2010年11月14日
私たちはみな、「人の役に立ちたい」「少しでも世界を住みよくしたい」という動機を内側に持っています。しかし、そこには、キリストに似た者とされるという「聖化」の代わりに、目に見える「成果」を最優先するという落とし穴があります。西ヨーロッパからアメリカに広がった信仰には、そのような成果主義の危険があると、東ヨーロッパ系の教会は指摘しています。また、多くの人々の心の底には、自分の存在を認めてもらいたいという絶え間ない渇きがあると言われます。しかし、渇きに駆り立てられた信仰生活には、依存症の罠が潜んでいます。これらの成果主義から生まれる渇きや依存症の渇きは、決して満たされることはありません。それは、しばしば、「神への怒り」、または、「神へのあきらめ」として現れてきます。これは、少なくとも私にとっては他人事ではありません。いつも、成果がでないことにばかり目が向かってしまいます。しかし、主の望まれる生き方は、今、ここで、キリストに習うことです。
1.「理解することを、まず、第一に求めなさい。その上で、理解されることを……」
「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表す」(18:1、2) とは、自分の心を閉ざし、人の意見に耳を傾けなくなることの危険を語ったものです。興味深いのは、「愚か者は……自分の意見だけを表す」という描写です。皆さんのように、主を礼拝し、主のみことばを聴くために、主の教会に足を運んでこられる方は、この面で、主から喜ばれています。
原文では、「仲たがいする」と「意見を表す」が、ほとんど同じ発音になっており、このふたつの節が密接な関係にあることが分かります。世の中には、いわゆる、「教えたがり……」という人種がいます。牧師や教師などは注意しなければいけませんが、人々との交わりの中に入るたびに、いつも教える立場に立ちたがる人は、皮肉にも、「おのれを閉ざす者」になっている可能性があります。多くの人は、聞いてくれる耳を求めています。「伝道」という名の下に、人に何かを教えたがるということは危険です。信仰はこの目に見える世界が、目に見えない神によって支配されていることを知ることです。神は、しばしば未信者の口を通しても語られのですから、信仰の名の下に、独善的な生き方を正当化してはなりません。とにかく、「自分の意見だけを表す」者は、神の目には、「愚かな者」であり、「自分の欲望のままに求めている」者だということを決して忘れてはなりません。
イエスは、多くの人々の必要を瞬時に見分けることができましたが、新興宗教の教祖のように、「あなたの問題は……」などと指摘する前に、まず、人の心の声がことばとして発せられるのを待った上で、いやしのみわざを行われました。人の訴えや意見を聞く必要のない方が、まず、人の声に耳を傾けられたのは、聞くことこそが愛の始まりだからです。そして、イエスがそのような人への接し方を見せてくださったのは、人のことばに耳を傾けない人が、神に対しても心を閉ざし、自滅に向かうという危険があることを教えるためでもあったのではないでしょうか。
「愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる」(18:6、7) というのも、人と人との関係を保つ上での貴重な知恵です。ここでは、「くちびる」「口」「口」「くちびる」という交叉法の表現が見られます。たとえば、目の前の人に自分の過ちを認めてもらいたいと願うあまり、ことばが過ぎてしまうことがあります。しかし、人は、自分のプライドを守るためなら命さえも賭けることがありますから、追い詰めすぎることは、必然的に、相手の暴力を引き出す可能性があります。「そのくちびるはたましいのわな」とは、自分のくちびるが自分のたましいを滅びに招く「落とし穴」になるという意味です。一言で相手を屈服させようなどと考えている人は、自分の滅びを招くことになるのです。
「陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」(18:8) というのは陰口の魅力?を正面から語っているという点で画期的です。実際、陰口は、人と人との潤滑剤のような役割を果たします。話す方も聞く方も、優越感を味わうことができるからです。それは人の心の奥底に入ってゆきます。しかし、それは甘い駄菓子(ジャンクフード)が長期的には身体の害になるのと同じように、陰口はキリストの身体としての共同体を壊します。このみことばは、話したいという誘惑、聞きたいという誘惑、その両方に対する大きな警告です。
「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける」(18:12、13) とありますが、最初の文節は、16章18節の「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」を短くしたものであり、続くことばも、15章33節で、「謙遜は栄誉に先立つ」と言われていたのと同じですが、ここでは、それが、「よく聞かないうちに返事をする……」という人と人との会話に結びついています。
高慢な人は、ほんの少し聞いただけで、わかったつもりになって話し出す「教えたがり屋さん」です。でも、そのような人は、そのうち、「そんなこと、私だって分かっていますよ。そんな程度の答えしか言えないあなたなんかとは、もう話したくない……」などという「侮辱を受ける」ことになります。人は、それぞれユニークな人生を歩んできています。それを自分の枠で簡単に理解した気持ちになる人は「高慢」な人です。そのような人は人と人との関係を壊してしまいます。しかし、謙遜な人は、人の話にじっくり耳を傾け、その人固有の問題を理解することができます。
イエスは、神との関係に関して、「神の国を、まず、第一に求めなさい」と言われましたが、人と人との関係では、「理解することを、まず、第一に求めなさい。その上で、理解されることを……」という原則が大切でしょう。
2.「人の心は、人の力によっては変えられない」
「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」(18:14) とは、「人の霊は病苦を支えるが、傷ついた(砕かれた)霊を、誰が担うのか」と訳すこともできます。神を知らない方々の中にも、想像を絶する苦しみの中で、人としての優しさを失うことのない人格者がいます。それは、「人の霊」が、神によって創造されたかけがえのない宝物であることを示しています。人の霊には、途方もない力が秘められていますが、しかし、人間のたましいの中核である、「霊」が、傷つき、砕かれてしまうとき、誰が人を統合することができるでしょう。ですから、その霊の部分が力を傷つき果てるとき、人はしばしば、自分で自分の命を絶つことを選ばざるを得なくなります。
ところが、人にはできないことを、神が可能にしてくださいます。そのことがイザヤ66章2節では、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」と記されます。そこでの「心砕かれ」ということばと、ここでの、「ひしがれた心」というのは基本的に同じ原語に由来し、神のあわれみの対象とされています。
つまり、ここは、神に創造された人の心の力を賞賛しながら、その心が力を失ってしまうとき、その心は神によってしか癒されないということを示しています。とにかく、しばしば、言われるように、生きる気力をなくしてしまっている人には「頑張って!」ということばは禁句です。そこで求められているのは、その方の痛みに寄り添い、その痛みをともに味わい、その人の気持ちを引き受けるようにして、人の霊の創造主である神に祈ることです。
「悟りのある者の心は知識を得、知恵のある者の耳は知識を求める」(18:15) とは、「悟りのある心」「知恵のある耳」は、自分から進んで「知識を獲得し」また「追求する」という意味です。つまり、「知識」を次々と与えることよりも、「知識を求める」ことができる「心」と「耳」を育てられているなら、人は自ずと成長することができるのです。私は両親から勉強を教えてもらったり、「勉強しろ!」などと言われたことがありません。父などは、一人息子の私が農業の跡継ぎになることを願って、「あまり高学歴になられても困る……」という思いさえ抱いていたようです。しかし、私はそれに深く感謝しています。なぜなら、学びたいという意欲は、外から言われれば言われるほど、しぼむ傾向があるからです。私は、すべての点で、不器用で、のろまで、知能指数も決して高くはありません。しかし、お勉強をするのは大好きです。それは、神が私にこのような環境を備えてくださったおかげです。とにかく、「知識を求める心」こそが、神からの最大の贈り物なのです。そして、この多くの人は、この点を誤解しています。人は、一方的に教えられれば教えられるほど、「学びたい!」という意欲を失う傾向があります。そして、学びたいという意欲は、外から教え込むことはできません。敢えてできるとしたら、何よりも一緒に感動することではないでしょうか。
私はこの点で最近反省しています。一方的に、お教えしたいと思い、過大な情報量を提供し、かえってみことばを学びたいという意欲を減退させてしまったかもしれません。今回、メンタリングというプログラムを始めましたが、その核心は、おひとりおひとりの主体的な学びへの意欲をとことん尊重してゆくということにあります。
私たちは、14、15節を通して、何よりも、人の心は、人の力によっては変えられないという現実に目を向ける必要があります。生きる気力を失った人や学ぶ意欲のない人を、叱咤激励することは愚かなことです。それはかえって逆効果にしかなりません。必要なのは、そのような人に寄り添いながら、神のみわざを待つということでしょう。
3.「依存症的信仰の罠」
「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主 (ヤハウェ) に向かって激しく怒る」(19:1—3) とありますが、最近、ある方との対話の中で、「依存症的な信仰の危険」ということを考えさせられました。たとえば、薬物依存から信仰に導かれた人は、ときに、主を賛美しながらそこに恍惚体験を求める傾向が生まれるかもしれません。宗教的な熱心さの落とし穴というのもあるのではないでしょうか。なぜなら、そこには「もっと、もっと」という駆り立ての力が働くからです。たとえば、私の中には、何とも言えない寂しさの感情が潜んでいます。そして、「信仰を深めることで、寂しさをなくすことができるはず……」などという幻想を抱いていました。しかし、そのような発想にこそ、依存症の罠があると気づかされました。それはたとえば、「寂しさを感じるのは、信仰が薄いから」と自分を責め、そして、「自分で自分を変えよう!」と励み、思うようにならなくて、自己嫌悪に陥るという悪循環です。そこには、「今、ここで (here and now) 与えられている神からの恵みを感謝する」ということが欠けています。
しかし、「貧しくても、誠実に歩む……」とあるように、欠乏を感じながら、それを満たすことよりも、今ここでの生き方での誠実さを目指すことこそが、神のみこころなのです。しかも、「熱心だけで知識のないのはよくない」とありますが、熱心な人に限って、気力のなえた人や学ぶ意欲のない人を、かえって精神的に追い詰め、落ち込ませることがあります。また、依存症の背後には、底知れぬ怒りや恨みがありますが、それを抱えたまま、伝道や奉仕に励んでも、回りの人々を振り回したあげくに、自分の日常生活を滅ぼすことになりかねません。そして、その結果、「その心は主 (ヤハウェ) に向かって激しく怒る」などということになります。とにかく、性急な結果ばかりを求める信仰は危険です。自分の不信仰を責めすぎてもいけません。神の恵みは、「今ここで」、味わうべきものです。信仰の核心とは、何かを獲得することよりも、今ここでの歩み方、生き方が、主によって正されて行くことにあるのですから。
「思慮を得る者は自分自身を愛する者」(19:8) とは、厳密には、「心を獲得する者は、自分のたましいを愛する者」と訳すことができます。私たちは、「自分のたましいを愛する」必要があります。そのために最も大切なプロセスは自分の心の動きを把握できることだというのです。多くの人は自分の心の状態にあまりにも無知なまま、衝動に駆り立てられるようにして生きて、自分のたましいを粗末にしてしまいます。これと並行して、「英知を保つ者は幸いを見つける」と記されますが、英知を侮る人は、既にこの世においても不幸であると言われています。
「命令を守る者は自分のいのちを保ち」(19:16) とは、「命令を守る者は、自分のたましいを守る」とも訳すことができます。このように言われるのは、神が私たちの「たましい」の創造主であり、聖書の教えは、自分のたましいの取扱説明書のようなものだからです。神に背いて、「自分のたましいを守る」ことはできません。そして、それとセットに、「自分の道をさげすむ者は死ぬ」(19:16) と記されています。これは、自分の日々の歩み方に注意を払っていない者は、永遠の死に向かっているという意味です。なお、多くの信仰者が、様々な決断をする際に、「主のみこころは……」と問いかけますが、主のみこころとは、何よりも、「神を愛し、隣人を愛する」という、今ここでの生き方に関わることです。そして、その二つの愛には、矛盾がないということが、「寄るべのない者に施しをするのは、主 (ヤハウェ) に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」(19:17) と描かれます。「主に貸すことだ」というのは露骨な表現ですが、私たちの目は、黙っていても自分の必要を満たすことに向かい、あらゆる理屈をつけてそれを正当化します。だからこそ、主はこのような露骨な表現で、物惜しみをする心の方向を変えようとしておられるのです。
4.「神の国の完成を待ち望み、今ここで、誠実に生きる」
「人の心には多くの計画がある。しかし主 (ヤハウェ) のはかりごとだけが成る」(19:21) とは、長い歴史の観点から見る必要があります。なぜなら、短期的には、力のある者、賢い者だけが成功を収めているように見えるからです。そして、その歴史的な見方が、詩篇33:9、10では、「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる」と記されています。
ここでの「主のはかりごと」とは何でしょうか。それは、「神の国(神のご支配)の完成」です。そのプロセスで、人間の力によって成り立つ王国のむなしさが明らかにされる必要があります。人間的な知恵や力によって成し遂げた働きは、ときが来ると消え去ります。そのことをイエスは、「岩の上に建てた家」と「砂の上に建てた家」との対比で説明されました (マタイ7:24—27)。しばしば、砂上の楼閣と言われますが、自分を誇るためになされたような働きは、すべて、簡単に崩れ去ります。自分の計画が、世界に対する主のはかりごとと調和することが何よりも大切です。そのために必要なのは、常に、主の前に静まりながら、自分の動機を吟味することではないでしょうか。
その上で、「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(19:22) と記されていますが、「変わらぬ愛」とは、ヘブル語の最も美しいことばのひとつ、「ヘセッド」です。これは、「失敗しない愛」「真実の愛」「忠実さ」「誠実さ」とも訳すことができます。聖書に記されているストーリーの中心とは、「神のご自身の計画に対するヘセッド、誠実さ」です。そして、その対比として、「貧しい人は、まやかしを言う者にまさる」と述べられます。「貧しい人」は、役に立たない人の象徴的表現です。つまり、一見、あなたにとって何の利益ももたらさない人であっても、「まやかしを言う者にまさる」というのです。それは、人が心の底で、何よりも、真実な愛を求めているからです。私たちは、この地上で、貧しく愚かで役に立たない人間と見られることがあるかもしれません。しかし、そんな評価に一喜一憂する必要はありません。あなたのまわりの人が、本当に、心の底から求めているのは、誠実な友、何があっても裏切らないと信頼できる友だからです。もちろん、私たちの心は揺れやすく、いざとなったら人をも裏切る弱さを持っています。しかし、そんな不誠実な私の心を、主の誠実が守ってくださるということがわかるとき、私たちは誠実を全うすることができます。主の「変わらない愛」を受けて初めて、私たちも「変わらない愛」を全うできるのです。
「主 (ヤハウェ) を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」(19:23) というみことばも、長期的な視点から見る必要があります。残念ながら、「神様を第一にしようとしたのに、わざわいに会わないどころか、次から次と、問題ばかり起きてしまう。神様は嘘つきだ……」と思う人がいます。しかし、そのような人は、イエスの十字架を見る必要があります。誰よりも神を恐れ、誠実に生きられた方が、十字架という恐ろしいわざわいに会ったからです。しかし、そのような悲劇に対し、詩篇34篇19節では、まず、「正しい者のわざわいは多い」と、一見、箴言と真逆なことを言いながら、それに続いて、「しかし、主 (ヤハウェ) はそのすべてから救い出してくださり、彼の骨のことごとくを守られ、そのひとつさえ砕かれることはない」と記されています。イエスが、十字架で骨を折られることはなかったのは、このみことばが成就するためでした。そして、イエスはその三日目に死人の中からよみがえりました。私たちも同じように、わざわいにあって命を落とすかもしれません。しかし、キリストにつながる者は、すべて、終わりの日に復活の栄光の身体を与えられ、「新しい天と新しい地」に入れていただけます。そのときに、「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」という約束の成就を見ることができます。
このように聞く人の中には、「そんな、天国で成就する約束なんて、無意味だ……」と言う人もいるかもしれません。しかし、私たちがイエスを救い主として受け入れたときに与えられた「永遠のいのち」とは、この「新しい天と新しい地」における「いのち」を、「今、ここで」味わい続けることができるという意味です。そのように見ることができるとき、私たちがこの地で出会う、病も災害も裏切りも、「わざわい」ではなく、私たちを成長させるための主の訓練として受け止めることができるのではないでしょうか。私たちは痛みの中でこそ、神の恵みを知ることができます。
本田美奈子さんという五年前に白血病で亡くなられた歌手は、私たちはみな、「当たり前病にかかっている」と言いました。「病気をした人や、ケガをした人、友達を失った人や、家族を失った人、そんな人たちが前を向いて歩き出した時あたりまえ病に気付く人がいるのではないでしょうか!!私は、ただ時を過ごす、平和な生活におんぶしてしまっている人をあたりまえ病と言っています。 こんなエラそうなことを言っている私もあたりまえ病のひとりなんですけど……でも気がついたんです。眠りから覚め、暖かいふとんで眠れた幸せ、お母さんが作ってくれる美味しい朝食。自分たちがなんの気なしに毎日している事、又してもらっている事、全部もう一度振り返ってみてください。私たちの身近にある“小さな幸せ”が本当はとても“大きな大きな幸せだ”ということに!」
私たちも、「今、ここで」での生活を、当たり前と思ってはいないでしょうか。しかし、そこには驚くべき神の恵み (Amazing Grace) が満ちています。それを数え上げてゆくことが、「今、ここで」、誠実に生きることができる鍵ではないでしょうか。人の望むものは、変わらない愛(ヘセッド)です。それをともに味わう交わりが、今ここにあります。