2010年10月17日
ニック・ブイジッチという28歳のオーストラリアの男性がいます。彼は生まれたときから両手両足がありません。あるのは、たったひとつの足の先だけです。しかし、彼はずっと普通の学校に通い続け、大学で会計学の学びを修了しています。彼は音楽の才能があり、たった一つの足先でドラムマシーンを操作します。しかも、ゴルフ、釣り、水泳が好きで最近はサーフィンをさえ楽しんでいます。しかし、それでも一番苦労するのは起き上がることです。ひっくりかえったら首と頭で体を支え何かを頭の台にしてようやくひざの上に立つことができるに過ぎません。そんな彼が、どのようにサーフィンボードに立つのでしょう。しかし、仲間が立たせてくれます。前向きにチャレンジを繰り返す彼にはいつもすばらしい助け手が与えられます。彼は苦労して頭を使って立つ姿を見せながら、「人生は決して諦めてはならない。なぜなら、決して、神はあなたを諦めないのだから・・・『主を待ち望む者は新しく力を得,鷲のように上って行く』とあるように、私は状況を変える必要はない。腕も足も必要もない。私に必要なのは、ただ聖霊の翼だけです。そして私は飛んでいます。イエスが私を支えてくださるからです」と言います。
(七分あまりで、日本語の字幕もついてます。そこから彼の他の証も探すことができます。
私たちにとって一番難しいのが、このチャレンジする気力を湧かせることかもしれません。本当にやる気にさえなれば、両手両足がないままでも海でサーフィンを楽しむことができるのです。なぜなら、真剣に生きようとする人の周りには必ず助けがやって来るからです。では、どのようにしたら良いのでしょう。
その教えの鍵が安息日です。安息日の教えこそが、聖書の最もユニークな核心です。そして、その中心は、この世界のすべてが、聖書の神、主(ヤハウェ)によって始められ、主こそがすべてのいのちの源であることを覚えることです。気力さえも、いや真の気力こそが、神の霊によって与えられます。残念ながら多くの人は自己憐憫や恨みに苛まれて、本当の意味で自分の絶望感を主に告白することができていません。主に自分の心を変えていただく必要があると心から認めることができません。それは、日々の忙しさから離れて、主の前にただ静まるというときを自分で作り出し、また、主を礼拝するためにともに集まるという積み重ねをしてゆくしかありません。しかも、それをできるように、主に祈る必要があります。
イザヤ56章から新しいテーマが始まります。それは、敗北意識を捨てて、主の御教えを実行させていただこう、それによってこの社会にさえ変革をもたらそうという、主にある勝利者としての生き方です。
1.「安息日を汚さないように守り」
56章は、主ご自身による、「公正(さばき)を守り、正義を行なえ。なぜなら、わたしの救いが来るのも、わたしの義が現われるのも近いからだ」ということばから始まります。「神の救い」と「神の義」が並行して記されているのが興味深いことです。「神の義」は、何よりも、「主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32)ということの中に現されるからです。そして、その希望に満ちた確信こそが、「公正を守り、正義を行う」ことの動機になります。
その上で、「幸いなことよ。このように行う人、これを堅く保つ人の子は。彼は、安息日を汚さないように守り、どんな悪事も行わないようにその手を守る」(2節)と記されます。神の「救いが・・近い」ということは、何よりも安息日の中で覚えられる現実だったのです。そして、「安息日を汚す」ということの中心は、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ・・・あなたは、どんな仕事もしてはならない」(出エジ20:8,10)という労働の禁止です。
そして、ここでの「悪事を行う」とは、何よりも、安息日に労働をする、また労働をさせるということになります。労働自体が「悪事を行う」ことになる日があるというのは、何とも驚きです。私たちは無意識のうちに、労働が絶対的な美徳である社会の中に生きています。しかし、何が良くて何が悪いかを決めるのは神のみことばであって、社会の常識ではありません。ですから、聖書の原則によれば、たとえば、「仕事が忙しくて礼拝に出られません」などというのは、悪事を正当化しているということになりかねません。ただ、そうは言っても、私たちは、既に、仕事を休むこと自体を悪と考えるような日本の社会組織の中に、深く深く、組み込まれているのです。信仰者の個人的な決心だけでは安息日律法を守ることはできないということも決して忘れてはなりません。また、人それぞれが抱えてきた問題があまりにも違います。ですから、これをもって、安息日を守れない人を責めるなどということはあってはなりません。義務化した安息日ほど空しい戒律はありません。イエスはそのためにいのちを賭けられたのですから。
この安息日律法は、何よりも社会の構造を、神の視点から作り直すということにありました。それは何よりも、安息日には、奴隷や家畜をも働かせてはならないと命じられていたことに現されています。もちろん、その中には、主婦の家事労働も含まれます。週に一度、労働をしてはならないという日があるということにこそ、聖書の教えのユニークさがあります。労働を絶対的な美徳とするのはこの世の支配者の論理です。自分の手の働きが富を生み出すという幻想が、ワーキング・プアなどと呼ばれる社会的な弱者を追い詰めます。この安息日律法によると、雇用者は、七日間のうちの一日を休んでも生活できる給与を労働者に支給する義務があるということになります。
私たちがいた頃のドイツでは、日曜日にはすべての商店が閉まっていました。例外的に開いているのは空港にあるスーパーマーケットぐらいでした。その日は家族がともにゆっくりとした時間の流れを楽しむことができました。日曜日の午後は、教会でも基本的に何のプログラムもありません。役員会を日曜日に開くなどというのは論外です。ただ、いっしょにどこかを散歩するというプログラムぐらいはありました。しかも、そのような考え方の延長として、基本的に、最低四週間の夏休みというのが労度基準法で保障されています。ですから、安息日律法は、社会的な弱者を絶え間のない労働に駆り立てるということを防ぎ、奴隷や外人労働者や主婦などの社会のすべての人が、そろって豊かさを分かち合い、喜ぶことができるという枠組みだったのです。
ところで、不思議なのはここで突然、その安息日の教えに、「主に連なる外国人」とともに、「ああ、私は、枯れ木だ」と嘆く「宦官」に対する慰めの招きが記されます(3節)。「宦官」はこのイザヤ書と深い関係にあるペルシャ帝国において政治制度として確立していました。当時の多くのユダヤ人の運命は、外国人であるペルシャ帝国の支配下で、特に、王の身近で仕える宦官に左右される面がありました。宦官はもともと、後宮に仕えるために男性器を切り取った者でしたが、跡継ぎの子供を設けることができないことで、後継者争いが激しい王族や貴族にとっては脅威ではなくなり、世襲されることのない高級官僚として重用されるようになりました。ですから、外国人、特に宦官が神の民となり、安息日律法を守るようになったら、当時のユダヤ人社会が安息日律法を守る上での大きな保護勢力になり得たのではないでしょうか。もちろん、割礼の儀式を何よりも大切にする当時のユダヤ人の感覚からしたら、男性器を切り取った宦官などが神の民に加えられるなどということは到底信じられないことでしたが、神はそのようなユダヤ人の意識変革を迫っておられるのではないでしょうか。確かに、申命記には、「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない」(23:1)と書いてありますが、そのような制限は、神ご自身がもたらす新しい時代には意味を失います。それはたとえば、その直後に、「モアブ人は主(ヤハウェ)の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に入ることはできない」と書いてあるにも関わらず、モアブの娘ルツが神の民に加えられ、その四代目にダビデが生まれ、彼がイスラエルの王となったということから見ても、この排除の原理が一時的なものに過ぎなかったということが明らかになります。
そして、この宦官が主の民に加えられるということが、「なぜなら、主(ヤハウェ)はこう仰せられるのだから。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる記念と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える』」(56:4、5)と記されています。
そして、ここでも神の契約の中心として、「安息日を守る」ことが記されています。なお、「宦官」は、「息子、娘たち」を持つことはできませんが、「永遠の名」という名誉が与えられるという約束が記されています。これは宦官自身にとっての福音であるとともに、当時の社会を根本から変える希望となっています。
安息日律法を守ることが非常に困難な日本において、多くの経営者たちが信仰に導かれ、安息日律法の意味に目が開かれてくるなら、この日本社会にももっと余裕が生まれるのではないでしょうか。神の民からは永遠に排除されていると思われた「宦官」さえも、「安息日を守る」ことによって永遠の祝福に預かることができるのです。どんな人にも偏見を持つことのないようにしましょう。あなたのまわりの野蛮な人をも救いに招いておられます。
2.「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」
6節では、「主(ヤハウェ)に連なる外国人」とはどのような人を指すのかということが、「主に仕え、主(ヤハウェ)の名を愛し、そのしもべとなっている人」として説明されます。そして、続けて、ユダヤ人と外国人の区別を超えた神の民の概念が、「安息日を汚さないように守り、わたしの契約を堅く保つすべての人」と表現されます。つまり、「神の民」とは、血筋である前に、「安息日を汚さないように守る」人のことを指しているのです。そして、主は、当時のユダヤ人の常識を超える形で、神の民から排除されていた人々にも、「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(7節)と言われました。そればかりか、イエスの時代の神殿では、いけにえをささげる祭壇に近づくことができるのはイスラエル人の成人男性でしたが、ここでは、外国人を含むすべての主の民に向かって、「彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる」と記されています。そして、その理由が、「なぜなら、わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」(56:7)と説明されました。そして、イエスはこのみことばを成就するためにこそ、あの大胆な宮清めの行動を取られたのです。
たとえば「使徒の働き」に、エチオピアの女王の財産全部を管理していた「宦官」が、エルサレムに礼拝に来たことが記されていますが(8:27)、当時の規定では、彼は、多大な時間と労力をかけても、神殿の中庭に入れてもらえないばかりか、自分で祭壇にいけにえを献げることも許されず、異邦人の庭から神殿の中心を仰ぎ見ることが許されるだけでした。ただ、そこには、鳩を売る者、牛や羊を売る者たちが座り(ヨハネ2:14)、両替人もおり、大声で客を呼び寄せていたことでしょう。彼らは、外国人を、特に「宦官」を軽蔑しながら、その謙遜な心を見もせずに、お金を取ることばかりを考えていました。そして、イエスが神殿の中を歩まれた時も、同じく、敬虔な心を持った外国人や身体障害者、子供たちが、礼拝の場から排除されているのをご覧になり、心を痛められたに違いありません。
それでイエスは、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒す」という乱暴な実力行使をしたあげく、この7節のみことばを引用し、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言われました(マルコ11:15-17)。確かに神殿内での商取引を許す制度は合理的な面がありました。一般の硬貨はローマ皇帝の肖像が描かれていたため人々は両替して献金しましたし、神殿内部で売られた動物は保証つきで、いけにえとして不適格にされる心配はありませんでした。しかし、主を求める異邦人の礼拝者は、この利便性の追及の影で、静かな礼拝の場を奪われていたのです。一方、祭司たちは、この商売の許認可権によって特別収入も得られました。しばしば、イエスの宮清めの意味を誤解し、教会でバザーや信仰書の販売をしてはいけないという人がいますが、イエスの頭にあったのは何よりもイザヤ56章を成就させることでした。問題は、宮での商取引ではなく、自分たちのカルチャーに会わない人に静かな礼拝の場を提供することにあります。人を見かけで判断せずに、この教会が「すべての民の祈りの家」と呼ばれるようになることこそが、主のみこころです。
ところでマタイ福音書では、イエスの宮清めの直後、「また(すると)、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」(21:14)という新しい展開が起こったことが記されています。主が世的な利便性の論理を排除した時、世で軽蔑されていた人々が前面に出て来ることができました。盲人や足なえは、神にのろわれた者と見られ、神殿に居場所がありませんでした。しかし、彼らは、イエスのあわれみを知っており、みもとに迫り、癒されました。まさに、神殿は弱者を排除する場から、いやす場へと変えられたのです。これに続いて、もう一つの大きな変化が起きました。それは、宮の中に、子どもたちの、「ダビデの子にホサナ」という賛美が響き渡ったことです(21:15)。子どもは伝統や慣習から自由で、みわざを素直に感動しました。この地上のキリストの教会も、この世的な利便性の論理を追求しながら、様々な障害者の方や、病の人や子どもたちを礼拝の場から締め出してきたということがないでしょうか?これは心の宮の問題でもあります。牛がいる所に盲人は安心して入ってこられません。同じように、大きな理想を追及するあまり、自分の弱さを締め出してはいないでしょうか。精神的な弱さを覚える人を受けとめることは、自分の弱さを受け入れることでもあります。両替人の台に、子どもは邪魔者です。
同じように、心が忙しすぎるなら、自分の中に住む子どもの声を窒息させ、喜びがなくなります。目の前の子どもを受け入れることは、自分の中にいる子どもの気持ちを受けとめることでもあります。「あなたがたのからだは・・神から受けた聖霊の宮である」(Ⅰコリント6:19)とあるように、神の前で沈黙によって心の宮清めをも行なう必要があります。その時、あなたの内側に、真心からの神への賛美と、自由な喜びが生まれます。
3.「わたしは、高く聖なる所に住む。砕かれて、へりくだった霊とともに」
56章9節の「野のすべての獣よ。食べに来い。林の中のすべての獣も」とは、猛烈な皮肉です。それはイスラエルの指導者が、みな役に立たない番犬と同じだからです。彼らは、「夢見て横になり、眠りをむさぼる」ばかりか、「この犬どもは貪欲で、足ることを知らない」、その上、「彼らは、悟ることも知らない牧者だ・・だれもがみな、自分かってな道に向かう。ひとり残らず自分の利得に」という状態にありました。そして、酒宴に明け暮れ、そのことに何の反省もないばかりか、その堕落を加速させているというのです(56:12)。
一方、 57章初めで、「義人が死ぬ。しかし、だれも心に留める者はいない。誠実な人が取り去られる。だれも、義人がわざわいの前から取り去られることを悟ることがないまま。彼は平和に入る。まっすぐに歩む人は、自分の寝床で憩う」と記されています。これは、「義人」や「誠実な人」は、しばしば、人には認められることがなくても、神が最終的な平安に導いてくださるという約束です。しかし、続けて、3節から13節には、姦淫と偶像礼拝にふける人の姿が描かれています。彼らは、カナンの偶像礼拝の様々なみだらな習慣を採用しながら、6節にあるように、それによって愚かにも、主ご自身を「慰めよう」としているというのです。また、10節にあるように、彼らは偶像礼拝のための「長い旅に疲れても、『あきらめた』とは言わなかった・・・手の活力を回復し、弱らなかった」というのです。これは、しばしば現代の元気に満ち溢れた偶像礼拝者に適用できることです。そして、11節では、このように偶像礼拝の習慣を混ぜ合わせて主を礼拝する人に対し、「このわたしが、久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか」と警告を発しておられます。そこには主のさばきが迫っていることが示唆されています。
そして、12節では、「このわたしが、おまえの義とおまえの行いの数々を告げよう」(57:12)と言われます。これは、皮肉を込めたさばきの宣言です。彼らは、自分にこそ「義」があると思っています。偶像礼拝者は自分たちが正しいことをやっているという誇りがあるからこそ元気なのです。日本でも宗教の寛容ということで、信仰を混ぜ物にすることを正当化してきたという経緯があります。「義」とは、神の基準であって、人の勝手な自己正当化ではありません。そして、その偶像礼拝のむなしさは、やがてすべての人に明らかになるというのです。
ただし、13節では、主は、さばきの宣告と合わせて、「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる」という大胆な希望を語ってくださいました。主に身を寄せる者は、この世でいかに不遇な目に会い、虐げられていても、最終的には、天国で慰められるというのではなく、目に見える現実の世界の祝福を体験できるというのです。これは、この地上の生活と、来るべき「新しい天と新しい地」を含めての概念です。イエスはこれをもとに、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」(マタイ5:5)と言われました。
「そして、主は仰せられる。盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の前から、つまずきを取り除け」(57:14)とは、これらの箇所における転換点です。これは、イザヤ40章にあったように、主への道を整え、神の民の前から、つまずきを取り除くようにという命令です。私たちは常に、互いのために、主の招きを受け入れやすい環境を整える必要があります。それは、心の中に主のみもとに近づくための道を整えることです。
その上で、私たちすべてに対する主のみ教えの核心として、「高く聖なる所にわたしは住む。砕かれて、へりくだった霊とともに。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(15節)と語られます。なお、ここで「へりくだった人」とは、自分から謙遜になったというより、結果的に「低くされた人」を指します。福音が広まった結果、謙遜が美徳とされ、謙遜なふりをする人が多くなっていますが、神が目を留めてくださるのは、本当に自分の惨めさや弱さに打ちひしがれている人であり、自他共に認める尊敬されている人格者のことではありません。この世では、しばしば、10節にあったように、偶像礼拝者のほうが元気に見えるという現実があります。しかし、イエスはこのみことばを前提に、「こころ(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。人の目には低いところに「高く聖なる神」がいてくださるという神秘がイエス・キリストにおいて明らかにされました。それはまさにイザヤ53章に描かれていた「主(ヤハウェ)のしもべ」の姿です。そのことが詩篇37:11でも、「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう」と描かれています。
そして、主は「なぜなら、いつまでもわたしは争わず、いつも怒ってはいないから。それは、霊がわたしの前で衰え果てるから。わたしが造ったいのちの息が」(57:16)と言われます。ここでは不思議にも、主の怒りを受けながら、自分の道を改めようとしない頑なな者の心をさえも主ご自身が癒してくださると約束されています。
私たちの最も大きな問題は、自分で自分の心を変えられるはずだと思い込むことにあります。そのような中で、ある人はますます傲慢になり、ある人はますます自己嫌悪に陥ります。せっかく良い教えを聞いても、それを自分や人を失望させる「ねた」にしてしまいます。それでは真の意味で、聖霊の翼をいただくことはできません。イエスは、自分に絶望している人に向かって、「心の貧しい者は幸いです」と言われたのです。最初に引用したニックさんは、「今あなたは自分の苦しみを、(両手両足のない)私の苦しみと比べているかもしれない。でも希望とは、自分よりも苦しい思いをしている人がいると考えるところにあるのじゃない。希望とは、神の御名の中に、主イエス・キリストの中にあるのです。希望とは、自分の苦しみを、神の無限で測り知れない愛と恵みとに比べるところにあるのです。」と言っています。その神の無限で測り知れない愛と恵みを覚える日こそが安息日であり、また、日常の働きをやめて主の前に静まるというときです。
安息日の教えは、イエスの時代には厳しい戒律と化していましたが、本来は、人間に神のかたちとしてのあり方に立ち返らせる教えです。私たちは、神によって創造され、神からの「いのちの息」を受けて、神の創造された世界の管理をするために遣わされています。神から与えられた仕事を、神のリズムでするのです。それは、すべてが神の一方的なあわれみによるということを覚えることができるための神が与えてくださった「安息」です。しかも、そこにこそ隣人愛の基本が現されるはずでした。私たちには、最も身近な隣人を、また社会的な弱者を一週間に一度休ませる責任が嫁せられています。安息日ごとに創造の原点に立ち返り、また、キリストの復活によって私たちがのろいから祝福へと移されたことを思い起こし、この世界の人々を神の安息へと招くために遣わされます。まず、私たち自身が神の安息を味わっていなくて、どうして他の人に神の安息を紹介できるでしょうか。すべてが神のあわれみから始まっているということを自分自身の心の奥で味わう、そんな安息日を過ごしたいものです。