者は、その受けるべきのろいをイエスに引き受けていただき、イエスが受けるべき祝福を受け取らせていただけます。そして、イエスは私たちと新しい契約をご自身の十字架の犠牲によって保障してくださいました。
多くの信仰者はクリスマスのたびにイザヤ11章を朗読しますが、そこには救い主が、私たちを狼が子羊とともに住み、ライオンと小さい子供がともに遊び、乳飲み子がコブラの穴の上で戯れることができるような神の平和((シャローム)が満ちた世界を創造してくださると約束されています。
神の御子は、私たちにその約束を成就するために人となってくださったのです。そして、その神のシャロームの完成の約束は、必ず実現します。信仰とは、どんな暗闇の中でも、その約束に信頼し続けることです。
1.新しい創世記としてのキリストの系図
この福音書の最初は、「ビブロス・ゲネセオス」Book of Genesis(創世記)と記されています(新改訳「系図」)。これは、「起源の記録」という意味です。つまり、キリストの起源を語ることは、神による新しい創造を語ることなのです。「聖書」とは厳密には「契約の書」と呼ぶべきで、旧約聖書がBook of Genesis(創世記)から始まるように、新約聖書もBook of Genesisから始まります。聖書はアブラハムからイエス・キリストに至る神の契約の物語です。
なお、英語(ESV)でも、The book of the genealogy of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham. ということばから始まるように、確かに、最初に記されているのは系図なのですが、それは血筋ではなく、契約の歴史を語るのが主題です。だからこそ、「系図、イエス・キリストの」ということばの後に、「ダビデの息子の」ということばが記され、その後に「アブラハムの息子の」という順番で続きます。
キリストとは、「救い主」という以前に、厳密には「油注がれた者」という意味で、それはダビデの家系を受け継ぐ「王」という意味があります。ですから、この方は当時、何よりも、「ダビデの子」と呼ばれるのが当然でした。
ただ、ダビデのスキャンダルを知る人にとっては、「救い主のことをダビデの子と呼ぶなど、失礼では・・・」と思う方もいるかもしれません。しかし、それは血筋を尊重した見方であって、「契約」という概念に対する無知から来ています。
そして、原文では、「ダビデの子」ということばの後に「アブラハムの子」と記されています。神と罪人との間の契約はアブラハムから始まるからです。
私は長い間、ここには血筋による系図が記されていると誤解していました。しかし、血筋による系図ならイエスを産んだマリヤの系図を書くべきなのに、イエスとは何の血のつながりもないヨセフに至る系図が記されます。ヨセフは契約によってイエスの父とされた者です。これは現代的に言えば養子縁組で親子関係が作られることに似ています。そして、聖書の親子関係では、血筋よりも法律上の親子関係の方が重視されています。
実際、最近の英語訳では、「Abraham was the father of Isaac, and Isaac the father of Jacob・・・」と、「beget(生む)」の代わりに、「父となる」という表現を使っています。
しかも、この系図には、大きな時代上のギャップがあります。イスラエルの民はエジプトで四百年間、寄留していましたが、その間は、3、4節の「アラム」という名しか記されていません。また、5節のサルモンとボアズの間には二百年間近い士師記の時代が挟まっています。
そして、アブラハムからダビデに至る世代を十四代でまとめるのは当時、既に一般的だったということが最近の研究で明らかになっていますが、それは歴史的というよりはダビデという名前を構成する三つのヘブル語のアルファベット子音(デレク、ワウ、デレク)に由来するもので、それぞれのアルファベット上の順番は、4、6、4になります。これを合わせると14という数字になります。この系図が血筋ではなく契約を受け継いだ系図なので、系図にギャップがあるのは何の問題でもありません。だからこそ、イエスは、契約の上で、「ダビデの子」であり、また「アブラハムの子」なのです。
なお、この系図には、明確な血筋の関係を表す四人の女性の名が登場しますが、それはみな忌まわしい過去を持っています。ダビデはヤコブの第四男のユダの子孫です。
ユダの子を産んだタマル(3節)は、本来、息子エリの妻として迎えられましたが、彼は神のさばきを受けて死にます。タマルはその弟のオナンを通して子を設けようとしますが、彼はオナニーの語源となる行為によって神に裁かれて死にます。ユダはタマルを迎えた息子たちが次々に死んだのを恐れて、彼女を別の息子に嫁がせるのを恐れ、やもめのまま残そうとします。
それに対し、タマルは遊女の姿をして義父を欺き、子を設けました。しかし、父と息子の嫁が関係を持つことは本来、死罪にあたる罪でした(レビ20:12)。しかし、神はタマルの信仰を見られて、その子を祝福してくださいました。ユダヤ人はタマルという名を見たら、すぐにこれらの物語を思い起こします。
ラハブ(5節)は、ヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを、命がけで逃したエリコの遊女です。神は滅ぼすべきエリコの住民、しかも遊女のラハブの信仰を喜ばれサルモンに嫁がせました。なお、彼女がダビデの家系に名を連ねるということは旧約のどこにも記録のない隠された話だったようで、神がマタイに特別に示してくださった事実だと思われます。
ルツはモアブの女でした。申命記23章3節ではモアブ人の子はその十代の子孫さえイスラエルの民の交わりに入れてはならないと警告されていた「のわれた民」の娘でした。
しかし、神は、姑のナオミに従ったルツの信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。そして、その関係からオベデが生まれ、その息子としてダビデの父エッサイが生まれます。
そして、ダビデの契約上の跡継ぎとなったのはソロモンですが、その母の名はここでは敢えて「ウリヤの妻」であるとのみ記されます。ウリヤはユダヤ人ではありませんでしたが、ダビデの忠実な家来になりました。
この記し方は、ダビデがその信頼を裏切って、忠実な家来の妻を奪い取ったという罪を明確にしています。しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えてくださいました。
この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろい」でしかありませんでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果として、祝福の基と変えられたのです。
キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。
2.神がダビデと結んだ契約
ダビデの子ソロモンから「バビロン移住の頃のエコニヤ(エホヤキン)」までの歴史に関しては、列王記や歴代誌に詳しく記されています。その間、20人の正式な王が立っていましたが、そのうちの14名だけがこの系図に記され6人の王の名は省かれています。省かれた理由はわかりませんが、ここに名を連ねている王も問題に満ちています。
ソロモンの子の「レハブアム」は傲慢さのために国を分裂させました。「ウジヤ」はユダ王国の最盛期を導きましたが、傲慢になって神のさばきを受けます。その孫のアハズは何と、エルサレム神殿に異教の神への祭壇を建て、神の怒りを引き起こしました。
なお、その子の「ヒゼキヤ」と、ヒゼキヤのひ孫の「ヨシヤ」はダビデに並び称されるほどの傑出した王ですが、このふたりの間に在位した「マナセ」と「アモン」は最悪の王です。伝承によれば、預言者イザヤはマナセによって鋸引きの刑で惨殺されました。その子のアモンは何と宮殿の中で家来に殺されるほどに無能な王でした。
このふたりの名を省くと、この系図は少しは美しく見えるのですが、マタイは敢えてこのふたりの救いがたい王の名も記しています。それは、神の救いのご計画は、そのような無能で愚かで、不敬虔な王の存在にも関わらず、進んで行ったということを証しするためです。
「バビロン移住」の際の最後の王として記されている「エコニヤ」は、実際は最後から二番目の王ですが、バビロン帝国にすぐに降伏したため、捕囚の地バビロンで優遇され、ダビデの子孫を残すことができました。ここで不思議にも「捕囚」ではなく「移住」と記されているのは、目に見える王国は滅びても、ダビデ王家は絶えてはいないことを明らかにするためです。
サムエル記第二7章には、かつてダビデが、主の神殿を建てようと思い立ったとき、主ご自身がダビデに、彼から生まれる子が神殿を建て、たとえ、その子が罪を犯しても、彼を懲らしめはしても、サウルのようにはしないという意味で、「わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」と約束してくださいました(15、16節)。
一方、神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取りました。その結果がバビロン捕囚であり、それは申命記28章7節以降に詳しく警告されていたことでした。しかし、神の計画は、民の不従順によって無に帰すことはありません。
そのことを神は、預言者エレミヤを通して、今まさにバビロンによって廃墟にされようとしているエルサレムに対して、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(エレミヤ33:20-22)と約束してくださいました。
簡単言うと、目の前にはとてつもない悲惨が見えるけれども、それは神の約束が反故にされたということを意味しない。この苦しみの後には、すばらしい祝福の世界が広がっているから、それを待ち続けるようにという励ましです。その神の約束の確かさは、この天と地の規則的な動きを見ればわかるだろうと、二千六百年前から言われていることだというのです。
なお、血筋から言えば、12節の「ゾロバベル」は、エコニヤの子の「サラテルの子」ではなく、サラテルの甥です。また歴代誌では、ゼルバベルの子の中に「アビウデ」という名はありません(第一3:17-19)。
それはこの系図が、血筋によるものではなく、ダビデ契約を受け継いだという神の目からの系図だからです。そしてアビウデからヨセフに至る名は、この福音書以外のどこにも出てきません。その期間は五百数十年があったと思われますから、これ以外の名も存在したことでしょう。
その上で、16節では、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」と、何よりもマリヤの夫のヨセフがダビデ契約の後継者であることが強調されます。そして、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」とあるようにイエスがダビデの正当な子孫であることの保障は、マリヤではなくヨセフにあることが明らかに記されています。
17節では、この系図が三つの期間に分けられます。第一期はアブラハムからダビデで苦しみを通しての祝福、第二期はソロモンからエコニヤでバビロン捕囚に至る破滅に向かう時期、第三期はエコニヤ以降の外国の支配に服しながら救い主を待ち望むどん底の時期です。
それぞれが十四代として描かれており、これらを合わせると、七代が六回繰り返されていることが分かります。つまり、キリストは第七回目の新しい世代、歴史の完成の時代の幕開けとして位置づけられます。
18節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、ここにはベツレヘムへの旅も、飼い葉おけも、羊飼いも、天の軍勢の賛美もありません。これは1節と同じように、「キリストの起源“Christ’s Genesis”」と記されています。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。
しかも、「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが」と、マリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。マリヤが救い主の母となることができたのは、彼女の信仰が神に喜ばれたものであったことは確かなのでしょうが、神のみわざをただ忠実に啓示しようとするマタイにとっては重要なことではありませんでした。
イエスが誕生したころのユダヤでは、宗教指導者たちが自分たちの信仰を人間的な基準で競い、評価しあっていました。神の約束を見る前に、人間の信仰が神を動かすかのような発想の人々が多くいました。それは現在にも通じます。
「あの人は信仰深いから・・・」とか、「私の信仰は、まだ未熟だから・・・」などということばが現在も飛び交っていますが、そのような言葉遣いは注意すべきではないかと思います。とにかく、ここでは、マリヤが救い主の母となることができたのは、彼女の信仰以前に、彼女が、「ダビデの子」の「ヨセフ」の婚約者であったということが何よりも大切なことであったというのです。
3.その名はインマヌエルと呼ばれる
ここであり得ないようなことが記されます。それは、「ふたりがまだいっしょにならないうちに・・・身重になったことがわかった」というのです。厳密には、「聖霊によるものを腹に宿していることがわかった」と記されていますが、「聖霊による子」であることはマリヤにはわかっていてもヨセフにはわかりません。
そこで、「ヨセフは正しい人であって」と描かれますが、それは神の御教えに忠実な人という意味ですから、自分との関係以外の人の子を宿しているような女性との結婚はあきらめざるを得ないと考えるのが当然でした。そして、当時の正当な手続きとしては、その際、彼女の浮気を祭司に訴え出るという手続きがとられました。なぜなら、当時の婚約は現在の結婚と同じ拘束力を持っていたからです。律法によればそのような女性は石打ちの刑に処せられるはずですが、当時の慣習としてはふしだらな女として村八分にされるということがありました。
ただ、ヨセフは、そのように「彼女をさらしものにはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」というのです。なお、「決めた」という表現は少し強すぎます。この趣旨は、杓子定規にマリヤの罪を裁こうとするのではなく、彼女が今後もどうにかして生きて行かれることを真剣に「望んだ」という意味だと思われます。
そして、「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れ」ます。御使いの最初のことばは、「ダビデの子のヨセフ」というものです。当時、普通の人に名字はありませんでしたから、「ヤコブの子のヨセフ」などと、父親の名前をつけて似たような名前を区別しましたが、一介の大工に過ぎないヨセフを「ダビデの子」と呼ぶのは途方もないことです。天使が現れ、ヨセフを「ダビデの子」と呼んだということ自体が、ヨセフにとっては驚きであり、恐れ多いことでした。
彼は奇想天外な神のご計画が自分のうちに成就しようとしていることを瞬間的に悟ったことでしょう。その上で御使いは、「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」(20節)と言います。ここで彼は、マリヤが不倫をしたわけではないことを示されます。
そして、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(21節)と言われますが、生まれる前から名を与えられるというのは、神の特別の選びの器であることの証明です。なお「イエス」という名は、当時の結構ありふれた名前でした。それは、へブル語読みにすると「ヨシュア」、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者です。
つまり、この場面を通して、マリヤから生まれた子が、見たところごく普通の子として生まれながら、なお、普通の人間にはできない途方もない働き、ヨシュアに匹敵する働きをするという意味が示されているのではないでしょうか。
その上で、御使いはヨセフに、イエスに与えられた使命を、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と言いました。「罪からの救い」は、抽象的な概念ではなく、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するというものでした。神は、捕囚に向かおうとする民に、「彼らの時代の後に・・イスラエルの家と結ぶ契約…わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる…わたしはかれらの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」(エレミヤ31:33-34)と語りましたが、それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らをこの地がもたらす飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。それが、今、イエスによって成就しようとしているというのです。
しかも、それは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及び、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることになります。つまり、「罪からの救い」とは、私たちのために「新しい天と新しい地」への道が開かれたことを意味するのです。「罪からの救い」とは、人生の方向が、「のろい」から「祝福」へと決定的に変化することを意味します。
そして、「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった」(22節)と記されます。つまり、「救い」とは、多くの人が思い浮かべるイメージではなく、イスラエルの民に与えられた預言の成就という観点から見る必要があるのです。そのことばが、「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というものでした。これはイザヤ7章14節のみことばでした。
これは、エルサレムの王アハズが預言者イザヤの勧めを退けて、人間的な解決を図ろうとして神の招きを拒絶したときに、神が語られたことばです。それは、神の救いは、人間の思いをはるかに超えているということを現すことばです。
これは理解不能な表現です。だいたい、女性が身ごもったら、その人はもう処女ではないというしるしでしかありません。しかも、インマヌエルという名の意味は、その文脈を見るとわかりますが、困窮と不安と敗北の中で理解できるものであるということです。つまり、「神がともにおられる」ということばの意味は、人間的な救いの期待が裏切られた後で見えてくるという不思議な救いです。目に見える現実が、期待通りにはならなくても失望する必要がないということのしるしがインマヌエル預言の確信なのです。それは、ときを経て初めてわかる神の救いです。
これはヨセフにとって信仰を生み出すことばになりました。なぜなら、すべての目に見える出来事は、ヨセフにとって都合悪くしか展開していないからです。しかし、ヨセフは、御使いが自分を「ダビデの子」と呼んでくれた言葉に信頼しました。かつてのエルサレムの王ダビデの子アハズはこのことばを退けましたが、人間的には悲惨な生活をしている大工のヨセフはこのことばを受け入れました。
そのことが、「ヨセフは・・・主の使いに命じられたとおりにした」ということばで記されています。ヨセフはこれから自分の人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。ヨセフの態度は、イザヤの預言を聞いた当時のアハズ王とは対照的でした。それは、彼が心から主のご計画の実現を期待していたからでもありますが、同時に、ここでは、主ご自身がヨセフの決断に介入して、ご計画を実現しようとする意志が見られます。
バビロン捕囚直前の王たちは、神に信頼することに失敗し、国を滅亡に追いやりました。しかし、同じダビデの子孫であるヨセフは、葛藤を味わいながらも、神の計画を実現する器になることができました。これこそ、私たちに求められている信仰の応答です。ここで「インマヌエル」と呼ばれている方は、その後、十字架にかけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
それは、「神は今、ともにおられない・・・」という意味の叫びにほかなりません。しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえられました。つまり、「神がともにおられる」という確信は、「神がともにおられない・・・」と思われるような苦しみとあざけりを受けている中でこそ、理解されるという霊的事実なのです。
かつてイスラエルの民が、ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地を占領することができましたが、そこにはいつも全能の主がともにいてくださいました。私たちは今、新しいヨシュアであるイエスを先頭に世界へと派遣されます。その際、かつてのような武力によってではなく、神の愛の力によってこの地に神の平和を広げるようにと召されています。
たとい、悪人たちがのさばっても、神がともにいてくださるのですから、自分で悪に復讐する必要はありません。イエスご自身、無力な赤ちゃんとして生まれながら、ヘロデの攻撃から守られ、十字架で殺されながら三日目によみがえらされたのですから。
私たちのまわりには、約束を平気で破るような人々が多くいるように見えるかもしれません。しかし、キリスト者として生きるとは、何よりも、神の約束に信頼し、人に裏切られても、自分は約束を裏切らない者として生きることです。そこに人生の美しさが生まれます。そこに人生の喜びが生まれます。
この世の人々は、愛に飢えています。富や権力に動かされながらも、本当は、約束を守り通してくれる誠実な友を求めています。しかし、恐怖のために、つい自分の身を守ることばかりを優先し、互いに傷つけあってしまいます。それは、神の真実を知らないからです。
多くの人々がとまどいを覚えるマタイ福音書の系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証です。のろいを祝福に変えてくださったということの証です。旧約の預言がひとつひとつ成就したということの証です。私たちは、これを味わうとき、神はこれからの私たちの人生を確実に守り通してくださるということがわかります。
しかも、「神が私たちとともにおられる」という霊的事実は、しばしば様々な苦しみの中でこそ味わうことができるものです。インマヌエル・・それは、この世の暗闇の中で見ることができる「光」です。